春の花見山~福島の桃源郷~

春になると全国から人々が集まってくる花の名所が福島市にある.その名も「花見山」.写真家の故・秋山庄太郎氏が「福島に桃源郷あり」と毎年訪れていたという場所で,全国各地からカメラマンが数多く訪れている.桜をはじめ様々な花が咲き乱れており,ロウバイ・ウメ・サンシュユ・マンサク・レンギョウ・サクラ・ハナモモ・ボケ・モクレンなど,次々と花が咲き続いていく.
花見山は,福島市中心部から南東約4kmにあり,昭和の初め頃に養蚕の合間に花木を育てて,それを販売するようになったのがきっかけで,花木を増やしていくようになった.農家の方が「きれいな花を皆さんに楽しんでもらいたい」という善意により,昭和34年から土地を開放しているのが花見山であり,入場無料,春の里山からは吾妻連峰も見られ,まさに福島の桃源郷なのである.

(撮影年月:2007年4月)


新幹線のりかえ口には,「花見山は東口方面へ」と手書きで書かれた案内板が掲示されていた.一度のりかえ用の自動改札を通り過ぎ,在来線のコンコースを歩いて,東口へ向かう.

「ようこそ,花もみもあるふくしまへ」福島駅コンコースもサクラで満開

春のシーズンになると,
花見山までの臨時バスが運行される

2010年の臨時バス運行予定
3月27日(土)から4月30(金)まで

毎日運行している路線バス案内はスクロールして最下段をご覧ください

午前9時前だというのに,バス乗り場はこの行列! 臨時手荷物預かり所もあって,手ぶらで花見山散策を行うことも出来る.

花見山号の臨時乗車券.片道250円 往復500円.往復を買うと,帰りの周遊バスでは乗り降り自由となる.(写真2007年は片道230円であった)

臨時バスの運行は,3月末から4月末にかけての時期である.運行本数はかなり多くて,1時間に3本程度走っている.

花見山号の臨時バス

サクラにラッピングされたバスがやってくる.車内でも,花見山などに関する案内テープが流されて,観光客には嬉しい心配りがされている.

春のシーズンになると,大型バス駐車場にはずらりとバスが並ぶ.渡利地区の狭い住宅地の中を縫うように走ってくるので,周辺住民の方に感謝する次第である.

駐車場脇には,ちょっとした物産を販売するところがある.仮設トイレも設置されている.

正面に見えているのが「花見山」.駐車場からはちょっと歩いて向かう.

だんだんと,サクラが咲き乱れるようになってきた.

三脚を持ったカメラを担いでいる人も多くみられる.それぞれの構図で,花を撮影している.

とにかく人出が多い.でもサクラは美しい.

いろいろな色が競演している

黄色のレンギョウも.

菜の花も咲き乱れ

一眼レフの本格的なカメラを抱えて,最高の一瞬を求めて,ファインダーをのぞく.


ここからが,花見山公園なのである.
ここまでは,民地に咲き誇っていた花を,道路から眺めていたもの.

ふもとでは,無料で杖・ステッキを貸し出している.黄色い服を着た人は,ボランティアガイドの方々である.登山道の分かれ道などに立っていて,案内をしている.

花見山は「山」である.
頂上まで行くルートは,60分で戻ってくるコースとなっている.ハイヒールではちょっと無理!

サクラのトンネル

左上に小さく写っている「あずま屋」が頂上.あともうちょっとである.

頂上からの眺望.福島市街が一望できる絶景である.


路線バス案内(毎日運行)
福島駅東口8番乗り場より「渡利南回り」行き(1時間に1本程度)
「花見山入口」バス停下車:徒歩20分程度(住宅地の細い道を歩いていきます)

お秀茶屋(奴郎ヶ前の味噌田楽)【会津考察#7】

Ohide-chaya(The miso dengaku)


歴史のある田楽・お秀茶屋
営業時間:10時から17時頃
(材料がなくなったら終了)

 


 お秀茶屋の味噌田楽は,無性に食べたくなるときがある.若松にきたときは,時々立ち寄って食べている.
「お秀茶屋」は,創業が延宝年間(1673~80年)の歴史ある茶屋で,東山温泉に向かう東山街道沿いにある.なんといっても,名物は甘い味噌を塗って囲炉裏でじっくりと焼き上げる「田楽」で,自家製餅・揚げ豆腐・身欠きにしん・こんにゃく(秋は里芋となる)の4種類6本の田楽セット(735円(2007年現在))となっている.田楽は,戦国時代において,串に刺して田圃などで焼いて食べたのが始まりと言われており,田楽という言葉も,田圃で食べる楽しみというところから付けられているという.この店には,山下清画伯が度々訪れていたといい,現在でも,有名人が数多く訪れて,店内には写真やサイン色紙が貼られている.
ちなみに,奴郎ヶ前と書いて「やろうがまえ」と読む.お店には「元祖・奴老ヶ前」と記されていて,「老」の字が用いられている.

