波照間島(最果て紀行#8)

波照間島までのプロペラ機

サトウキビ畑と道路

天気、晴れ。台風一過である。石垣空港9時40分発の与那国行き飛行機に乗り遅れないよう、ホテルを後にした。
石垣島のタクシーの初乗り料金は350円であった。東京は600円(当時)である。タクシーの運転手さんとの話が弾んだ。
「台風の直撃は、ここ10年くらいないね。昨日のは直撃ではないよ。直撃の時の風速は70~80mになるからね。砂が車に当たって穴が開くんだから。」
昨日の風速はラジオによると35mであった。話は続いた。
「台風で波があるときには、地元の人は怖くてボートには乗らないよ。ジェットコースターよりも凄いんだよ。離島へ行くボートは喫水が小さいので、波が高いと船がジャンプしてモーターが空回りしてしまうんだ。だからすぐ欠航してしまう。」
確かに、一昨日に乗ったボートは凄かった。
石垣空港に到着して空港カウンターに来てみると、与那国行きのみ、午前便も午後便も全便欠航となっていた。天気は良好で、どう見ても飛行機が飛べない状況ではない。訊ねてみると、与那国行きに使用されているYS-11飛行機が台風に備えて福岡空港に避難しており、その飛行機の手配が間に合わないからだという。
一方、波照間行きの便は予定通り運航するらしく、9時25分発の便の搭乗手続きは既に始まっていた。波照間行きの飛行機はYS-11よりも更に小型のDHC-6ツインオッターという機種なので、福岡まで避難せず石垣空港の整備倉庫の中にでも避難できたのだろうか。とにかく、波照間行きの飛行機は定刻に飛び立つ予定である。僕らは急きょ、与那国→波照間の訪問順番を、波照間→与那国と変更することにした。つまり、最初に予定していた旅程に戻ったわけである。今日、日帰りで波照間を往復し、明日、与那国に向うことにした。最初から欠航がわかっていたら、大きな荷物をホテルに置いてきたのにな、とふと思った。
既にあさって(9月5日)の便に予約を変更をしてもらった昨日付の波照間便の航空券を提示して、今日の便に再度変更を申し出た。ツインオッター機は19人乗りの小さな飛行機なので満員ではないかと心配したが、あっさり「大丈夫です」という返事が返ってきた。さらに、この機種の飛行機では、搭乗手続きの際に乗客の体重を測って座席を決定し、機体の左右のバランスを調節すると聞いていたのだが、それもなく、カウンターの係員が搭乗券に示された座席表に赤鉛筆で○印をつけて座席をきめ、その搭乗券を渡されただけだった。乗客は少ないようである。
搭乗まで、まだ少しの時間があるので、与那国島の旅館に変更の連絡を入れた。宿の女将さんが飛行機の運航状況について、しきりに質問してきた。
「今日は与那国行きの便は全て欠航です。」
と言うと、残念そうに返事をした。
波照間行きの乗客は、僕ら3名とおじさん3名の合計6名である。こんなに小さな飛行機に搭乗するのは初めてである。機内の座席は左に1列、右に2列の配置であり、ベンチのようなプラスチック製の茶色い椅子が規則正しく並んでいる。コックピットと客室はガラスの入った扉1枚で仕切られており、パイロットや計器類が客室から丸見えである。左右のプロペラのエンジンチェックの後、滑走路に出たと思ったらあっという間に離陸した。この飛行機は短くて足場の悪い滑走路でも離着陸できるように設計されたものであり、離陸時の滑走も短くて済むのだという。
高度が低いので、窓の下の景色がよく見渡せる。鮮やかで透き通るような色を発しているサンゴ礁が非常によく見渡せる。20分後、波照間島が見えてきて前方に短い滑走路を眺めながら、飛行機は少々左右に揺さぶられながら波照間空港に着陸した。
空港というよりは「小さな無人駅」といったほうがよいところである。平屋建ての四角い待合室が建っているのみである。
波照間島は石垣島の南西約42㎞に位置し、有人島としては日本最南端にあたる島である。「はてるま」という島名の由来はいくつかの説がある。波照間とは「ハテウルマ」で「ウルマ」とは琉球の雅語であることから、琉球の果てに位置するという説、「ウル」とはサンゴを「マ」は場所を意味することから果てにあるサンゴの島という説などがある。方言では波照間島のことを「パティローマシマ」といい、地元では「パチラーシマ」とも「ベーシマ」とも呼ばれるという。まるで外来語のようである。
島の面積は12.4k㎡、周囲は14.8㎞の東西に長い楕円形、行政区分は西表島と同じ竹富町である。町役場はこの町内には存在せず、石垣市である石垣島にある。竹富町は町内に町役場のない町となっている。

珊瑚のビートとサトウキビ畑

なにしろ石垣の空港で急きょ波照間島に向かうことになったので、島内を巡る手段を全く準備していなかった。この島にはバスもタクシーも全く走っていない。ロータリーには数台、民宿のマイクロバスが停まっていた。その中で近くにいた「みのる荘」と書かれた車の兄ちゃんに声を掛けた。自転車を3人分貸してくれるというのでみんなで乗り込み、民宿のある中心部に向かった。
自転車は1日2000円であった。まずは日本最南端の岬へと向う。車も人もほとんどいない。のんびりとしている。俗世間の喧騒からかけ離れた、時の刻みの次元がまるで違う世界に身を置いているようである。中心部の集落には、赤瓦の家々がサンゴの積まれた石垣で囲まれながら点在していた。
背丈ほどのサトウキビが繁る畑で、鎌を持って作業をしているおばあちゃんに挨拶をした。すると、
「食べてみるかい?」
と言って、笑顔でサトウキビを3本渡してくれた。30㎝位に切られたサトウキビの切り口をかじって吸ってみた。甘かった。サトウキビを食べるのは初めてである。
「確かに、甘いですね。」
などと話していると、
「もう一つあげるから。これはさっきのと品種が違うものだよ。」
と言って、さらに30㎝位に切ったサトウキビをもう3本くれた。吸ってみた。けれども前のサトウキビとの違いが分からない。どちらも甘いだけだった。
「ねっ、ちょっと違うでしょ。」
と、琉球訛りの言葉で言われたが、こう言われても笑顔で『えぇー。』と答えるしかなかった。収穫は11月で、今は倒れたものだけを穫っているそうである。島には製糖工場が一つ存在する。
いよいよ最南端に着いた。自転車に乗った数人の若者がいた。周りには高い樹木は見当たらず、草原が広がり、波からの侵食を受けた断崖絶壁が続くところだった。石の敷かれた道を歩き、逆三角形の石に稚拙な文字で「日本最南端の碑」と刻まれた碑の建つ場所に到達した。
北緯24度01分、ここが日本の最南端である。
ようやく、最南端に到達した。残るは最西端を残すのみとなった。明日にはその最西端も制覇する予定である。最南端の風は暖かかった。しばらくその情景に佇んでいた。
とりあえず、エメラルドグリーンのサンゴが広がる浜でしばらく時間を過ごした。今後の予定は夕方の船で石垣島に戻ることにしている。
雑貨屋の店先のジュースには変わった飲み物がいくつかあった。その中の一つにゴーヤーの絵が描かれた「ゴーヤードリンク」というものがあった。ゴーヤーとは「苦瓜(にがうり)」、その名の通り苦いもので、主に沖縄で食されている野菜である。1缶買ってみた。何とも言えない味である。全部飲めるものではなかった。おみやげにいくつか買っていくことにした。
民宿のおじさんに波照間でしか売っていない「泡盛」について友人が尋ねた。友人は沖縄本島で乗ったタクシーの運転手さんから『波照間に行ったら泡盛を買いな』と言わたそうである。すると、
「あれは今は売り切れだよ。島民でさえ手に入れるのが難しいんだ。島民だけに先に回るから、なかなか観光客が手に入れるのは難しいよ。今はお盆の時期だし。」
との返事だった。それだけ価値の高い幻の泡盛ということである。
安栄観光のボートで石垣島へと戻った。波照間港の海の色は、見事なぐらいサンゴの神秘的な色を発していた。


波照間島、南の最果てである。
波照間と書いて「はてるま」と読む。「はてるま」とは、果てのウルマ、「ウルマ」とは琉球の雅語であるので琉球の果てという説、「ウル」とは珊瑚を、「マ」は場所を意味することから「果てにあるサンゴの島」という説がある。
石垣島から19人乗りのプロペラ機で20分、有人島としての日本最南端である。(日本領土としての最南端は東京都の沖の鳥島である。)

石垣はサンゴでできている。波照間港の海の色の青さが、沖縄の海を表現している。


与那国島(最果て紀行#9)

