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マチグワー(牧志市場)[めんそ~れ沖縄#1]

独特の時と文化を育んできた琉球.怒濤の時代を生き抜いてきた沖縄へ9年ぶりに訪ねてみた.珊瑚礁の広がるビーチ,きらびやかな琉球文化の首里城,第二次世界大戦で最悪の戦場となった沖縄,アメリカによる占領時代・・・.改めて沖縄を見つめてみると,様々な様子を発見することができた.そんな沖縄の旅をどうぞ.

★★ めんそーれ = ようこそ ★★

(旅行年月:2002年1月)


マチグワーとは「市場」のことである.迷路のように入り組んだ路地の中に,所狭しと店が軒を連ね,市場が形成されている.上野アメ横に雰囲気はにている.

「那覇市第一牧志公設市場」肉・魚・惣菜などがならぶ.沖縄らしいカラフルな魚が並び,
豚の顔!がこちらをにらみ,海ブドウや豆腐用ようなどの珍品も並ぶ.一度立ち入ったら病みつきになる市場である.

「マチグワカイ ユーメンソーチェピーサヤー」
沖縄の言葉は難しい.標準語の語気がまるでない.

ずらりと肉が並ぶ.さすが沖縄,「豚」がメイン.

「チラガー」と呼ばれる豚の顔!1枚400円也.千切りにして酢味噌で食べる.

色とりどりの魚がならぶ.

オレンジや青い魚もならぶ.食べておいしいのかと思ってしまう.

エビもこんなに沢山.

1階で買った魚は,2階の食堂で調理してもらえる.ただし,500円也.

2階の食堂.

沖縄の野菜には「ゴーヤー」が欠かせない.

首里城[めんそ~れ沖縄#2]

現在の首里城は,1992年に沖縄復帰20周年を記念して復元されたものである.琉球王国(1429~1879年)歴代の国王の居城であり,中国と日本の文化が混在する独特の城となっている.第二次世界大戦までは現存していた.この首里城は世界文化遺産に登録されている.

正殿
この正殿を復元するにあたり,当時の技術を精巧に模して施工が行われた.中にはいると当時の技術のすばらしさと琉球のきらびやかな繁栄ぶりが伺える.

漏刻門
漏刻とは中国で水時計の意だとか.

瑞泉門の近くにある「泉」

「だいじょぶさぁ~沖縄」
アメリカのテロ事件以来,観光客が減っているという.県をあげてキャンペーンを行っている.

沖縄の赤瓦は下に敷く瓦とそれらのつなぎ部分を上から包む瓦があり,さらに台風で飛ばないように漆喰で固める.

ちょっと一枚

首里城から見たパノラマ写真.

ルート58(北谷→コザ(沖縄市)→嘉手納)[めんそ~れ沖縄#3]

沖縄本島を南北に貫く国道58号.沖縄の基幹道路である.レンタカーを借りて北上した.ルート58沿線の風景をどうぞ.

国道58号の風景

アメリカ中古家具店
沿線には米軍の払い下げ品やアメリカから直輸入の店が多い.まるでアメリカを旅行しているかのようだ.

普通の交差点.赤信号で止まったので撮ってみた.

信号待ち.タクシーの停止位置が・・・

北谷(ちゃたん)

北谷は今,若者の人気スポットである.かつての米軍ハンビー基地の跡地を利用し,再開発を行ったウォーターフロントで,ハンビータウン・アメリカンビレッジとして賑わいを見せる地域である.写真はアメリカンビレッジの60m観覧車.

美浜サンセットビーチ.人工海浜である

「シャワーではありません」「THIS IS NOT A SHOWER」
誰が見たってシャワーじゃないことは理解できる.おそらくこの忠告には続きがあって,「シャワーではありませんので,頭や体を洗わないでください」というのが趣旨だと思う.

もう一枚.サンセットビーチ.その名の通り夕日がきれいな浜である.

コザ(沖縄市)

胡屋十字路の歩道橋から撮影.「空港通り」と呼ばれている.
真っ直ぐ行くと「米軍嘉手納基地第2ゲート」.第2ゲート内付近には米軍住宅があり,外国人も多く,英語の看板を掲げた店も多い.
1970年のコザ騒動の時は,この付近の米国人車両70台余りが焼きうちされた.基地の街の住民の不満が爆発したところ.

コザの夜は外国人が多く出歩く賑やかな街に違いない.英語の看板があちこちで目に付く

な,な,なんと・・・.基地の街にも「喜多方ラーメン」が・・・

1時間 $2.00

ゴヤ(胡屋)市場

嘉手納

基地へ入る「ゲート」.もちろん一般人は入れない.

嘉手納基地のフェンス.嘉手納町は面積の8割が米軍基地

星条旗がたなびく・・・・

沖縄の道路沿いでは工事予告看板のようにアイスクリームのマークの看板が出てくると,パラソルを出してアイスを売る人が現れる.

基地周辺では警備員が目を光らせている.

ルート58(残波岬→琉球村→万座毛)[めんそ~れ沖縄#4]

沖縄本島を南北に貫く国道58号.沖縄の基幹道路である.レンタカーを借りて北上した.ルート58沿線の街の風景をどうぞ.

残波岬

残波岬の灯台
ここは戦後米軍の実弾演習場だったが,沖縄復帰によって灯台が設置された.南西諸島随一の高さ(31m)を誇る.光の強さは64万カンデラ.

灯台には階段で上ることができる(有料).360度の大パノラマが広がる.写真は真栄田岬.背後は名護.

ダイビングをする人々

釣り人はどんなところでも・・

夕日が沈むときは素晴らしい景色が広がる.

琉球村(テーマパーク)

「琉球村」とは行政上の市町村ではなく,むかしの沖縄・琉球の文化を伝えるために造られたテーマパークである.この琉球村には昔の生活の様式を再現しているが,ろう人形などの「まがいもの」によって昔の伝統工芸や生活等を再現しているのではなく,本物の人間が昔の建物のなかで文化を再現していたり,製糖工場を忠実に復元していたり,リアリティーのある体験型テーマパークとなっている.

沖縄らしい開放的な家.

昔の家の台所では,本当に薪を焚いて揚げ物を作っている.
「おばぁ」が揚げているのは沖縄風ドーナツ「サーターアンダギー」.黒糖の香りがするお菓子である.100円で揚げたてを食べることができる

「紅型」を制作している.伝統工芸を再現している.

「亜熱帯の琉球」といった感じ.

