オホーツク流氷物語

(旅行年月:1993(平成5)年2月)


プロローグ

「靴はどんなのがいいんだろ。」
「そうだな。くるぶしまで隠れるトレッキングシューズがいいんじゃない? 雪用のスノートレッキングもあるけど。」
こんな会話が友人と交わされた。北海道へ旅立つ1カ月程前である。
話はさらにさかのぼり、10月のとある日のこと。授業が休講となり、図書館で友人と日本の風景の写真集を眺めていた。ページをめくると、雪に覆われた白一色のなだらかな丘の写真がでてきた。冬の北海道である。
「冬の北海道も行ってみたいな。」
「マイナス何十度の世界だよ。」
「どんな感じだろう。」
「冬の北海道へ行こうか! 」
「うん、行ってみようぜ。」
意気投合するのは早かった。こうして計画が始まり、友人を誘って合計4人、厳寒の北海道への旅が行われることになった。
冬の北海道といえば”流氷”である。目的は流氷を見ることであり、旅のルートはオホーツク海岸を南から北へ抜けることになった。また、せっかくだから釧路湿原でタンチョウでも見よう、ということになり、釧路から網走、紋別、浜頓別、そして稚内に至る『オホーツク沿岸北上コース』が出来上がった。交通機関は全て列車やバスである。レンタカーは乗り捨ての自由がきかないことや、雪道の運転に誰も自信がないので使用をやめることになった。
列車となると切符が必要である。切符は「北海道ワイド周遊券」を買った。北海道までの往復乗車券がつき、道内では全線乗り放題、しかも特急の自由席に乗れ、さらに冬期間は値段が通常の1割引とくれば、僕らの旅行には欠かせない切符であった。
服装についても考えた。田舎のおじいちやんに聞いてみた。
「おれはなー、あんた達の年齢の時、軍隊にいてなー、北海道にいたことがあるけど、とにかく風が強くて冷たいから、風の通さないビニール系の服を持って行け。」
なるほど、さすがはおじいちやん、だてに年を取ってないなと思った。僕はナイロンのウェアーを持って行くことにした。
出発日は2月8日である。その前に期末試験が待ち構えていた。必修科目を2つ再履修している僕であった。

日の出前の雪原

北の大地・北海道

急行「八甲田」号の発車は21時45分である。僕らは1時間前に集合した。自由席の乗車口には、既に7~8人の列ができていた。ここ上野駅の地下ホームは、旅情を感じさせる独特な雰囲気の残る場所である。みんなのリュックには、手袋、マフラー、帽子にホッカイロ・・・・と、防寒具で飽和状態といった感じであった。一夜明ければ、雪が見られるのである。車内は空いてはいなかったが、大潟雑といった程でもなかった。
青森は期待通りの雪景色であった。「海峡」号に乗り換え、北海道の入口・函館を目指した。自由席は満席で座れなかったが、隣の指定席があいていたので、300円を払って席に座った。今日の予定は、釧路まで列車に乗りづめの移動日である。札幌ではちょうど雪祭りが開催されており、乗り換えに時間があるので、見に行くことになっている。車輪の刻む音は、雪に吸収されてこもっていた。売店で買ったサンドイッチが、今日の朝食であった。
青函トンネルの説明が放送されると、世界一のトンネルに突入する。約40分で通り抜ける。いよいよ、北の大地である。トンネル内では、外の壁に鳥が飛ぶアニメーションが流れ、また、緑の蛍光灯によって最深部を知らせたり、となかなか凝った演出がされていた。
トンネルを出た。北海道である。土地は北海道でも風景はまだ本州であった。杉の樹林が見られ、山容もまだ北海道らしくなかった。
友人らと、流氷が来ているといいな、という話になった。2日前に紋別(もんべつ)の宿に問い合わせたときは、
「今日が紋別では流氷初日だったんですよ。沖合2~30kmのところにあって、まだ岸にはきていないんですよ。」
ということだった。流氷初日とは、今シーズン最初に流氷が観測された日のことである。今年も暖冬の影響なのか、平年と比べてやたらと遅い。平年では1月20日が流氷初日だという。僕らが行く頃には流氷が接近していることを祈っていた。
函館は寒かった。細かい雪が音をたてずにちらちらと舞い降り、ホームにはさらさらした雪が白くうっすら積もっていた。ここで札幌行きの特急に乗り換える。席は取れたが、自由席は満席であった。
函館を出発すると、車窓には白樺やブナが目立ちはじめ、氷と雪で覆われた大沼・小沼が通り過ぎた。徐々に 「北海道」へと変化していくのである。この面白さは飛行機では味わえない。鉄道やバス旅の楽しみのひとつである。
空は雲に覆われ、雪が斜めに降っていた。視界は良好ではなかった。窓ガラスには斜めに付着した雪が氷となってそのままアメーバーのように貼りついていた。寒さのため溶けないのである。夜行列車明けとあって、みんな眠りに入った。

札幌は大都市である。整然と区画された町並みは、東京よりも都会的な街である。今日は雪祭りとあって、人が溢れていた。コンコース途中にべニア板で囲いの造られた仮設荷物預かり所があり、そこにリュックを預け、会場である大通公園へと歩いて向かった。
雪は降っていなかった。雪の量もさほど多くはなかったが、道端には除雪された雪がこんもり盛られていた。そして、あちこちで寒暖計を見つけることができた。現在の気温は-3℃。手袋とマフラーを身につけているが、段々顔や手がヒリヒリとしてきた。
「みんな寒くないのかね。東京の人とあまり変わらない服装だよ。」
「靴も特別変わったものじゃないみたいだね。滑らないのだろうか。」
確かにそうである。見た目にはそれほど厚着をしているようではなかった。重装備をして膨れているのは南からの旅行者だけのようである。特別な材質の服を着ているのか、身体が寒さに慣れているのか。僕の身体は、さらに痛みが増していた。
また、北海道の人は足を垂直に下ろすからころばない、と耳にしたことがあるが、格別大げさな歩き方は見受けられなかった。みんな凡人である。
雪祭りの雪像はダイナミックである。北海道人のエネルギーを感じる。僕らは写真を撮るなりビデオを回すなりして楽しんだが、手や顔の痛みが最高潮を迎えていた。とにかく痛いのである。周りの人々は皆、平気な顔をして歩いている。なんともないのであろうか、不思議である。そうこうしているうちに、駅へ戻らなくてはならない時間となった。
駅弁を買い、釧路行の最終特急に乗った。釧路到着は23時32分。約5時間の乗車である。車窓も真っ暗だし、みんなでトランプをやった。夜行疲れも重なり、目を充血させながらゲームをやっていた。先月起きた釧路沖地震の影響で列車は遅れ、釧路に着いたのは夜中の0時を過ぎた頃であった。予約しておいたビジネスホテルへ駆け込んで、すぐ眠った。