放し飼いの与那国馬

荒涼とした丘陵


与那国行きの飛行機は満席だった。旧盆に重なり、しかも台風で欠航が続いた後である。当然と言えば、当然である。今日は土曜日であり、幸運にも与那国島へのフェリーが運航される日だった。与那国へは毎週水曜と土曜にしか運航されていない。石垣港10時に出航し、14時に与那国に到着する。僕らは、フェリーで与那国島へ向かうことにした。
船は大揺れだった。天気は最高なのだが、まだ台風の影響が残っているのか、波が高い。甲板で眺めると、紺碧色の海が、空飛ぶ絨毯のように、大きくうねりをあげているのがわかる。船が波の谷間に入ると、波の山の部分が目の高さと同じ位置までせり上がり、海に飲み込まれそうに感じる。立っているのさえ困難である。酔いそうなので2等の座敷にすぐ戻り横になった。船が傾くたびにカーテンが音を立ててガラスにぶつかっていた。船が小さいことも揺れを助長させている一因である。
就航船は、1989年より就航している『フェリーよなくに』、総トン数498トンの小さなフェリーである。これでも、以前に就航していた船に比べればかなり大型化しており、かつては185トン、定員65名の小型貨客船が7時間かけて航海していた。「フェリーよなくに」の客室は2等のみであり、じゅうたんの敷かれた客室、2段ベッドの寝台、表デッキのベンチと3種類の客室を好みによって自由に選ぶことができた。
まもなく入港の時間である。甲板に出ると断崖の続く与那国島が、忽然と姿を現わした。与那国島は有人島も無人島も含めて日本の最西端に位置し、石垣島まで127㎞、台湾までは約125㎞という石垣と台湾のちょうど中間にある国境の島である。人口は約1900人、面積28.5k㎡、周囲29.5㎞、昔からここは『ドゥナン』と呼ばれ、当て字にすると「渡難」と書かせるように、容易に人を寄せ付けない絶海孤島の場所である。東京からこの島に来るには、東京-石垣直行便に乗れば話は別だが、那覇、石垣と2回乗り換えて3本の飛行機を乗り継がないと来ることはできない。
船は くぶら 九部良港に定刻に入港した。出迎えのワゴン車に乗り、旅館のあるそない祖納へと向かった。レンタバイクを借りる為、宿近くの事務所で降ろしてもらい、50ccのゲンチャリに乗って旅館に入った。気候も良いし、与那国の島内を巡るにはバイクが一番であった。当初の予定では、与那国には1泊のみのつもりだったが、フェリーとなったので到着が遅れ、島をゆっくりと見て回れる時間が無くなってしまった。ということで2泊し、充分に島を堪能することにした。荷物を部屋に置いて、しばらく休憩した後、近くをバイクで一回りした。

夕食の時、僕ら以外にも宿泊客が1組いた。40歳位のおじさんが2人と、僕らと同年代の若者1人の3人グループだった。釣りをしていたらしく、一人のおじさんが釣った魚を厨房でさばいており、宿の女将さんに「うまく揚げてくれよ」などと話していた。
そのおじさんが、僕らに話しかけてきた。
「君ら、どっからきたの。」
「東京です。」
「何しに? 仕事?」
「いえ、旅行です。最西端に行こうと思って。」
「ほぉー。」
無難な会話が続いた。そして僕は、
「島には、釣りをしに来たのですか。」
と聞いた。僕には釣りに来たとしか考えられず、熱狂的な釣りファンがこの与那国までわざわざやって来ているのだろう、と思っていた。それ以外には考えられなかった。すると、
「釣りだってよ。へへっ。」
3人が顔を見合わせ、すれた笑いをした。しばらく沈黙が続いた。
「仕事だよ、仕事。建設機械を修理する仕事でこの島にやって来たんだけど、台風で出られないんだよ。それで暇だから釣りをしていたっていう訳よ。」
仕事だったのである。その人たちは食事を終えて、部屋へと戻った。
「今日釣ってきた魚を今、揚げてもらっているからさ、後で下に食いに来なよ。」
そう言い残していった。
食事が終わり、お茶が出てきた。ジャスミン茶であった。大陸文化の影響がかなり強く、かつては台湾との交流が盛んだったということが伺える。僕らも席を立った。
1階のテレビのあるロビーでは、おじさんと若者が魚をつまみながら2人で酒を飲んでいた。
「ここへ来て食べな。」
おじさんの誘われるままに頂くことにした。泡盛をお湯で割ったものを差し出された。
「これは御馳走するから。これ以上酒が欲しいときは、自分で買って飲んでくれ。女将さんに言えば買えるから。」
泡盛は沖縄地方で飲まれている蒸留酒(スピリッツ)である。「あわもり泡盛」という名称は一説には、グラスに酒を注ぐとアルコール分が高い為、泡が花のように立つからだと言われている。
おじさん達は本島(沖縄本島)からやってきたということであり、この島では釣りをするか酒を飲むことしかすることがない、と話していた。
「与那国に行くときは、一週間見ないとだめだとよく言われるよ。」
まさに、その通りになっていた。
「この辺りの海岸では、若い女がトップレスでダイビングしているということだよ。えへへ。」
「米軍の空軍はインテリばっかだけど、海軍はそうじゃないね。」
「東京に行った時さ、タクシーの中に忘れ物をしたんだよね。それで問い合わせをしたら、忘れ物をする方が悪い見たいな態度でさ、頭にきちゃったよね。みんな冷たいんだよね。」
「この旅行ではいくらぐらいかかってるの。」
などなど、尽きない話は続いていった。僕のグラスの酒が空になると、『まぁ、飲めや』と、再び酒を注いでくれた。
隣にあるテレビのチャンネルをひねった。与那国では台湾のテレビ放送が見れると聞いていたからである。すると、黄色い漢字の字幕が入っている映像が現れ、中国語の音声が流れてきた。台湾の放送だった。思っていたよりも鮮明な映像である。見苦しくはない。ちょうどクイズ番組をやっているらしく、司会者と解答者のやりとりがコミカルに行われていた。画面の下には必ず漢字の字幕が入っている。全ての言葉に字幕を入れているようであった。聴覚障害者の為の字幕なのか。それとも、中国語は広東語、北京語などで意味が全く通じなくなるということを聞いたことがあったので、それらの通訳なのかも知れない。この映像の鮮明さは、台湾に近いことを実感する。
明日はいよいよ最西端であった。

1993年9月7日、快晴。日差しが強い。この旅行中は半袖半ズボンであり、腕と足はかなり日に焼けてヒリヒリしていた。日焼け止めクリームを塗り、50ccバイクで島を一周することにした。
まずは、島の最東端の東崎の岬へと向かった。東崎と書いて「あがりざき」と読む。一方、最西端の岬は西崎とかいて「いりざき」と読む。「西表島」は「いりおもて」である。沖縄の古語が今でもそのまま残っているものである。「あがり」とは太陽の昇る方角だからであり、「いり」は太陽が沈むからいりなのである。かつては南大東島も「おおあがり」と呼ばれていたそうである。
与那国島には琉球語の地名がかなり残っている。ツァ浜、ウブドゥマイ浜、ウバマ浜、インビ岳、ドナン岳、ティンダハナタ……といった具合である。地図には全てカタカナで標記されている。
車はほとんど走っておらず、走りやすい道路である。フルパワー、時速60㎞で悠々走れる。
樹木が少なく、荒涼とした風景であり、波照間島とは対称的に起伏がかなりある島である。南国なので陽気な風景をイメージしていたのだが、それほどでもない。とは言っても、気候が温暖だからなのか、刺々しさは持っていない。牧歌的な荒涼さ、と言ったところだろうか。
東崎の岬には、小柄なヨナクニ馬が放牧されていた。柵などはない。道路のすぐ脇に佇んで、草などを摘まんでいた。続いて島の南側を走り、軍艦岩、サンニヌ台、立神岩展望台と海沿いの名所を見て回った。紺碧の大海原と断崖絶壁の海岸が広がり、余計な人工構造物が建っていない景観は、絶海の孤島を思わせるのに十分であった。
島には3つの集落がある。旅館のあるところは「祖内」と呼ばれるところで、島最大の集落である。そして、港のある「久部良」、島南に位置する「ひがわ比川」である。その比川の集落を通って、比川浜で泳いだ。
昼食は祖内に戻って、うどんを細くしたような沖縄そばを食べ、午後はトゥング田、久部良バリへと向かった。
トゥング田、久部良バリは、江戸時代の人頭税制下における苦しい生活と悲劇を伝えるものとして、現在でも語り継がれている史跡である。トゥング田は島民の男を一定時刻に水田に招集し、遅れてきた男や病気の者を惨殺した場所である。久部良バリは幅約3m、深さ約7mの岩の割れ目を妊婦に跳ばせ、跳べなければ死亡、無事跳べたとしても子供は流産したと伝えられる場所である。どちらも人口減らしを目的とした方策であったと言われている。
人頭税は、各個人に対して一律に同額を課税する原始的な租税形態である。それぞれ個人の支払い能力を考慮しない悪税として、19世紀には廃止された。すなわち、家計が良かろうが悪かろうが、生産能力のない赤ん坊だろうが、全員に一律に課する税なのである。これらの伝説が伝承されてきた背景には、単に人頭税の重圧というだけではなく、慢性的な生活苦のなかから起きたものであろう、といわれている。
島を周回すると、宿に戻った。日本最西端の西崎には、日没の時に行くことにした。日入は19時頃であった。
日没まであと30分となり、旅館を後にした。我々は西を目指して走り続けた。与那国空港を右に見て、西崎へ向けて快走した。そして、坂を登りバイクを止めて、西崎の展望台に到着した。そこには緑の芝生が広がり、その向こうには台湾に接する広大な海が、果てしなく広がっていた。
東経123度0分、ここが日本の最西端である。
ついに最西端までやってきた。大きく膨らんだ赤い太陽が、いま地平線の彼方に沈もうとしている。僕の最果ての旅は「東・西・南・北」、全てが終わったのであった。

