交詢社ビルヂング【東京考察#40】

‘Kojunsya’ building (at 6 chome of Ginza)

 


 銀座6丁目の中央通りから1~2本JR線側に入ったところに、交詢社ビルディングが建っている。「建っている」と現在形で話ができるのもあとわずか、まもなく取り壊される運命にある。既に、解体用の仮設の壁がたてられ、ビルにはネットがかけられて、あとは入居者が出ていくのを待っている感じである(H13.3現在)。
交詢社ビルは昭和4年に建てられ、設計者は横河工務所の横河時介、当時流行のアールデコを意識した設計となっている。戦前の重厚な古き時代の銀座を象徴する建物として、広く親しまれてきたが、平成11年度の耐震調査等の結果により、取り壊されることが決定されたようである。
交詢社とは、福沢諭吉が設立した1880年創立の社交倶楽部であり、知識を交換し世務を諮詢することから命名されたという。


側面入口


交詢社通りからみたビル


解体の準備はもう始まっている


1階には「ピルゼン」というドイツ風ビアホールが営業されており、建物内部の重厚な雰囲気を味わうことができたが、店員さんによると、もう既に立ち退きの話がきていて、今すぐにでも営業をやめなければならないのであるが、ぎりぎりまで頑張って営業しているとのこと。しかし、6月(H13年)までが限界でしょうと話していた。残念な限りである。この店のトイレにいくと、いかにも昭和初期の建物であるというタイムスリップした雰囲気を肌で感じることができる。


ビアホール「ピルゼン」


店内の様子


トイレまでの道のり


いかにも昭和時代のトイレといった感じ
(改装はされていると思うが、タイル張りなところはいかにもといった感じ)


この店も6月頃までだとのこと


テナントは引っ越しの準備をしている

 古き良き時代のビルがまたひとつ消えることになる。

そして,取り壊されて跡形もなくなり,現在は新しい交詢ビルディングが建っている.

 

多摩ニュータウン見学モデルルート【東京考察#】

多摩ニュータウン 見学モデルルート

豊ヶ丘4丁目までの行き方
多摩センター駅バスターミナル8番のりば 全路線が豊ヶ丘4丁目停車 約15分

A:豊ヶ丘・貝取南近隣センター
B:歩車分離(車道と立体交差)
C:タウンハウス(低層集合住宅)
D:鶴牧近隣センター
E:富士見通り(道路の軸線上に富士山が存在)
F:タウンハウス鶴牧(3つの公園を環状につなげ、その内外に住宅を配置)
G:鶴牧東公園
H:グリーンメゾン鶴牧(メニュー方式による中層住宅)
I:プロムナード多摩中央(プラス1住宅)
J:多摩中央公園
K:パルテノン多摩(多摩市総合複合文化施設 大小ホールと展示室、ギャラリー等)
L:多摩ヴァンサンカン(多摩ニュータウン展示室)
M:都市センターの中心地
N:多摩センター駅前広場(ペデストリアンデッキを配して、徹底的に歩車分離を図る設計)

O:東京都立大学(イタリアの山岳都市をイメージさせるような設計)
P:宮上中学校(学校も周辺の景観イメージに合わせて設計)
Q:ベルコリーヌ南大沢(マスターアキテクト制による、強烈な個性ある中・高層住宅)

三徳前バス停より南大沢駅までバスで約10分

 

多摩ニュータウン(その3)【東京考察#39】

Tama housing new town (Vol.3)


南大沢駅北側に広がる都立大学
イタリアの山岳都市をイメージした設計となっている


「宝くじ」までイタリア調である


近年オープンしたアウトレットモール


仮面ライダーショーに集まった親子

★ベルコリーヌ南大沢 1989(H1)年入居開始
内井昭蔵氏をマスターアーキテクト(主任建築士とでもいったところか)として各クラスターの設計を担当した建築家の独自のデザインを尊重し、南欧山岳都市をイメージした非常に個性的な街づくりを行った。住宅は主に中層のタウンハウス型式であるが、高層住宅棟は地区の北側にバランスよく配置されている。


南大沢の高層住宅 三角屋根のとんがりが特徴的
デザインに個性が感じられる


川が流れるベルコリーヌ南大沢
レンガ調の強烈な個性ある色彩である


中層住宅


イタリアにいるようだ


建物の側面には地番が明記されている

★ライブ長池 1990(H2)入居開始
堀之内地区の再奥部にある長池をシンボルとし、「せせらぎ」がテーマとして開発が行われている。堀之内駅前と住宅地区をつなぐガウデイ調の屋外通路は非常に個性的である。


