BANCHAN のすべての投稿

流氷

冬のオホーツクの岬に立っていると
世間とは何だろうか、とふと思う
冷たい風が地の雪を舞い上がらせ
枯れ草がこすれ合いながら乾いた音を鳴らしている
流氷はうねりをあげて波にのり
風の吹くまま、気の向くまま
ゆっくり海を旅していた
力強い流氷、大いなる流氷
流氷は勇気を与えてくれた
世の中がいかに小さなものか
流氷を見ていると、そんな気がする

鉱山

静寂に包まれている大自然の山奥

ガツガツガツという粉砕機の音を背景に

不規則な金属音をたてたトロッコがやってきた

鉱石を山のように積んだトロッコがやってきた

トロッコが傾くと

鉱石は怒涛のように粉砕機の中へと落ちていった

空になったトロッコは

再び坑内へと去っていった


鉱山は静のなかの動である


しばらくして、またトロッコがやってきた

人は何故、旅にでるのだろう?
それは、
心にしみこむ素晴らしい風景があるからだよ
どっしりと座る雄大な山
太陽の輝<紺碧の海
茫々と広がる緑の湿原
きゆっきゅっと踏みしめて歩く雪の降る街
どれも、遠くへ来たことを知らせてくれる

人は何故、旅にでるのだろう?
それは、さまざまな異文化がそこにあるからだよ
細い路地の残る歴史漂う城下町
新開拓されたロマン溢れる島
早くから外国との交易が盛んだった街
京なまりの残る大秘境
日本はとても広い国だったことに気づく

人は何故、旅にでるのだろう?
それは、予期せぬ事態に遭遇するからだよ
そんな時、頭の中を隅々まで巡らせて
ひとつの決定までのプロセスがまた楽しい
スリルと不安と未知への好奇心
これらがごちゃごちゃになって
違った緊張感がみなぎってくる

人は何故、旅にでるのだろう?
それは、人との出会いがあるからだよ
心と心の波長が合って
人との出会いが起こる
そこで出会った人々は
優し<旅人を迎えてくれる

これらは全て、現実からの逃避ではないか!
いいや、ちがう。
旅とは未知への開拓である
旅が進むにつれて
その人の胸のうつわには
様々な感動が、次々と満たされていく

三宅島【島紀行】

 澄みわたる秋空のもと、プロペラの音が高鳴り、ANK847便は定刻に羽田を離陸した。三宅島には約50分で到着する予定である。みるみるうちに建物が小さくなり、空港全体が見渡せるようになった。羽田の沖合展開工事のされているところだけは茶一色であり、真下には部会の埋立て地を象徴するような四角い島が、整然と広がっていた。

 高度を上げるにつれ、ビルの並び立つ東京の街が見えてきた。空から眺めると、改めて東京の巨大さに驚かされる。エネルギーの集結地という感である。飛行機は南に進路を向け、海上を三宅島めざして飛んでいた。

 さらに高度を上げた。東京上空は薄汚れたねずみ色のスモッグで覆われている。その霞の上に純白な富士山がすっきりと浮かんでいた。大気圏の膜の外側に山がのっかつているようである。我々は毎日、あのスモッグの下で生活をしている。海にはアメンボのようなつり船が、白い線を引きながら点々と存在していた。

 右に三宅島が近づき、飛行機は揺れながら、島づたいに飛んでいた。島の肌が突然赤茶黒の溶岩に変わり、そして三宅島空港に着陸した。

溶岩原 火山れきである
山服から流れ出た溶岩流

 タラップを降りた。暖かかった。今朝の東京とは10度以上違うように思う。黒潮の影響だろう。三宅島は東京の南約180kmにあり、周囲約35km、人口4000人、伊豆諸島の中では大島、八丈島についで3番目に大きい火山島である。明治以降だけでも明治7、昭和15、37、58年と4回も噴火を起こしている、まさに火山の島なのである。