三線(さんしん)を弾いて沖縄の歌を歌っている.

「水牛」もちろん本物.

万座毛

万座毛から見た万座ビーチ

「万座毛」は隆起サンゴ礁の断崖で,天然の芝で覆われた平坦な台地となっている.「万人が座するに足る」と賞賛されたことからこの名がついた

海の透明度は抜群である.

万座ビーチ

万座毛からのパノラマ写真.

美しい珊瑚礁.いつまでも残したい自然である.

「はい,チーズ」

平坦な台地となっている.

平和祈念公園[めんそ~れ沖縄#5]

かつて琉球の先人は
平和をこよなく愛する民として
海を渡り
アジア諸国と交易を結んだ
海は
豊かな生命の源として
平和と友好の掛け橋として
いまなお
人々の心に息づいている

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

太平洋と東シナ海の波間につらなる沖縄の島々・・・
海は
人々のくらしにさまざまな恵みをもたらしました
生活のかてを 富を そして文化を・・・
しかし この清ら島(ちゅらじま) 沖縄に
やがて 暗雲が たれこめ
鉄の暴風が・・・

(沖縄県平和祈念資料館プロローグより)


20数万人の命を奪った沖縄戦.日本における唯一の地上戦であり,太平洋戦争で最大規模の戦闘であった.
そんな歴史を伝えるのが平和祈念資料館である.
2000年に新しくリニューアルし,よりわかりやすく沖縄の歴史を伝えている.

実物の砲弾

平和の礎
沖縄戦で亡くなった全ての人々の氏名を刻んである祈念碑.太平洋戦争沖縄戦終結50周年を
記念して建設された.

平和祈念公園の式典広場でキャッチボールをする親子.このような平和な光景がつづいているのが今の沖縄である・・・


沖縄戦の実相にふれるたびに
戦争というものは
これほど残忍で これほど汚辱にまみれたものはない
と思うのです

この なまなましい体験の前では
いかなる人でも
戦争を肯定し美化することは できないはずです

戦争をおこすのは たしかに 人間です
しかし それ以上に
戦争を許さない努力のできるのも
私たち 人間 ではないでしょうか

戦争このかた 私たちは
あらゆる戦争を憎み
平和な島を建設せねば と思いつづけてきました

これが
あまりにも大きすぎた代償を払って得た
ゆずることのできない
私たちの信条なのです

(平和祈念資料館 展示むすびのことば より)


サンゴ礁や白いビーチもいいけれど,沖縄に来たら,時代に翻弄されてきた歴史を振り返らなければなりません.
是非,この平和祈念資料館に立ち寄って,「平和の礎」の上に,青く広がる穏やかな空,そして,果てしなく広がる青い海を眺めてください・・・

ちょっとブレイク~沖縄の風景[めんそ~れ沖縄#6]

ちょっとした風景を集めてみた.沖縄の一面を.

米軍の車はナンバープレートが違う.

「Y」ナンバーの車.
「いろは・・」の欄が「Y」になっている. これは,米軍関係者の使用する車であることを示しているが,この制度は沖縄特有のことではなく,米軍基地の周辺ではよく見られるナンバーである.横浜で始まったことから「Y」となっている。ちなみに,アメリカからきた車には「E」がついている。
相手が米軍関係者の場合、事故にあっても保障が受けられないことなどがあったり,「車庫証明」が不要ということがあったり,不平等であるとの声があがっている.
「Y」ナンバーについては,日米特別行動委員会において廃止が合意されているという。

沖縄の公共交通機関は「バス」である.電車は走っていないが,現在モノレールが建設されており,平成15年には,空港~首里の間を結ぶ.
そんな沖縄のバスには各社共通の系統番号が付けられている.その路線マップは,走行する路線の上に系統番号を書いて示すものとなっていて,最初は見づらいが慣れると合理的な路線図であることに気づく.諸外国ではこの方式の路線図の方が主流である.日本では1本1本路線ごとに色を決めて線を書く路線図が主流である.

国際通りは沖縄一賑やかなストリートである.昼夜を問わず「呼び込み」が激しい.観光客とみると,すかさず声を掛けてくる.日本でもこんな都市があったのか,と驚き.
沖縄が観光立県であることを物語っている.

夜の国際通り.沖縄の夜は20時頃からである.というのも,沖縄人は一旦家に帰ってから
飲みにでかける.ライブハウスなどの開店時間は20時から.ファーストステージは21時から・・・夜が長い沖縄である.

ホテルのテレビチャンネル6chに「米軍放送 AFRTS」とあり,米軍の放送が流れていた.東京のAMラジオに「FEN」(810KHZ)というのがあるが,あれのTV版なのだろうか.

「バス停にお客様がいらっしゃる場合は必ず停車して行き先をアナウンス致します(手を挙げて合図する必要はありません)」と黄色いシールが貼ってある.
ガイドブックなどには,「沖縄では手を挙げないとバスが止まらない」と書いてあるので,乗客が手を挙げることは昔からの習慣なのだろうと思う.諸外国では手を挙げないと止まってくれないところが多く,沖縄では現在でも手を挙げてバスに乗る人は多いが,観光客等から苦情がきたのだろうか,必ず止まるようにしている.
しかし,手を挙げないと止まらないで走ってしまうバスもあるようで・・・.沖縄らしい一面である.

コザの市場の中にある裁縫屋.開放的でアジアチックな雰囲気が沢山残っているのも沖縄.

沖縄自動車道のサービスエリア.駐車場には屋根がついている.日差しが強い沖縄ならでわである.

沖縄の高速道路では最高時速80km.スピードを出す車は少なく,左側車線では80kmで走っている.追い越し車線でも100km程度.ばんばん抜かしていくのは「わ」ナンバーばかり・・・.警察の取り締まりが厳しいのかもしれない.

国際通りの電柱に貼ってあった張り紙.東京はいろいろな意味で華やかな街なのだ.

米軍関係者が事故を起こすと,迷彩服を着た米軍の警察もやってきて事故処理をするらしい.それとも米軍関係者のみの検問をやっていたのか? とにかく,迷彩服をきた人とアメリカのパトカーが止まっていた.