山羊が駆け回る


与那国島、西の最果てである。
台湾まで125km、石垣島まで127km、台湾の方が近い国境の島である。家庭では台湾のTV放送を見ることができ、ジャスミン茶も嗜好されている。昔からここは「ドゥナン」と呼ばれ、当て字にすると「渡難」と書かせるように、絶海孤島の島でもある。それ故に、景色は非常に美しい。日常の喧噪に嫌気がさしたとき、与那国島は心の喧騒をすべて取り除いてくれる、そんな島である。

見よ、美しい海岸線を。

与那国馬が放牧されている.この「よなぐに」も日本離れした光景が続く。


シンガポールSingapore[アジアの風景#1]

雲にかすむ高層ビル群

シンガポールは淡路島と同じくらいの大きさの島に約270万人の人々が住む国である。近代的な建物が建ち並び、アジア独特の混沌とした昔ながらの風情は感じられなくなった。
気候は1年中「夏」であり、亜熱帯地方特有のスコールが時々地面を叩きつける。人種は、7割強が中国系であり、土着のマレー系が1割強、インド系が約0.5割である。

整備された道路

シンガポーは交通施設の発達した国でもある。道路はごらんの通りバスポケットもきちっと完備された広い道路が整備されており、渋滞は滅多に発生しないと言われる程である。
MRTと呼ばれる地下鉄の駅前広場も、バスターミナルが完備されており、初めて訪れる人にもわかりやすくなっている。
道路端の縁石のペイントが「黒・白」の縞模様となっているところや2階建てバスが走っているところなど、イギリスの面影をところどころ見ることができる。

RESTRICTED ZONE~車乗り入れ規制区域

渋滞知らずの素晴らしき交通施策、ゴミを捨てたら罰金を課せられるシンガポール、そこには厳しい規制が存在している。道路をまたぐように設置してある青い標識には「RESTRICTED ZONE(規制区域)」と書かれており、中央商業地区(CBD・Central Business District)に乗り入れる車に対して、朝夕のラッシュ時のみ料金を徴収する。この標識はその規制区域を示すものである。

シンガポールの団地風景

シンガポールでは人口の約8割強の人々が、国の住宅開発局が建設したこの団地に住んでいる。1960年代までは、カンポンと呼ばれる木造の住宅に住んでいたが、高度経済成長に伴って、この団地に人種・民族関係なく居住することになった。
天気のいい日には色とりどりの洗濯物が、街の景観として美しいか醜いかの議論はさておいて、無味乾燥なコンクリートの団地に彩りを添えている。
共働きが多いこともあって、食事は屋台でとることが多く、団地の広場では様々な屋台が並んでおり、味も美味い。断食が終了するラマダン開けのときには、イスラム教徒の家庭ではベランダに電飾をチカチカ光らせ、お祝いが続く。

地下鉄 MRT

シンガポールにはMRTと呼ばれる地下鉄が走っており,郊外部では地上を走って,郊外の団地と都心部とを結んでいる.施設はきれいであるがスピードは出さない.車内のイスがプラスチック製の硬いイスなので,日本の電車に乗り慣れていると座りごこちが悪く感じてしまう.

地下鉄のホームもきれいで静か.線路とホームの間にはドアで仕切られていて,電車が到着しても電車の音がほとんど聞こえない.いつの間にか到着してドアが開く感じである.日本でもホームドアの付いている東京メトロ南北線があるが,こんなに静かに到着はしない.この差はホームドアの構造に違いがあり,日本では建築基準法だか消防法だかの規定により,ホーム側を密閉空間にすることが認められていなくて,ホームドアの上側にすき間が開いているために電車の騒音がホームまで聞こえてくるからである.シンガポールでは,ホームドアの壁でホームと線路の空間が完全に分断されているのである.

開店前の屋台

共働きの多いシンガポールでは,家で夕飯などのご飯を食べるよりは,外の屋台で食事をとることが多いらしい.ビジネスエリアでは昼食のため,住宅街では夕食のため,オープンに向けて準備が進められていた.

スコールのあと

赤道に近いシンガポール.1年中いつでも最高気温は32~3度,最低気温は25度,湿度は80%を超える熱帯性モンスーン気候である.夕方ちかくには必ずバケツをひっくり返したようなスコールが降るけれど,すぐにやんでしまう.スコールが止んだあとには,道路に水が溜まってタクシーが水しぶきを上げていた.(シティーホール駅出口のそごうデパート前)

路線バスの車内にて

公共交通の発達しているシンガポール.路線バスも全てに番号が付けられていて,土地に不慣れな外国人でも,バスの時刻表とバス停の案内を頼りに,楽に路線バスを利用することができる.シンガポール人も地下鉄の走っていないところはバスに乗って移動する.イギリスの植民地であったこともあり,香港と同じく2階建てのバスも走っていた.

(旅行年月:1994年3月)

三宅島【島紀行】

澄みわたる秋空のもと、プロペラの音が高鳴り、ANK847便は定刻に羽田を離陸した。三宅島には約50分で到着する予定である。みるみるうちに建物が小さくなり、空港全体が見渡せるようになった。羽田の沖合展開工事のされているところだけは茶一色であり、真下には部会の埋立て地を象徴するような四角い島が、整然と広がっていた。
高度を上げるにつれ、ビルの並び立つ東京の街が見えてきた。空から眺めると、改めて東京の巨大さに驚かされる。エネルギーの集結地という感である。飛行機は南に進路を向け、海上を三宅島めざして飛んでいた。
さらに高度を上げた。東京上空は薄汚れたねずみ色のスモッグで覆われている。その霞の上に純白な富士山がすっきりと浮かんでいた。大気圏の膜の外側に山がのっかつているようである。我々は毎日、あのスモッグの下で生活をしている。海にはアメンボのようなつり船が、白い線を引きながら点々と存在していた。
右に三宅島が近づき、飛行機は揺れながら、島づたいに飛んでいた。島の肌が突然赤茶黒の溶岩に変わり、そして三宅島空港に着陸した。

溶岩原 火山れきである
山服から流れ出た溶岩流

タラップを降りた。暖かかった。今朝の東京とは10度以上違うように思う。黒潮の影響だろう。三宅島は東京の南約180kmにあり、周囲約35km、人口4000人、伊豆諸島の中では大島、八丈島についで3番目に大きい火山島である。明治以降だけでも明治7、昭和15、37、58年と4回も噴火を起こしている、まさに火山の島なのである。
空港前より左周りの村営バスに乗った。昭和37年の噴火の際に一夜のうちにできあがったという三七(さんしち)山を過ぎると、赤茶黒の溶岩原が広がる七折峠にさしかかった。「三七」とは噴火の年号からとったものである。樹木は植わっておらず、前方には海が見えた。バスは溶岩の切り通しの中を右へ左へと身体を傾けていた。この辺りは赤場暁(あかばきょう)と呼ばれ、昭和15年の噴火で入江が埋立てられ、さらに昭和37年の爆発で溶岩流が重なったところである。機内から見えた溶岩はここである。
運転手は道路工事作業員や道行く人と互いに笑顔で挨拶を交わす。途中から高校生がひとり乗ってきた。
「どこいくんだ」
「がっこ!」
素朴な会話である。顔見知りらしい。
警察署、支庁前を通り過ぎ、バスは峠を越え、間もなく島西の阿古(あこ)の集落に入るところだった。案内テープから、「次は鉄砲場、鉄砲場です」と流れると、真っ黒な火山れきが帯になって山から続き、道路を横切っていた。未だに生々しい傷跡であった。しばらく溶岩流に沿って走った。