四谷にあった見附橋を移設したもの
長池から流れ出る川にかけられている


長池


長池から流れてくる「せせらぎ」をテーマとしている


ライブ長池 これも一連の「せせらぎ」である


堀之内駅前と斜面上の住宅までをエスカレーターで結んでいる

 
堀之内駅前と住宅を結ぶ斜行エレベーター
斜めに動いていく珍しいエレベーターである

開発の行われる前の多摩NTは、畑や山が広がるのどかな丘陵地であり、このような街に大変身するとは、誰も想像していなかっただろう。その当時の写真や様子は、多摩ヴァンサンカンの展示室にて公開されている。タヌキやキツネがでそうな、雑木林であった。

見学モデルルート

参考文献
・多摩ニュータウンパンフレット
・日経アーキテクチュア 93年3月号

多摩ニュータウン(その2)【東京考察#38】

Tama housing new town (Vol.2)

見学モデルルート

1980年代前半

住環境の向上を図るため、多摩NTにタウンハウス(低層集合住宅)が建設された。多摩NTで最初にタウンハウスが建てられたのは諏訪地区(1979年)であり、続いて4年後に鶴牧地区で建設された。また、入居者がメニューの中から自分で設計するフリースペースを含んだ、メニュー方式による中層住宅も登場した。

★タウンハウス諏訪 1979(S54)年入居開始
タウンハウスの先駆的事例として知られる。しかし、高密化できないこと、建ぺい率が高く駐車場の確保が難しいこと、コストが割高であることなどにより、タウンハウスの時代はあまり長続きしなかった。

★タウンハウス鶴牧 1982(S57)年入居開始

★グリーンメゾン鶴牧 1983(S58)年入居開始
中層および高層からなる住宅。中層棟に勾配のある屋根を付けて雁行させるなど、外観に一工夫付け加えている。入居者が設計できるメニュー方式による中層住宅もある。


2階建てのタウンハウス鶴牧


住居案内板
緑のラインが歩行者・自転車専用道路
灰色のラインが自動車・二輪車道路
完全に歩車分離がされている


歩行者専用道路


自動車の道路

区画整理事業によって建てられた戸建住宅もある


雁行屋根をつけたタウンハウス


道路の軸線上に富士山が見えるように設計された「富士見通り」
運良く富士山が見えている


公園の広場ではサッカー

1980年代後半

この時代になると、アイデンティティー(個性・その人らしさ)を重視した街づくりが現れるようになってきた。プラスワン住宅と呼ばれる、通りに面して開かれたもう一つの部屋(フリースペース)を持つ住宅が登場し、キャラクタープランと呼ばれる、個性的な間取りが考え出されるようになった。また、マスターアーキテクト制を導入して、街全体を調和のあるデザインに設計された開発も登場した。

★プロムナード多摩中央(プラスワン住宅) 1987(S62)年入居開始
「プラスワン住宅」である。通りに面した部屋(フリースペース)での趣味活動などにより、地域とのコミュニケーションが図られ、暮らしの営みにプラス1のふくらみが生まれる。通りに対して賑わいを創出する狙いもあった。

★ファインヒルいなぎ 1988(S63)年入居開始
戸建から中層・高層住宅が扇形に広がる配置と、色彩の統一や歩車融合(ボーンエルフ式・多摩NTの基本的考え方と逆である)を図った街づくりが特徴。キャラクタープランにより、個性的な考え方が出されるようになった。


プラスワン住宅。
通りに面して、アトリエなどを開くことができる。
プラスワン部屋専用の玄関もある。もちろん中の部屋とつながっている。
この部屋は1階に住む人だけの部屋であろう。


多摩中央公園


パルテノン多摩から多摩センター駅へまっすぐのびる都市軸
多摩NTの中心地である。
パルテノン大通りと呼ばれる歩行者専用のペデストリアンデッキである
自動車の軸線はこの下の階にある。


たまヴァンサンカン
多摩NTの情報展示館である
開発変遷の展示が行われており、
住宅案内も行っている


三越前からサンリオピューロランドを望む


カード売りの露天商に群がる子供達


多摩センター駅

参考文献
・多摩ニュータウンパンフレット
・日経アーキテクチュア 93年3月号

多摩ニュータウン(その1)【東京考察#37】

Tama housing new town (Vol.1)


(出典:「多摩ニュータウン」パンフレット)


