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高校時代,初めて四国を旅行したときの紀行文です.当時,青春18切符で西に行くときに利用した「大垣夜行」で旅立ちました.

さぁ出発!夜行鈍行大垣行き[四国旅行記#1]

はじめに

 高校の卒業式を終えた1991(平成3)年の春休み、旅好きな友人2人と一緒に、3月24日(日)から7泊8日の四国旅行に出掛けました。これは、その時の旅の記録です。

(旅行年月:1991(平成3)年3月)

さぁ出発

 私はいつも旅行の準備というものは、出発する直前に行なっている。別にこだわり を持っているわけではないのだが、どうしてもそうなってしまうのである。そして、 今日も午後4時、出発の準備をしていた。この準備を始めると心が高揚しはじめる。 嬉しくて、楽しくて、ワクワクしてくるのである。準備が早く終わってしまうと出発 時間まで待ち切れなくなり、今回もそのようなパターンであった。集合は東京駅10 番ホーム品川寄りに午後6時であった。夜行普通列車大垣行きに乗るためである。
 午後5時20分、ちょっと早いが家を出発することにした。

夜行鈍行大垣行き

 東京駅に着いた。案の定1番のりで、友人は誰も来ていなかった。数分後友人がき た。大垣夜行は毎日運転されているが、春夏冬休みには青春18切符が使えるとあって大混雑する。ピーク時の混雑ぷりは大変なもので、今どきこんな列車があるのか、と思う程である。

 そこでやっと最近、混雑する日に臨時 の大垣夜行列車(9375M)が運転されるようになったのである。この臨時夜行、東京を定期夜行より3分遅く発車するのだが、浜松で追い抜いて大垣には8分早く到着するおもしろいダイヤになっている。こうなるとどうしても臨時夜行の方に乗ってみたくなる。そして我々は臨時の大垣行きに乗ることになった。

 念には念をということで、集合時間を発車時刻の5時間43分前、午後6時にした のだが、臨時列車ができたせいか誰も並んでいる人がいない。我々は、臨時ができてから乗るのは初めてであり、大垣夜行に乗る人かどうかは一目見ればすぐわかる。勿論『大垣行き』乗車案内板下(10番線)に先頭として陣取りをした。

 午後9時、ボチボチ並ぶ人がでてきた。ブルートレインが次々と目の前を発車していくが、発車していくたびに「金があったらなあ」と車内の乗客をうらやんでしまう。これくらいの旅行になると、結構お金がかさむ。しかも、ビンボーな若者!にとってはなおさらである。また高松行き「瀬戸」が出発した。そんなとき、定期夜行の発車する隣の7,8番ホームを見ると、中核派の制服!、ヘルメット、マスク、サングラス、ハットスピーカー、旗を持った大集団が前2両に並んでいて、鉄道公安員も警備のため立っていた。これから何処へ行くのかなどと友人と話をしていたが、なんとも物騒な感じであった。

 午後11時ともなると、いいかげん暇で暇でいやになってくる。最後のブルートレイン『銀河』を見送って、22時33分、まちにまった臨時夜行が入線してきた。

 8両編成でグリーン車はついていない。座席の背もたれ上部にJR東海独特の自いカバーがかかっていないので、JR東日本の車両だろう。7番線の大垣行きを見ると日よけカーテンが全部閉められていた。

 22時43分、定刻に発車。車内は80%位の乗車率だろうか。

『どうせ寝れるわけがない』と諦めていたが、我々の乗った車両(先頭)の暖房の調子が悪いのか、窓の具合が悪いのか、とても寒かった。隣の車両をみると窓が水滴でびっしょりなのに対し、こっちの車両の窓は涸れるどころか曇ってもいない。しかも
窓を開けてる若者がいて本当に寝むれずイライラした。浜松で両大垣行きが並んだ。日よけカーテンは閉ったままである。

 列車は闇の中をひたすら走っていった。

まっすぐ姫路[四国旅行記#2]

 大垣に6時49分、定刻に到着した。本当に寝むれなかったので体が変だ。次の列車の席取りのためみんな走っているので、私も負けずに跨線橋を走った。8分後、定期夜行が到着したが、もう座れないだろう。そんなことを思っているうちに、網干行普通列車が入線してきた。なんとか席は確保できたが、友人がトイレに行ったため席が1つ開いていたのだが、「ここは、開いてないのか?」「開いてないのか?」としつこいおじさんがいた。のちのち、このおじさんによって大変不快な思いをすることになる。

 7時8分、湘南色の電車は岐阜県大垣駅をあとにした。車内は大垣夜行からの乗り継ぎ客でかなり混雑しており、なんだか全然普通電車らしくない。そして、あの例のおじさん(糞ジジイと表現した方が適切)が周りの乗客たちに、「おい、どこまでいくんだ!おい!おれの話しがきけねえのかア~!」というような調子で当り散らしていった。いきなり酔っぱらいの出現である。車内は異様な沈黙に包まれた。