溶岩によって埋もれた学校
体育館は骨組みのみとなった

昭和58年(1983)10月3日午後3時、なんの前ぶれもなく雄山(おやま)中腹のニ男山あたりを中心に、十数ケ所の火口から轟音とともに火柱と噴煙があがった。灼熱の溶岩流は5-600mの幅の流れとなって西、南西、南の3方向に向かって流れていった。この中で西に向かった溶岩流がこれであり、島最大の集落・阿古を襲ったものである。阿古の住宅約500戸のうち400戸の民家と学校などの公共施設が溶岩に埋もれて消失し、これは日本火山史上でも最大規模の災害であった。また、島南にある新■池では池の水が干上がり、周りの木は枯れ、巨大な穴となってしまったということである。阿古に到着し、下車した。阿古小学校・中学校埋没地へと向かった。
溶岩原に着いた。その溶岩を突っ切るようにアスファルト道路がひかれている。ソフトボール程の「れき」がー面に重なって横たわり、背後の緑の山肌には滝のように黒い帯が流れている。「れき」の上を歩くと素焼きをこすったような「カサカサ」とした音がする。黒い帯の部分だけは樹木も植物も植わっていない。これは8年前(旅行当時)の噴火である。
学校埋没地にやってきた。校舎は溶岩に押され、半分ほど埋まっている。体育館の壁や屋根は剥がされ、無残な鉄骨の骨組みだけが残っていた。ひぴの入ったプールもあった。この惨い光景は、また違った自然の、恐ろしいー面を見たような気がした。
帰る時間となった。帰路の飛行機は満席だったので、船で帰ることにした。東海汽船の「すとれちあ」丸が大きく揺れながら、阿古(錆ケ浜)の港に入ってきた。

新しい生命が誕生していた

訪欧・ヨーロッパ1[ロンドン編]

初めて海外旅行に行ったのがヨーロッパだった.イギリス・ロンドンからフランス・パリへ,スイスのジュネーブを経由してイタリア・ローマまでの旅だった.オーソドックスな旅だったが,このときの旅の体験が,のちの海外旅行の情熱に火をつけたのである.それまでの自分は,「海外旅行なんてどこが楽しいのだろうか」,と海外に対して蔑視していたところがあった.しかし,外の世界に足を踏み入れてみると,建物・景色・食べ物と全てが日本と違っていて,いままで気づかなかった好奇心を大いにくすぐるものであった.そんな,初めての海外旅行の時に撮影した点景を,当時を思い出しながらお送りします.

(旅行年月:1993年3月)


ロンドン編

ロンドン名物2階建てバス.今は,この古いタイプのバスは見られなくなっている.
後ろにはドアがなくて,いつでも飛び乗り自由であった.

トラファルガースクエアー
ヨーロッパにはこういった四角形の広場が街の中にあって,その中心にはシンボルが置かれていることが多い.

ロンドン中心部
建物のファサードが美しい.電線などは一切ない.

地下鉄ピカデリー・サーカス駅前
ロンドンでも賑やかなところ

ウエストミンスター寺院
イギリス王室と深く関わりのある寺院である.

「シティ」と呼ばれる金融街のゴミ箱(LITTER BOX)には,特別なロゴが入っている.

テムズ川にかかる「タワーブリッジ」
有名な撮影ポイントである

テムズ川とビックベン(国会議事堂)

イギリス王室とロンドンタクシー

ホテルの窓から撮影.アパートの裏側である

これはホテルのエレベータ.イギリスでは「LIFT」となる.
扉が手前に引く型の手動式で,エレベータがやってくると手で手前に扉を開いて中に入る.建物の歴史が古いロンドンらしいエレベータである.

訪欧・ヨーロッパ2[パリ編]

パリ編

パリも街並みはきれい.建物のラインが整っている

スカイラインが一直線で気持ちいい

ベルサイユ宮殿
ただ,ただ,建物に圧巻していた.

宮殿内部.装飾品がすごい

ベルサイユ宮殿の建物から庭を眺める中央に道路があって,左右対称になっているところなど,本物である.

エッフェル塔.TVCMでおなじみのショット

ルーブル美術館
三角形のガラス屋根の建物は,この時に出来たばかりであった.

パリ地下鉄
「メトロ」の愛称で親しまれている.

オペラ座
日本で言う「歌舞伎座」であろうか.

リヨン駅
TGV(フランス新幹線)でスイスジュネーブに向かった.

リヨン駅構内
ヨーロッパの終着駅は線路の配置が櫛形になっていて,それを大きな屋根で覆っており,いかにも終着ターミナルといった感じになっている.
日本では上野駅の低いホームが一番雰囲気が似ているだろうか.昔のオレンジのTGVが小さく映っている.

訪欧・ヨーロッパ3[ジュネーブ・ローマ編]

ジュネーブ編

ジュネーブの空港.トロリーバスが走っていた.
横断歩道では自動車が止まってくれて,人に優しいドライバーが多い国だった.

レマン湖の畔
空気の綺麗な爽やかな風の吹くところだった

ローマ編

ローマ遺跡 コロッセオ.古代遺跡の円形闘技場
雨が降っていたので,傘を売り歩く物売りが沢山声をかけてきた.

ローマの路地裏.道路は石畳である.

スペイン広場.
世界各国の観光客で賑わっていた

トレビの泉
後ろ向きにコインを投げると・・・

バチカン市国.世界で最も小さい国.
といっても入国審査があるわけでもなく,ただ白い区画線が引いてあるだけである.カトリック教会の総本山.

バチカンの博物館
とにかく圧巻である.首が痛くなるので注意!

Underground[ロンドン地下鉄の話]

アンダーグラウンド(Underground)はロンドンの地下鉄、メトロ(Metro)はパリの地下鉄の呼称である。この両都市にとって、駅も本数も多い地下鉄は人々の流通を支える上で不可欠な存在であり、観光でこの都市を移動するにも、最も便利な乗り物である。
初めて外国旅行をしたときに,はじめて外国の地下鉄に乗ったときの体験記です。

(旅行年月:1993年3月)


ENGLAND: LONDON (Underground)

ピカデリーサーカス駅
チューブの愛称こと、アンダーグラウンド

トラファルガー・スクエア一(Trafalgar SQ.)やナショナル・ギャラリー(National Gallery)などロンドン市内を観光し、ホテルへ戻る時に地下鉄を利用した。ビカデリー線(Piccadilly Line)のピカデリー・サーカス(Piccadilly Circus)駅からグロスター・ロード(Gloucester Road)駅までの5駅である。

ピカデリー.サーカスはロンドン歓楽街の中心地であり、日本の渋谷ハチ公広場といったところである。サーカスの中央にはエロスの像が建っているのだが、現在は修理中で見ることができない。その像の周りには、若者が地べたに座りたむろしている。ピカデリー周辺は、世界各国からの観光客でにぎやかな場所であった。

地下鉄の入口には、赤船の丸に青の横棒の入ったマークが掲げてある。誰でも人目で地下鉄の入口を見つけることができる。階段を降りて地下に入った。

地上の明るい世界から地下に入ると、気分が圧迫される。お世辞にもきれいで明るいとは言えない。浮浪者の大きな奇声が聞こえてきた。と言っても人々は大勢歩いており、もちろん特別身に迫る危険はない。新宿駅西口の都庁へ向かう暗い地下の雑踏といったような所である。新宿西口の地下もあまり気分の良い場所ではない。

人波をかきわけ、自動券売機の前にたどり着いた。料金は距離制であり、横に貼ってある駅名表によって値段を見る。「Gloucester Road-90P」と書いてあったので、90ペンスである。ロンドンの通貨単位はイギリス・ボンド(£)で、1ボンドは100ペンス(P)である。当時£1=\185だったので、料金は日本円で170円程度ということになる。初乗りは80P(=150円)であった。

自動券売機にはおつりの出るものと出ないものの2種類ある。釣り銭の出る券売機を使った。金色の縁のある1ポンド硬貨を入れた。が、しばらくすると下の受け取り口に戻ってきてしまった。もうー度入れてみたが、結果は同じ。外国ではよく機械が壊れているから注意せよ、という忠告を聞いたことがあったので、隣の券売機で買うことにした。ところがやはり硬貨は戻ってきてしまった。隣の人の買うところを観察してみると、購入したい金額のボタンを先に押してからコインを入れていた。なるほど、先に料金ボタンを押すのである。90Pのボタンを押すと、前面のディスプレイに「90P」の表示が表われ、コインを入たら、あっけなく切符と10P硬貨が出てきた。

後ろには自動改札機が並んでいた。これから乗る地下鉄はピカデリー線のヒースロー空港(Heathrow Airport)方面である。改札の隣に制服を着た長身の駅員がいたので、とっさに大声で聞いた。