 空港前より左周りの村営バスに乗った。昭和37年の噴火の際に一夜のうちにできあがったという三七(さんしち)山を過ぎると、赤茶黒の溶岩原が広がる七折峠にさしかかった。「三七」とは噴火の年号からとったものである。樹木は植わっておらず、前方には海が見えた。バスは溶岩の切り通しの中を右へ左へと身体を傾けていた。この辺りは赤場暁(あかばきょう)と呼ばれ、昭和15年の噴火で入江が埋立てられ、さらに昭和37年の爆発で溶岩流が重なったところである。機内から見えた溶岩はここである。

 運転手は道路工事作業員や道行く人と互いに笑顔で挨拶を交わす。途中から高校生がひとり乗ってきた。
「どこいくんだ」
「がっこ!」
素朴な会話である。顔見知りらしい。

 警察署、支庁前を通り過ぎ、バスは峠を越え、間もなく島西の阿古(あこ)の集落に入るところだった。案内テープから、「次は鉄砲場、鉄砲場です」と流れると、真っ黒な火山れきが帯になって山から続き、道路を横切っていた。未だに生々しい傷跡であった。しばらく溶岩流に沿って走った。

溶岩によって埋もれた学校
体育館は骨組みのみとなった

 昭和58年(1983)10月3日午後3時、なんの前ぶれもなく雄山(おやま)中腹のニ男山あたりを中心に、十数ケ所の火口から轟音とともに火柱と噴煙があがった。灼熱の溶岩流は5-600mの幅の流れとなって西、南西、南の3方向に向かって流れていった。この中で西に向かった溶岩流がこれであり、島最大の集落・阿古を襲ったものである。阿古の住宅約500戸のうち400戸の民家と学校などの公共施設が溶岩に埋もれて消失し、これは日本火山史上でも最大規模の災害であった。また、島南にある新澪池では池の水が干上がり、周りの木は枯れ、巨大な穴となってしまったということである。阿古に到着し、下車した。阿古小学校・中学校埋没地へと向かった。

 溶岩原に着いた。その溶岩を突っ切るようにアスファルト道路がひかれている。ソフトボール程の「れき」がー面に重なって横たわり、背後の緑の山肌には滝のように黒い帯が流れている。「れき」の上を歩くと素焼きをこすったような「カサカサ」とした音がする。黒い帯の部分だけは樹木も植物も植わっていない。これは8年前(旅行当時)の噴火である。

 学校埋没地にやってきた。校舎は溶岩に押され、半分ほど埋まっている。体育館の壁や屋根は剥がされ、無残な鉄骨の骨組みだけが残っていた。ひぴの入ったプールもあった。この惨い光景は、また違った自然の、恐ろしいー面を見たような気がした。

 帰る時間となった。帰路の飛行機は満席だったので、船で帰ることにした。東海汽船の「すとれちあ」丸が大きく揺れながら、阿古(錆ケ浜)の港に入ってきた。

新しい生命が誕生していた

訪欧・ヨーロッパ1[ロンドン編]

初めて海外旅行に行ったのがヨーロッパだった.イギリス・ロンドンからフランス・パリへ,スイスのジュネーブを経由してイタリア・ローマまでの旅だった.オーソドックスな旅だったが,このときの旅の体験が,のちの海外旅行の情熱に火をつけたのである.それまでの自分は,「海外旅行なんてどこが楽しいのだろうか」,と海外に対して蔑視していたところがあった.しかし,外の世界に足を踏み入れてみると,建物・景色・食べ物と全てが日本と違っていて,いままで気づかなかった好奇心を大いにくすぐるものであった.そんな,初めての海外旅行の時に撮影した点景を,当時を思い出しながらお送りします.

(旅行年月:1993年3月)


ロンドン編

ロンドン名物2階建てバス.今は,この古いタイプのバスは見られなくなっている.
後ろにはドアがなくて,いつでも飛び乗り自由であった.