 しかし、鈍な奴とはいるもので、そのような尋常でない状態にもかかわらず、大声でベチャベチャと喋っている人がいて、さっそく酔っぱらいのエジキとなってしまった。
「おい!たのしそうだなあ~!ええ一つ!」
幸い、我々は絡まれずに済んだが、ああいう乗客に会うだけで旅行の気分が台無しになってしまう。困ったものである。

 米原に着いた。新快速に乗り変えるため下車して、案内のあったのりばで並んで入線を待った。ついでに『牛肉弁当、820円』とやらを買った。すると、
「大変失礼しました。今度の新快速ののりばは、隣の2番ホームです。」
との案内放送。だたでさえ混雑しているのに、この放送のあと一瞬、騒然とした雰囲気になった。「やられた!」と思いながら、我々もカバンを移動した。まったく、こういう時に限ってこういう事が起こるのだから油断できない。

 新快速姫路行が入線し、ドアが開いた。あのような混乱があった後もあって、もみあい、へしあいの大変な乗車合戦となった。中年のおばさん(巷ではオバタリアンともいう)が余りの勢いで転んでしまい、
 「ちょっと、ひどいじゃない!おさないでよ~」
と叫んでいるが、誰も聞いていない。我々は、今回も運良く座席が確保できた。しばらくして、車内を見回してみると、立っている人がほとんどいない。さっきのオイルショック時のトイレットペーパーを買うような騒ぎは何だったのだろうか。

 8時07分、米原を発車。野洲までは各駅に停車する。弁当も食べ終わり、あとは姫路まで落ち着いていられる。睡魔が襲ってきて京都あたりまで寝た。

 目が覚めるとラッシュで満員。新型の車両で気持ちよく座っていたので、なんだか恐縮してしまった。

 10時30分、あと15分で姫路に到着する。しかし、飛ばすこと、飛ばすこと。私は、進行方向反対側に3時間も座っていたせいか。少々酔ってしまったようだ。そして、46分、姫路に着いた。

姫路駅

片上鉄道で柵原へ[四国旅行記#3]

 この旅行の目的は四国なので、まっすぐ岡山へ行くべきなのだが、今年4月で廃止になる私鉄「同和鉱業片上鉄道」に乗るため、片上駅に向かった。
 この鉄道は、吉井川上流の柵原 (やなはら) 鉱山で採掘 される硫化鉄鋼を瀬戸内海に面した片上港へ運ぶために建設されたもので、昭和6年に全通した。片上駅へは、赤穂線西片上駅で下車し、5分程歩いた所にある。

 12時30分頃、片上駅についた.今度の列車まで45分程あるので食事を済ませることにした.近くにお好み焼き屋があったのでそこに決めた.店はそれ程広くはなく、奇麗だ!といえる感じではない。中では地元の人々の談話室となっていた。

 「おにいちゃんら、ちょっと時間かかるよって・・・。」

 岡山弁?で店のおばちゃんがこのように言っていた。
そして、すったもんだと議論したのち、急いで作ってもらう事に落ち着いた。

 店にいる地元の人と色々な話しになり、東京から来た、と言うと『うちの甥も東京で働いてるわ』という話しになる。既に12時50分、発車25分前であった。そして、早く食べないと間に合わないぞ、という話しになり、店のおばち々んが私に向かって、

「あんたが、一番だめそうや。」

と言った。3人の中では確かに1番キャシャな体格ではある。,自慢じゃないが食べるのは1番早い。こう言われると、意地でも1番に食べ終わらなければ気が済まない。13時、発車15分前に出来上がった。3人共急いで食べたが、熱いので思うよう口に進まない。味わって食べる暇もない。私は1番に食べ終わり、意地は張れた。そして、3人共食べ終わったが、発車5分前だった。最後、店を出るとき、

「おばちゃんのこと忘れないで、また今度はゆっくりと来てちょうたいね。その頃は彼女もいっしょかなー、気いつけてな。」

と言われ、慌てて駅に向かった事が非常に印象に残っている。

 何とか列車には間に合った。13時15分、定刻に片上駅を発車した。1両編成の肌色と赤のツートンカラーのディーゼルカーで、車内は20人ぐらい乗客がいるが、ほとんどがはるばるこの鉄道に乗りに来た旅行者のようである。

 列車は、赤穂線、続いて新幹線をオーバークロスして、ウネウネと山中の上り勾配をのぽっていく。備前市から和気市に入って、31分、和気に着いた。ここで19分停車する。
 岡山からの電車に接続するためだろうが、他の列車も和気でしばらく停車するので、和気が中心のダイヤ設定になっているのだろう。13時50分、さらに20人ぐらいの客を乗せて発車した。

 列車は吉井川に沿い、上流に向かって北上する。左手に川と国道374号線がみえる。車窓は結構美しい。3駅、4駅と止まるたびに、地元の乗客はポツポツと降りていく。

 14時36分、終点柵原(やなはら)に着いた。車窓は終点まで変化がないが、赤いとんがり屋根の駅舎は洒落たものである。私は全国の駅舎の写真を撮り集めているので、写真を撮り、折り返し14時57分の列車に乗り込んだ。

柵原駅

 柵原には今では廃墟となった鉄鉱場の建物があり、何とも寂しいところであった。待合室の掲示板を見ると、6月(何日かは忘れてしまった)に廃止となる旨が伝えられていた。バスとの交渉がうまくいかず、2ヶ月程廃止が延びたのだそうだ。

柵原駅の鉄鉱場跡地.この後廃止された.