 多摩ニュータウン(以下多摩NT)は東京都南部の多摩丘陵に位置し、標高150m前後、多摩市を中心に稲城市、八王子市、町田市に及ぶ東西14km、南北2~4kmの大規模な住宅開発地域である。京王相模原線を利用することにより、新宿から約35分で結ばれており、大都市東京のニュータウンとして、大阪の千里ニュータウンとともに、大都市の住宅供給を行ってきた開発である。

1960年代、日本の高度経済成長によって東京圏は都市化が急速に広がっていき、大量の勤労者が流入していった。それに伴って、住宅宅地需要が増加していき、中心市街地の地価の高騰によって、郊外である多摩地域でも無秩序な開発(スプロール化)が進行していった。このことから、居住環境の良い宅地・住宅を大量に供給することを目的として、1965(昭和40)年、「新住宅市街地開発事業都市計画」が決定、計画人口約30万人、総面積約2980haの多摩NT開発が行われることになった。

 多摩NTの宅地開発は、施行者が土地を全面買収して宅地造成などを整備する事業(新住宅市街地開発事業という)と、所有されている土地を換地という手続きによって区画形質の変更を行って宅地としての利用を増進する事業(土地区画整理事業という)によって行われている(道路や下水道などの整備は関連公共施設整備事業によって行われている)が、多摩NTでは前者の土地を全面買収することをメインとして宅地造成をしており、歩車分離を徹底させた(ラドバーン方式)道路構成やバランスのとれた建物や公園の配置など、開発設計思想の反映された個性と魅力のある面的な住宅開発がされている。

新住宅市街地開発事業の施行者は、都市基盤整備公団(前住宅・都市整備公団)、東京都住宅供給公社、東京都によって行われている。

見学モデルルート


1970年代前半

多摩NTで最初に入居開始された地区が諏訪・永山地区であり、その翌年に入居開始されたのが和田・愛宕東寺地区である。「安く良質な住宅を、早く大量に供給する」という時代であり、箱形の中層住宅(5階建て)が平行に建設され、ポイントには高層住宅(14階建て)も建設された。

★諏訪・永山団地 1971(S46)年入居開始
3DKを中心都市、平均住戸専用面積は約50m2。直方体の箱形中層住宅と高層住宅が建設された。


初期に開発された貝取団地


豊ヶ丘・貝取近隣センター(構成図:戸店)


近隣センター構成図

 
大型スーパーなどの出店による小売店の衰退は
近隣センターでも起こっている。
中心市街地の衰退と同じことである


近隣センターにある医者村(構成図:病)

1970年代後半

★貝取・豊ヶ丘団地 1976(S51)年入居開始
基本的な外観、プランは諏訪・永山団地と同じである。分譲住宅については広いLDKを導入するなどして面積を大きくしたため、平均住戸専用面積は70m2を越えた。また、1971年の道路法改正によって、諏訪・永山地区ではできなかったペデストリアンデッキによる歩行者専用道路のネットワーク(歩車分離のラドバーン方式)が実現した。公園もただ真四角の広場をとるだけではなくて、池を配するなどの工夫が見られるようになった。


ペデストリアンデッキ(歩道橋)によって徹底的に
歩車分離が図られている


初期の箱形中層住宅(ようかん型とも言う)


ゴミ集積所


1階の掲示板

 公団住宅の入口は開放的で入りやすい。それは、居住者以外の人も入りやすいということであり、そういう構造上のこともあってか、公団の団地というのは、壁への落書きやエレベーターボタンのいたずら(ライターでプラスチックのボタンを溶かしてしまう)が多いように思う。


犯罪防止のため、午後11時から午前5時まで、
強制的に各階に停止するエレベーター
14階の住人にはたまらない(深夜は全てドアが開くのである)


新住宅市街地開発事業で整備された区域内では、中学校区を基本的な単位として、幹線道路を境界に「住区」と呼ばれるブロックに分けられている。
全住区数は21住区であり、1住区は面積約100ha、住宅3,000~5,000戸、人口12,000~20,000人が計画されている。
各住区には原則として中学校1校、小学校2校を設置し、スーパーや店舗、交番、郵便局、診療所などの住民サービス施設の集まる近隣センターが配置されている。
さらに、住区をいくつかあつめた「地区」が構成されており、地区の中心(鉄道駅となっている)には地区におけるサービスセンターである地区センターが配置されている。
このように、学校やスーパー、警察などといった公共機関も含めて一体的に開発できるところに、土地を全面的に買収して開発する新住宅市街地開発事業の魅力があり、多摩NTの魅力と特徴になっている。公団や都道府県などの役所による開発でなければ、このような開発は難しいであろう。

