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おっと!一目惚れ?土佐くろしお鉄道の女性車掌[四国旅行記#7]

 3月28日、5日目に突入した。今日はまっすぐ中村に行き、市内を観光する予定になっている。高知8時08分発、特急『あしずり1号』中村行きに乗りこんだ。車内は50%位の乗車率で、観光目的の人と数人のサラリーマンぽい人しか乗っていない。天気は昨日とはうってかわっての『快晴』で、観光をするにはもってこいの天候であった。

 9時28分、窪川に到着した。隣には、明日乗車するであろう予土線のワンマンカーが発車時刻を待っている。ここから中村までは、元中村線であった第3セクター「土佐くろしお鉄道」に会社が変更する。ということは周遊券では乗れないわけで、別に1240円(特急料金込み)を払うことになる。

 9時33分発車。JR四国のチャイムが再び流れ、奇麗で済んだ女性の声でアナウンスが始まった。女性の車掌さんなのである。

「本日は、土佐くろしお鉄道、特急『あしずり1号』中村行きにご乗車いただきまして、誠に有難うございます。これから先は周遊券ではご乗車になれませんので、切符をお持ちでないお客様は只今より車掌がまいります。その時にお買い求めください…。」

 大変流暢な言葉づかいであった。かつて、JR東日本で女性の職員を採用した際、社員研修の一つとして「車掌の車内放送の実習」があり、私の通学手段である京浜東北線でもその放送を耳にしたことがあるが、訓練されてないせいもあるのか、間のあけ方が適切ではない為に非常に聞きづらく、男性の放送の方がよっぱどよいと感じた事があった。土佐くろしお鉄道の女性車掌は大変訓練されているらしく、JR四国の車掌とも比べものにならない程素晴らしいものである。どんな顔をしているのか見てみたくなった。

 しばらくして、噂の女性車掌が入ってきた。

「失礼いたします。乗車券をお持ちでないお客様はいらっしゃいますか…。」

 一瞬目を疑った。品があり美人である。そして、二コニコ笑顔を絶やさない。「紀子さま!」まさにこの人にピッタリの言葉である。私たちは切符を精算したが、なんだか自分たちが良い事をして、晴れ晴れとしているような気分に浸っていた。この車掌さんが回ってきたら少なくとも男性ならば、キセルする人がいなくなるのではないだろうか。ドアの開閉業務も行なうのだが、その時の下車客に笑顔で頭を下げる様子を見ていると、ただ唯「うっとり」の四文字に尽きてしまう。
「けっ、結婚して下さい!」
このようにアタックする人がいてもおかしくはないと思う。

 第3セクターの意気込み、真剣さが感じられた。

土佐くろしお鉄道「中村駅」

中村観光[四国旅行記#8]

水車とトンボ

 10時15分に中村に着いた。荷物をコインロッカーに入れ、早速『中村市観光情報センター』の案内所に行った。自転車を借りるとき身分証明証を求められ、取りたての「普通免許証」を見せたが、この免許証にとっては初仕事であり、ようやく役にたった。そして、我々3人は自転車をこいで市内観光をすることになった。

 友人の一人が『水車』を見たい!という事で水車を見にいくことにしたが、なんでわざわざ中村まで来て「水車」なんか見たいのだろう、『車』と勘違いしているのではないか、と思った。

 駅の東側にある川の土手沿いを北西に向かって走り、橋を北に向かって渡る。始めは四万十川かと思ったがそうではなく、後川という四万十川よりも東側にある支流であった。橋を渡ると田畑が広がり、左折してしばらく行くと、お目当ての水車が1つだけ畑(田)のど真ん中の水深1.5m程ある水路でまわっていた。

 そして、その水路の脇を見ると水車を掛ける支柱のみがズラーつとあった。私の方が単なる『水車』と勘違いをしていたらしく、この水車は灌漑の為にあるもので、水を水車の羽根で汲み上げ木の水路を通して畑に入れる、という今では珍しいものなのであった。シーズンである4月以降には、沢山の水車が取り付けられ、日本むかし話のワッシーンに見られるような光景になるのだろう。