トラファルガースクエアー
ヨーロッパにはこういった四角形の広場が街の中にあって,その中心にはシンボルが置かれていることが多い.

ロンドン中心部
建物のファサードが美しい.電線などは一切ない.

地下鉄ピカデリー・サーカス駅前
ロンドンでも賑やかなところ

ウエストミンスター寺院
イギリス王室と深く関わりのある寺院である.

「シティ」と呼ばれる金融街のゴミ箱(LITTER BOX)には,特別なロゴが入っている.

テムズ川にかかる「タワーブリッジ」
有名な撮影ポイントである

テムズ川とビックベン(国会議事堂)

イギリス王室とロンドンタクシー

ホテルの窓から撮影.アパートの裏側である

これはホテルのエレベータ.イギリスでは「LIFT」となる.
扉が手前に引く型の手動式で,エレベータがやってくると手で手前に扉を開いて中に入る.建物の歴史が古いロンドンらしいエレベータである.

訪欧・ヨーロッパ2[パリ編]

パリ編

パリも街並みはきれい.建物のラインが整っている

スカイラインが一直線で気持ちいい

ベルサイユ宮殿
ただ,ただ,建物に圧巻していた.

宮殿内部.装飾品がすごい

ベルサイユ宮殿の建物から庭を眺める中央に道路があって,左右対称になっているところなど,本物である.

エッフェル塔.TVCMでおなじみのショット

ルーブル美術館
三角形のガラス屋根の建物は,この時に出来たばかりであった.

パリ地下鉄
「メトロ」の愛称で親しまれている.

オペラ座
日本で言う「歌舞伎座」であろうか.

リヨン駅
TGV(フランス新幹線)でスイスジュネーブに向かった.

リヨン駅構内
ヨーロッパの終着駅は線路の配置が櫛形になっていて,それを大きな屋根で覆っており,いかにも終着ターミナルといった感じになっている.
日本では上野駅の低いホームが一番雰囲気が似ているだろうか.昔のオレンジのTGVが小さく映っている.

訪欧・ヨーロッパ3[ジュネーブ・ローマ編]

ジュネーブ編

ジュネーブの空港.トロリーバスが走っていた.
横断歩道では自動車が止まってくれて,人に優しいドライバーが多い国だった.

レマン湖の畔
空気の綺麗な爽やかな風の吹くところだった

ローマ編

ローマ遺跡 コロッセオ.古代遺跡の円形闘技場
雨が降っていたので,傘を売り歩く物売りが沢山声をかけてきた.

ローマの路地裏.道路は石畳である.

スペイン広場.
世界各国の観光客で賑わっていた

トレビの泉
後ろ向きにコインを投げると・・・

バチカン市国.世界で最も小さい国.
といっても入国審査があるわけでもなく,ただ白い区画線が引いてあるだけである.カトリック教会の総本山.

バチカンの博物館
とにかく圧巻である.首が痛くなるので注意!

Underground[ロンドン地下鉄の話]

アンダーグラウンド(Underground)はロンドンの地下鉄、メトロ(Metro)はパリの地下鉄の呼称である。この両都市にとって、駅も本数も多い地下鉄は人々の流通を支える上で不可欠な存在であり、観光でこの都市を移動するにも、最も便利な乗り物である。
初めて外国旅行をしたときに,はじめて外国の地下鉄に乗ったときの体験記です。

(旅行年月:1993年3月)


ENGLAND: LONDON (Underground)

ピカデリーサーカス駅

チューブの愛称こと、アンダーグラウンド

トラファルガー・スクエア一(Trafalgar SQ.)やナショナル・ギャラリー(National Gallery)などロンドン市内を観光し、ホテルへ戻る時に地下鉄を利用した。ビカデリー線(Piccadilly Line)のピカデリー・サーカス(Piccadilly Circus)駅からグロスター・ロード(Gloucester Road)駅までの5駅である。