雪原と灯台

釧路湿原へ

快晴である。今日は釧路湿原に行き、そして網走に向かう行程である。まだ昨日の疲れを引きずりながら、朝7時チェックアウトをした。気温-11℃。路面は氷でカチカチに凍っている。これぞまさにアイスバーンである。鼻から出る息が、加湿器のようにリアルに吹き出す。でも、気温の割には寒さは感じるられなかつた。風が吹いていないからか。僕の身体に寒さに対するウイルスが出来たのかもしれない。釧路湿原展望台へ行くバスに乗り込んだ。
バスが走り出すと、窓ガラスの内側が曇りはじめた。そして友人が一言。
「すげえ、窓が凍ってる!」
曇った水滴が凍ったのである。手で擦っても曇りがとれなかった。バスは釧路の市街地をしばらく走った。
道を右に曲がると、町並みがバタリと途切れ、前方に淡い黄金色をした釧路湿原が突然現れた。ヨシなどが枯れた薄茶色と、白く化粧された地面と、洋々とそして広漠たる釧路湿原である。一気に夢想の世界へ引き込まれた。潅木の枝が、魔法をかけられたように白く凍りついている。樹氷である。樹氷は霧氷とも呼ばれ、霧が木の枝にて凍りつく現象である。バスは数人の乗客を乗せ、そんな湿原の中を走り続けていた。
展望台に到着した。展望台は丘の上にある。眼下に180度、湿原が広がった。黄金色にうっすらとスノーパウダーをまぶしたようである。木製の欄にはガラスの破片のような霧氷が、規則正しくびっしり付着していた。ごみ箱のふたにも霧氷が着いていた。かつて夏に来たことがあるが、夏の緑は何処へいってしまったのか、冬の湿原は夏の爽快さや涼しさを全く感じさせない。外気の鋭い冷たさに対して、ふわっとした暖かさのある景色であった。
近くの案内板に説明があった。茶褐色の平坦な部分は水ごけの茂る高層湿原であり、草原の部分はヨシやスゲの茂る低層湿原であるという。望遠鏡を覗いたが、タンチョウツルは見れなかった。
10時を過ぎ、湿原に生える木の白さが無くなった。樹氷が溶けたようである。朝よりもロマンがなくなった風景のように思う。冬の湿原は朝の方が魅力的であった。
釧路駅に戻り、昼食を取った。そして、釧網本線に乗って、網走へと向かった。
このまま網走へ行っても時間が余るので、途中塘路(とうろ)で下車し、塘路湖へ行くことに決まった。荷物を駅前の商店に置かせてもらい、釧路川沿いを10分程歩くと、塘路湖に着いた。白鳥のいる、人気のない静かなところであった
塘路駅へ戻った。かつては駅員がいたのだろうけれど、今は無人である。網走方面からディーゼル機関車に牽かれた貨物列車がやってきて駅に停車した。僕らの乗る列車と交換待ちのようである。時間になっても列車はやってこなかった。黒のサングラスをかけた機関車の運転手が、赤い機関車の高い窓から顔を出していた。
「列車は遅れているんですか。」
「まだみたいだな。放送流れなかったか。」
僕らは屋外のホームにいたので聞こえなかったが、今にも壊れそうな駅舎には放送が入ったようである。釧路沖地震の影響で、危険箇所では徐行運転をしているからだという。昨日の特急もそうであった。しばらくして、さっきの運転手が首を出して叫んだ。
「今、無線が入って、あと2分で来るよ、あと2分! ! 」
指を2本立てていた。その通り、ライトをつけた1両編成のディーゼル列車が音をたててやってきた。
車内は混んでいた。暑い車内でたちまちメガネが曇った。最後部のデッキに陣を取ると、窓に広がる湿原を眺めていた。そして次の駅、茅沼(かやぬま)に入ろうとしてブレーキをかけ始めた瞬間、2羽のタンチョウの姿を発見した。列車に驚いたのか、タンチョウは小走りになり、切れ込みのある白と黒の羽をおもいきり広げ、首を水平にしながら列車と同じ方向に飛び立った。
優雅である。ほんの数十秒の出来事であった。思わず、
「丹頂、見た、見た!」
と叫んだ。雪の白さとタンチョウの白黒のコントラストが絶妙に調和していた。タンチョウは、戦後一時は100羽を下まわり絶滅に瀕していたのだが、その後の保護活動により今では約600羽にまで増えた。茅沼駅ホームには『タンチョウの来る駅』と書かれた白い標札が建っていた。
網走は大雪であった。知床の背骨を越えた頃から、雪がどっさり積もっていた。流氷は今日から来ている、とビジネスホテルの支配人が言っていた。網走では今日が流氷初日である。しかし、海岸にはまだ来ていないようで、
「とにかく風次第なんですよ。風がこっちに吹いてくれれば、一晩のうちに岸までやってくるし、向こうに吹いてしまえば沖合いの方に行ってしまうし・・・・・・。」
まさに「流氷」であった。夜は街中の蒸気船という居酒屋に入り、海の幸で乾杯となった。