「Excuse me.え-つと、Heathrow Airport !」

これだけを喋った。晋段英語を全く使っていないので、突然だと文を組み立てている余裕がなく、何と聞いていいのか、言葉が浮かんでこない。今考えると、『Which subway …・・・』と聞けばよいと思えるのだが。普通の声では聞こえないほど、まわりは喧操としていた。そしたら、駅員の人は顔を僕の高さに持ってきて、改札内のエスカレーターを指差しながらゆっくりとした口調で、

「0.K.! Heathrow Airport・・…○○○(今思うと、何と言っていたのか思い出せない! そのときの意味ではまつすぐ行ってエスカレーターを降りて、といった感じだった)Tracknumber 4!!」

と、最後は4本の指をたてながら、笑顔で言葉が返ってきた。

「Thank you!」

こちらも笑顔で答えた。単純な僕は、これだけでイギリス人は噂どおり寛大で親切だな、と思った。(実際、旅行中のイギリス人はこちらから尋ねれば親切に応対してくれた。)

自動改札を通り、4番線へ向かうエスカレーターに乗った。ロンドンの地下鉄も日本と同じように色別で路線が表示されているので、案内は非常にわかりやすい。日本と同じようになるのは当たり前で、日本の地下鉄はロンドンを見本にしているのである。ビカデリー線は紫色であった。

イギリスでは、エスカレーターは急ぐ人の為に左側を空けておく、という有名な習慣がある。それを思い出し、右側に寄って下へと降りていった。確かに全員左側をきれいに空けていた。メンテナンスが悪いのか、キーキー金属のきしむ音があちこちで聞こえている。足元にはごみも多少散らばっていた。すると、フルートの高らかな音楽が聞こえてきた。エスカレーターの降り口に笛を吹く、髭を生やしたおじさんが立っていた。体をリスムにのせながら、エスカレーターに乗っている人々を見つめていた。地下なので音は隅々まで響き渡り、それがかえって不気味でもあった。地下鉄構内で芸をして稼いでいるのである。面倒見のいい日本では、即営団や警察によって排除されてしまうに違いない。これも寛大なロンドンらしさなのか。

4番線に着いた。地下鉄を待つ人々が大勢いた。列は作っておらず、ただ漠然と待っているといった感じである。発光ダイオードの電光掲示板には、今度の電車と次の電車の行き先が表示されており、どちらも「Heathrow Airport」と書かれていた。

銀色の地下鉄がやって来た。乗客がどっと降りどっと乗ったので、車内は再び混雑した。なんとか体がくっつかない程度であった。車内は小さく、天井はトンネル断面に合わせて丸くなっており、手を伸ばせば上に届く。前述の通り、トンネル断面は1900年当時のままの12フィート(約3.6m)であり、現在では手狭な感じである。

出入り口のドアも上にいくにしたがって大きく湾曲している。そのため、駅停車中にドア付近に立つと、天井がないのでもっと中に入りたくなるのだが、ドアが閉まると上も閉じてひと安心となる。ドアが閉まる時は、上部にも気を配らないと髪の毛が挟まれることになる。

つり革はなく、その代わり30cm程のばねの付いた鉄の握り棒が、日本の車内のつり革の位置に斜めに取り付けるれている。立ち客はそれを握っていた。

スピード’よ遅かった。都心部だからだろうが、東京の銀座線くらいだろう。駅の案内放送はない。ドアが閉まるときだけボソボソと放送が入る。見逃していると乗り過ごすことになる。あっという間に次の駅、グリーン・パーク(Green Park)に到着した。

ハイドパーク.コーナー(Hyde Park corner),サウス・ケンジントン(South kensington)を過ぎ、下車駅グロスター・ロード(Gloucester RD.)に到着した。

ホームには、列車に乗らず足を伸ばして座っている若者達がいた。このように、ただグループで集まって喋っている光景は欧米では普通であるという。下車した乗客達は、ガラスの入った銀色の大きなドアの前で立ち止まった。地上へはエレベーターに乗って出るようである。2-30人は乗れそうな大きなエレベーターであった。階段を捜してみたが、見当たらない。ないのだろうか。ラッシュ時はどうするのか、密室のエレベータ内で犯罪は起こらないのだろうか、などと心配してしまう。まあ、ロンドンはそれなりに治安が良いので、凶悪犯罪には出くわさないと思うけど……。

地上は明るかった。改札は1階に設けられており、自動改札を出たらそこは道路である。ロンドンの地下鉄は、設備が古いこともあって、奇麗で快適とはいいがたいが、慣れれば使い勝手の良い交通機関であると思う。

オックスフォード駅
地下鉄はもちろん、2階建てバス、国鉄も乗れる1日乗車券

Metro[パリ地下鉄の話]

FRANCE:PARIS (Metro)

パリはフランスの首都であり、芸術の都・フアッショナプルな都として、経済は低迷しているにもかかわらず、現在でも全世界から一目置かれている都市である。

パリ市だけの人口は200万人弱、面積は105km2である。世田谷区の約2倍、山手線の内側程の広さしかない。しかし、現在は郊外にまで都市化が広がっており、そのパリ大都市圏全体では、人口約800万人、面積1000km2となる。ここに住む人々が、いわゆる「パリジャン、パリジェンヌ」と呼ばれている人々である。

パリ市内は20区に分けられており、セーヌ川右岸の中心部を1区として右回りの渦巻き状に2・3・4区・・・・・・と付けられている。1860年の市街拡大(オスマンの大改造)時に、エスカルゴを参考にして付け直したと言われている。そんな小さいバリ市内を縦横無尽に走っているのが地下鉄「メトロ」である。

ショセダンダン駅
オペラ駅

やはりパリでも、ホテルに戻るときに地下鉄を利用した。オペラ座から一本北の道路にあるショセ・ダンタン(Chaussee d’ Antin)駅から、ホテル近くのボルト・ド・モントルイユ(Porte de Montreuil)駅までの9号線である。

メトロの入口には大抵、黄色い大きな「M」の文字がポールで掲げられている。マクドナルドの「m」のような感じである。階段を降りると薄暗い地下鉄の雰囲気となった。何処からともなく路上生活者の匂いが漂ってくる。

もともと「メトロ」という言葉には「地下」という意味はなかった。首都という意味だけであった。ところが、ロンドンの地下鉄がメトロポリタン鉄道という名で地下鉄を開通させたため、他のヨーロッパ諸国も地下鉄開通時にはこれを真似て、略してメトロと名付けるようになった。これがそのまま「地下」として定着してしまったとのことである。

パリの地下鉄には自動券売機がないところが多く、切符はギ・ソシェ(Guichet)と呼ばれる窓口で買うようになる。パリ市内は均一料金で6フラン(FFr)であった。1FFr=\20なので日本円では120円ということになる。ちなみにフランスの補助貨幣はサンチーム(C)であり、1FFr=100Cである。

普通の切符の他にも力ルネ(Camet)と呼ばれる10枚綴りの回数券がある。値段が約半額になるので、何度もメトロに乗る場合はカルネの方が経済的である。

窓口の横には手書きと思われる料金表が、はがき程の大きさの紙に書かれて貼ってあり、一番上の6FFrと書いてあるところを指差して、「This one.This one.シルヴブレ! 」
と言って切符を買った。シルヴプレ(s’il vous plait)とは英語のプリース(please)と同じで、『お願いします、ください』という意味である。

窓口のおねえさんは愛想がなく、隣の従業員と喋りながらガムを噛みながらの対応である。声さえ出さない。フランスではどこの窓口でもこのような態度であった。日本の習慣に慣れていると、『なんという態度だ! サービスが悪い! 』ということになるのだが、フランスではこれが普通なのである。逆に、極端に気を使うことの方が珍しいのかも知れない。他人は他人、自分は自分という、徹底した個人主義のフランスをかいま見たような気がした。

自動改札を通り、階段をおりた。自動改札では駅員の目を盗み、切符も買わずに飛び越えていく若者がいた。

メトロでは各路線に名前が付いておらず、番号と色で路線が区別されている。そして、案内表示板にはその電車の終点駅名だけが表示されている。だから、号線名と終点駅名さえ覚えれば目的の地下鉄に容易に乗ることができる。

9号線、メリー・ド・モントルイユ(Mairie de Montreuil)行きの電車がやってきた。車体には黒のスプレーで落書きがしてある。乗客がかなり降りて車内はすいた。椅子は向かい合って座るクロスシートとなっており、出入り口の横には折りたたみ式の補肋椅子がついていた。

すし詰めのラッシュのある東京ではこのような座席の配置は考えられないように思う。ロンドンのチューブとは違い、天井は高かった。つい最近までメトロには、昔の名残で1等車・2等車が存在していたが、それぞれの車内設備は全く同じであった。現在は廃止され、等級は無くなっている。