ピカデリー.サーカスはロンドン歓楽街の中心地であり、日本の渋谷ハチ公広場といったところである。サーカスの中央にはエロスの像が建っているのだが、現在は修理中で見ることができない。その像の周りには、若者が地べたに座りたむろしている。ピカデリー周辺は、世界各国からの観光客でにぎやかな場所であった。

地下鉄の入口には、赤船の丸に青の横棒の入ったマークが掲げてある。誰でも人目で地下鉄の入口を見つけることができる。階段を降りて地下に入った。

地上の明るい世界から地下に入ると、気分が圧迫される。お世辞にもきれいで明るいとは言えない。浮浪者の大きな奇声が聞こえてきた。と言っても人々は大勢歩いており、もちろん特別身に迫る危険はない。新宿駅西口の都庁へ向かう暗い地下の雑踏といったような所である。新宿西口の地下もあまり気分の良い場所ではない。

人波をかきわけ、自動券売機の前にたどり着いた。料金は距離制であり、横に貼ってある駅名表によって値段を見る。「Gloucester Road-90P」と書いてあったので、90ペンスである。ロンドンの通貨単位はイギリス・ボンド(£)で、1ボンドは100ペンス(P)である。当時£1=\185だったので、料金は日本円で170円程度ということになる。初乗りは80P(=150円)であった。

自動券売機にはおつりの出るものと出ないものの2種類ある。釣り銭の出る券売機を使った。金色の縁のある1ポンド硬貨を入れた。が、しばらくすると下の受け取り口に戻ってきてしまった。もうー度入れてみたが、結果は同じ。外国ではよく機械が壊れているから注意せよ、という忠告を聞いたことがあったので、隣の券売機で買うことにした。ところがやはり硬貨は戻ってきてしまった。隣の人の買うところを観察してみると、購入したい金額のボタンを先に押してからコインを入れていた。なるほど、先に料金ボタンを押すのである。90Pのボタンを押すと、前面のディスプレイに「90P」の表示が表われ、コインを入たら、あっけなく切符と10P硬貨が出てきた。

後ろには自動改札機が並んでいた。これから乗る地下鉄はピカデリー線のヒースロー空港(Heathrow Airport)方面である。改札の隣に制服を着た長身の駅員がいたので、とっさに大声で聞いた。

「Excuse me.え-つと、Heathrow Airport !」

これだけを喋った。晋段英語を全く使っていないので、突然だと文を組み立てている余裕がなく、何と聞いていいのか、言葉が浮かんでこない。今考えると、『Which subway …・・・』と聞けばよいと思えるのだが。普通の声では聞こえないほど、まわりは喧操としていた。そしたら、駅員の人は顔を僕の高さに持ってきて、改札内のエスカレーターを指差しながらゆっくりとした口調で、

「0.K.! Heathrow Airport・・…○○○(今思うと、何と言っていたのか思い出せない! そのときの意味ではまつすぐ行ってエスカレーターを降りて、といった感じだった)Tracknumber 4!!」

と、最後は4本の指をたてながら、笑顔で言葉が返ってきた。

「Thank you!」

こちらも笑顔で答えた。単純な僕は、これだけでイギリス人は噂どおり寛大で親切だな、と思った。(実際、旅行中のイギリス人はこちらから尋ねれば親切に応対してくれた。)

自動改札を通り、4番線へ向かうエスカレーターに乗った。ロンドンの地下鉄も日本と同じように色別で路線が表示されているので、案内は非常にわかりやすい。日本と同じようになるのは当たり前で、日本の地下鉄はロンドンを見本にしているのである。ビカデリー線は紫色であった。