住区マップ1 住区マップ2

参考文献
・多摩ニュータウンパンフレット
・日経アーキテクチュア 93年3月号

築地市場(場内)【東京考察#36】

The fish market in Tsukiji (inside market)

築地市場正門

 


 「築地の魚河岸」は有名である。それは、築地に東洋一の取扱量を誇る中央卸売市場があるからである。現在の築地の魚河岸(築地では青果も取り扱っている)は、関東大震災後に江戸時代より日本橋にあった魚市場を海軍兵学校跡地に移転したことに始まる。中央卸売市場の中を「場内」と呼ぶが、場内では小売りは行わずに原則として仲卸業者へのみの販売となる。小売りは「場外」と呼ばれる晴海通り沿いの市場で行っている。

築地に来たら、絶対に場内へ入ってみるべきである。この中に一歩足を踏み入れると、ここが日本なのか!と驚くほど威勢と活気と躍動感に満ちあふれており、気分が高揚してくる。この場内の風景を眺めていると、つくづく日本もアジア人だなと感じずにはいられない。とにかく、けたたましくて騒々しい。東京のエネルギーを十分すぎるほど肌で感じることができる場所である。

この築地市場は都市計画市場として位置づけられているが、場内の老朽化や手狭な敷地を解消するために、平成24年に豊洲への移転話が決定しており、この計画に反対運動も起きている。築地の魚河岸が過去の話として語られるときが、もうすぐそこまでやってきているのである。また、移転先の豊洲の埋め立て地において、土壌にベンゼンやヒ素などの有害物質が検出され、安全性の面からも移転反対の議論が沸き起こっている。

ちなみに、場内へは誰でも入ることができ、外国人観光客の姿も目にすることができる。一般者が見学するには、一段落する午前9時過ぎがちょうどいい時間であろう。が、ぼやぼやしていると場内を走っているリアカーやターレット車と呼ばれる三輪自動車にひき殺されそうになるので注意すること。すきがあればどんどん割り込んでくるし、待っているだけではいつまで経っても通路を横断することはできない。ぼけっと立っていると「ちょっとどいてー」と大声をかけられることになる。邪魔をしないように・・・。


動画コーナー

場内の様子1 (交差点の喧噪)

交通整理員が役目を果たしているのか・・・?不明.

場内の様子2 (交差点の喧噪)

 

場内の様子3 (建物内の喧噪)

 


新橋駅の市場行き都営バス(市01系統)
市場開催日には、午前5時02分が始発となる。
バスは築地市場正門から中に入っていき、場内で終点となる。
バスで行くと場内まですんなり入って行けるので便利である.


リアカーをひく


仲卸業者専用の店(小売りは行わない)

   


通路には番号が付けられている 「第五大通路」


巨大な冷凍マグロ


マグロをさばく

  
右のオレンジの荷車がターレット車 ハンドルの円形レバーを押すと走り出す


場内には食堂もある
休みの日には寿司屋など大行列である.

診療所もある


買い付けた荷をトラックに積む場所 買荷保管所


長靴や作業着なども売っている


某テレビ局の取材クルー



電通ビルから見た築地市場

築地市場(場外)【東京考察#35】

The fish market in Tsukiji (outside market)

 


 「築地の魚河岸」は有名である。それは、築地に東洋一の取扱量を誇る中央卸売市場があるからである。中央卸売市場の中を「場内」と呼ぶが、場内では小売りは行わずに仲卸業者へのみの販売となる。個人客は、その市場の隣(中央卸売市場の晴海通り寄り、築地4丁目交差点に向かった側に広がっている)にある「場外」と呼ばれる市場で購入することになる。魚はもちろん、包丁屋、かつお節屋、卵焼き屋、漬け物屋など、さまざまな小売店が並んでおり、アジアチックな市場を形成している。


 
場外市場

 
場外市場


雰囲気はアメ横に似ている


かつお節屋


包丁屋


漬け物屋(全国各地のさまざまな漬け物がある)


卵焼き屋(お寿司屋さん御用達)

 
立ち食いラーメン屋  ターレット車がテーブルに・・・


コーヒースタンド


市場移転「断固反対」のポスター
(豊洲への移転が決定している)

 

 

年末は,人でごった返し,大混雑となる.身動きがとれない.