オホーツク海岸を北上、紋別へ

酒の勢いもあってか、昨日のホテルへの帰り道で、『朝5時50分発のバスで紋別に行こう ! 』とみんなで気勢をあげていたのだが、目が覚めたのは全員7時半を回っており、結局予定通り8時30分のバスで発つことになった。紋別まで直通のバスは走っておらず、中湧別(なかゆうべつ)で乗り換えとなる。かつては湧網線と名寄本線の鉄道が走っていたが、赤字による廃止対象路線に選ばれ、今はない。これから乗るバスはその代替というわけである。
バスは発車した。跨線陸橋を渡ったが、坂道の部分だけ道路の雪が全くなくなっていた。アスファルト自体に融雪装置(暖房)が取り付けてあるらしく、とけた雪がところどころで水蒸気をあげていた。刑務所前を通り、網走の市街地を抜けた。
市街地を抜けると、凍結した樹氷のオンバレードとなる。左に結氷した網走湖が現れた。冬の朝の風景は声がでない程素晴らしい。数人の乗客を乗せた中湧別行のバスは、この美しい世界の中を走っていく。
「加藤宅前」という名のバス停があった。地名がないわけではないと思うが、自分の名前がバス停になるとは、北海道らしいことである。羨ましくも思った。
右手に海が現れた。蓮の形をした氷が細長い帯になっていた。流氷である。生まれて初めて流氷を見た。といっても、岸にはまだ接岸しておらず、あと数百mで接岸というところであった。氷の量も全然少なく、流氷の迫力は全くなかった。
運転手さんがマイクを通して説明を始めた。
「え-つ、今印ま観光客の方もいらっしゃるようですので、少し説明をいたします。網走では、ようやく昨日が流氷初日となり、今右手には流氷が見られると思います。え-つ、このあたりは夏になるとじゃがいもやビールの大麦の植わる丘が広がりまして、これもまた北海道らしい風景なのではないかと思います。雪に点々とついている足跡はキタキツネのものです。木が白くなっているのは霧氷と呼ばれるもので、水蒸気の凍ったものです。」
丁寧な説明だった。路線バスの説明というのは、運転手さん自身の全くの好意である。このような説明に出会うと、旅人としては嬉しくなるものである。常呂(ところ)に到着した。
バスはサロマ湖沿いを時々走った。そして真っ白な丘陵の中を走った。カラマツの林、トドマツの林、キタキツネの足跡が線を描いている。サイロが見え、牛が白い息をはきながら寒さをこらえている。「町境」バス停を過ぎると、佐呂間町から湧別町へと入った。道路脇の防雪フェンスは頑丈に作られていた。
湧別にてバスを乗り継ぎ、昼過ぎには紋別に到着した。
紋別は流氷の街である。産業は漁業であるが、冬の間は休業冬眠となる。岸が氷で埋め尽くされてしまうのである。冬の観光の目玉もこの流氷であり、2月上旬には「もんぺつ流氷まつり」が開催される。今日までその祭りの開催日であった。ところが、肝心な主役である流氷が接岸していない。沖合に逃げてしまっている。肉眼では白く細い線が見える程度である。さっき常呂で見られた流氷は、あそこにだけ接近していたということである。荷物を宿に置き、食事の後、流氷祭り会場へと向かった。
気温は0℃ということであるが、どいうわけか暖かく感じた。身体はすっかり北国の感覚になったようである。会場の隣に、流氷についての科学館「オホーツク流氷科学センター」があるので中に入った。中はそれなりに混雑していた。
入口に「流氷情報」があった。根室から稚内にかけてのオホーツク沿岸地方の白地図に、現在の流氷の位置が黄色で図示してあるもので、それによると、接岸している流氷はなく、最も接近しているのは、さっき通った常呂付近だけであった。
友人がとっさに喋った。
「早口言葉ができた。『流氷情報、樹氷情報』、どうこれ。」
「おもしろい。」
「りゆうひようじようひよう、じゆひようりようひよう……、あれ。」
みんなが口ずさんだ。寒い外ではなおさら言いづらいだろうと思う。
「厳寒体験室」というのがあった。その名の通り、究極の寒さを体験する部屋である。室内は年間を通じて-20℃に保たれている。館内の温度が+20℃なので、40℃の気温差があることになる。入口ではオーバーコートと手袋を貸出しているが、僕らは全て着込んでおり、何も借りずに入口の自動ドアを入った。
「これがマイナス20℃かよ。全然へっちゃらじゃん。」
「ほんとだ。ちょろい、ちよろい。」
みんな平然としていた。ひやっとはしているが、思ったより平気だった。階段が下まで続いており、下の展示室に向かった。
ブリザード体験ボタンがあった。押してみると「ヒューウ、ヒューウ」という疑似音と共に、寒風が吹き荒れた。これがブリザードかと思った。その隣には本物の大きな流氷が置いてあった。
5分ほど経過した。みんなの様子がさつきとは変わっていた。
「顔がいてえよ。」
「鼻が凍ってる。」
「寒いーーー。もう耐えられねえ-。」
「出よう、出よう。」
階段を掛け上がり、外へ出た。急激に気温が変化したので、身体が慣れなかったのだろうとも思う。やはり過酷な世界であった。
まつり会場内に「氷めいろ」があった。タイムを競ってみんなで遊んだ。日が段々と暮れていき、氷像がカラフルにライトアップされた。
食事を済ませ、宿に戻ってから、友人から提案があった。
「このまま北上しても流氷はなさそうだし、稚内へ行くのは取り止めて、常呂に戻らないか。」
「そうだねー、流氷情報で流氷はなかったし。」
流氷科学館での流氷情報によると、稚内方面の流氷は沖合いにも来ていなかった。やはり流氷の最も接近している場所へ行った方が、一面に広がる流氷に出会える可能性は高い。流氷を見たことは見たが、やはり一面に埋め尽くされた氷の塊を見てみたい、と誰もが思っていた。今日見た流氷は、流氷と呼べるものではなかった。
意義無く、明日の朝のバスで網走へ戻ることに決まった。流氷科学館に行くまでは、流氷は北へ行くほど漂着しているのかと思っていたが、紋別や網走の方が流れてきやすいそうである。
流氷はロシアのアムール川の淡水が海水と混ざりあって結氷するもので、その氷が風に吹かれてオホーツク海を南下し、北海道にやってくる。それを考えて世界地図を眺めると、紋別・網走が流氷の漂着地であることが判然とする。
明日は覆い尽くすような流氷に出会えるだろうか。『風よ吹いてくれ』、と祈るばかりであった。

荒れるオホーツクの海辺

流氷よ、いずこへ 網走へUターン

9時過ぎのバスで常呂へと戻った。紋別へ来るときと同様、中湧別で乗り換えとなる。パスターミナルまで乗ったタクシーの運転手さんによると、流氷は沖合い20km位にあって、昨日より更に10km離れてしまったよ、という。ターミナルに着き、バスに乗った。
今日は雪が降り、風が強く吹いていた。防雪柳のない直線道路では雪の吹きだまりができ、風の吹く方向に白い雪の山脈が作られていた。吹きだまりの下には石などの突起物があるのだろう。道路の上には風にのった粉雪が、寒々と吹いていた。
途中の佐呂間までのバスがあったので、それで佐呂間まで行き、昼食を食べたあと、常呂に向かった。常呂に着いたのは14時頃であった。パスターミナルは元国鉄の常呂駅だったところで、建物も新しく立て直されており、当時の面影は駅前広場の雰囲気ぐらいなものである。ターミナル内には定期券売り場兼案内所があり、おばさんが退屈そうに仕事をしていた。ターミナルの裏手はすぐ海岸であり、僕らは閑散とした待合室に荷物を置いて、海岸へ出た。
天気は朝とは変わり、もう晴れていた。流氷は昨日のように目の前にはなかった。水平線の彼方にかすかな白い線が見える程度だった。でも、風はこちら側に吹いている。ひょっとしたら、ひょっとするかもしれない。海岸には流氷の塊片とでも言うのか、氷の塊があちこちに打ち上げられていた。
外は寒い。しばらく海岸にいた。すると、雲行きが怪しくなってきた。波が高くなり、あたりがうす暗くなった。空が鉛色になり、海が灰色になると、突然雪が吹いてきた。次第に雪は激しくなり、岬の集落が見えなくなった。怒涛がテトラポットにぶつかり、しぶきをあげている。
荒々しい冬のオホーツク海に急変した。Gパンの裾が凍結して固まった。吹雪がコートに着き真っ白である。海上が霧で霞がかかり、波の音がたくましく聞こえた。カモメが空で鳴いている。写真を取り続けている友人が、黒いコートを白にして雪と格闘していた。海の方から雪が体にぶつかってくる。
20分程経過しただろうか。空が明るくなってきた。雪も降りやんだ。そして太陽が出てきた。海も空も青に戻った。視界も元に戻り、岬の集落も見えるようになった。ほんのひとときのドラマだった。これは空の精霊から僕らへのメッセージなのかも知れない。流氷が見れそうな、そんな気がした。
海は何事もなかったように、穏やかになった。
日が暮れるまで待っていたが、流氷はやってこなかった。ターミナルの公衆電話で天気予報を聞いた。
「今夜は北西の風やや強く・・・・・・」
北西の風? 地図とコンパスを広げてみた。北西からの風だと、能取(のとろ)岬に流氷がひっかかるではないか。これこそ待ち望んでいた風である。今夜は網走に宿泊し、明朝早く能取岬へ行くことに決まった。ガイドブックにも能取岬は流氷を見るのに最適と記載してあった。早朝にしたのは今後の予定もあって、9時30分発の特急で札幌に向かわなければならなかったからである。これがラストチャンスであった。