 折り返し列車が発車した。乗客はほとんど折り返し客だった。

 10分位たった頃、走っていたディーゼルカーが急停車した.
「え一つ、申し分けありません。ただいま、踏切が故障しています。しばらくお待ち下さい。」
と車内放送があった。「ほんとかよ!」と思っていると、車掌が車から降りて、前方の踏切まで走っていった。工事中の案内看板に踏切の捧がひっかかっていたらしく、手で直して戻ってきた。

「おまたせしましたー。」

警笛がなり、発車した。しかし、今までの旅行のなかで車掌が降りて踏切を直したという場面は初めて見た。もしかすると、踏切も列車の廃止に感づいて、自己主張をしたのかもしれない。

正面6枚窓の流線型車両

どっきん!四国へついに突入[四国旅行記#4]

 16時26分、和気で山陽本線に乗りかえ、岡山に着いた。いよいよ瀬戸大橋を渡る時が来た。しかし、天気は曇り空で今にも雨がふりだしそうな模様である。16時45分発の『マリンライナー43号』に間に合う時間だったが、座れなかった為、30分後に発車する『マリンライナー45号』(17時15分発)に乗ることにした。

 16時59分、ステンレスにブルーの帯びの電車が入ってきた。席は勿論確保。そして、17時15分発車。電車は左にカーブし宇野線を走り、早島、茶屋町と停車する。車内は春休みに入ったとあって、子供連れの客で混雑していた。

 17時30分、茶屋町を発車すると、宇野線に別れを告げ、灰色の高架橋をグングン走って行く。本四備讃線(瀬戸大橋線)に突入した。右に大きくカーブして、左眼下に宇野線が見えた。そして、一目で新線とわかる直線のトンネルを何回も、物凄いスピードで突っ走る。

 10分後、児島に到着。1/3位の客が下車した。茶屋町より大きい町に思えた。後で地図で調べてみると、倉敷市であることがわかり、少々意外であった。

 児島を出ると、左手に児島ボートレース競技場が見え(駐車場が広い)、マリンライナーはどんどん加速していった。車掌が瀬戸大橋の説明らしき事を言っているようだが、ボリュウムが小さくてあまり聞こえない。まだか、まだかと外を見ているが、青函トンネルに入る時もこんな気持ちだった。すると『ゴー』といって(そんなに大きな音ではない)瀬戸大橋を渡り始めた。天候が芳しくないため、遠くは見えないが、海の上を列車が走っている、と考えると「銀河鉄道999の哲郎」のような気分になる。しかも、下を覗くと「海」なので、なおさらである。

 橋の途中にある与島パーキングエリアが見えてきたが、その車の高架橋(灰色)が随分高いところにあってカーブしており、よく折れないものだな、と感心してしまった。

 橋も渡り終わったようで、瀬戸中央自動車道は左に別れていった。周りは工場地帯で、いよいよ四国に突入して、17時55分、坂出に着いた。立っている人がいなくなる。ついに雨が降りだして、列車は高松に向かった。しかしまあ、よく飛ばすこと・・・。そして、18時12分、四国随一の都市、高松に到着した。

高松駅

大歩危、かづら橋[四国旅行記#5]

大歩危峡

 3月26日、火曜日。曇り。高松7時16分発、特急「しまんと1号」中村行に乗りこんだ。朝食に駅の讃岐うどんを食べたが、個人的には白つゆの方が好きなので、うまかった。

 JR四国独特のチャイムが流れ、車内放送がある。車内をみると、クラブの試合かな、と思える若者3人が中年の先生らしき3人と一緒に乗っていたが、そのとき、手首のハンカチの隙間から、銀色の手錠が見えてしまった。彼らにとっては、しばらくは接することのできない外界となるのだろうか。

 猪ノ鼻峠を越え、香川県から徳島県に入って、列車は下り坂になる。右手に吉野川が見えてきた。ぐる一つと180度、右にカーブし、吉野川を渡って、8時31分、阿波池田で下車した。池田高校のある池田である。これから、大歩危、かずら橋と行くので、荷物をコインロッカーに入れて、8時46分発のワンマン高知行に乗った。

 1両のワンマン列車は、吉野川上流に向かって走っている。車内はロングシートで15人程いるが、ほとんど観光客であった。
 景色もだんだんと山の中になり、大歩危(小歩危)峡にさしかかった。数十メートルに及ぶ断崖絶壁や美しく磨かれて層をなした岩石、木々の色彩はみごとである。
 9時31分、大歩危到着。11時35分発のバスまで時間があるので、大歩危峡のドライブインまで往復して、吉野川を見てまわった。