沖縄本島(最果て紀行#5)

既に僕らは、2日間沖縄本島に滞在していた。今夜、石垣島へ向けて島を離れる。最果て紀行も、残るは南と西を残すのみとなった。最後の最果て「波照間島」と「与那国島」を目指して、南西に歩を進めた。
石垣島へは那覇新港(安謝港)から出航するフェリーを使う。出航時刻は夜の20時。航行時間は12時間である。僕らの乗ったタクシーは那覇泊大橋を渡り、新港の客船ターミナルに到着した。
乗船手続きを済ませた。予約した切符は安くて手頃な2等客室である。しかも学割が適用される。仲間4人全員分の乗船名簿と共に予約チケットを窓口に差し出して手続きを済ませた。
那覇から石垣島までの航路は、琉球海運と有村産業の2社によって運航されているが、本数は少ない。石垣島直行の船便は、琉球海運が週1本、有村産業が月2本程度である。全て夜行便となる。この他、宮古島へ寄港してから石垣島に行く便が同数運航されているが、そのぶん航海時間は長くなり、この場合、石垣島に到着するのは5時間ほど遅くなる。有村産業の船は沖縄本島と台湾の基隆・高雄間を結ぶ便であり、途中で石垣島や宮古島に立ち寄っている形になっている。
飛行機は1日に10本も飛んでおり、時間もわずか1時間なので、大半の人は飛行機を利用する。しかし、貧乏旅行をする若者は、やはり値段の安い船を利用する人が多く、実際、待合室に集まっているのは大きな荷物を背負った若者ばかりであった。航空運賃は14710円、フェリーは2等学割で4300円である。僕らが船を選んだ理由はもちろん料金が安いからであり、しかも夜行便なので宿代を浮かせることができるからであった。
乗船時間になった。マイクロバスに乗って船のつけられている桟橋まで移動し、フェリーに乗った。明朝8時、石垣港入港予定である。

沖縄本島の道路
南国の木
珊瑚礁
本島最北端の辺戸

 

西表島(最果て紀行#6)

朝、目覚めて屋上の甲板に上がった。左には石垣島が朝日を背にしながら、目の前に現れていた。あと1時間で入港である。今日は8月最後の日、空にはうすく雲が広がっていた。南国の生暖かい風が、体に伝わってくる。
石垣島は面積約222k㎡、周囲約140㎞、那覇から約440㎞離れた、日本の最西南に位置する島である。西表島・波照間島・与那国島などの島々は、八重山諸島と呼ばれるが、石垣島はこれら八重山諸島の主島であり、行政・情報・交通の中心地である。
島の沿岸には珊瑚礁が形成されていて、沖合いには干瀬が広がっている。地形学ではきょしょう裾礁と呼ばれるもので、海上に突き出た海底火山(島)のまわりにびっしりサンゴが埋まった状態である。八重山諸島はサンゴの島である。
気候は亜熱帯海洋性気候に属し、年間を通じて温暖である。年平均気温は23.4℃、7月の最暖月においては28.5℃、年降水量は約2200㎜である。東京の年平均気温は15.3℃、年降水量が約1500㎜なので、東京と比べると気温も高く、雨量も多い。
石垣港に定刻通り入港した。今日の宿泊地は、石垣島よりさらに約18㎞西にある西表島である。周辺の離島へ向かう船は、少し離れた離島桟橋から出航する。西表・波照間・与那国島はもちろん、小浜・鳩間・竹富・黒島への全ての船がこちらから出発する。離島桟橋に移動し、西表島までの切符を購入した。
船は100名ほど乗れる船で、車は積めない高速ジェット船である。乗客は少なく、西表の大原までは約40分の道のりであった。西表島の港は大原、船浦、白浜の3箇所あるが、白浜は主に物資や車を運ぶフェリーのみ、しかも週1便の運航なので、大原や船浦が一般的な下船口である。大原、船浦へは1日十数本の船が発着する。西表島には飛行場がなく、船のみが西表島へ渡る唯一の交通機関であった。
海が美しい。エメラルドグリーンである。サンゴで形成された群島であることを実感できる。海上に森が浮かんでいるような、隆起のない島・竹富島の沿岸を通り過ぎ、大原港に入港した。

小さな港である。さらしのコンクリートの桟橋とほったて小屋の待合室があるのみで、あとは何もない。と、言い切ってしまうと語弊があるかもしれないが、イメージはそうである。前もってレンタカーを頼んでおいた。
『桟橋に車をおいておくので、その車で事務所まで来て下さい』
と、伝えられていたので、数台あるまわりの車を見渡すと、フロントガラスに名前の書かれた紙の貼ってある車があった。鍵がかかっておらず、荷物を入れて乗り込んだ。
「鍵がかかってないなんて、すげえな。」
「誰も持って行かないんだろ。」
まわりが海に囲まれている小さな島なので、たとえ盗んだとしても逃げられず、すぐに御用となると考えているからなのか。この世の中で悪行を働く人は誰もいないという思想が、西表島では広がっているのかもしれない。
西表島は明日の夕方まで滞在し、翌日17時の船で石垣島に戻る予定である。2日間、西表島を周遊できる。ひとまず旅館に立ち寄って荷物を置かせてもらい、その後レンタカー事務所に寄って、手続きを済ませた。
今日は浦内川を遡ってジャングル体験をし、明日は浜で泳ぐことにする。運転好きの友人・名(?)ドライバーにより、車はスピードを上げて、緑々としげる照葉樹林の中を浦内川ボート乗り場に向けて走り抜けた。
西表島は沖縄本島に次ぐ大きな島で、八重山諸島の中では最大の島である。面積約284k㎡、周囲約130㎞、全島の約90%が亜熱帯の森で覆われ、イリオモテヤマネコを初めとして学術的にも貴重な動植物が多く分布している島である。
車窓の山は「もこもこ」とした緑で覆われている。照葉樹林の特徴である。時々、川を渡ると、その川岸にはマングローブの木々がごっそり生えていた。
浦内川に到着した。食事をとった後、乗り場でボートが出るのを待った。待合室と自動販売機がある小さな桟橋である。そのボートの中からはラジオの声が聞こえていた。それによると、台風13号が八重山地方に接近しているという。朝は晴れていた天気も、今は雲り空となっていた。
10人程の乗客を乗せて、ボートは上流へと出発した。約8㎞溯り、そこからは約1時間かけて歩き、カンピレーの滝まで行く。ボートは亜熱帯林の繁る「ジャングル」を、モーターの音を高く唸らせながら前進していた。オヒルギと呼ばれるマングローブ林を眺め、ボートは右岸に近づいては離れ、左岸に近づいては離れと、蛇行しながら進んだ。
20分程で上流の船着き場に着いた。ここからは徒歩である。樹木の生える山道である。途中にはサキシマスオウノキという名の珍しい木が生えていた。カーテンのような平べったい板状の根が何本も地面から生え、樹木の中程でそれらがつながって一本の樹木になっている。
そろそろ歩き疲れてきた頃、マリュウドの滝が姿を見せ、続いて、カンピレーの滝が現れた。岩を滑るように流れる女性的な滝である。僕らはしばらく川で遊んだ。
船着き場まで戻り、再びボートに乗って下流へと向かった。下流の船着き場に到着すると、小さなボートに乗っているおじさんが訛りの強い言葉で話しかけてきた。僕には言っている意味がよく分からなかったが、沖縄に何度か来たことのある友人が通訳してくれた。
「これから石垣島まで戻るんだけど、一緒に乗ってかないか。安くしとくよ。」
6~7人も乗れば定員になってしまうようなボードである。今夜はこの島に泊まるので断ったが、たとえ石垣島に戻る予定だったとしても、あんなに小さなボートで石垣島まで渡るのは、ちょっと不安だった。
旅館に戻った。泊まっていたのは僕ら4人だけのようである。日が暮れるには、まだ時間があるので、近くを歩いて散歩した。
庭先には黄色や赤など色彩の鮮やかな植物が咲き乱れている。そして、緑色をしたバナナが何十本も実っている。南国に来たことを実感する風景である。頻繁に台風が襲来するので、沖縄地方では屋根を低くした造りになっていると聞いていたが、確かに家の大きさは若干小さいように思う。交差点の角には小さなスーパーがあり、その前では子供たちが遊んでおり、そのはしゃぎ声があたりに響いている。日暮れどきの、のんびりとした光景であった。