イギリスでは、エスカレーターは急ぐ人の為に左側を空けておく、という有名な習慣がある。それを思い出し、右側に寄って下へと降りていった。確かに全員左側をきれいに空けていた。メンテナンスが悪いのか、キーキー金属のきしむ音があちこちで聞こえている。足元にはごみも多少散らばっていた。すると、フルートの高らかな音楽が聞こえてきた。エスカレーターの降り口に笛を吹く、髭を生やしたおじさんが立っていた。体をリスムにのせながら、エスカレーターに乗っている人々を見つめていた。地下なので音は隅々まで響き渡り、それがかえって不気味でもあった。地下鉄構内で芸をして稼いでいるのである。面倒見のいい日本では、即営団や警察によって排除されてしまうに違いない。これも寛大なロンドンらしさなのか。

4番線に着いた。地下鉄を待つ人々が大勢いた。列は作っておらず、ただ漠然と待っているといった感じである。発光ダイオードの電光掲示板には、今度の電車と次の電車の行き先が表示されており、どちらも「Heathrow Airport」と書かれていた。

銀色の地下鉄がやって来た。乗客がどっと降りどっと乗ったので、車内は再び混雑した。なんとか体がくっつかない程度であった。車内は小さく、天井はトンネル断面に合わせて丸くなっており、手を伸ばせば上に届く。前述の通り、トンネル断面は1900年当時のままの12フィート(約3.6m)であり、現在では手狭な感じである。

出入り口のドアも上にいくにしたがって大きく湾曲している。そのため、駅停車中にドア付近に立つと、天井がないのでもっと中に入りたくなるのだが、ドアが閉まると上も閉じてひと安心となる。ドアが閉まる時は、上部にも気を配らないと髪の毛が挟まれることになる。

つり革はなく、その代わり30cm程のばねの付いた鉄の握り棒が、日本の車内のつり革の位置に斜めに取り付けるれている。立ち客はそれを握っていた。

スピード’よ遅かった。都心部だからだろうが、東京の銀座線くらいだろう。駅の案内放送はない。ドアが閉まるときだけボソボソと放送が入る。見逃していると乗り過ごすことになる。あっという間に次の駅、グリーン・パーク(Green Park)に到着した。

ハイドパーク.コーナー(Hyde Park corner),サウス・ケンジントン(South kensington)を過ぎ、下車駅グロスター・ロード(Gloucester RD.)に到着した。

ホームには、列車に乗らず足を伸ばして座っている若者達がいた。このように、ただグループで集まって喋っている光景は欧米では普通であるという。下車した乗客達は、ガラスの入った銀色の大きなドアの前で立ち止まった。地上へはエレベーターに乗って出るようである。2-30人は乗れそうな大きなエレベーターであった。階段を捜してみたが、見当たらない。ないのだろうか。ラッシュ時はどうするのか、密室のエレベータ内で犯罪は起こらないのだろうか、などと心配してしまう。まあ、ロンドンはそれなりに治安が良いので、凶悪犯罪には出くわさないと思うけど……。

地上は明るかった。改札は1階に設けられており、自動改札を出たらそこは道路である。ロンドンの地下鉄は、設備が古いこともあって、奇麗で快適とはいいがたいが、慣れれば使い勝手の良い交通機関であると思う。

オックスフォード駅

地下鉄はもちろん、2階建てバス、国鉄も乗れる1日乗車券

Metro[パリ地下鉄の話]

FRANCE:PARIS (Metro)

パリはフランスの首都であり、芸術の都・フアッショナプルな都として、経済は低迷しているにもかかわらず、現在でも全世界から一目置かれている都市である。

パリ市だけの人口は200万人弱、面積は105km2である。世田谷区の約2倍、山手線の内側程の広さしかない。しかし、現在は郊外にまで都市化が広がっており、そのパリ大都市圏全体では、人口約800万人、面積1000km2となる。ここに住む人々が、いわゆる「パリジャン、パリジェンヌ」と呼ばれている人々である。

パリ市内は20区に分けられており、セーヌ川右岸の中心部を1区として右回りの渦巻き状に2・3・4区・・・・・・と付けられている。1860年の市街拡大(オスマンの大改造)時に、エスカルゴを参考にして付け直したと言われている。そんな小さいバリ市内を縦横無尽に走っているのが地下鉄「メトロ」である。