大歩危峡(吉野川)

秘境・西祖谷山村(かずら橋)

 再び、大歩危駅まで戻ってきて、かずら橋行の西祖谷山村村営バスに乗った。マイクロバスで1時間かかるのだが、四国交通のかずら橋行のバスでは20分で到着するので、村営バスはよほど大回りをするのだろうと思った。

 満員の客を乗せて発車した。半分は観光客であり、車内には案内テープもなければ、下車合図のブザーもない。有科道路入り口の手前で、右に別れているマイクロバス1台がやっと通れるような道路に入った。

西祖谷山村営バス

 村営バスは旧道を通っていく為に時間がかかるのであり、住民の足でもあるのだ。そして、うっそうとした木々に囲まれた「ほんとうの山の中」に入っていき、急な上り坂となった。バスは低速ギアで、「ワンワン」唸りをあげている。対向車はほとんどなく、車がきた場合は待避所でどちらかが待って行き違いをする。

 地元客は1人のじいさんになった。

 ウネウネとこんな調子の道路が10分程続く。した~の方を眺めると、今通ってきた道が小さくなってみえる。そして、上を見上げるとこれから行くであろう道と集落が見える。まさに秘境の集落で、どうやってあんな急な斜面に住んでいるのだろうと思ってしまう。

 ガラスがくもってきた。頂上にきたらしく、今度は下り坂になる。ウネウネと下っていくうちに、一人じいさんが降りた。こんな所に家があるのか!と思った。なにしろ、木しか見えないのだから。

 約40分程走ると、大きい道路にでた。有科道路に通じている新道である.そしてひらけた町 (といっても,今までと比べたらそのように思えてしまう)についた。一宇である。 乗り降りはなく、バスは方向変換して出発した。ここから先は、1日3往復しかない。

 橋を渡ったバスは左折し、また狭い急な上り坂(日道)を唸りながら上っていった。車内では半数の人が眠っていた。 12時35分、かずら橋に着いた。

かづら橋

 かづら橋は,水面からの高さ12mの祖谷川にかかる、付近に自生するシラクチカズラで編み上げた、古風なつり橋である。ゆらゆら揺れ,粗いかづらの編み目から水面を覗くと、吸い込まれそうで足がすくむことで有名である。

 410円の通行料を払って、かづら橋を渡った。はじめは『ちょろい、ちょろい』と思っているのだが、わたってみると結構背筋がぞくぞくする。友人の1人は高所恐怖症であるらしく、必死にカズラを握りながら手に汗をかいて渡っていた。
 祖谷そばを食べ、今度は、四国交通バス、大歩危駅経由阿波池田駅行に乗った。車内は大歩危までは満員であった。天候は相変わらずのくもり空で、からっとした青空が見たい。

 阿波池田で荷物をだして、16時15分発の急行『よしの川4号」に乗って、徳島に向かった。車両は転換クロスシートと固定クロスシートの2両編成で、普通列車にも運用されているものであった。途中、教習所の車と並走する場面があり、友人が免許を取っている最中だったため、他の友人と教官のまねをしてからかっていた。そして、徳島に到着。17時33分。

小松島線を歩く。そして南国高知へ[四国旅行記#6]

小松島線を歩く

 雨。朝からしとしとと降っていた。徳島駅は駅舎の全面建てかえをするようで、本駅舎は使われておらず(まだ壊されてはいない)、小さい仮の駅舎が使われていた。

徳島駅

 8時18分発、牟岐線海部行に乗って車内で駅弁を食べ、小松島線の分岐駅であった中田で下車した。単なる田舎駅で駅前は住宅街となっており、乗客は数人であった。

 雨の中、小松島線の廃線跡を見つけるため、地元の人に聞きながら歩いた。

中田駅

 小松島線は、かなり以前から廃止の案が浮かび上がっていた線で、中田一小松島間ひと駅の僅か1.9㎞の路線であった、終点の小松島の先に『小松島港(臨)』という駅がくっついていたが、小松島港は小松島駅構内に南海フェリー連絡のため設けられた仮乗降場で営業キロがない。したがって小松島一小松島港間の運賃はいくらか?タダになるのか?と鉄道マニアの間で話題になった区間でもある。

 そして歩くこと10分、前方に小川に掛かる小さな鉄橋が見えるではないか!自然と3人共かけあしになる。紛れもなく小松島線廃線跡だ。線路ははがされ、残っているのは鉄橋とバラストぐらいのものであった。そして、小松島に向かって歩いていると、途中から洒落た遊歩道に変わった。近くの案内板をみると、中田一小松島の間を遊歩道にする計画のようで、その一部なのだろう。

 さらに、10分程歩くと、前方がだだっ広い野原になった。貨物操車場跡地だろうか。そのまま野原を歩いたが、雨が降っている為、草についた露がGパンや靴についてビショビショになった。