打ち上げられた氷塊

能取岬にて

朝6時、空は既に明るくなっていたが、それでも、まだ夜が明けきっていない感じだった。頼んでおいたタクシーに全員乗り込み、能取岬まで車を飛ばした。流氷は来ているだろうか。
運転手さんに聞いてみたが、さあどうだろうねえ、と曖昧な返事が返ってきた。行ってみなければ分からない。運転手さんが話を続けた。
「子供の頃は、必ず一面に氷が張って、その上で遊んだもんだけど、今は氷が薄くなって危なて上にはあがれなくなったよ。」
温暖化の影響が顕著に表れていた。
車が坂を登り、峠を越えた。突然、視界に白い海が広がった。
流氷である。
一面の流氷である。風に乗った氷の塊が、能取岬に漂着したのである。
タクシーを降りた。僕らは夜明けの岬にたたずんだ。岬は高台になっている。左から右まで、蓮氷がびっちり埋まっていた。まだ、完全に氷どおしが固まっていないため、波が来るたびに蓮氷が生き物のように動き、その時の摩擦によってジェット機のような「ゴーッ」という音を力強く出していた。
風は強烈だった。体感温度は-20℃、いやそれ以上(以下)だろうと思う。服装は、下半身がGパンの上に更にナイロンのトレーニングズボンをはき、上半身は肌から順に、Tシャツ、綿シャツ、トレーナー、ナイロン系トレーニングジャンパー、スキーウエアーの上半身のみ、そしてダッフルコートを着込む6重構造である。靴はスノートレッキングシユーズ、靴下はスキー用の厚手のもの、手袋をはめ、マフラーを巻き、フードをかぶる。これで防寒は完壁である。寒いのは顔面だけであった。
岬には黒白縞の灯台が建ち、広々としていた。粉雪が強風によって地を這うように素早く吹き去っていた。

ついに流氷に出会えたのである。

流氷

流氷
冬のオホーツクの岬に立っていると
世間とは何だろうか、とふと思う
冷たい風が地の雪を舞い上がらせ
枯れ草がこすれ合いながら乾いた音を鳴らしている
流氷はうねりをあげて波にのり
風の吹くまま、気の向くまま
ゆっくり海を旅していた
力強い流氷、大いなる流氷
流氷は勇気を与えてくれた
世の中がいかに小さなものか
流氷を見ていると、そんな気がする

寒かった…
(上半身6枚,下半身4枚の重ね着)

都バスで東京見物[雑誌に掲載されたコラム]

雑誌名:「旅」
1992年6月号(第66巻第6号)
P.136
発行:JTB・日本交通公社
コーナー:私のおすすめバス路線「都バスで東京見物」


都バスで東京見物 [浅草~上野~新宿~品川]

首都東京の中心部を中心部を縦横無尽に走る都営バス.最近はバス現在地や現所要時間を知らせるバスロケーションシステムの導入によって,利用者の増加を目指しています.そんな路線バスに乗って素顔の東京を見物してみてはいかがでしょうか.
まずは,浅草から真っ赤な2階建てバスに乗って上野公園へ.予約無しで誰でも気軽に乗れます.上野の周辺をちょっと散策し,「上60 大塚駅」行で大塚へ.東京大学横を通り過ぎ,巨大な怪物のような東京ドームを背にして,文京区小石川界隈を走ります.
大塚からはちょっとルール違反をして,都電に乗って早稲田に向かいます.下町情緒の残る電車からは,サンシャイン60が間近に見え,雑司ヶ谷,学習院下をトコトコと走っていきます.
早稲田大学の北に位置する終点で下車し,そこから今度は「早77 新宿駅西口」行で新宿に移動.明治通りを南下し,都内有数の歓楽街「歌舞伎町」を突っ切ると目の前に,超高層ビル街と新都庁が見えて新宿に到着.
ここからは,バスロケーションシステムの完備された新都市バス「都03 晴海埠頭」行で,ベイエリアへと向かいます.新宿通りを東に走り,半蔵門にて右に曲がると,左に皇居のお堀,右には国立劇場,最高裁判所が現れます.さらに三宅坂,警視庁前,日比谷,そして,銀座の中心,銀座四丁目交差点を横切ります.勝鬨橋を渡ると,客船ターミナルのある晴海埠頭に到着.現在建設中の東京ベイブリッジも見えます.
数本のバスを乗り継いで,門前仲町に移動し,「海01 品川駅東口(海上公園で乗り換えの便もある)」行に乗車.東雲を過ぎると,埋め立て地である有明テニスの森公園,お台場海浜公園近くを通り,船の科学館に到着します.ここからバスは東京湾岸道路の料金所を通り,海底トンネル(東京港トンネル)を抜け,大井埠頭に入るとまもなく終点品川です.
最後に「浜95 東京タワー」行に乗って,東京の夜景を空から眺めて締めくくり.
1日乗車券は大人650円で,都バスはもちろん,都電,都営地下鉄に乗り放題です.また,営業所にて分かりやすい路線案内図がもらえます.

さぁ出発!夜行鈍行大垣行き[四国旅行記#1]

はじめに

 高校の卒業式を終えた1991(平成3)年の春休み、旅好きな友人2人と一緒に、3月24日(日)から7泊8日の四国旅行に出掛けました。これは、その時の旅の記録です。

(旅行年月:1991(平成3)年3月)

さぁ出発

 私はいつも旅行の準備というものは、出発する直前に行なっている。別にこだわり を持っているわけではないのだが、どうしてもそうなってしまうのである。そして、 今日も午後4時、出発の準備をしていた。この準備を始めると心が高揚しはじめる。 嬉しくて、楽しくて、ワクワクしてくるのである。準備が早く終わってしまうと出発 時間まで待ち切れなくなり、今回もそのようなパターンであった。集合は東京駅10 番ホーム品川寄りに午後6時であった。夜行普通列車大垣行きに乗るためである。
 午後5時20分、ちょっと早いが家を出発することにした。

夜行鈍行大垣行き

 東京駅に着いた。案の定1番のりで、友人は誰も来ていなかった。数分後友人がき た。大垣夜行は毎日運転されているが、春夏冬休みには青春18切符が使えるとあって大混雑する。ピーク時の混雑ぷりは大変なもので、今どきこんな列車があるのか、と思う程である。

 そこでやっと最近、混雑する日に臨時 の大垣夜行列車(9375M)が運転されるようになったのである。この臨時夜行、東京を定期夜行より3分遅く発車するのだが、浜松で追い抜いて大垣には8分早く到着するおもしろいダイヤになっている。こうなるとどうしても臨時夜行の方に乗ってみたくなる。そして我々は臨時の大垣行きに乗ることになった。