水車

 次に、約60種ものトンボが見られるという湿地帯になっている『トンボ自然公園』に向かうべく、市街地に一旦戻り西に進路を向けた。今度はいよいよ四万十川を渡っていくのである。土手に建設省の『渡川』、その下に括弧をして(四万十川)と書かれた名称板が見えた。四万十川とは公式な名称ではなく、渡川が本当の名なのだそうである。かなり立派な四万十川橋を渡り、日本最後の清流を橋の真ん中から覗いた。

 ところが、思った程澄んではおらず、確かに濁り方は東京の隅田川のようなドス黒くはなくエメラルドグリーンで清らかではあったが、『日本最後の・・・』もこの程度だったのかと納得してしまった。このことについては後に再び触れることになる。

 そして、トンボ公園に到着した。人影はまばらで、なんとトンボが1匹も飛んでいない。時期が時期だけに当然と言えば当然である。一周り散策して正午を過ぎていたので。駅に戻って自転車を返し、昼食をとることにした。

駅前食堂にて

 駅前の食堂で壁のメニューにざるそばがあったのでそれを注文したが、店のおばちゃんに、
「田舎の方では夏しかでないんよー」(方言は定かではない)
と言われ、無難なカレーライスに変更した。ついでにうまそうなおでんがあったので数本いただいた。客は我々3人しかいなく、カウンター式の店たった。

「おにいさんら、何処からきたん?」
「あっ、東京です。」
「あーそーう。昨日はどこをまおってきたの?」
「えーと、かずら橋と大歩危と‥・。」
「へえ一、じゃあ今日は四万十川だ。ところで、大学生かい?」
「いえ、今年高校卒業して、今度大学生になるんですよ、」
「あーあ、やっぱりね、幼い顔してるもんね。」

この言葉でちょっと『ヒクヒク』ときた我々であった。そして、おでんを食べ終わったところで、
「おでん、すんちょった?」
と聞いてきた。私は、もうおでん食べ終おったのか(済んだのか)と聞いていると思い、
「はい。」
と答えた。しばらく沈黙が続いたあと、
「すんちょる、つて意味わかった?」
と聞いてきた。私は、ちょっと自信のない声で、
「はい。」
「どんな意味?」
「えーつと、もう食べ終わったってぃう事じゃないんですか。」
「ちがうよ。よく味がしみていることをこっちでは『すぃちょる』つてぃうんだよ。」
「あーなんだア、おでんね、ええ、よく味つぃてぃましたよ。」
おばちゃんはよそものにも慣れたものであった。

歩いた歩いた!四万十川[四国旅行記#9]

 水車を見に行こう、と行った野球部の友人が今度は「沈下橋まで歩いて行こう」などと言いだした。その友人によると、沈下橋までは3キロぐらいという事で、私たちも「行こう」と返事をした。そして、土佐の小京都と言われる中村市の市街地を抜け、桜が満開であった中村城跡の公園に寄ってから四万十川に向かった。

 四万十川の川岸に着いて、川の東側にある車がやっとすれ違える程の広さの舗装道路を北に向かって歩いた。四万十川の雄大な流れを見ることができたが、いくら見ても沈下橋らしきものは見当らない。もう30分程は歩いただろうか。そして、小さな町に出て、かなり立派な観光用の地図があった。それによるとこれから行く予定の佐田沈下橋はなんとここからあと4~5kmもあるということがわかり『はめられた』と思った瞬間、他の1人の友人と共に「バスを捜そう」だの「自転車でくりゃよかった」だのブーブー文旬を垂れるようになった。しかし、ここまで来て引き返すわけにもいかず、そのまま歩くことにした。幸い道路には小さい距離表が100mごとに設置してあったので、「あと何メートルだ!」と目標を持って歩くことができた。

四万十川沿いをひたすら歩く.沈下橋を目指して.