ドアからトンネルの内部をのぞくと、ところどころ、トンネル壁面にまで落書きが書かれている。夜中に侵入して落書きをするのだろう。しかし、メトロでは電流の流れる架線が線路脇にあるので、感電したりしないのだろうかと思う。もっとも夜は流れていないのかもしれないが。また、どこから地下に侵入するのかも疑問である。落書きに関して(特に車両)、パリ市は莫大な費用をかけて追放運動をしている。

車内放送や駅案内放送などは一切ない。目的のポルト・ド・モントルイユ駅までは14駅あり、見過ごしていると乗り越してしまう。駅に着くたびに駅名を確認した。

経済の低迷や高い失業率が続く現在のフランス・バリのメトロは、ロンドンのチューブよりも治安は良くない。場所によってはすりやかっぱらいが多く、特に旅行者が狙われると聞く。それでも、昼間に乗るには安全だし、単独でなければまず身の危険を感じる犯罪には出くわさない。市交通局の方でも観光都市であることから、多数の係員を導入して警戒に当たり、長い通路の角には鏡を設置して待ち伏せを防止するなど、犯罪防止に力を入れている。その甲斐あって、年々犯罪件数-特にすりやかっぱらいは減ってきている。

メトロでは扉は自動では開かない。このような表現には語弊があるかも知れない。自動で開くのであるが、扉にホックが掛かっており、最初に降りる(乗る)人がそのホックのレバーを回すとドアが自動で開くしくみになっている。また、最近の電車ではボタン式のものもあり、その場合青いボタンを押せば開く。閉まるときは全自動で閉まる。

ポルト・ド・モントルイユ駅に着いた。ホームはアーチ型の断面であり、壁には所々欠け落ちている白いタイルが並んでいた。

出口は自動改札ではなく、回転式の鉄格子を通り抜けて外に出る。反対には回らないし、外から中には入れないようになっている。また、反対側からは開かないガラス扉になっている出口もある。切符は手元に残り、記念に持ち帰った。

パリの地下鉄も奇麗とは言い難いが、駅によっては改装工事がなされているという。パリジャンにとってメトロは、必要不可欠な乗り物である。

落書きのされた電車
メトロの切符

オホーツク流氷物語

(旅行年月:1993年2月)


プロローグ

「靴はどんなのがいいんだろ。」
「そうだな。くるぶしまで隠れるトレッキングシューズがいいんじゃない? 雪用のスノートレッキングもあるけど。」
こんな会話が友人と交わされた。北海道へ旅立つ1カ月程前である。
話はさらにさかのぼり、10月のとある日のこと。授業が休講となり、図書館で友人と日本の風景の写真集を眺めていた。ページをめくると、雪に覆われた白一色のなだらかな丘の写真がでてきた。冬の北海道である。
「冬の北海道も行ってみたいな。」
「マイナス何十度の世界だよ。」
「どんな感じだろう。」
「冬の北海道へ行こうか! 」
「うん、行ってみようぜ。」
意気投合するのは早かった。こうして計画が始まり、友人を誘って合計4人、厳寒の北海道への旅が行われることになった。
冬の北海道といえば”流氷”である。目的は流氷を見ることであり、旅のルートはオホーツク海岸を南から北へ抜けることになった。また、せっかくだから釧路湿原でタンチョウでも見よう、ということになり、釧路から網走、紋別、浜頓別、そして稚内に至る『オホーツク沿岸北上コース』が出来上がった。交通機関は全て列車やバスである。レンタカーは乗り捨ての自由がきかないことや、雪道の運転に誰も自信がないので使用をやめることになった。
列車となると切符が必要である。切符は「北海道ワイド周遊券」を買った。北海道までの往復乗車券がつき、道内では全線乗り放題、しかも特急の自由席に乗れ、さらに冬期間は値段が通常の1割引とくれば、僕らの旅行には欠かせない切符であった。
服装についても考えた。田舎のおじいちやんに聞いてみた。
「おれはなー、あんた達の年齢の時、軍隊にいてなー、北海道にいたことがあるけど、とにかく風が強くて冷たいから、風の通さないビニール系の服を持って行け。」
なるほど、さすがはおじいちやん、だてに年を取ってないなと思った。僕はナイロンのウェアーを持って行くことにした。
出発日は2月8日である。その前に期末試験が待ち構えていた。必修科目を2つ再履修している僕であった。

日の出前の雪原

北の大地・北海道

急行「八甲田」号の発車は21時45分である。僕らは1時間前に集合した。自由席の乗車口には、既に7~8人の列ができていた。ここ上野駅の地下ホームは、旅情を感じさせる独特な雰囲気の残る場所である。みんなのリュックには、手袋、マフラー、帽子にホッカイロ・・・・と、防寒具で飽和状態といった感じであった。一夜明ければ、雪が見られるのである。車内は空いてはいなかったが、大潟雑といった程でもなかった。
青森は期待通りの雪景色であった。「海峡」号に乗り換え、北海道の入口・函館を目指した。自由席は満席で座れなかったが、隣の指定席があいていたので、300円を払って席に座った。今日の予定は、釧路まで列車に乗りづめの移動日である。札幌ではちょうど雪祭りが開催されており、乗り換えに時間があるので、見に行くことになっている。車輪の刻む音は、雪に吸収されてこもっていた。売店で買ったサンドイッチが、今日の朝食であった。
青函トンネルの説明が放送されると、世界一のトンネルに突入する。約40分で通り抜ける。いよいよ、北の大地である。トンネル内では、外の壁に鳥が飛ぶアニメーションが流れ、また、緑の蛍光灯によって最深部を知らせたり、となかなか凝った演出がされていた。
トンネルを出た。北海道である。土地は北海道でも風景はまだ本州であった。杉の樹林が見られ、山容もまだ北海道らしくなかった。
友人らと、流氷が来ているといいな、という話になった。2日前に紋別(もんべつ)の宿に問い合わせたときは、
「今日が紋別では流氷初日だったんですよ。沖合2~30kmのところにあって、まだ岸にはきていないんですよ。」
ということだった。流氷初日とは、今シーズン最初に流氷が観測された日のことである。今年も暖冬の影響なのか、平年と比べてやたらと遅い。平年では1月20日が流氷初日だという。僕らが行く頃には流氷が接近していることを祈っていた。
函館は寒かった。細かい雪が音をたてずにちらちらと舞い降り、ホームにはさらさらした雪が白くうっすら積もっていた。ここで札幌行きの特急に乗り換える。席は取れたが、自由席は満席であった。
函館を出発すると、車窓には白樺やブナが目立ちはじめ、氷と雪で覆われた大沼・小沼が通り過ぎた。徐々に 「北海道」へと変化していくのである。この面白さは飛行機では味わえない。鉄道やバス旅の楽しみのひとつである。
空は雲に覆われ、雪が斜めに降っていた。視界は良好ではなかった。窓ガラスには斜めに付着した雪が氷となってそのままアメーバーのように貼りついていた。寒さのため溶けないのである。夜行列車明けとあって、みんな眠りに入った。

札幌は大都市である。整然と区画された町並みは、東京よりも都会的な街である。今日は雪祭りとあって、人が溢れていた。コンコース途中にべニア板で囲いの造られた仮設荷物預かり所があり、そこにリュックを預け、会場である大通公園へと歩いて向かった。
雪は降っていなかった。雪の量もさほど多くはなかったが、道端には除雪された雪がこんもり盛られていた。そして、あちこちで寒暖計を見つけることができた。現在の気温は-3℃。手袋とマフラーを身につけているが、段々顔や手がヒリヒリとしてきた。
「みんな寒くないのかね。東京の人とあまり変わらない服装だよ。」
「靴も特別変わったものじゃないみたいだね。滑らないのだろうか。」
確かにそうである。見た目にはそれほど厚着をしているようではなかった。重装備をして膨れているのは南からの旅行者だけのようである。特別な材質の服を着ているのか、身体が寒さに慣れているのか。僕の身体は、さらに痛みが増していた。
また、北海道の人は足を垂直に下ろすからころばない、と耳にしたことがあるが、格別大げさな歩き方は見受けられなかった。みんな凡人である。
雪祭りの雪像はダイナミックである。北海道人のエネルギーを感じる。僕らは写真を撮るなりビデオを回すなりして楽しんだが、手や顔の痛みが最高潮を迎えていた。とにかく痛いのである。周りの人々は皆、平気な顔をして歩いている。なんともないのであろうか、不思議である。そうこうしているうちに、駅へ戻らなくてはならない時間となった。
駅弁を買い、釧路行の最終特急に乗った。釧路到着は23時32分。約5時間の乗車である。車窓も真っ暗だし、みんなでトランプをやった。夜行疲れも重なり、目を充血させながらゲームをやっていた。先月起きた釧路沖地震の影響で列車は遅れ、釧路に着いたのは夜中の0時を過ぎた頃であった。予約しておいたビジネスホテルへ駆け込んで、すぐ眠った。