マングローブ(オヒルギ)

マリュウドの滝

カンピレーの滝

翌朝、8時起床。朝食をとりながらテレビを見ていると、台風13号が接近しているというニュースが流れていた。僕らは今日の17時発の船で石垣島に戻る予定にしていた。心配なので、旅館のおかみさんに聞いてみた。
「今日の船は出ますかね?」
「朝1番の便は出るということだけど、2便以降は未定だそうだよ。」
窓の外を見ると、大きなバックを持った人がぽつりぽつりと桟橋の方へ向って歩いていた。皆、台風が来る前に第1便で島を出てしまおうという人々である。天気予報では、『夜になればなるほど、風が強くなるでしょう』とのこと。悠長に飯を食っている場合ではなかった。第1便の出航時刻は9時10分である。あと30分もなかった。台風などの非常事態には西表島で缶詰めになっているよりも、交通の要所であって情報の集まる何かと便利な石垣島にいた方がはるかに安心だった。
結局、第1便で島を離れることにした。慌てて荷物をまとめ、車の運転をしていた友人は急いでレンタカーを返しに行き、この宿でも船の切符を売っているということなので石垣島までの切符を買い、僕らは先に桟橋に行って友人を待っていた。
桟橋には、どこからこんなに人が集まったのかと思えるほどの大勢の客が待っていた。すると突然、スコールのような激しい雨が降ってきた。頭の上から足の先まで、瞬時にずぶ濡れとなった。リュックもびしょ濡れである。そして、港には石垣島へ向う船が2隻入港してきた。50名程で定員になる小さな高速ボート船である。こんな天候のなか運航して大丈夫なのかと、不安に思う。
レンタカーを返しにいった友人も戻ってきて、乗船となった。船内はすぐに満席となり、真ん中の通路にも数人が荷物を下に敷いて座っていた。皆、ずぶ濡れである。タオルを出して、頭を拭いたりしていた。一番前には荷物が置けるぐらいの台があった。そこはリュック等の大きな荷物が置いたあった。
「ここの荷物は、下に置いてください。船は高速で、揺れるので。」
乗務員のおじさんがそう言って、荷物を下に降ろさせた。船は揺れるのだろうか。この天候なら覚悟をしなければならないだろう。しかし、石垣島までは約40分であり、時間を考えるとたいした道のりではなかった。高速ボート船は、石垣島に向け満員の乗客を乗せて西表島を離れた。
防波堤を越えて海に出ると、船はスピードを上げ、爽快に飛ばしはじめた。小型の高速ボートに乗るのは初めてだった。予想以上にスピードが出る。そして、スピードが上がったのと同時に、船が上下左右に激しく揺れ出した。「揺れ」というよりは「衝撃」といった方が適切である。小刻みに船が揺れていたかと思うと、突然船底でガツンと波にぶつかる音が響き、激しく左右に振られる。
隣の女性が悲鳴を上げた。座っていても座席の前の背もたれに取りつけられている手すりにつかまっていないと、隣の人とぶつかってしまう。さらに時折、高速で波が高いために船がジャンプして、しばらく空中に浮く。浮いているときは、下腹のあたりがスーッとする。窓には、雨が激しくたたきつけられていた。
<とんでもない船に乗ってしまった……>
これに40分も我慢しなければならないのか。ところが、である。しばらくするとその衝撃に段々と慣れてきた。ジェットコースターのようで楽しくなってきたのである。波にあたる度に「そら、また来た!」、船が浮く度に「おーっ!」と、声には出さなかったものの、心の中ではそう叫んでいた。大型船の揺れとはまた違う揺れなので、酔いの心配は全くなかった。結構楽しめた船旅だった。

鮮やかな花が咲いている

バナナの木


石垣島(最果て紀行#7)

台風で大荒れの石垣島中心部


無事、石垣島に到着した。桟橋では、離島へ向う船がロープでしっかりと係留されはじめていた。既に、今日の船便は全て欠航になっている。西表島から乗った僕らの船が最終便だったということであり、第1便で石垣島に戻ってきて正解であった。車の運転をしていた友人は石垣島までの旅で別れて、明日の飛行機で実家のある北海道まで帰る予定だった。石垣から北海道まで移動するというのも、ダイナミックである。ところが、台風は明日に八重山地方を通過する予定であり、今のところ飛行機はまだ飛んでいるということから、今日の便で帰ることになった。午後の便に空席があり、那覇・羽田を経由して千歳まで向い、今日中に到着するということである。軽食をとって、その友人と別れた。