 さらに40分程歩いただろうか。周りには家が全然見当らない。まだか、まだか、と思っていると、四万十川展望台という新しく作ったばかりだと思われる休憩所があらわれた。トイレまであった。そこでひと休みしまた歩き出す。殆ど人とは会わない。すれちがうのは車だけだった。もうここまでくると逆に疲れをあまり感じなくなってきた。

  道路が広くなって片側1車線道路になった。バスも走っているらしくバス停があったが、なんと1日2往復。それも夕方は中村駅からのバスのみということで、帰りにこのバスで戻って来る事は不可能であることがわかった。みんなもう無口になって唯歩いているという感じである。こんなに歩くとは思っていなかった為、出発するときの心の準備が無く、非常に疲れを感じていた。

 そして、駅から歩くこと約2時間『佐田沈下橋は左折』という看板が見えてようやく沈下橋に到着した。周りは何もないところで、喫茶店一件と木造のトイレ、そして民家があるだけだった。観光客も2組ほどいたが、どちらもタクシーでの観光だった。

 橋にはもちろん欄干がなく、幅はトラック1台がやっと通れる程で、途中2ヶ所にほんの少しだけ(100cm)広くなった待避所があるが、乗用車どうしならここですれちがえるだろう。橋を渡ることにしたが、その手前に、

『トラックの運転手さんへ。お年寄りや、子供が渡っているときは、徐行して運転をして下さい。』

という赤字の立て札が立っていた。この時はなるほど、と軽くうなずいていたのだが、我々が渡り出して間もなくトラックがやってきた。欄干のない、道幅の狭い橋である。体をはじっこによせ、その隣をわが者顔で通過していくトラックには恐怖を感じた。

 それが、1回どころか数分おきにやって来るのである。スリルが有り過ぎる、と思った。川は相変わらず濁っているが、緑の山々に青い四万十、そして沈下橋という風景は、もっとも四万十川らしい風景であった。

四万十川の沈下橋(欄干がない)

 もう17時をまわっていた。さすがに帰りも歩いて行こう、という気にはなれず近くの民家にいってバスがないかどうか尋ねてみた。おばさんが応対してくれたが、「ない」とのこと。『タクシーを呼んであげるから』ということになり、そのお宅の前でタクシーを待つことになった。

 タクシーの運転手さんは話し好きなようで、四万十川は濁っていたでしょう、という話しになった。前日までは雨が降っていたので、川が濁ってしまうとのこと。こういう日には、上流の江川崎や土佐大正あたりで見ると澄んでいる四万十川が見られるということであった。これで疑問に思っていた『濁り』の謎は薦けた。

 いたるところで、風によって散った桜の花びらがゆらゆらと清流四万十川を流れていた。

四万十川を背景に(沈下橋から)

土佐から伊予へ、そして再び高松[四国旅行記#10]

予土線で土佐から伊予へ

 とうとう四国を離れる日がきてしまった。今日は本州に戻る日である。

 中村8時15分、窪川行の土佐くろしお鉄道ワンマン列車は発車した。車内は中間部がクロスシートになっていて、その部分の窓だけがいっそう大きくなっている。春休みとあって学生は居ず、数人しかいなかった。天気は晴れ。右手に土佐湾がみえてきた。
 トンネル内のループ線とぐるりと左回りして川奥信号所を通過し、于土線と合流して岩井に停車した後、9時19分、窪川に到着した。

 9時59分、JR予土線のワンマンカーが発車した。再び、同じ線路を走って川奥信号所へと向かうのだが、この線路は土佐くろしお鉄道になっており、JRの列車は分岐点であるその信号所まで他社線を走ることになる。我々はJRの周遊券で乗っているので、窪川の隣の駅である岩井までの運賃180円を払わなければならない。降りる時に払うのだろうか。車内は殆どが観光客で、ロングシートが埋まり立ち客がでる程だった。

 車窓に川が見えてきた。四万十川の上流の仁井田川である。さすがに四万十川とあって、川岸にいたわけではないので底まで見ることはできなかったが、川は緑色がかっていて美しかった。さらに浮かんでいる桜の花びらが白い点のように見えた。車内の案内テープでも、

「只今、見えている川が日本最後の清流、四万十川です。」

と、駅名案内のあとに付け加えていた。もう川の名前は「四万十川」で統一してしまっているようだ。そして、10時22分、四万十川の観光地である土佐大正に到着し、観光客が数十人降りた。

 このあたりから、川とそれに沿って走っている道路はウネウネと曲がりだすのだが、予土線は橋とトンネル(短いもの)でまっすぐにつきぬけており、四万十川が右へいったり左へいったりするので、美しい四万十川を充分に満喫できるように思う。