雪原と灯台

釧路湿原へ

快晴である。今日は釧路湿原に行き、そして網走に向かう行程である。まだ昨日の疲れを引きずりながら、朝7時チェックアウトをした。気温-11℃。路面は氷でカチカチに凍っている。これぞまさにアイスバーンである。鼻から出る息が、加湿器のようにリアルに吹き出す。でも、気温の割には寒さは感じるられなかつた。風が吹いていないからか。僕の身体に寒さに対するウイルスが出来たのかもしれない。釧路湿原展望台へ行くバスに乗り込んだ。
バスが走り出すと、窓ガラスの内側が曇りはじめた。そして友人が一言。
「すげえ、窓が凍ってる!」
曇った水滴が凍ったのである。手で擦っても曇りがとれなかった。バスは釧路の市街地をしばらく走った。
道を右に曲がると、町並みがバタリと途切れ、前方に淡い黄金色をした釧路湿原が突然現れた。ヨシなどが枯れた薄茶色と、白く化粧された地面と、洋々とそして広漠たる釧路湿原である。一気に夢想の世界へ引き込まれた。潅木の枝が、魔法をかけられたように白く凍りついている。樹氷である。樹氷は霧氷とも呼ばれ、霧が木の枝にて凍りつく現象である。バスは数人の乗客を乗せ、そんな湿原の中を走り続けていた。
展望台に到着した。展望台は丘の上にある。眼下に180度、湿原が広がった。黄金色にうっすらとスノーパウダーをまぶしたようである。木製の欄にはガラスの破片のような霧氷が、規則正しくびっしり付着していた。ごみ箱のふたにも霧氷が着いていた。かつて夏に来たことがあるが、夏の緑は何処へいってしまったのか、冬の湿原は夏の爽快さや涼しさを全く感じさせない。外気の鋭い冷たさに対して、ふわっとした暖かさのある景色であった。
近くの案内板に説明があった。茶褐色の平坦な部分は水ごけの茂る高層湿原であり、草原の部分はヨシやスゲの茂る低層湿原であるという。望遠鏡を覗いたが、タンチョウツルは見れなかった。
10時を過ぎ、湿原に生える木の白さが無くなった。樹氷が溶けたようである。朝よりもロマンがなくなった風景のように思う。冬の湿原は朝の方が魅力的であった。
釧路駅に戻り、昼食を取った。そして、釧網本線に乗って、網走へと向かった。
このまま網走へ行っても時間が余るので、途中塘路(とうろ)で下車し、塘路湖へ行くことに決まった。荷物を駅前の商店に置かせてもらい、釧路川沿いを10分程歩くと、塘路湖に着いた。白鳥のいる、人気のない静かなところであった
塘路駅へ戻った。かつては駅員がいたのだろうけれど、今は無人である。網走方面からディーゼル機関車に牽かれた貨物列車がやってきて駅に停車した。僕らの乗る列車と交換待ちのようである。時間になっても列車はやってこなかった。黒のサングラスをかけた機関車の運転手が、赤い機関車の高い窓から顔を出していた。
「列車は遅れているんですか。」
「まだみたいだな。放送流れなかったか。」
僕らは屋外のホームにいたので聞こえなかったが、今にも壊れそうな駅舎には放送が入ったようである。釧路沖地震の影響で、危険箇所では徐行運転をしているからだという。昨日の特急もそうであった。しばらくして、さっきの運転手が首を出して叫んだ。
「今、無線が入って、あと2分で来るよ、あと2分! ! 」
指を2本立てていた。その通り、ライトをつけた1両編成のディーゼル列車が音をたててやってきた。
車内は混んでいた。暑い車内でたちまちメガネが曇った。最後部のデッキに陣を取ると、窓に広がる湿原を眺めていた。そして次の駅、茅沼(かやぬま)に入ろうとしてブレーキをかけ始めた瞬間、2羽のタンチョウの姿を発見した。列車に驚いたのか、タンチョウは小走りになり、切れ込みのある白と黒の羽をおもいきり広げ、首を水平にしながら列車と同じ方向に飛び立った。
優雅である。ほんの数十秒の出来事であった。思わず、
「丹頂、見た、見た!」
と叫んだ。雪の白さとタンチョウの白黒のコントラストが絶妙に調和していた。タンチョウは、戦後一時は100羽を下まわり絶滅に瀕していたのだが、その後の保護活動により今では約600羽にまで増えた。茅沼駅ホームには『タンチョウの来る駅』と書かれた白い標札が建っていた。
網走は大雪であった。知床の背骨を越えた頃から、雪がどっさり積もっていた。流氷は今日から来ている、とビジネスホテルの支配人が言っていた。網走では今日が流氷初日である。しかし、海岸にはまだ来ていないようで、
「とにかく風次第なんですよ。風がこっちに吹いてくれれば、一晩のうちに岸までやってくるし、向こうに吹いてしまえば沖合いの方に行ってしまうし・・・・・・。」
まさに「流氷」であった。夜は街中の蒸気船という居酒屋に入り、海の幸で乾杯となった。

オホーツク海岸を北上、紋別へ

酒の勢いもあってか、昨日のホテルへの帰り道で、『朝5時50分発のバスで紋別に行こう ! 』とみんなで気勢をあげていたのだが、目が覚めたのは全員7時半を回っており、結局予定通り8時30分のバスで発つことになった。紋別まで直通のバスは走っておらず、中湧別(なかゆうべつ)で乗り換えとなる。かつては湧網線と名寄本線の鉄道が走っていたが、赤字による廃止対象路線に選ばれ、今はない。これから乗るバスはその代替というわけである。
バスは発車した。跨線陸橋を渡ったが、坂道の部分だけ道路の雪が全くなくなっていた。アスファルト自体に融雪装置(暖房)が取り付けてあるらしく、とけた雪がところどころで水蒸気をあげていた。刑務所前を通り、網走の市街地を抜けた。
市街地を抜けると、凍結した樹氷のオンバレードとなる。左に結氷した網走湖が現れた。冬の朝の風景は声がでない程素晴らしい。数人の乗客を乗せた中湧別行のバスは、この美しい世界の中を走っていく。
「加藤宅前」という名のバス停があった。地名がないわけではないと思うが、自分の名前がバス停になるとは、北海道らしいことである。羨ましくも思った。
右手に海が現れた。蓮の形をした氷が細長い帯になっていた。流氷である。生まれて初めて流氷を見た。といっても、岸にはまだ接岸しておらず、あと数百mで接岸というところであった。氷の量も全然少なく、流氷の迫力は全くなかった。
運転手さんがマイクを通して説明を始めた。
「え-つ、今印ま観光客の方もいらっしゃるようですので、少し説明をいたします。網走では、ようやく昨日が流氷初日となり、今右手には流氷が見られると思います。え-つ、このあたりは夏になるとじゃがいもやビールの大麦の植わる丘が広がりまして、これもまた北海道らしい風景なのではないかと思います。雪に点々とついている足跡はキタキツネのものです。木が白くなっているのは霧氷と呼ばれるもので、水蒸気の凍ったものです。」
丁寧な説明だった。路線バスの説明というのは、運転手さん自身の全くの好意である。このような説明に出会うと、旅人としては嬉しくなるものである。常呂(ところ)に到着した。
バスはサロマ湖沿いを時々走った。そして真っ白な丘陵の中を走った。カラマツの林、トドマツの林、キタキツネの足跡が線を描いている。サイロが見え、牛が白い息をはきながら寒さをこらえている。「町境」バス停を過ぎると、佐呂間町から湧別町へと入った。道路脇の防雪フェンスは頑丈に作られていた。
湧別にてバスを乗り継ぎ、昼過ぎには紋別に到着した。
紋別は流氷の街である。産業は漁業であるが、冬の間は休業冬眠となる。岸が氷で埋め尽くされてしまうのである。冬の観光の目玉もこの流氷であり、2月上旬には「もんぺつ流氷まつり」が開催される。今日までその祭りの開催日であった。ところが、肝心な主役である流氷が接岸していない。沖合に逃げてしまっている。肉眼では白く細い線が見える程度である。さっき常呂で見られた流氷は、あそこにだけ接近していたということである。荷物を宿に置き、食事の後、流氷祭り会場へと向かった。
気温は0℃ということであるが、どいうわけか暖かく感じた。身体はすっかり北国の感覚になったようである。会場の隣に、流氷についての科学館「オホーツク流氷科学センター」があるので中に入った。中はそれなりに混雑していた。
入口に「流氷情報」があった。根室から稚内にかけてのオホーツク沿岸地方の白地図に、現在の流氷の位置が黄色で図示してあるもので、それによると、接岸している流氷はなく、最も接近しているのは、さっき通った常呂付近だけであった。
友人がとっさに喋った。
「早口言葉ができた。『流氷情報、樹氷情報』、どうこれ。」
「おもしろい。」
「りゆうひようじようひよう、じゆひようりようひよう……、あれ。」
みんなが口ずさんだ。寒い外ではなおさら言いづらいだろうと思う。
「厳寒体験室」というのがあった。その名の通り、究極の寒さを体験する部屋である。室内は年間を通じて-20℃に保たれている。館内の温度が+20℃なので、40℃の気温差があることになる。入口ではオーバーコートと手袋を貸出しているが、僕らは全て着込んでおり、何も借りずに入口の自動ドアを入った。
「これがマイナス20℃かよ。全然へっちゃらじゃん。」
「ほんとだ。ちょろい、ちよろい。」
みんな平然としていた。ひやっとはしているが、思ったより平気だった。階段が下まで続いており、下の展示室に向かった。
ブリザード体験ボタンがあった。押してみると「ヒューウ、ヒューウ」という疑似音と共に、寒風が吹き荒れた。これがブリザードかと思った。その隣には本物の大きな流氷が置いてあった。
5分ほど経過した。みんなの様子がさつきとは変わっていた。
「顔がいてえよ。」
「鼻が凍ってる。」
「寒いーーー。もう耐えられねえ-。」
「出よう、出よう。」
階段を掛け上がり、外へ出た。急激に気温が変化したので、身体が慣れなかったのだろうとも思う。やはり過酷な世界であった。
まつり会場内に「氷めいろ」があった。タイムを競ってみんなで遊んだ。日が段々と暮れていき、氷像がカラフルにライトアップされた。
食事を済ませ、宿に戻ってから、友人から提案があった。
「このまま北上しても流氷はなさそうだし、稚内へ行くのは取り止めて、常呂に戻らないか。」
「そうだねー、流氷情報で流氷はなかったし。」
流氷科学館での流氷情報によると、稚内方面の流氷は沖合いにも来ていなかった。やはり流氷の最も接近している場所へ行った方が、一面に広がる流氷に出会える可能性は高い。流氷を見たことは見たが、やはり一面に埋め尽くされた氷の塊を見てみたい、と誰もが思っていた。今日見た流氷は、流氷と呼べるものではなかった。
意義無く、明日の朝のバスで網走へ戻ることに決まった。流氷科学館に行くまでは、流氷は北へ行くほど漂着しているのかと思っていたが、紋別や網走の方が流れてきやすいそうである。
流氷はロシアのアムール川の淡水が海水と混ざりあって結氷するもので、その氷が風に吹かれてオホーツク海を南下し、北海道にやってくる。それを考えて世界地図を眺めると、紋別・網走が流氷の漂着地であることが判然とする。
明日は覆い尽くすような流氷に出会えるだろうか。『風よ吹いてくれ』、と祈るばかりであった。