小松川線貨物操車場跡地

 和歌山行南海フェリーの待合室に着いた。随分寂しい感じの待合室だった。和歌山から先の南海電車『サザン号』の乗り継ぎ時刻が書いてあり。切符も販売しているのを見て「南海なんだな」と実感した。フェリーは約2時間おきにー昼夜出航ている。和歌山港まで2時間。

南海フェリーのりば

牟岐線を往復して

 小松島港からタクシーで南小松島駅にでた。10時23分の特急「うずしお3号」で終点の牟岐まで行き、1分接続のワンマン普通列車海部行にのりかえた。車内はお年寄りや補習をうけた高校生など、約30人程乗っていた。外は大雨になっているらしく、あめが波打って降っている。鯖瀬、浅川、阿波海南と止まる度に乗客がおりていく。そして、11時37分、終点海部。終着駅だが、高架橋は先へ延びている。いつ宍喰(仮称)までつながるのだろう。

海部駅

 折り返し11時44分発、板野行の列車で徳島に向かった。だんだんと乗客も乗ってきて、南小松島のあたりでは、立客もではじめた。中高生が多いけれど、お年寄りも多かった。

高松をまわって南国高知へ

 徳島で3分接続の「うずしお14号」高松行に乗る(13時54分)。2両編成全車自由席の特急で、約1時間毎に走っている。1990年11月21日のダイヤ改正で急行「阿波」(2往復)が全て特急に格上げされてそのようになった。

 発車直前に乗ったので座れず、デッキに立つことにした。ホテルが高知なので、徳島線で直行すればよいのだが、徳島線は昨日乗車した為、まだ乗ったことのない高徳線、ついでに土讃練大歩危一高知間を通る高松まわりのルートにしたのであった。

 昼食は高松で取ろうと思っていたが、空腹には耐えきれず、車内販売でサンドウィッチ[380円]とウーロン茶を買った。

 15時10分、高松に到着。高松は2度目である。ここから、15時45分発の普通琴平行で多度津まで行き、岡山からの特急にのりかえる。多度津では、大抵の特急において、高松からの特急と、岡山からの特急との列車接続(一方は予讃線方面行、もう一方は土讃線方面行)を行なっているので、高松16時11分発の予讃線方面特急「いしづち11号」に乗ってもいいのだが、なにしろ四国の普通電車は珍しいので、電車に乗ることにしたのである。

 多度津に着いた。岡山からの特急『南風9号』中村行にのりかえる。私は、気動車初の新型振り子式気動車2000系に乗りたかった。振り子列車に乗るのも初めてである。期待通り、新型の5両編成がきて、16時47分、動いた。

多度津駅

 振り子式車両とは曲線区間を高速で走っても横揺れが起きないように工夫されたもので、台車の上にコロを付けて車体をより傾けて走るものである。

 初めは座れなかったが、阿波池田になると数人降りたので、パラパラではあるが3人共座れた。座った車両は、高知で切り離される車(一番後ろ)だった。

 乗り心地は、やはり最高。全然揺れが少なく、高速でカーブを曲がると車体が傾くが、とてもスムーズに感じる。特に、四国山地を越える阿波川口一大歩危一土佐山田間においては顕著だった。四国の特急は遅い、と思っていたがとんでもない。最高時速120km/hで飛ばせるところでは飛ばす。

 あたりも暗くなり、18時25分、南国高知に到着した。駅前は徳島と同じように背の高いヤシの木が沢山立っており、いかにも「南国」という感じである。雨あがりのせいか、吹いてくる風が、湿っていて生暖かった。

高知駅

おっと!一目惚れ?土佐くろしお鉄道の女性車掌[四国旅行記#7]

 3月28日、5日目に突入した。今日はまっすぐ中村に行き、市内を観光する予定になっている。高知8時08分発、特急『あしずり1号』中村行きに乗りこんだ。車内は50%位の乗車率で、観光目的の人と数人のサラリーマンぽい人しか乗っていない。天気は昨日とはうってかわっての『快晴』で、観光をするにはもってこいの天候であった。

 9時28分、窪川に到着した。隣には、明日乗車するであろう予土線のワンマンカーが発車時刻を待っている。ここから中村までは、元中村線であった第3セクター「土佐くろしお鉄道」に会社が変更する。ということは周遊券では乗れないわけで、別に1240円(特急料金込み)を払うことになる。

 9時33分発車。JR四国のチャイムが再び流れ、奇麗で済んだ女性の声でアナウンスが始まった。女性の車掌さんなのである。

「本日は、土佐くろしお鉄道、特急『あしずり1号』中村行きにご乗車いただきまして、誠に有難うございます。これから先は周遊券ではご乗車になれませんので、切符をお持ちでないお客様は只今より車掌がまいります。その時にお買い求めください…。」

 大変流暢な言葉づかいであった。かつて、JR東日本で女性の職員を採用した際、社員研修の一つとして「車掌の車内放送の実習」があり、私の通学手段である京浜東北線でもその放送を耳にしたことがあるが、訓練されてないせいもあるのか、間のあけ方が適切ではない為に非常に聞きづらく、男性の放送の方がよっぱどよいと感じた事があった。土佐くろしお鉄道の女性車掌は大変訓練されているらしく、JR四国の車掌とも比べものにならない程素晴らしいものである。どんな顔をしているのか見てみたくなった。