店内の様子.暖かいときは,池の鯉を眺めながら,
縁側で食べることもできる.

壁に貼られているメニュー
田楽の他にも,くるみ餅やそばなどもある.
田楽だけでは物足りない場合は,ソバも一緒に注文すると良い.

田楽は,囲炉裏の炭火で焼かれる
ご主人は16代目.

これが,田楽セット
素朴な味わいで,時々無性に食べたくなる味なのである.
串が炭火ですすけているところも,「普段着のまま」といった感じでよい

ざるそばもあります.
柔らかいそばといった感じ
 
店の脇にある狭い道路を登っていったところに
専用の駐車場がある.

その道路脇にはお地蔵さんがある
かつて,近くの河原には会津藩士用の処刑場があった
罪人達の供養のために設置されたものが残っている
(参考文献:新寿堂HP

【公共交通案内】
●まちなか周遊バス「ハイカラさん」  若松駅→鶴ヶ城→奴郎ヶ前→飯盛山→若松駅(逆回りなし.8時~18時頃.30分間隔)
●飯盛山・鶴ヶ城循環(飯盛山先回り) 若松駅→飯盛山→奴郎ヶ前→鶴ヶ城→若松駅
●鶴ヶ城・飯盛山循環(鶴ヶ城先回り)  若松駅→鶴ヶ城→奴郎ヶ前→飯盛山→若松駅

赤羽台団地(その2) 取り壊される団地群 【東京考察#220】

The Akabanedai housing complex part.2


取り壊される21号棟

 


 赤羽台団地(その2)では,赤羽台団地の建て替え事業によって,間もなく取り壊される建物群と,新しく生まれ変わったヌーヴェル赤羽台の建物を紹介する.2部構成で作成しており,(その1)では現在も入居されている建物群をお送りしている.
昭和の高度経済成長の象徴のような赤羽台団地も,老朽化によって建て替え事業が行われており,順次取り壊しが進んでいる.既に,赤羽台西小学校側にあった27~32号棟は取り壊されて真新しい賃貸住宅が建っている.16~26号棟も既に入居者の退去が済んでおり,人々のいなくなって鼓動が止まってしまった団地群が,取り壊される日をひっそりと待ち偲んでいる.昭和の一コマがまたひとつ消えてしまうようで,ちょっと寂しい感じもする.
 
団地の案内図
左が昔ながらの手書きの案内図で味があって渋い.


16~26号棟は,赤羽台団地建替事業(第Ⅰ期2ブロック)が着工されるため
平成19年1月より仮囲いによって通行止めとなった.
平成22年3月までの予定.
 
非常にインパクトのあった21号棟
他の住棟とは直交に配置されているため,
プライバシーを保つために廊下の壁を高く設置しているという.
右の写真を見てみると,確かに外からは見えにくい廊下である.
 
21号棟は既に入居者が退去し,
あとは取り壊される日を,ただ静かに待ち偲んでいる
 
入口が閉鎖されている25号棟
階段が横向きである
ダストシュートもある

正面は21号棟
右は25号棟

26号棟も空っぽである

手前から順に,24・23・22号棟
24号棟は,側面にベランダがついており,
23号棟は,側面に焼却炉がついており,
22号棟は,側面になにもついていない.
これを見ても,様々な設計の建物が建てられていることがわかる

16号棟 関係者以外立ち入り禁止

仮囲いで隔離された22号棟

 
かつての27~32号棟だったところで行われた
第Ⅰ期1ブロックの建替事業で建て変わった賃貸住宅
モダンなデザインの住宅である.(ヌーヴェル赤羽台)

入口はオートロックセキュリティー

「ヌーヴェル赤羽台」のモデルルーム
賃貸住宅であり,月額169,400円からだとか・・・・・。

団地内にある「あかいとり幼稚園」

桜が満開であった.
参考文献:「僕たちの大好きな団地」,洋泉社,平成19(2007)年4月

赤羽台団地(その1) 区内初の大規模団地開発 【東京考察#219】

The Akabanedai housing complex part.1


赤羽台団地

 