さて、本来ならば西表島のどこかの浜で海水浴をしていたのだが、予定に空白ができてしまった。荷物をホテルに置いて、チェックインの時間までどこかぶらつくことにした。
石垣島の観光をしようと思うのだが、定期観光バスは午前中に出発してしまっていた。それならば観光タクシーを使おうと思い桟橋ターミナルに止まっている運転手さんに聞いてみると、観光コースの表を見せてくれたが、値段が高い。これから足止めを食らい、何日か延泊しそうな気配であるのに、あまりお金を贅沢に使うわけにはいかなかった。レンタカーを借りようにも、まともに運転できる友人が去ってしまったため、レンタカーは無理である。このようなときは、路線バスを調べて適当に面白そうなところへ出かけたりすれば、結構時間つぶしになるものである。早速、バスターミナルへと向った。
時刻表をもらうと、13時40分発の「平一周」行というバスがあった。バスターミナルから東回りで石垣島の最北端のひらの平野というところまで行き、そこで20分間停車して折り返し、半島の付け根の部分である伊原間まで戻ったあと、今度は西回りでバスターミナルまで戻ってくるという、全島を巡るにはもってこいの運行ルートだった。ターミナルには17時30分に戻ってくる。天気も夜になればなるほど悪くなる一方なので、路線バスに乗りながら島の風景を眺めるのも悪くはなかった。
バスの発車までまだ時間があった。切符を買い、待合室で発車を待った。待合室と言っても冷暖房完備の近代的なものではなく、昔懐かしい木のベンチが並べてあって、外との区切りはなく、隣にはパンや牛乳などを販売する売店があるものだった。その売店からはまわりの閑散さを打ち消すかのように、NHKのラジオが流れていた。
数人の地元客と我々3人を乗せたバスは定刻に発車した。最北端の平野には1時間30分で到着する。車内にもNHKラジオが流れており、時折台風情報が入る。12時現在、台風の中心気圧は965hPaであり、次第に接近しているとの事であった。
空は暗くなり、風が強くなり、周期的に激しい雨がバスを襲っていた。ハイビスカスの赤い花の並木が大きく揺れながら沿道に続いている。両側にはサトウキビの畑が広がり、沖縄地方独特の亀の甲羅のような墓地が後ろに過ぎ去った。
14時現在、台風の中心気圧が960hPaになった。発達している。石垣・宮古島への上陸は明日になるが、今日の夕方には暴風域に入るという。まさに、直撃であった。
伊原間を過ぎると、バスは荒涼とした風景の中を走っていった。草原が広がり、その先に灰色の海が広がる。南国の温かい地方の風景とは思えなかった。南国の風景と言えば、葉の大きなモコモコした草木が生える陽気な風景というイメージが僕にはあった。そして終点の平野に到着した。
平野は小さな集落であり、それ以外何もないところであった。外に降りると、台風独特の生温かい湿った風が強く吹いている。雨はあがっていた。停留所付近を散策して、何をするでもなく、バスに戻った。15時30分、予定どおりバスは平野を後にした。
同じ道を引き返し、伊原間で右に折れて、今度は東側の道路で島の中心地であるターミナルを目指した。16時現在、台風の中心気圧は955hPaになっている。すれ違う車の台数も少なく、ターミナルに到着したときは強い風が絶え間なく続くようになり、あたりも薄暗くなっていた。
夜、別れた友人から北海道に着いたという電話が入った。『飛行機がけっこう揺れたよ』と話していた。

暴風雨である。窓から外を眺めると、街路樹が左右に大きく揺れ、強風の為に雨が霧のようになって辺りを霞ませ、海の波が小刻みに泡を立てていた。大時化である。道路には大きな水たまりができている。朝の天気予報によると、中心気圧は940hPa、宮古島に上陸した模様であり、石垣島への上陸は避けられたということである。進路は北東に向っていた。
本来の予定では、今日、波照間島に日帰りで往復し、明日、与那国島に向う予定だった。それぞれの航空券は既に東京で手配していた。空港に電話を掛けるが、なかなかつながらない。もちろん飛行機は欠航だろう。今日はホテルに缶詰めである。天が与えてくれた休息日だと考える。
今後の予定は、そのまま予定を繰り下げるのではなく、波照間島の訪問を後回しにして、明日は航空券の取ってある与那国島に先に行き、その後、波照間島に行くことにした。
『旅の目的は最南端と最西端を訪れることであり、石垣島まで来たのだから、最南端と最西端を行かずして、帰ることは考えられない』
このような意思を友人より示されたが、僕もまったくの同感であった。
朝食後、本屋で雑誌を買い込み、皆ホテルのベッドで寝転がった。ホテルのテレビは地元のケーブルテレビしか映らない。天気予報が流れたあと、全国版の朝の民放ワイドショーが始まった。しかし、その番組の冒頭の挨拶が、
「おはようございます。8月26日木曜日……?」
確か、今日は1993年9月2日木曜日である。情報番組が1週間遅れて放送されているのである。同じ日本でもこれだけの違いがあるのか、と思った。
空港にようやく電話がつながった。欠航便の航空券の扱い方について訊ねた。明日以降の同じ行き先の便に空席がある場合は、その便に振り替えるとのことであった。搭乗者名を言うだけで電話での予約変更も可能だという。また、運賃の払い戻しを希望する場合は、欠航証明書を空港で発行してもらい、航空券を購入した旅行代理店で払い戻しを受けてください、とのことだった。つまり、お金は東京で戻ってくるということである。とりあえず、影響がでたのは今日の波照間までのチケットのみであり、3日後(9月5日)に使用する予定だったので、3日後の波照間までの便を予約した。
テレビ画面の下にテロップで、
「八重山商工定時制の生徒さんへ。暴風警報が午後3時までに解除の場合は正常通り登校して下さい。」
と流れていた。午後になっても、嵐が収まる気配はなかった。
1階のロビーで地元紙の新聞に目を通した。すると、今年の旧盆は9月1日であり、各地では1ヶ月遅れのお盆が行われていることでしょう、と書かれていた。つまり、沖縄地方では昨日が「お盆」だったのである。沖縄本島や石垣島に働きに出ている人が、離島などの郷里に帰省している時期でもあり、交通機関が普段よりも混雑するということである。台風と重なり、厄介な時にぶつかってしまったな、と思った。何故9月1日が旧盆なのかと疑問に思ったが、新聞によると今年は閏年で、太陽暦と太陰暦の年間日数の誤差調整のため約1ヶ月ずれ込んだものであり、9月にずれ込むのは非常に希なことであると書いてあった。
外を眺めると、葉やゴミが強風に飛ばされて、空中を舞っていた。18時現在、台風の中心気圧は935hPaにまで発達していた。

波照間島(最果て紀行#8)

