澄みわたる秋空のもと、プロペラの音が高鳴り、ANK847便は定刻に羽田を離陸した。三宅島には約50分で到着する予定である。みるみるうちに建物が小さくなり、空港全体が見渡せるようになった。羽田の沖合展開工事のされているところだけは茶一色であり、真下には部会の埋立て地を象徴するような四角い島が、整然と広がっていた。
高度を上げるにつれ、ビルの並び立つ東京の街が見えてきた。空から眺めると、改めて東京の巨大さに驚かされる。エネルギーの集結地という感である。飛行機は南に進路を向け、海上を三宅島めざして飛んでいた。
さらに高度を上げた。東京上空は薄汚れたねずみ色のスモッグで覆われている。その霞の上に純白な富士山がすっきりと浮かんでいた。大気圏の膜の外側に山がのっかつているようである。我々は毎日、あのスモッグの下で生活をしている。海にはアメンボのようなつり船が、白い線を引きながら点々と存在していた。
右に三宅島が近づき、飛行機は揺れながら、島づたいに飛んでいた。島の肌が突然赤茶黒の溶岩に変わり、そして三宅島空港に着陸した。
タラップを降りた。暖かかった。今朝の東京とは10度以上違うように思う。黒潮の影響だろう。三宅島は東京の南約180kmにあり、周囲約35km、人口4000人、伊豆諸島の中では大島、八丈島についで3番目に大きい火山島である。明治以降だけでも明治7、昭和15、37、58年と4回も噴火を起こしている、まさに火山の島なのである。
空港前より左周りの村営バスに乗った。昭和37年の噴火の際に一夜のうちにできあがったという三七(さんしち)山を過ぎると、赤茶黒の溶岩原が広がる七折峠にさしかかった。「三七」とは噴火の年号からとったものである。樹木は植わっておらず、前方には海が見えた。バスは溶岩の切り通しの中を右へ左へと身体を傾けていた。この辺りは赤場暁(あかばきょう)と呼ばれ、昭和15年の噴火で入江が埋立てられ、さらに昭和37年の爆発で溶岩流が重なったところである。機内から見えた溶岩はここである。
運転手は道路工事作業員や道行く人と互いに笑顔で挨拶を交わす。途中から高校生がひとり乗ってきた。
「どこいくんだ」
「がっこ!」
素朴な会話である。顔見知りらしい。
警察署、支庁前を通り過ぎ、バスは峠を越え、間もなく島西の阿古(あこ)の集落に入るところだった。案内テープから、「次は鉄砲場、鉄砲場です」と流れると、真っ黒な火山れきが帯になって山から続き、道路を横切っていた。未だに生々しい傷跡であった。しばらく溶岩流に沿って走った。
昭和58年(1983)10月3日午後3時、なんの前ぶれもなく雄山(おやま)中腹のニ男山あたりを中心に、十数ケ所の火口から轟音とともに火柱と噴煙があがった。灼熱の溶岩流は5-600mの幅の流れとなって西、南西、南の3方向に向かって流れていった。この中で西に向かった溶岩流がこれであり、島最大の集落・阿古を襲ったものである。阿古の住宅約500戸のうち400戸の民家と学校などの公共施設が溶岩に埋もれて消失し、これは日本火山史上でも最大規模の災害であった。また、島南にある新澪池では池の水が干上がり、周りの木は枯れ、巨大な穴となってしまったということである。阿古に到着し、下車した。阿古小学校・中学校埋没地へと向かった。
溶岩原に着いた。その溶岩を突っ切るようにアスファルト道路がひかれている。ソフトボール程の「れき」がー面に重なって横たわり、背後の緑の山肌には滝のように黒い帯が流れている。「れき」の上を歩くと素焼きをこすったような「カサカサ」とした音がする。黒い帯の部分だけは樹木も植物も植わっていない。これは8年前(旅行当時)の噴火である。
学校埋没地にやってきた。校舎は溶岩に押され、半分ほど埋まっている。体育館の壁や屋根は剥がされ、無残な鉄骨の骨組みだけが残っていた。ひぴの入ったプールもあった。この惨い光景は、また違った自然の、恐ろしいー面を見たような気がした。
帰る時間となった。帰路の飛行機は満席だったので、船で帰ることにした。東海汽船の「すとれちあ」丸が大きく揺れながら、阿古(錆ケ浜)の港に入ってきた。
新しい生命が誕生していた