 しばらくして、噂の女性車掌が入ってきた。

「失礼いたします。乗車券をお持ちでないお客様はいらっしゃいますか…。」

 一瞬目を疑った。品があり美人である。そして、二コニコ笑顔を絶やさない。「紀子さま!」まさにこの人にピッタリの言葉である。私たちは切符を精算したが、なんだか自分たちが良い事をして、晴れ晴れとしているような気分に浸っていた。この車掌さんが回ってきたら少なくとも男性ならば、キセルする人がいなくなるのではないだろうか。ドアの開閉業務も行なうのだが、その時の下車客に笑顔で頭を下げる様子を見ていると、ただ唯「うっとり」の四文字に尽きてしまう。
「けっ、結婚して下さい!」
このようにアタックする人がいてもおかしくはないと思う。

 第3セクターの意気込み、真剣さが感じられた。

土佐くろしお鉄道「中村駅」

中村観光[四国旅行記#8]

水車とトンボ

 10時15分に中村に着いた。荷物をコインロッカーに入れ、早速『中村市観光情報センター』の案内所に行った。自転車を借りるとき身分証明証を求められ、取りたての「普通免許証」を見せたが、この免許証にとっては初仕事であり、ようやく役にたった。そして、我々3人は自転車をこいで市内観光をすることになった。

 友人の一人が『水車』を見たい!という事で水車を見にいくことにしたが、なんでわざわざ中村まで来て「水車」なんか見たいのだろう、『車』と勘違いしているのではないか、と思った。

 駅の東側にある川の土手沿いを北西に向かって走り、橋を北に向かって渡る。始めは四万十川かと思ったがそうではなく、後川という四万十川よりも東側にある支流であった。橋を渡ると田畑が広がり、左折してしばらく行くと、お目当ての水車が1つだけ畑(田)のど真ん中の水深1.5m程ある水路でまわっていた。

 そして、その水路の脇を見ると水車を掛ける支柱のみがズラーつとあった。私の方が単なる『水車』と勘違いをしていたらしく、この水車は灌漑の為にあるもので、水を水車の羽根で汲み上げ木の水路を通して畑に入れる、という今では珍しいものなのであった。シーズンである4月以降には、沢山の水車が取り付けられ、日本むかし話のワッシーンに見られるような光景になるのだろう。

水車

 次に、約60種ものトンボが見られるという湿地帯になっている『トンボ自然公園』に向かうべく、市街地に一旦戻り西に進路を向けた。今度はいよいよ四万十川を渡っていくのである。土手に建設省の『渡川』、その下に括弧をして(四万十川)と書かれた名称板が見えた。四万十川とは公式な名称ではなく、渡川が本当の名なのだそうである。かなり立派な四万十川橋を渡り、日本最後の清流を橋の真ん中から覗いた。

 ところが、思った程澄んではおらず、確かに濁り方は東京の隅田川のようなドス黒くはなくエメラルドグリーンで清らかではあったが、『日本最後の・・・』もこの程度だったのかと納得してしまった。このことについては後に再び触れることになる。

 そして、トンボ公園に到着した。人影はまばらで、なんとトンボが1匹も飛んでいない。時期が時期だけに当然と言えば当然である。一周り散策して正午を過ぎていたので。駅に戻って自転車を返し、昼食をとることにした。

駅前食堂にて

 駅前の食堂で壁のメニューにざるそばがあったのでそれを注文したが、店のおばちゃんに、
「田舎の方では夏しかでないんよー」(方言は定かではない)
と言われ、無難なカレーライスに変更した。ついでにうまそうなおでんがあったので数本いただいた。客は我々3人しかいなく、カウンター式の店たった。

「おにいさんら、何処からきたん?」
「あっ、東京です。」
「あーそーう。昨日はどこをまおってきたの?」
「えーと、かずら橋と大歩危と‥・。」
「へえ一、じゃあ今日は四万十川だ。ところで、大学生かい?」
「いえ、今年高校卒業して、今度大学生になるんですよ、」
「あーあ、やっぱりね、幼い顔してるもんね。」

この言葉でちょっと『ヒクヒク』ときた我々であった。そして、おでんを食べ終わったところで、
「おでん、すんちょった?」
と聞いてきた。私は、もうおでん食べ終おったのか(済んだのか)と聞いていると思い、
「はい。」
と答えた。しばらく沈黙が続いたあと、
「すんちょる、つて意味わかった?」
と聞いてきた。私は、ちょっと自信のない声で、
「はい。」
「どんな意味?」
「えーつと、もう食べ終わったってぃう事じゃないんですか。」
「ちがうよ。よく味がしみていることをこっちでは『すぃちょる』つてぃうんだよ。」
「あーなんだア、おでんね、ええ、よく味つぃてぃましたよ。」
おばちゃんはよそものにも慣れたものであった。