波照間島までのプロペラ機

サトウキビ畑と道路

天気、晴れ。台風一過である。石垣空港9時40分発の与那国行き飛行機に乗り遅れないよう、ホテルを後にした。
石垣島のタクシーの初乗り料金は350円であった。東京は600円(当時)である。タクシーの運転手さんとの話が弾んだ。
「台風の直撃は、ここ10年くらいないね。昨日のは直撃ではないよ。直撃の時の風速は70~80mになるからね。砂が車に当たって穴が開くんだから。」
昨日の風速はラジオによると35mであった。話は続いた。
「台風で波があるときには、地元の人は怖くてボートには乗らないよ。ジェットコースターよりも凄いんだよ。離島へ行くボートは喫水が小さいので、波が高いと船がジャンプしてモーターが空回りしてしまうんだ。だからすぐ欠航してしまう。」
確かに、一昨日に乗ったボートは凄かった。
石垣空港に到着して空港カウンターに来てみると、与那国行きのみ、午前便も午後便も全便欠航となっていた。天気は良好で、どう見ても飛行機が飛べない状況ではない。訊ねてみると、与那国行きに使用されているYS-11飛行機が台風に備えて福岡空港に避難しており、その飛行機の手配が間に合わないからだという。
一方、波照間行きの便は予定通り運航するらしく、9時25分発の便の搭乗手続きは既に始まっていた。波照間行きの飛行機はYS-11よりも更に小型のDHC-6ツインオッターという機種なので、福岡まで避難せず石垣空港の整備倉庫の中にでも避難できたのだろうか。とにかく、波照間行きの飛行機は定刻に飛び立つ予定である。僕らは急きょ、与那国→波照間の訪問順番を、波照間→与那国と変更することにした。つまり、最初に予定していた旅程に戻ったわけである。今日、日帰りで波照間を往復し、明日、与那国に向うことにした。最初から欠航がわかっていたら、大きな荷物をホテルに置いてきたのにな、とふと思った。
既にあさって(9月5日)の便に予約を変更をしてもらった昨日付の波照間便の航空券を提示して、今日の便に再度変更を申し出た。ツインオッター機は19人乗りの小さな飛行機なので満員ではないかと心配したが、あっさり「大丈夫です」という返事が返ってきた。さらに、この機種の飛行機では、搭乗手続きの際に乗客の体重を測って座席を決定し、機体の左右のバランスを調節すると聞いていたのだが、それもなく、カウンターの係員が搭乗券に示された座席表に赤鉛筆で○印をつけて座席をきめ、その搭乗券を渡されただけだった。乗客は少ないようである。
搭乗まで、まだ少しの時間があるので、与那国島の旅館に変更の連絡を入れた。宿の女将さんが飛行機の運航状況について、しきりに質問してきた。
「今日は与那国行きの便は全て欠航です。」
と言うと、残念そうに返事をした。
波照間行きの乗客は、僕ら3名とおじさん3名の合計6名である。こんなに小さな飛行機に搭乗するのは初めてである。機内の座席は左に1列、右に2列の配置であり、ベンチのようなプラスチック製の茶色い椅子が規則正しく並んでいる。コックピットと客室はガラスの入った扉1枚で仕切られており、パイロットや計器類が客室から丸見えである。左右のプロペラのエンジンチェックの後、滑走路に出たと思ったらあっという間に離陸した。この飛行機は短くて足場の悪い滑走路でも離着陸できるように設計されたものであり、離陸時の滑走も短くて済むのだという。
高度が低いので、窓の下の景色がよく見渡せる。鮮やかで透き通るような色を発しているサンゴ礁が非常によく見渡せる。20分後、波照間島が見えてきて前方に短い滑走路を眺めながら、飛行機は少々左右に揺さぶられながら波照間空港に着陸した。
空港というよりは「小さな無人駅」といったほうがよいところである。平屋建ての四角い待合室が建っているのみである。
波照間島は石垣島の南西約42㎞に位置し、有人島としては日本最南端にあたる島である。「はてるま」という島名の由来はいくつかの説がある。波照間とは「ハテウルマ」で「ウルマ」とは琉球の雅語であることから、琉球の果てに位置するという説、「ウル」とはサンゴを「マ」は場所を意味することから果てにあるサンゴの島という説などがある。方言では波照間島のことを「パティローマシマ」といい、地元では「パチラーシマ」とも「ベーシマ」とも呼ばれるという。まるで外来語のようである。
島の面積は12.4k㎡、周囲は14.8㎞の東西に長い楕円形、行政区分は西表島と同じ竹富町である。町役場はこの町内には存在せず、石垣市である石垣島にある。竹富町は町内に町役場のない町となっている。

珊瑚のビートとサトウキビ畑

なにしろ石垣の空港で急きょ波照間島に向かうことになったので、島内を巡る手段を全く準備していなかった。この島にはバスもタクシーも全く走っていない。ロータリーには数台、民宿のマイクロバスが停まっていた。その中で近くにいた「みのる荘」と書かれた車の兄ちゃんに声を掛けた。自転車を3人分貸してくれるというのでみんなで乗り込み、民宿のある中心部に向かった。
自転車は1日2000円であった。まずは日本最南端の岬へと向う。車も人もほとんどいない。のんびりとしている。俗世間の喧騒からかけ離れた、時の刻みの次元がまるで違う世界に身を置いているようである。中心部の集落には、赤瓦の家々がサンゴの積まれた石垣で囲まれながら点在していた。
背丈ほどのサトウキビが繁る畑で、鎌を持って作業をしているおばあちゃんに挨拶をした。すると、
「食べてみるかい?」
と言って、笑顔でサトウキビを3本渡してくれた。30㎝位に切られたサトウキビの切り口をかじって吸ってみた。甘かった。サトウキビを食べるのは初めてである。
「確かに、甘いですね。」
などと話していると、
「もう一つあげるから。これはさっきのと品種が違うものだよ。」
と言って、さらに30㎝位に切ったサトウキビをもう3本くれた。吸ってみた。けれども前のサトウキビとの違いが分からない。どちらも甘いだけだった。
「ねっ、ちょっと違うでしょ。」
と、琉球訛りの言葉で言われたが、こう言われても笑顔で『えぇー。』と答えるしかなかった。収穫は11月で、今は倒れたものだけを穫っているそうである。島には製糖工場が一つ存在する。
いよいよ最南端に着いた。自転車に乗った数人の若者がいた。周りには高い樹木は見当たらず、草原が広がり、波からの侵食を受けた断崖絶壁が続くところだった。石の敷かれた道を歩き、逆三角形の石に稚拙な文字で「日本最南端の碑」と刻まれた碑の建つ場所に到達した。
北緯24度01分、ここが日本の最南端である。
ようやく、最南端に到達した。残るは最西端を残すのみとなった。明日にはその最西端も制覇する予定である。最南端の風は暖かかった。しばらくその情景に佇んでいた。
とりあえず、エメラルドグリーンのサンゴが広がる浜でしばらく時間を過ごした。今後の予定は夕方の船で石垣島に戻ることにしている。
雑貨屋の店先のジュースには変わった飲み物がいくつかあった。その中の一つにゴーヤーの絵が描かれた「ゴーヤードリンク」というものがあった。ゴーヤーとは「苦瓜(にがうり)」、その名の通り苦いもので、主に沖縄で食されている野菜である。1缶買ってみた。何とも言えない味である。全部飲めるものではなかった。おみやげにいくつか買っていくことにした。
民宿のおじさんに波照間でしか売っていない「泡盛」について友人が尋ねた。友人は沖縄本島で乗ったタクシーの運転手さんから『波照間に行ったら泡盛を買いな』と言わたそうである。すると、
「あれは今は売り切れだよ。島民でさえ手に入れるのが難しいんだ。島民だけに先に回るから、なかなか観光客が手に入れるのは難しいよ。今はお盆の時期だし。」
との返事だった。それだけ価値の高い幻の泡盛ということである。
安栄観光のボートで石垣島へと戻った。波照間港の海の色は、見事なぐらいサンゴの神秘的な色を発していた。