荒れるオホーツクの海辺

流氷よ、いずこへ 網走へUターン

9時過ぎのバスで常呂へと戻った。紋別へ来るときと同様、中湧別で乗り換えとなる。パスターミナルまで乗ったタクシーの運転手さんによると、流氷は沖合い20km位にあって、昨日より更に10km離れてしまったよ、という。ターミナルに着き、バスに乗った。
今日は雪が降り、風が強く吹いていた。防雪柳のない直線道路では雪の吹きだまりができ、風の吹く方向に白い雪の山脈が作られていた。吹きだまりの下には石などの突起物があるのだろう。道路の上には風にのった粉雪が、寒々と吹いていた。
途中の佐呂間までのバスがあったので、それで佐呂間まで行き、昼食を食べたあと、常呂に向かった。常呂に着いたのは14時頃であった。パスターミナルは元国鉄の常呂駅だったところで、建物も新しく立て直されており、当時の面影は駅前広場の雰囲気ぐらいなものである。ターミナル内には定期券売り場兼案内所があり、おばさんが退屈そうに仕事をしていた。ターミナルの裏手はすぐ海岸であり、僕らは閑散とした待合室に荷物を置いて、海岸へ出た。
天気は朝とは変わり、もう晴れていた。流氷は昨日のように目の前にはなかった。水平線の彼方にかすかな白い線が見える程度だった。でも、風はこちら側に吹いている。ひょっとしたら、ひょっとするかもしれない。海岸には流氷の塊片とでも言うのか、氷の塊があちこちに打ち上げられていた。
外は寒い。しばらく海岸にいた。すると、雲行きが怪しくなってきた。波が高くなり、あたりがうす暗くなった。空が鉛色になり、海が灰色になると、突然雪が吹いてきた。次第に雪は激しくなり、岬の集落が見えなくなった。怒涛がテトラポットにぶつかり、しぶきをあげている。
荒々しい冬のオホーツク海に急変した。Gパンの裾が凍結して固まった。吹雪がコートに着き真っ白である。海上が霧で霞がかかり、波の音がたくましく聞こえた。カモメが空で鳴いている。写真を取り続けている友人が、黒いコートを白にして雪と格闘していた。海の方から雪が体にぶつかってくる。
20分程経過しただろうか。空が明るくなってきた。雪も降りやんだ。そして太陽が出てきた。海も空も青に戻った。視界も元に戻り、岬の集落も見えるようになった。ほんのひとときのドラマだった。これは空の精霊から僕らへのメッセージなのかも知れない。流氷が見れそうな、そんな気がした。
海は何事もなかったように、穏やかになった。
日が暮れるまで待っていたが、流氷はやってこなかった。ターミナルの公衆電話で天気予報を聞いた。
「今夜は北西の風やや強く・・・・・・」
北西の風? 地図とコンパスを広げてみた。北西からの風だと、能取(のとろ)岬に流氷がひっかかるではないか。これこそ待ち望んでいた風である。今夜は網走に宿泊し、明朝早く能取岬へ行くことに決まった。ガイドブックにも能取岬は流氷を見るのに最適と記載してあった。早朝にしたのは今後の予定もあって、9時30分発の特急で札幌に向かわなければならなかったからである。これがラストチャンスであった。

打ち上げられた氷塊

能取岬にて

朝6時、空は既に明るくなっていたが、それでも、まだ夜が明けきっていない感じだった。頼んでおいたタクシーに全員乗り込み、能取岬まで車を飛ばした。流氷は来ているだろうか。
運転手さんに聞いてみたが、さあどうだろうねえ、と曖昧な返事が返ってきた。行ってみなければ分からない。運転手さんが話を続けた。
「子供の頃は、必ず一面に氷が張って、その上で遊んだもんだけど、今は氷が薄くなって危なて上にはあがれなくなったよ。」
温暖化の影響が顕著に表れていた。
車が坂を登り、峠を越えた。突然、視界に白い海が広がった。
流氷である。
一面の流氷である。風に乗った氷の塊が、能取岬に漂着したのである。
タクシーを降りた。僕らは夜明けの岬にたたずんだ。岬は高台になっている。左から右まで、蓮氷がびっちり埋まっていた。まだ、完全に氷どおしが固まっていないため、波が来るたびに蓮氷が生き物のように動き、その時の摩擦によってジェット機のような「ゴーッ」という音を力強く出していた。
風は強烈だった。体感温度は-20℃、いやそれ以上(以下)だろうと思う。服装は、下半身がGパンの上に更にナイロンのトレーニングズボンをはき、上半身は肌から順に、Tシャツ、綿シャツ、トレーナー、ナイロン系トレーニングジャンパー、スキーウエアーの上半身のみ、そしてダッフルコートを着込む6重構造である。靴はスノートレッキングシユーズ、靴下はスキー用の厚手のもの、手袋をはめ、マフラーを巻き、フードをかぶる。これで防寒は完壁である。寒いのは顔面だけであった。
岬には黒白縞の灯台が建ち、広々としていた。粉雪が強風によって地を這うように素早く吹き去っていた。

ついに流氷に出会えたのである。

流氷

流氷
冬のオホーツクの岬に立っていると
世間とは何だろうか、とふと思う
冷たい風が地の雪を舞い上がらせ
枯れ草がこすれ合いながら乾いた音を鳴らしている
流氷はうねりをあげて波にのり
風の吹くまま、気の向くまま
ゆっくり海を旅していた
力強い流氷、大いなる流氷
流氷は勇気を与えてくれた
世の中がいかに小さなものか
流氷を見ていると、そんな気がする

寒かった…
(上半身6枚,下半身4枚の重ね着)

~旅・万歳!街歩きの風が吹く~