ショセダンダン駅

オペラ駅

やはりパリでも、ホテルに戻るときに地下鉄を利用した。オペラ座から一本北の道路にあるショセ・ダンタン(Chaussee d’ Antin)駅から、ホテル近くのボルト・ド・モントルイユ(Porte de Montreuil)駅までの9号線である。

メトロの入口には大抵、黄色い大きな「M」の文字がポールで掲げられている。マクドナルドの「m」のような感じである。階段を降りると薄暗い地下鉄の雰囲気となった。何処からともなく路上生活者の匂いが漂ってくる。

もともと「メトロ」という言葉には「地下」という意味はなかった。首都という意味だけであった。ところが、ロンドンの地下鉄がメトロポリタン鉄道という名で地下鉄を開通させたため、他のヨーロッパ諸国も地下鉄開通時にはこれを真似て、略してメトロと名付けるようになった。これがそのまま「地下」として定着してしまったとのことである。

パリの地下鉄には自動券売機がないところが多く、切符はギ・ソシェ(Guichet)と呼ばれる窓口で買うようになる。パリ市内は均一料金で6フラン(FFr)であった。1FFr=\20なので日本円では120円ということになる。ちなみにフランスの補助貨幣はサンチーム(C)であり、1FFr=100Cである。

普通の切符の他にも力ルネ(Camet)と呼ばれる10枚綴りの回数券がある。値段が約半額になるので、何度もメトロに乗る場合はカルネの方が経済的である。

窓口の横には手書きと思われる料金表が、はがき程の大きさの紙に書かれて貼ってあり、一番上の6FFrと書いてあるところを指差して、「This one.This one.シルヴブレ! 」
と言って切符を買った。シルヴプレ(s’il vous plait)とは英語のプリース(please)と同じで、『お願いします、ください』という意味である。

窓口のおねえさんは愛想がなく、隣の従業員と喋りながらガムを噛みながらの対応である。声さえ出さない。フランスではどこの窓口でもこのような態度であった。日本の習慣に慣れていると、『なんという態度だ! サービスが悪い! 』ということになるのだが、フランスではこれが普通なのである。逆に、極端に気を使うことの方が珍しいのかも知れない。他人は他人、自分は自分という、徹底した個人主義のフランスをかいま見たような気がした。

自動改札を通り、階段をおりた。自動改札では駅員の目を盗み、切符も買わずに飛び越えていく若者がいた。

メトロでは各路線に名前が付いておらず、番号と色で路線が区別されている。そして、案内表示板にはその電車の終点駅名だけが表示されている。だから、号線名と終点駅名さえ覚えれば目的の地下鉄に容易に乗ることができる。

9号線、メリー・ド・モントルイユ(Mairie de Montreuil)行きの電車がやってきた。車体には黒のスプレーで落書きがしてある。乗客がかなり降りて車内はすいた。椅子は向かい合って座るクロスシートとなっており、出入り口の横には折りたたみ式の補肋椅子がついていた。

すし詰めのラッシュのある東京ではこのような座席の配置は考えられないように思う。ロンドンのチューブとは違い、天井は高かった。つい最近までメトロには、昔の名残で1等車・2等車が存在していたが、それぞれの車内設備は全く同じであった。現在は廃止され、等級は無くなっている。

ドアからトンネルの内部をのぞくと、ところどころ、トンネル壁面にまで落書きが書かれている。夜中に侵入して落書きをするのだろう。しかし、メトロでは電流の流れる架線が線路脇にあるので、感電したりしないのだろうかと思う。もっとも夜は流れていないのかもしれないが。また、どこから地下に侵入するのかも疑問である。落書きに関して(特に車両)、パリ市は莫大な費用をかけて追放運動をしている。