波照間島、南の最果てである。
波照間と書いて「はてるま」と読む。「はてるま」とは、果てのウルマ、「ウルマ」とは琉球の雅語であるので琉球の果てという説、「ウル」とは珊瑚を、「マ」は場所を意味することから「果てにあるサンゴの島」という説がある。
石垣島から19人乗りのプロペラ機で20分、有人島としての日本最南端である。(日本領土としての最南端は東京都の沖の鳥島である。)

石垣はサンゴでできている。波照間港の海の色の青さが、沖縄の海を表現している。


与那国島(最果て紀行#9)

放し飼いの与那国馬

荒涼とした丘陵


与那国行きの飛行機は満席だった。旧盆に重なり、しかも台風で欠航が続いた後である。当然と言えば、当然である。今日は土曜日であり、幸運にも与那国島へのフェリーが運航される日だった。与那国へは毎週水曜と土曜にしか運航されていない。石垣港10時に出航し、14時に与那国に到着する。僕らは、フェリーで与那国島へ向かうことにした。
船は大揺れだった。天気は最高なのだが、まだ台風の影響が残っているのか、波が高い。甲板で眺めると、紺碧色の海が、空飛ぶ絨毯のように、大きくうねりをあげているのがわかる。船が波の谷間に入ると、波の山の部分が目の高さと同じ位置までせり上がり、海に飲み込まれそうに感じる。立っているのさえ困難である。酔いそうなので2等の座敷にすぐ戻り横になった。船が傾くたびにカーテンが音を立ててガラスにぶつかっていた。船が小さいことも揺れを助長させている一因である。
就航船は、1989年より就航している『フェリーよなくに』、総トン数498トンの小さなフェリーである。これでも、以前に就航していた船に比べればかなり大型化しており、かつては185トン、定員65名の小型貨客船が7時間かけて航海していた。「フェリーよなくに」の客室は2等のみであり、じゅうたんの敷かれた客室、2段ベッドの寝台、表デッキのベンチと3種類の客室を好みによって自由に選ぶことができた。
まもなく入港の時間である。甲板に出ると断崖の続く与那国島が、忽然と姿を現わした。与那国島は有人島も無人島も含めて日本の最西端に位置し、石垣島まで127㎞、台湾までは約125㎞という石垣と台湾のちょうど中間にある国境の島である。人口は約1900人、面積28.5k㎡、周囲29.5㎞、昔からここは『ドゥナン』と呼ばれ、当て字にすると「渡難」と書かせるように、容易に人を寄せ付けない絶海孤島の場所である。東京からこの島に来るには、東京-石垣直行便に乗れば話は別だが、那覇、石垣と2回乗り換えて3本の飛行機を乗り継がないと来ることはできない。
船は くぶら 九部良港に定刻に入港した。出迎えのワゴン車に乗り、旅館のあるそない祖納へと向かった。レンタバイクを借りる為、宿近くの事務所で降ろしてもらい、50ccのゲンチャリに乗って旅館に入った。気候も良いし、与那国の島内を巡るにはバイクが一番であった。当初の予定では、与那国には1泊のみのつもりだったが、フェリーとなったので到着が遅れ、島をゆっくりと見て回れる時間が無くなってしまった。ということで2泊し、充分に島を堪能することにした。荷物を部屋に置いて、しばらく休憩した後、近くをバイクで一回りした。