 10時47分、江川崎に着いた。ここは仁井田川と吉野川の合流地点であり、ここから川は四万十川(渡川)となって中村に流れている。これから先の予土線は吉野川沿いを走っていくので、川の流れが逆になって四万十川が見える。

 時々車窓から『予土線の廃止反対! 予土線を残そう』という看板を見かけた。確かに、乗客は宇和島付近を除いて観光客が多かった。今この線に廃止計画があるのかどうか現状は分からないが、四万十川を見れる唯一の鉄道ということで残して欲しいものである。

 11時53分、長い下り勾配を走って宇和島に到着した。

宇和島駅

特急で3度目の高松

 昼食を駅前のレストランでとり、12時50分発の特急「宇和海4号」松山行きに 乗った。去年のダイヤ改正の話をしたときに言い忘れたが、この特急「宇和海」もそ の改正によって急行『うわじま』から格上げされた特急である。時刻表によるとこの 特急は5両編成のはずなのだが、客が多い時期のためか自由席を1両増結して6両編成で運行していた。車内はほぼ満席だった。さすが愛媛県、みかんの段々畑が目につくようになってきた。

 13時53分、内子に到着。内子一向井原間は5年程前に新しく開通した区間で、予讃綴の五郎一向井原間が災害に弱い為、新しい幹線としてこの短絡線が開通した。新谷一内子間はいまでも内子線という別線扱いになっている。これが加算(換算)運賃をとられない『幹線』ならよかったのだが、内子線は『地方交通線』の為、加算(換算)運賃をとる区間になっており、全ての特急が内子線経由になっている現在、この加算運賃をとるやり方はふに落ちない部分がある。と、始めは思っていたが、短絡線が開通したことによって向井原一伊予大洲間の営業キロが、海側ルートの41㎞から34.7kmと短くなり、しかも加算運賃のとる区間は短い為、加算運賃を営業キロ数に換算すると僅か0.5㎞をキロ数に加算した運賃になり、34.7kmと0.5kmとを足した35.2kmが運賃のうえでの換算キロ数になるが、これも海側ルートの41kmよりも短くなることになる。したがって、結果的には運賃が安くなるわけであり(区間によっては変わらないが)、加算運賃(換算キロ)も僅かなため「目くじらを立てる程の事でもない」と思うようになった。内子緑の別線(地方交通線)扱いは何か他にもいろいろな事情があるのだろうか。もちろん海側ルートは特急こそ通らなくなったが、列車は走っている。

 内子をでると新線のため揺れが少なく、トンネルで山の中をぶち抜いて走っていった。

 14時22分、伊予市を出発した。あと10分程で終点松山であるが、ここでのりかえる特急『しおかぜ』の席が取れるか心配になった。高松まで行く我々は松山で16分接続の特急「しおかぜ14号」岡山行に乗りかえるのだが、この「宇和海」の自由席は4両で「しおかぜ」の自由席は3両。満席のこのひとたちが殆ど乗り換えると仮定すると、どう考えても溢れる人がでてくる。しかも、松山で座れないと終点まで座れないような気がしていた。そこで、我々は早々と降りる準備をしてデッキで待つことにした。

 14時31分、松山に到着。お目当ての「しおかぜ14号」は同じホーム向かい側に止まっていた。振り子式新型ディーゼルカーであった。しかも、運よく目の前が自由席だったので、悠々席を確保することができた。そして、車内はすぐ満席になり、14時47分、振り子式ディーゼルカーは動いた。

松山駅

 16時44分、特急連絡接続がある多度津に到着。我々は高松に向かうので中村(土讃緑方面)から来た特急「しまんと8号」高松行きに乗り換えた。高知(土讃緑)方面からの客も岡山行き「しおかぜ」にのりかえて、高松行きが先に発車した。

 その後すぐに振り子式新型特急とすれちがったが、実はあの特急、一昨日多度津から高知に向かう時に乗った「南風9号」中村行きの列車であり、今日これから四国を離れる私にとっては懐かしく感じられた。

 30分程たった17時14分、3度目の高松に到着した。