車内放送や駅案内放送などは一切ない。目的のポルト・ド・モントルイユ駅までは14駅あり、見過ごしていると乗り越してしまう。駅に着くたびに駅名を確認した。

経済の低迷や高い失業率が続く現在のフランス・バリのメトロは、ロンドンのチューブよりも治安は良くない。場所によってはすりやかっぱらいが多く、特に旅行者が狙われると聞く。それでも、昼間に乗るには安全だし、単独でなければまず身の危険を感じる犯罪には出くわさない。市交通局の方でも観光都市であることから、多数の係員を導入して警戒に当たり、長い通路の角には鏡を設置して待ち伏せを防止するなど、犯罪防止に力を入れている。その甲斐あって、年々犯罪件数-特にすりやかっぱらいは減ってきている。

メトロでは扉は自動では開かない。このような表現には語弊があるかも知れない。自動で開くのであるが、扉にホックが掛かっており、最初に降りる(乗る)人がそのホックのレバーを回すとドアが自動で開くしくみになっている。また、最近の電車ではボタン式のものもあり、その場合青いボタンを押せば開く。閉まるときは全自動で閉まる。

ポルト・ド・モントルイユ駅に着いた。ホームはアーチ型の断面であり、壁には所々欠け落ちている白いタイルが並んでいた。

出口は自動改札ではなく、回転式の鉄格子を通り抜けて外に出る。反対には回らないし、外から中には入れないようになっている。また、反対側からは開かないガラス扉になっている出口もある。切符は手元に残り、記念に持ち帰った。

パリの地下鉄も奇麗とは言い難いが、駅によっては改装工事がなされているという。パリジャンにとってメトロは、必要不可欠な乗り物である。

落書きのされた電車

メトロの切符

白川街道・飛騨街道をゆく[ローカルバスの旅]

 山々に囲まれた街・高山から牧戸(まきど)を経て、富山との県境に位置する秘境・白川郷までの道を「白川街道」と呼ぶ。そして、牧戸からひるがの高原を経て、美濃白鳥(みのしろとり)までの道は「飛騨街道」の一部である。

 高山一牧戸間は約50km。その間に3つの峠を越える。白川街道は峠道なのである。そして、牧戸一美濃白鳥間にも1つの峠があり、高山から美濃白鳥まで抜けると、合計4つの峠を通過することになる。

 ここに1日数本の路線バスが走っている。典型的なローカル線である。高山から白鳥へ、路線バスに乗り込んだ。

今回の旅行経路図.
高山バスセンター

 高山駅13時20分発、濃飛バス牧戸行きである。白鳥までの直通便は無く、牧戸で乗り換えとなる。今日の高山地方は天気は良いのだが、冷え込みが今年最高の厳しさであった。最低気温がマイナス7.9°C。ふきのとうが芽を出しているというのに真冬並みの寒さである。バスの車内は暖かく、白川街道を西へ西へと走っていった。

 高山の街を抜けると田畑が広がり、前方の山々が徐々にこちらに近づいてきた。車内は適当に混んでいる。清見村の役場がある三日町にてかなりの乗客が下車し、バスは登り坂へと入っていった。

 小鳥(おとり)峠越えである。別名びっくり峠とも呼ばれるそうで、この辺りは野鳥の声がよく聞かれるところだという。左には白い雪を残した連峰が雄大に広がっている。この風景は峠越えの醍醐味のひとつである。ここは分水嶺でもあるが、下流では高山を流れている宮川と合流するので水系は神通川水系であり、以前と変わらない。

 道は国道であり、完全に舗装されている。道幅も広くドライブには最適な道路だと思う。

 続いて松之木峠に大った。別名思案峠である。比較的平坦な道だったので、これは峠越えなのかと思ったが、地図によると「松之木峠」と記されているので峠なのである。「峠」とは何か。普段、峠について真剣に考える機会はあまりないが、辞書によると、山の道を登りつめた所、と書いてある。峠とはある一点の場所を指す言葉であった。