 念には念をということで、集合時間を発車時刻の5時間43分前、午後6時にした のだが、臨時列車ができたせいか誰も並んでいる人がいない。我々は、臨時ができてから乗るのは初めてであり、大垣夜行に乗る人かどうかは一目見ればすぐわかる。勿論『大垣行き』乗車案内板下(10番線)に先頭として陣取りをした。

 午後9時、ボチボチ並ぶ人がでてきた。ブルートレインが次々と目の前を発車していくが、発車していくたびに「金があったらなあ」と車内の乗客をうらやんでしまう。これくらいの旅行になると、結構お金がかさむ。しかも、ビンボーな若者!にとってはなおさらである。また高松行き「瀬戸」が出発した。そんなとき、定期夜行の発車する隣の7,8番ホームを見ると、中核派の制服!、ヘルメット、マスク、サングラス、ハットスピーカー、旗を持った大集団が前2両に並んでいて、鉄道公安員も警備のため立っていた。これから何処へ行くのかなどと友人と話をしていたが、なんとも物騒な感じであった。

 午後11時ともなると、いいかげん暇で暇でいやになってくる。最後のブルートレイン『銀河』を見送って、22時33分、まちにまった臨時夜行が入線してきた。

 8両編成でグリーン車はついていない。座席の背もたれ上部にJR東海独特の自いカバーがかかっていないので、JR東日本の車両だろう。7番線の大垣行きを見ると日よけカーテンが全部閉められていた。

 22時43分、定刻に発車。車内は80%位の乗車率だろうか。

『どうせ寝れるわけがない』と諦めていたが、我々の乗った車両(先頭)の暖房の調子が悪いのか、窓の具合が悪いのか、とても寒かった。隣の車両をみると窓が水滴でびっしょりなのに対し、こっちの車両の窓は涸れるどころか曇ってもいない。しかも
窓を開けてる若者がいて本当に寝むれずイライラした。浜松で両大垣行きが並んだ。日よけカーテンは閉ったままである。

 列車は闇の中をひたすら走っていった。

まっすぐ姫路[四国旅行記#2]

 大垣に6時49分、定刻に到着した。本当に寝むれなかったので体が変だ。次の列車の席取りのためみんな走っているので、私も負けずに跨線橋を走った。8分後、定期夜行が到着したが、もう座れないだろう。そんなことを思っているうちに、網干行普通列車が入線してきた。なんとか席は確保できたが、友人がトイレに行ったため席が1つ開いていたのだが、「ここは、開いてないのか?」「開いてないのか?」としつこいおじさんがいた。のちのち、このおじさんによって大変不快な思いをすることになる。

 7時8分、湘南色の電車は岐阜県大垣駅をあとにした。車内は大垣夜行からの乗り継ぎ客でかなり混雑しており、なんだか全然普通電車らしくない。そして、あの例のおじさん(糞ジジイと表現した方が適切)が周りの乗客たちに、「おい、どこまでいくんだ!おい!おれの話しがきけねえのかア~!」というような調子で当り散らしていった。いきなり酔っぱらいの出現である。車内は異様な沈黙に包まれた。

 しかし、鈍な奴とはいるもので、そのような尋常でない状態にもかかわらず、大声でベチャベチャと喋っている人がいて、さっそく酔っぱらいのエジキとなってしまった。
「おい!たのしそうだなあ~!ええ一つ!」
幸い、我々は絡まれずに済んだが、ああいう乗客に会うだけで旅行の気分が台無しになってしまう。困ったものである。

 米原に着いた。新快速に乗り変えるため下車して、案内のあったのりばで並んで入線を待った。ついでに『牛肉弁当、820円』とやらを買った。すると、
「大変失礼しました。今度の新快速ののりばは、隣の2番ホームです。」
との案内放送。だたでさえ混雑しているのに、この放送のあと一瞬、騒然とした雰囲気になった。「やられた!」と思いながら、我々もカバンを移動した。まったく、こういう時に限ってこういう事が起こるのだから油断できない。

 新快速姫路行が入線し、ドアが開いた。あのような混乱があった後もあって、もみあい、へしあいの大変な乗車合戦となった。中年のおばさん(巷ではオバタリアンともいう)が余りの勢いで転んでしまい、
 「ちょっと、ひどいじゃない!おさないでよ~」
と叫んでいるが、誰も聞いていない。我々は、今回も運良く座席が確保できた。しばらくして、車内を見回してみると、立っている人がほとんどいない。さっきのオイルショック時のトイレットペーパーを買うような騒ぎは何だったのだろうか。

 8時07分、米原を発車。野洲までは各駅に停車する。弁当も食べ終わり、あとは姫路まで落ち着いていられる。睡魔が襲ってきて京都あたりまで寝た。

 目が覚めるとラッシュで満員。新型の車両で気持ちよく座っていたので、なんだか恐縮してしまった。

 10時30分、あと15分で姫路に到着する。しかし、飛ばすこと、飛ばすこと。私は、進行方向反対側に3時間も座っていたせいか。少々酔ってしまったようだ。そして、46分、姫路に着いた。

姫路駅

片上鉄道で柵原へ[四国旅行記#3]

 この旅行の目的は四国なので、まっすぐ岡山へ行くべきなのだが、今年4月で廃止になる私鉄「同和鉱業片上鉄道」に乗るため、片上駅に向かった。
 この鉄道は、吉井川上流の柵原 (やなはら) 鉱山で採掘 される硫化鉄鋼を瀬戸内海に面した片上港へ運ぶために建設されたもので、昭和6年に全通した。片上駅へは、赤穂線西片上駅で下車し、5分程歩いた所にある。

 12時30分頃、片上駅についた.今度の列車まで45分程あるので食事を済ませることにした.近くにお好み焼き屋があったのでそこに決めた.店はそれ程広くはなく、奇麗だ!といえる感じではない。中では地元の人々の談話室となっていた。

 「おにいちゃんら、ちょっと時間かかるよって・・・。」

 岡山弁?で店のおばちゃんがこのように言っていた。
そして、すったもんだと議論したのち、急いで作ってもらう事に落ち着いた。

 店にいる地元の人と色々な話しになり、東京から来た、と言うと『うちの甥も東京で働いてるわ』という話しになる。既に12時50分、発車25分前であった。そして、早く食べないと間に合わないぞ、という話しになり、店のおばち々んが私に向かって、

「あんたが、一番だめそうや。」

と言った。3人の中では確かに1番キャシャな体格ではある。,自慢じゃないが食べるのは1番早い。こう言われると、意地でも1番に食べ終わらなければ気が済まない。13時、発車15分前に出来上がった。3人共急いで食べたが、熱いので思うよう口に進まない。味わって食べる暇もない。私は1番に食べ終わり、意地は張れた。そして、3人共食べ終わったが、発車5分前だった。最後、店を出るとき、