夕食の時、僕ら以外にも宿泊客が1組いた。40歳位のおじさんが2人と、僕らと同年代の若者1人の3人グループだった。釣りをしていたらしく、一人のおじさんが釣った魚を厨房でさばいており、宿の女将さんに「うまく揚げてくれよ」などと話していた。
そのおじさんが、僕らに話しかけてきた。
「君ら、どっからきたの。」
「東京です。」
「何しに? 仕事?」
「いえ、旅行です。最西端に行こうと思って。」
「ほぉー。」
無難な会話が続いた。そして僕は、
「島には、釣りをしに来たのですか。」
と聞いた。僕には釣りに来たとしか考えられず、熱狂的な釣りファンがこの与那国までわざわざやって来ているのだろう、と思っていた。それ以外には考えられなかった。すると、
「釣りだってよ。へへっ。」
3人が顔を見合わせ、すれた笑いをした。しばらく沈黙が続いた。
「仕事だよ、仕事。建設機械を修理する仕事でこの島にやって来たんだけど、台風で出られないんだよ。それで暇だから釣りをしていたっていう訳よ。」
仕事だったのである。その人たちは食事を終えて、部屋へと戻った。
「今日釣ってきた魚を今、揚げてもらっているからさ、後で下に食いに来なよ。」
そう言い残していった。
食事が終わり、お茶が出てきた。ジャスミン茶であった。大陸文化の影響がかなり強く、かつては台湾との交流が盛んだったということが伺える。僕らも席を立った。
1階のテレビのあるロビーでは、おじさんと若者が魚をつまみながら2人で酒を飲んでいた。
「ここへ来て食べな。」
おじさんの誘われるままに頂くことにした。泡盛をお湯で割ったものを差し出された。
「これは御馳走するから。これ以上酒が欲しいときは、自分で買って飲んでくれ。女将さんに言えば買えるから。」
泡盛は沖縄地方で飲まれている蒸留酒(スピリッツ)である。「あわもり泡盛」という名称は一説には、グラスに酒を注ぐとアルコール分が高い為、泡が花のように立つからだと言われている。
おじさん達は本島(沖縄本島)からやってきたということであり、この島では釣りをするか酒を飲むことしかすることがない、と話していた。
「与那国に行くときは、一週間見ないとだめだとよく言われるよ。」
まさに、その通りになっていた。
「この辺りの海岸では、若い女がトップレスでダイビングしているということだよ。えへへ。」
「米軍の空軍はインテリばっかだけど、海軍はそうじゃないね。」
「東京に行った時さ、タクシーの中に忘れ物をしたんだよね。それで問い合わせをしたら、忘れ物をする方が悪い見たいな態度でさ、頭にきちゃったよね。みんな冷たいんだよね。」
「この旅行ではいくらぐらいかかってるの。」
などなど、尽きない話は続いていった。僕のグラスの酒が空になると、『まぁ、飲めや』と、再び酒を注いでくれた。
隣にあるテレビのチャンネルをひねった。与那国では台湾のテレビ放送が見れると聞いていたからである。すると、黄色い漢字の字幕が入っている映像が現れ、中国語の音声が流れてきた。台湾の放送だった。思っていたよりも鮮明な映像である。見苦しくはない。ちょうどクイズ番組をやっているらしく、司会者と解答者のやりとりがコミカルに行われていた。画面の下には必ず漢字の字幕が入っている。全ての言葉に字幕を入れているようであった。聴覚障害者の為の字幕なのか。それとも、中国語は広東語、北京語などで意味が全く通じなくなるということを聞いたことがあったので、それらの通訳なのかも知れない。この映像の鮮明さは、台湾に近いことを実感する。
明日はいよいよ最西端であった。

1993年9月7日、快晴。日差しが強い。この旅行中は半袖半ズボンであり、腕と足はかなり日に焼けてヒリヒリしていた。日焼け止めクリームを塗り、50ccバイクで島を一周することにした。
まずは、島の最東端の東崎の岬へと向かった。東崎と書いて「あがりざき」と読む。一方、最西端の岬は西崎とかいて「いりざき」と読む。「西表島」は「いりおもて」である。沖縄の古語が今でもそのまま残っているものである。「あがり」とは太陽の昇る方角だからであり、「いり」は太陽が沈むからいりなのである。かつては南大東島も「おおあがり」と呼ばれていたそうである。
与那国島には琉球語の地名がかなり残っている。ツァ浜、ウブドゥマイ浜、ウバマ浜、インビ岳、ドナン岳、ティンダハナタ……といった具合である。地図には全てカタカナで標記されている。
車はほとんど走っておらず、走りやすい道路である。フルパワー、時速60㎞で悠々走れる。
樹木が少なく、荒涼とした風景であり、波照間島とは対称的に起伏がかなりある島である。南国なので陽気な風景をイメージしていたのだが、それほどでもない。とは言っても、気候が温暖だからなのか、刺々しさは持っていない。牧歌的な荒涼さ、と言ったところだろうか。
東崎の岬には、小柄なヨナクニ馬が放牧されていた。柵などはない。道路のすぐ脇に佇んで、草などを摘まんでいた。続いて島の南側を走り、軍艦岩、サンニヌ台、立神岩展望台と海沿いの名所を見て回った。紺碧の大海原と断崖絶壁の海岸が広がり、余計な人工構造物が建っていない景観は、絶海の孤島を思わせるのに十分であった。
島には3つの集落がある。旅館のあるところは「祖内」と呼ばれるところで、島最大の集落である。そして、港のある「久部良」、島南に位置する「ひがわ比川」である。その比川の集落を通って、比川浜で泳いだ。
昼食は祖内に戻って、うどんを細くしたような沖縄そばを食べ、午後はトゥング田、久部良バリへと向かった。
トゥング田、久部良バリは、江戸時代の人頭税制下における苦しい生活と悲劇を伝えるものとして、現在でも語り継がれている史跡である。トゥング田は島民の男を一定時刻に水田に招集し、遅れてきた男や病気の者を惨殺した場所である。久部良バリは幅約3m、深さ約7mの岩の割れ目を妊婦に跳ばせ、跳べなければ死亡、無事跳べたとしても子供は流産したと伝えられる場所である。どちらも人口減らしを目的とした方策であったと言われている。
人頭税は、各個人に対して一律に同額を課税する原始的な租税形態である。それぞれ個人の支払い能力を考慮しない悪税として、19世紀には廃止された。すなわち、家計が良かろうが悪かろうが、生産能力のない赤ん坊だろうが、全員に一律に課する税なのである。これらの伝説が伝承されてきた背景には、単に人頭税の重圧というだけではなく、慢性的な生活苦のなかから起きたものであろう、といわれている。
島を周回すると、宿に戻った。日本最西端の西崎には、日没の時に行くことにした。日入は19時頃であった。
日没まであと30分となり、旅館を後にした。我々は西を目指して走り続けた。与那国空港を右に見て、西崎へ向けて快走した。そして、坂を登りバイクを止めて、西崎の展望台に到着した。そこには緑の芝生が広がり、その向こうには台湾に接する広大な海が、果てしなく広がっていた。
東経123度0分、ここが日本の最西端である。
ついに最西端までやってきた。大きく膨らんだ赤い太陽が、いま地平線の彼方に沈もうとしている。僕の最果ての旅は「東・西・南・北」、全てが終わったのであった。

山羊が駆け回る


与那国島、西の最果てである。
台湾まで125km、石垣島まで127km、台湾の方が近い国境の島である。家庭では台湾のTV放送を見ることができ、ジャスミン茶も嗜好されている。昔からここは「ドゥナン」と呼ばれ、当て字にすると「渡難」と書かせるように、絶海孤島の島でもある。それ故に、景色は非常に美しい。日常の喧噪に嫌気がさしたとき、与那国島は心の喧騒をすべて取り除いてくれる、そんな島である。

見よ、美しい海岸線を。

与那国馬が放牧されている.この「よなぐに」も日本離れした光景が続く。