 知る人ぞ知る「赤羽台団地」である.
赤羽台団地は,旧陸軍被服本廠跡地であり国有地だったところを,当時の日本住宅公団(現在:独立行政法人都市再生機構)が団地開発したもので,1963(昭和38)に完成した.全戸数は3373戸,東京23区内で初めての大規模団地として知られ,単身者から4LDKファミリータイプまで幅広いユーザーをターゲットにしており,団地設計も当時としては様々な新しい試みを取り入れていることから,団地開発のモデルとして色々な形の団地や,住棟・公園の配置設計を見ることができて興味深い.
公団の団地は,洋式のダイニングキッチンや洋式トイレなどを備えたモダンな住宅で,当時は憧れの住まいであり,入居当初の倍率は高かったようである.賃貸住宅の家賃は当時の大学卒初任給と同じ程度するもので,高額所得者の住む団地であった.
この昭和の高度経済成長の象徴のような赤羽台団地も,老朽化によって建て替え事業が行われており,順次取り壊しが進んでいる.既に,赤羽台西小学校側にあった27~32号棟は取り壊されて真新しい賃貸住宅が建っている.16~26号棟も既に入居者の退去が済んでおり,人々のいなくなって鼓動が止まってしまった団地群が,取り壊される日をひっそりと待ち偲んでいる.昭和の一コマがまたひとつ消えてしまうようで,ちょっと寂しい感じもする.
写真の掲載量が多いので,2部構成でお送りする.(その1)では現在居住者のいる建物群を,(その2)では取り壊される建物群と新しく出来上がった建物を紹介する.
 
まずは,団地の案内図
左が昔ながらの手書きの案内図で味があって渋い.
下は新しいもの.(クリックすると拡大)

JR赤羽駅から歩いてくると赤羽台トンネルが見えてくる
その上に広がっているのが赤羽台団地.
トンネル脇に団地へ向かう階段がある.
シンボル的存在のスターハウス49号棟がお出迎え

これが「スターハウス」49号棟
団地の配置計画を行うときにポイントとなる場所に建てる住棟のことをポイントハウスと呼んでいるが,スターハウスは,そのポイントハウスの一種で,1フロアー3戸のY字型をしている建物である.非効率な形状をしており,近年はほとんど建てられなくなったが,公営の集合住宅の歴史を語る上で,スターハウスは外せない存在である.赤羽台団地では,駅から団地にかけて存在する崖線の頂上に,8棟のスターハウスを建てており,高台にスターハウスを並べることによって景観上のアクセントとしている.
 
左:裏側から見たスターハウス
右:8棟連続で並ぶスターハウス

緑地と6・8号棟
この公園(緑地)の下に赤羽台トンネルの道路が走っている
赤羽台トンネルは,団地を分断する都市計画道路をどうするかで議論が続き
最終的には現在のトンネルの形で決着がついた経緯がある.
 
14・15号棟
5階建ての住棟である
階段の向きが横向きになっている

4・6号棟
こちらの階段の向きは,よく見かける縦向きである.
 
50号棟の1階にある「赤羽台団地商店街」
赤羽駅前のイトーヨーカドーなどに押され気味の感が否めない
 
50号棟の廊下は,片廊下式であるが,室内式となっている
冬は暖かくて良さそうである

50~53号棟は,□型に囲まれていて,中心に公園を配している
写真は,エレベータ棟を境にして左が53・右が52号棟.
1階に診療所や郵便局がある.
左側の53号棟は単身者用の住宅で,トイレと風呂は共同だとか.

53号棟の脇の階段は,天気がいいと洗濯物や布団を干している
これを見ると,生活感があって「団地にきたな」と感じる.

20号棟1階部分
玄関まではちょっとしたアプローチがあって,
ガーデニングを楽しむこともできる
 
スキップフロアー形式の33号棟
廊下があるのは3階と6階のみで,
「33」と書かれた部分の出っ張っているところに6階の廊下がある.
例えば,5階に行くためには,一度6階まで上がって,
6階の廊下を歩いて,各戸に付けられている5階へ降りる階段を使う

40号棟の脇にある黄色い注意信号機
サイズが小さくてレトロチックである
 
住棟と住棟の間には,公園が配されている
参考文献:「僕たちの大好きな団地」,洋泉社,平成19(2007)年4月