歩いた歩いた!四万十川[四国旅行記#9]

 水車を見に行こう、と行った野球部の友人が今度は「沈下橋まで歩いて行こう」などと言いだした。その友人によると、沈下橋までは3キロぐらいという事で、私たちも「行こう」と返事をした。そして、土佐の小京都と言われる中村市の市街地を抜け、桜が満開であった中村城跡の公園に寄ってから四万十川に向かった。

 四万十川の川岸に着いて、川の東側にある車がやっとすれ違える程の広さの舗装道路を北に向かって歩いた。四万十川の雄大な流れを見ることができたが、いくら見ても沈下橋らしきものは見当らない。もう30分程は歩いただろうか。そして、小さな町に出て、かなり立派な観光用の地図があった。それによるとこれから行く予定の佐田沈下橋はなんとここからあと4~5kmもあるということがわかり『はめられた』と思った瞬間、他の1人の友人と共に「バスを捜そう」だの「自転車でくりゃよかった」だのブーブー文旬を垂れるようになった。しかし、ここまで来て引き返すわけにもいかず、そのまま歩くことにした。幸い道路には小さい距離表が100mごとに設置してあったので、「あと何メートルだ!」と目標を持って歩くことができた。

四万十川沿いをひたすら歩く.沈下橋を目指して.

 さらに40分程歩いただろうか。周りには家が全然見当らない。まだか、まだか、と思っていると、四万十川展望台という新しく作ったばかりだと思われる休憩所があらわれた。トイレまであった。そこでひと休みしまた歩き出す。殆ど人とは会わない。すれちがうのは車だけだった。もうここまでくると逆に疲れをあまり感じなくなってきた。

  道路が広くなって片側1車線道路になった。バスも走っているらしくバス停があったが、なんと1日2往復。それも夕方は中村駅からのバスのみということで、帰りにこのバスで戻って来る事は不可能であることがわかった。みんなもう無口になって唯歩いているという感じである。こんなに歩くとは思っていなかった為、出発するときの心の準備が無く、非常に疲れを感じていた。

 そして、駅から歩くこと約2時間『佐田沈下橋は左折』という看板が見えてようやく沈下橋に到着した。周りは何もないところで、喫茶店一件と木造のトイレ、そして民家があるだけだった。観光客も2組ほどいたが、どちらもタクシーでの観光だった。

 橋にはもちろん欄干がなく、幅はトラック1台がやっと通れる程で、途中2ヶ所にほんの少しだけ(100cm)広くなった待避所があるが、乗用車どうしならここですれちがえるだろう。橋を渡ることにしたが、その手前に、

『トラックの運転手さんへ。お年寄りや、子供が渡っているときは、徐行して運転をして下さい。』

という赤字の立て札が立っていた。この時はなるほど、と軽くうなずいていたのだが、我々が渡り出して間もなくトラックがやってきた。欄干のない、道幅の狭い橋である。体をはじっこによせ、その隣をわが者顔で通過していくトラックには恐怖を感じた。

 それが、1回どころか数分おきにやって来るのである。スリルが有り過ぎる、と思った。川は相変わらず濁っているが、緑の山々に青い四万十、そして沈下橋という風景は、もっとも四万十川らしい風景であった。

四万十川の沈下橋(欄干がない)

 もう17時をまわっていた。さすがに帰りも歩いて行こう、という気にはなれず近くの民家にいってバスがないかどうか尋ねてみた。おばさんが応対してくれたが、「ない」とのこと。『タクシーを呼んであげるから』ということになり、そのお宅の前でタクシーを待つことになった。

 タクシーの運転手さんは話し好きなようで、四万十川は濁っていたでしょう、という話しになった。前日までは雨が降っていたので、川が濁ってしまうとのこと。こういう日には、上流の江川崎や土佐大正あたりで見ると澄んでいる四万十川が見られるということであった。これで疑問に思っていた『濁り』の謎は薦けた。

 いたるところで、風によって散った桜の花びらがゆらゆらと清流四万十川を流れていた。

四万十川を背景に(沈下橋から)

土佐から伊予へ、そして再び高松[四国旅行記#10]

予土線で土佐から伊予へ

 とうとう四国を離れる日がきてしまった。今日は本州に戻る日である。

 中村8時15分、窪川行の土佐くろしお鉄道ワンマン列車は発車した。車内は中間部がクロスシートになっていて、その部分の窓だけがいっそう大きくなっている。春休みとあって学生は居ず、数人しかいなかった。天気は晴れ。右手に土佐湾がみえてきた。
 トンネル内のループ線とぐるりと左回りして川奥信号所を通過し、于土線と合流して岩井に停車した後、9時19分、窪川に到着した。

 9時59分、JR予土線のワンマンカーが発車した。再び、同じ線路を走って川奥信号所へと向かうのだが、この線路は土佐くろしお鉄道になっており、JRの列車は分岐点であるその信号所まで他社線を走ることになる。我々はJRの周遊券で乗っているので、窪川の隣の駅である岩井までの運賃180円を払わなければならない。降りる時に払うのだろうか。車内は殆どが観光客で、ロングシートが埋まり立ち客がでる程だった。