「おばちゃんのこと忘れないで、また今度はゆっくりと来てちょうたいね。その頃は彼女もいっしょかなー、気いつけてな。」

と言われ、慌てて駅に向かった事が非常に印象に残っている。

 何とか列車には間に合った。13時15分、定刻に片上駅を発車した。1両編成の肌色と赤のツートンカラーのディーゼルカーで、車内は20人ぐらい乗客がいるが、ほとんどがはるばるこの鉄道に乗りに来た旅行者のようである。

 列車は、赤穂線、続いて新幹線をオーバークロスして、ウネウネと山中の上り勾配をのぽっていく。備前市から和気市に入って、31分、和気に着いた。ここで19分停車する。
 岡山からの電車に接続するためだろうが、他の列車も和気でしばらく停車するので、和気が中心のダイヤ設定になっているのだろう。13時50分、さらに20人ぐらいの客を乗せて発車した。

 列車は吉井川に沿い、上流に向かって北上する。左手に川と国道374号線がみえる。車窓は結構美しい。3駅、4駅と止まるたびに、地元の乗客はポツポツと降りていく。

 14時36分、終点柵原(やなはら)に着いた。車窓は終点まで変化がないが、赤いとんがり屋根の駅舎は洒落たものである。私は全国の駅舎の写真を撮り集めているので、写真を撮り、折り返し14時57分の列車に乗り込んだ。

柵原駅

 柵原には今では廃墟となった鉄鉱場の建物があり、何とも寂しいところであった。待合室の掲示板を見ると、6月(何日かは忘れてしまった)に廃止となる旨が伝えられていた。バスとの交渉がうまくいかず、2ヶ月程廃止が延びたのだそうだ。

柵原駅の鉄鉱場跡地.この後廃止された.

 折り返し列車が発車した。乗客はほとんど折り返し客だった。

 10分位たった頃、走っていたディーゼルカーが急停車した.
「え一つ、申し分けありません。ただいま、踏切が故障しています。しばらくお待ち下さい。」
と車内放送があった。「ほんとかよ!」と思っていると、車掌が車から降りて、前方の踏切まで走っていった。工事中の案内看板に踏切の捧がひっかかっていたらしく、手で直して戻ってきた。

「おまたせしましたー。」

警笛がなり、発車した。しかし、今までの旅行のなかで車掌が降りて踏切を直したという場面は初めて見た。もしかすると、踏切も列車の廃止に感づいて、自己主張をしたのかもしれない。

正面6枚窓の流線型車両

どっきん!四国へついに突入[四国旅行記#4]

 16時26分、和気で山陽本線に乗りかえ、岡山に着いた。いよいよ瀬戸大橋を渡る時が来た。しかし、天気は曇り空で今にも雨がふりだしそうな模様である。16時45分発の『マリンライナー43号』に間に合う時間だったが、座れなかった為、30分後に発車する『マリンライナー45号』(17時15分発)に乗ることにした。

 16時59分、ステンレスにブルーの帯びの電車が入ってきた。席は勿論確保。そして、17時15分発車。電車は左にカーブし宇野線を走り、早島、茶屋町と停車する。車内は春休みに入ったとあって、子供連れの客で混雑していた。

 17時30分、茶屋町を発車すると、宇野線に別れを告げ、灰色の高架橋をグングン走って行く。本四備讃線(瀬戸大橋線)に突入した。右に大きくカーブして、左眼下に宇野線が見えた。そして、一目で新線とわかる直線のトンネルを何回も、物凄いスピードで突っ走る。

 10分後、児島に到着。1/3位の客が下車した。茶屋町より大きい町に思えた。後で地図で調べてみると、倉敷市であることがわかり、少々意外であった。

 児島を出ると、左手に児島ボートレース競技場が見え(駐車場が広い)、マリンライナーはどんどん加速していった。車掌が瀬戸大橋の説明らしき事を言っているようだが、ボリュウムが小さくてあまり聞こえない。まだか、まだかと外を見ているが、青函トンネルに入る時もこんな気持ちだった。すると『ゴー』といって(そんなに大きな音ではない)瀬戸大橋を渡り始めた。天候が芳しくないため、遠くは見えないが、海の上を列車が走っている、と考えると「銀河鉄道999の哲郎」のような気分になる。しかも、下を覗くと「海」なので、なおさらである。

 橋の途中にある与島パーキングエリアが見えてきたが、その車の高架橋(灰色)が随分高いところにあってカーブしており、よく折れないものだな、と感心してしまった。

 橋も渡り終わったようで、瀬戸中央自動車道は左に別れていった。周りは工場地帯で、いよいよ四国に突入して、17時55分、坂出に着いた。立っている人がいなくなる。ついに雨が降りだして、列車は高松に向かった。しかしまあ、よく飛ばすこと・・・。そして、18時12分、四国随一の都市、高松に到着した。

高松駅

大歩危、かづら橋[四国旅行記#5]

大歩危峡

 3月26日、火曜日。曇り。高松7時16分発、特急「しまんと1号」中村行に乗りこんだ。朝食に駅の讃岐うどんを食べたが、個人的には白つゆの方が好きなので、うまかった。

 JR四国独特のチャイムが流れ、車内放送がある。車内をみると、クラブの試合かな、と思える若者3人が中年の先生らしき3人と一緒に乗っていたが、そのとき、手首のハンカチの隙間から、銀色の手錠が見えてしまった。彼らにとっては、しばらくは接することのできない外界となるのだろうか。

 猪ノ鼻峠を越え、香川県から徳島県に入って、列車は下り坂になる。右手に吉野川が見えてきた。ぐる一つと180度、右にカーブし、吉野川を渡って、8時31分、阿波池田で下車した。池田高校のある池田である。これから、大歩危、かずら橋と行くので、荷物をコインロッカーに入れて、8時46分発のワンマン高知行に乗った。

 1両のワンマン列車は、吉野川上流に向かって走っている。車内はロングシートで15人程いるが、ほとんど観光客であった。
 景色もだんだんと山の中になり、大歩危(小歩危)峡にさしかかった。数十メートルに及ぶ断崖絶壁や美しく磨かれて層をなした岩石、木々の色彩はみごとである。
 9時31分、大歩危到着。11時35分発のバスまで時間があるので、大歩危峡のドライブインまで往復して、吉野川を見てまわった。

大歩危峡(吉野川)

秘境・西祖谷山村(かずら橋)

 再び、大歩危駅まで戻ってきて、かずら橋行の西祖谷山村村営バスに乗った。マイクロバスで1時間かかるのだが、四国交通のかずら橋行のバスでは20分で到着するので、村営バスはよほど大回りをするのだろうと思った。

 満員の客を乗せて発車した。半分は観光客であり、車内には案内テープもなければ、下車合図のブザーもない。有科道路入り口の手前で、右に別れているマイクロバス1台がやっと通れるような道路に入った。

西祖谷山村営バス

 村営バスは旧道を通っていく為に時間がかかるのであり、住民の足でもあるのだ。そして、うっそうとした木々に囲まれた「ほんとうの山の中」に入っていき、急な上り坂となった。バスは低速ギアで、「ワンワン」唸りをあげている。対向車はほとんどなく、車がきた場合は待避所でどちらかが待って行き違いをする。