 車の交通量はゼロに等しい。残雪が多くなり、周りの畑は30cm程の雪で覆われている。その残雪の断面は断層のようになって道路に面していた。白樺やカラマツ林が続くようになった。少々耳鳴りがした。この峠を越えると水系が庄川水系に変わる。

 六厩(むまい)を出ると、
「この先、急カーブが多くなります。ご注意下さい。」
とテープが流れる。軽岡峠越えである。別名辞職峠と呼ばれている。

 なぜかこの白川街道の峠には別名が付けられている。ガイドブックにそう書いてある。順に「びっくり峠」「思案峠」「辞職峠」。人生の失敗への歩みを物語ったものなのだろうか。事が起こってびっくりし、いろいろと迷ったあげく辞表を提出……。悲しい物語である。

 それとも、正式名称の読み方をもじったものなのかも知れない。おどり→おどろいた→びっくり。まつのき→待つ→待つとは考えること→思案する。かるおか→帰ろうか→辞職。最後のものは自分でもよく意味がわからない。

 この軽岡峠も景観が美しい峠である。標高は約1000m、軽岡トンネルを抜けると下り坂となり、道が多少狭くなる。カーブも多くなった。道は屹立した山の底を走っており、三谷川の渓流が美しく流れている。

 黒谷よりややひらけた。しばらくして集落が現れ、荘川村の役場前を通り過ぎた。温度計が2°Cとなっている。外は寒そうである。そして高山より1時間15分、白川街道と飛騨街道の分岐点である牧戸に到着した。下車客は4人だった。

 牧戸は御母衣湖の南の集落である。せっかくなのでダムの見物に行きたいところだが、都合の良いバスもなければ、歩いて回る時間もない。白鳥駅行きのJRバスは15時7分発である。あと20分程であった。待合室でバスを待った。

牧戸駅

 待合室は広くはなく、売店も兼ねており、店の中に椅子が置いてある、といった感じであった。JRだからなのか、切符の窓口や料金表、運賃表など、鉄道の駅を思わせるような雰囲気の待合室である。移動スーパーから流れる演歌が聞こえていた。切符売り場の中では、テレビを見ながらミシンをかけているおばあさんがいた。美濃白鳥までの切符を買った。

 3人の乗客を乗せ、バスは牧戸を後にした。ひと息つく暇もなく、ヘアピンカーブにさしかかり、ひるがの高原へと向かった。

 ひるがの高原に大った。近代的なペンションが立ち並ぶ、今流行の典型的なリソート地である。この辺りの開発は近年目覚ましいものかおるらしく、途中には「リゾート地売ります 8500坪」という看板があった。

 ひるがのは漢字で書くと「蛭ヶ野」である。が、どこを見渡してみても「蛭ヶ野高原」と漢字で書いてある看板は見当たらない。リゾート地はイメージというものも重要な開発計画の要素のひとつである。「蛭ヶ野」では、人の生血を吸い取る「蛭」が野原に広く住みついている、というイメージが頭に浮かんでくる。これでは心をリフレッシュさせる爽やかさがまるで無くなってしまうように思う。「蛭ヶ野高原」ではなく、「ひるがの高原」なのである。

 ひるがの高原を抜けると道は下り坂カーブの連続となる。となりの尾根下に道路の延長が見える。この辺りは長良川の源流域である。

 「折立道」バス停を通過した。左を見下ろすと灰色の道がピンどめのように折り重なっていた。「○○洞(ぼら)」という名のバス停が多くあった。

 田が現れ、長良川鉄道の終着駅、北濃に着いた。終着駅といっても無人駅であり、開けた街ではなかった。バスは線路沿いに南下すると、16時、長良川の上流域である、美濃白鳥に到着。

 高山から76.9km、峠を走るローカルバスの旅でした。

(1993(平成5)年3月旅行,5月執筆)