 車窓に川が見えてきた。四万十川の上流の仁井田川である。さすがに四万十川とあって、川岸にいたわけではないので底まで見ることはできなかったが、川は緑色がかっていて美しかった。さらに浮かんでいる桜の花びらが白い点のように見えた。車内の案内テープでも、

「只今、見えている川が日本最後の清流、四万十川です。」

と、駅名案内のあとに付け加えていた。もう川の名前は「四万十川」で統一してしまっているようだ。そして、10時22分、四万十川の観光地である土佐大正に到着し、観光客が数十人降りた。

 このあたりから、川とそれに沿って走っている道路はウネウネと曲がりだすのだが、予土線は橋とトンネル(短いもの)でまっすぐにつきぬけており、四万十川が右へいったり左へいったりするので、美しい四万十川を充分に満喫できるように思う。

 10時47分、江川崎に着いた。ここは仁井田川と吉野川の合流地点であり、ここから川は四万十川(渡川)となって中村に流れている。これから先の予土線は吉野川沿いを走っていくので、川の流れが逆になって四万十川が見える。

 時々車窓から『予土線の廃止反対! 予土線を残そう』という看板を見かけた。確かに、乗客は宇和島付近を除いて観光客が多かった。今この線に廃止計画があるのかどうか現状は分からないが、四万十川を見れる唯一の鉄道ということで残して欲しいものである。

 11時53分、長い下り勾配を走って宇和島に到着した。

宇和島駅

特急で3度目の高松

 昼食を駅前のレストランでとり、12時50分発の特急「宇和海4号」松山行きに 乗った。去年のダイヤ改正の話をしたときに言い忘れたが、この特急「宇和海」もそ の改正によって急行『うわじま』から格上げされた特急である。時刻表によるとこの 特急は5両編成のはずなのだが、客が多い時期のためか自由席を1両増結して6両編成で運行していた。車内はほぼ満席だった。さすが愛媛県、みかんの段々畑が目につくようになってきた。

 13時53分、内子に到着。内子一向井原間は5年程前に新しく開通した区間で、予讃綴の五郎一向井原間が災害に弱い為、新しい幹線としてこの短絡線が開通した。新谷一内子間はいまでも内子線という別線扱いになっている。これが加算(換算)運賃をとられない『幹線』ならよかったのだが、内子線は『地方交通線』の為、加算(換算)運賃をとる区間になっており、全ての特急が内子線経由になっている現在、この加算運賃をとるやり方はふに落ちない部分がある。と、始めは思っていたが、短絡線が開通したことによって向井原一伊予大洲間の営業キロが、海側ルートの41㎞から34.7kmと短くなり、しかも加算運賃のとる区間は短い為、加算運賃を営業キロ数に換算すると僅か0.5㎞をキロ数に加算した運賃になり、34.7kmと0.5kmとを足した35.2kmが運賃のうえでの換算キロ数になるが、これも海側ルートの41kmよりも短くなることになる。したがって、結果的には運賃が安くなるわけであり(区間によっては変わらないが)、加算運賃(換算キロ)も僅かなため「目くじらを立てる程の事でもない」と思うようになった。内子緑の別線(地方交通線)扱いは何か他にもいろいろな事情があるのだろうか。もちろん海側ルートは特急こそ通らなくなったが、列車は走っている。

 内子をでると新線のため揺れが少なく、トンネルで山の中をぶち抜いて走っていった。

 14時22分、伊予市を出発した。あと10分程で終点松山であるが、ここでのりかえる特急『しおかぜ』の席が取れるか心配になった。高松まで行く我々は松山で16分接続の特急「しおかぜ14号」岡山行に乗りかえるのだが、この「宇和海」の自由席は4両で「しおかぜ」の自由席は3両。満席のこのひとたちが殆ど乗り換えると仮定すると、どう考えても溢れる人がでてくる。しかも、松山で座れないと終点まで座れないような気がしていた。そこで、我々は早々と降りる準備をしてデッキで待つことにした。

 14時31分、松山に到着。お目当ての「しおかぜ14号」は同じホーム向かい側に止まっていた。振り子式新型ディーゼルカーであった。しかも、運よく目の前が自由席だったので、悠々席を確保することができた。そして、車内はすぐ満席になり、14時47分、振り子式ディーゼルカーは動いた。

松山駅

 16時44分、特急連絡接続がある多度津に到着。我々は高松に向かうので中村(土讃緑方面)から来た特急「しまんと8号」高松行きに乗り換えた。高知(土讃緑)方面からの客も岡山行き「しおかぜ」にのりかえて、高松行きが先に発車した。

 その後すぐに振り子式新型特急とすれちがったが、実はあの特急、一昨日多度津から高知に向かう時に乗った「南風9号」中村行きの列車であり、今日これから四国を離れる私にとっては懐かしく感じられた。

 30分程たった17時14分、3度目の高松に到着した。