 地元客は1人のじいさんになった。

 ウネウネとこんな調子の道路が10分程続く。した~の方を眺めると、今通ってきた道が小さくなってみえる。そして、上を見上げるとこれから行くであろう道と集落が見える。まさに秘境の集落で、どうやってあんな急な斜面に住んでいるのだろうと思ってしまう。

 ガラスがくもってきた。頂上にきたらしく、今度は下り坂になる。ウネウネと下っていくうちに、一人じいさんが降りた。こんな所に家があるのか!と思った。なにしろ、木しか見えないのだから。

 約40分程走ると、大きい道路にでた。有科道路に通じている新道である.そしてひらけた町 (といっても,今までと比べたらそのように思えてしまう)についた。一宇である。 乗り降りはなく、バスは方向変換して出発した。ここから先は、1日3往復しかない。

 橋を渡ったバスは左折し、また狭い急な上り坂(日道)を唸りながら上っていった。車内では半数の人が眠っていた。 12時35分、かずら橋に着いた。

かづら橋

 かづら橋は,水面からの高さ12mの祖谷川にかかる、付近に自生するシラクチカズラで編み上げた、古風なつり橋である。ゆらゆら揺れ,粗いかづらの編み目から水面を覗くと、吸い込まれそうで足がすくむことで有名である。

 410円の通行料を払って、かづら橋を渡った。はじめは『ちょろい、ちょろい』と思っているのだが、わたってみると結構背筋がぞくぞくする。友人の1人は高所恐怖症であるらしく、必死にカズラを握りながら手に汗をかいて渡っていた。
 祖谷そばを食べ、今度は、四国交通バス、大歩危駅経由阿波池田駅行に乗った。車内は大歩危までは満員であった。天候は相変わらずのくもり空で、からっとした青空が見たい。

 阿波池田で荷物をだして、16時15分発の急行『よしの川4号」に乗って、徳島に向かった。車両は転換クロスシートと固定クロスシートの2両編成で、普通列車にも運用されているものであった。途中、教習所の車と並走する場面があり、友人が免許を取っている最中だったため、他の友人と教官のまねをしてからかっていた。そして、徳島に到着。17時33分。

小松島線を歩く。そして南国高知へ[四国旅行記#6]

小松島線を歩く

 雨。朝からしとしとと降っていた。徳島駅は駅舎の全面建てかえをするようで、本駅舎は使われておらず(まだ壊されてはいない)、小さい仮の駅舎が使われていた。

徳島駅

 8時18分発、牟岐線海部行に乗って車内で駅弁を食べ、小松島線の分岐駅であった中田で下車した。単なる田舎駅で駅前は住宅街となっており、乗客は数人であった。

 雨の中、小松島線の廃線跡を見つけるため、地元の人に聞きながら歩いた。

中田駅

 小松島線は、かなり以前から廃止の案が浮かび上がっていた線で、中田一小松島間ひと駅の僅か1.9㎞の路線であった、終点の小松島の先に『小松島港(臨)』という駅がくっついていたが、小松島港は小松島駅構内に南海フェリー連絡のため設けられた仮乗降場で営業キロがない。したがって小松島一小松島港間の運賃はいくらか?タダになるのか?と鉄道マニアの間で話題になった区間でもある。

 そして歩くこと10分、前方に小川に掛かる小さな鉄橋が見えるではないか!自然と3人共かけあしになる。紛れもなく小松島線廃線跡だ。線路ははがされ、残っているのは鉄橋とバラストぐらいのものであった。そして、小松島に向かって歩いていると、途中から洒落た遊歩道に変わった。近くの案内板をみると、中田一小松島の間を遊歩道にする計画のようで、その一部なのだろう。

 さらに、10分程歩くと、前方がだだっ広い野原になった。貨物操車場跡地だろうか。そのまま野原を歩いたが、雨が降っている為、草についた露がGパンや靴についてビショビショになった。

小松川線貨物操車場跡地

 和歌山行南海フェリーの待合室に着いた。随分寂しい感じの待合室だった。和歌山から先の南海電車『サザン号』の乗り継ぎ時刻が書いてあり。切符も販売しているのを見て「南海なんだな」と実感した。フェリーは約2時間おきにー昼夜出航ている。和歌山港まで2時間。

南海フェリーのりば

牟岐線を往復して

 小松島港からタクシーで南小松島駅にでた。10時23分の特急「うずしお3号」で終点の牟岐まで行き、1分接続のワンマン普通列車海部行にのりかえた。車内はお年寄りや補習をうけた高校生など、約30人程乗っていた。外は大雨になっているらしく、あめが波打って降っている。鯖瀬、浅川、阿波海南と止まる度に乗客がおりていく。そして、11時37分、終点海部。終着駅だが、高架橋は先へ延びている。いつ宍喰(仮称)までつながるのだろう。

海部駅

 折り返し11時44分発、板野行の列車で徳島に向かった。だんだんと乗客も乗ってきて、南小松島のあたりでは、立客もではじめた。中高生が多いけれど、お年寄りも多かった。

高松をまわって南国高知へ

 徳島で3分接続の「うずしお14号」高松行に乗る(13時54分)。2両編成全車自由席の特急で、約1時間毎に走っている。1990年11月21日のダイヤ改正で急行「阿波」(2往復)が全て特急に格上げされてそのようになった。

 発車直前に乗ったので座れず、デッキに立つことにした。ホテルが高知なので、徳島線で直行すればよいのだが、徳島線は昨日乗車した為、まだ乗ったことのない高徳線、ついでに土讃練大歩危一高知間を通る高松まわりのルートにしたのであった。

 昼食は高松で取ろうと思っていたが、空腹には耐えきれず、車内販売でサンドウィッチ[380円]とウーロン茶を買った。

 15時10分、高松に到着。高松は2度目である。ここから、15時45分発の普通琴平行で多度津まで行き、岡山からの特急にのりかえる。多度津では、大抵の特急において、高松からの特急と、岡山からの特急との列車接続(一方は予讃線方面行、もう一方は土讃線方面行)を行なっているので、高松16時11分発の予讃線方面特急「いしづち11号」に乗ってもいいのだが、なにしろ四国の普通電車は珍しいので、電車に乗ることにしたのである。

 多度津に着いた。岡山からの特急『南風9号』中村行にのりかえる。私は、気動車初の新型振り子式気動車2000系に乗りたかった。振り子列車に乗るのも初めてである。期待通り、新型の5両編成がきて、16時47分、動いた。

多度津駅

 振り子式車両とは曲線区間を高速で走っても横揺れが起きないように工夫されたもので、台車の上にコロを付けて車体をより傾けて走るものである。

 初めは座れなかったが、阿波池田になると数人降りたので、パラパラではあるが3人共座れた。座った車両は、高知で切り離される車(一番後ろ)だった。

 乗り心地は、やはり最高。全然揺れが少なく、高速でカーブを曲がると車体が傾くが、とてもスムーズに感じる。特に、四国山地を越える阿波川口一大歩危一土佐山田間においては顕著だった。四国の特急は遅い、と思っていたがとんでもない。最高時速120km/hで飛ばせるところでは飛ばす。

 あたりも暗くなり、18時25分、南国高知に到着した。駅前は徳島と同じように背の高いヤシの木が沢山立っており、いかにも「南国」という感じである。雨あがりのせいか、吹いてくる風が、湿っていて生暖かった。

高知駅

おっと!一目惚れ?土佐くろしお鉄道の女性車掌[四国旅行記#7]

 3月28日、5日目に突入した。今日はまっすぐ中村に行き、市内を観光する予定になっている。高知8時08分発、特急『あしずり1号』中村行きに乗りこんだ。車内は50%位の乗車率で、観光目的の人と数人のサラリーマンぽい人しか乗っていない。天気は昨日とはうってかわっての『快晴』で、観光をするにはもってこいの天候であった。

 9時28分、窪川に到着した。隣には、明日乗車するであろう予土線のワンマンカーが発車時刻を待っている。ここから中村までは、元中村線であった第3セクター「土佐くろしお鉄道」に会社が変更する。ということは周遊券では乗れないわけで、別に1240円(特急料金込み)を払うことになる。

 9時33分発車。JR四国のチャイムが再び流れ、奇麗で済んだ女性の声でアナウンスが始まった。女性の車掌さんなのである。

「本日は、土佐くろしお鉄道、特急『あしずり1号』中村行きにご乗車いただきまして、誠に有難うございます。これから先は周遊券ではご乗車になれませんので、切符をお持ちでないお客様は只今より車掌がまいります。その時にお買い求めください…。」

 大変流暢な言葉づかいであった。かつて、JR東日本で女性の職員を採用した際、社員研修の一つとして「車掌の車内放送の実習」があり、私の通学手段である京浜東北線でもその放送を耳にしたことがあるが、訓練されてないせいもあるのか、間のあけ方が適切ではない為に非常に聞きづらく、男性の放送の方がよっぱどよいと感じた事があった。土佐くろしお鉄道の女性車掌は大変訓練されているらしく、JR四国の車掌とも比べものにならない程素晴らしいものである。どんな顔をしているのか見てみたくなった。

 しばらくして、噂の女性車掌が入ってきた。

「失礼いたします。乗車券をお持ちでないお客様はいらっしゃいますか…。」

 一瞬目を疑った。品があり美人である。そして、二コニコ笑顔を絶やさない。「紀子さま!」まさにこの人にピッタリの言葉である。私たちは切符を精算したが、なんだか自分たちが良い事をして、晴れ晴れとしているような気分に浸っていた。この車掌さんが回ってきたら少なくとも男性ならば、キセルする人がいなくなるのではないだろうか。ドアの開閉業務も行なうのだが、その時の下車客に笑顔で頭を下げる様子を見ていると、ただ唯「うっとり」の四文字に尽きてしまう。
「けっ、結婚して下さい!」
このようにアタックする人がいてもおかしくはないと思う。

 第3セクターの意気込み、真剣さが感じられた。

土佐くろしお鉄道「中村駅」

中村観光[四国旅行記#8]

水車とトンボ

 10時15分に中村に着いた。荷物をコインロッカーに入れ、早速『中村市観光情報センター』の案内所に行った。自転車を借りるとき身分証明証を求められ、取りたての「普通免許証」を見せたが、この免許証にとっては初仕事であり、ようやく役にたった。そして、我々3人は自転車をこいで市内観光をすることになった。

 友人の一人が『水車』を見たい!という事で水車を見にいくことにしたが、なんでわざわざ中村まで来て「水車」なんか見たいのだろう、『車』と勘違いしているのではないか、と思った。

 駅の東側にある川の土手沿いを北西に向かって走り、橋を北に向かって渡る。始めは四万十川かと思ったがそうではなく、後川という四万十川よりも東側にある支流であった。橋を渡ると田畑が広がり、左折してしばらく行くと、お目当ての水車が1つだけ畑(田)のど真ん中の水深1.5m程ある水路でまわっていた。

 そして、その水路の脇を見ると水車を掛ける支柱のみがズラーつとあった。私の方が単なる『水車』と勘違いをしていたらしく、この水車は灌漑の為にあるもので、水を水車の羽根で汲み上げ木の水路を通して畑に入れる、という今では珍しいものなのであった。シーズンである4月以降には、沢山の水車が取り付けられ、日本むかし話のワッシーンに見られるような光景になるのだろう。

水車

 次に、約60種ものトンボが見られるという湿地帯になっている『トンボ自然公園』に向かうべく、市街地に一旦戻り西に進路を向けた。今度はいよいよ四万十川を渡っていくのである。土手に建設省の『渡川』、その下に括弧をして(四万十川)と書かれた名称板が見えた。四万十川とは公式な名称ではなく、渡川が本当の名なのだそうである。かなり立派な四万十川橋を渡り、日本最後の清流を橋の真ん中から覗いた。

 ところが、思った程澄んではおらず、確かに濁り方は東京の隅田川のようなドス黒くはなくエメラルドグリーンで清らかではあったが、『日本最後の・・・』もこの程度だったのかと納得してしまった。このことについては後に再び触れることになる。

 そして、トンボ公園に到着した。人影はまばらで、なんとトンボが1匹も飛んでいない。時期が時期だけに当然と言えば当然である。一周り散策して正午を過ぎていたので。駅に戻って自転車を返し、昼食をとることにした。

駅前食堂にて

 駅前の食堂で壁のメニューにざるそばがあったのでそれを注文したが、店のおばちゃんに、
「田舎の方では夏しかでないんよー」(方言は定かではない)
と言われ、無難なカレーライスに変更した。ついでにうまそうなおでんがあったので数本いただいた。客は我々3人しかいなく、カウンター式の店たった。

「おにいさんら、何処からきたん?」
「あっ、東京です。」
「あーそーう。昨日はどこをまおってきたの?」
「えーと、かずら橋と大歩危と‥・。」
「へえ一、じゃあ今日は四万十川だ。ところで、大学生かい?」
「いえ、今年高校卒業して、今度大学生になるんですよ、」
「あーあ、やっぱりね、幼い顔してるもんね。」

この言葉でちょっと『ヒクヒク』ときた我々であった。そして、おでんを食べ終わったところで、
「おでん、すんちょった?」
と聞いてきた。私は、もうおでん食べ終おったのか(済んだのか)と聞いていると思い、
「はい。」
と答えた。しばらく沈黙が続いたあと、
「すんちょる、つて意味わかった?」
と聞いてきた。私は、ちょっと自信のない声で、
「はい。」
「どんな意味?」
「えーつと、もう食べ終わったってぃう事じゃないんですか。」
「ちがうよ。よく味がしみていることをこっちでは『すぃちょる』つてぃうんだよ。」
「あーなんだア、おでんね、ええ、よく味つぃてぃましたよ。」
おばちゃんはよそものにも慣れたものであった。

~旅・万歳!街歩きの風が吹く~