「■国内の旅」カテゴリーアーカイブ

BANCHAN WORLD の国内をテーマにしたカテゴリーです.

龍飛崎[冬の津軽半島#1]

地吹雪吹き荒れる「冬の津軽半島」に行って来た。

強寒風の吹き荒れる「龍飛崎」。
石炭をくべて走る「ストーブ列車」。
弘前城雪灯籠祭り。

それぞれの風景をどうぞ。

(旅行年月:2001年2月)


龍飛崎(たっぴ)

「ごらんあれが龍飛岬 北のはずれとー、見知らぬ人が指を指す・・・。」 石川さゆりの津軽海峡冬景色はあまりにも有名な歌である。そして、龍飛の地に立ってこの歌を聴くと、身にしみて歌詞を実感することができる。寒強風が吹き荒れ、ここが極寒の最果てであることを充分すぎるほど、感じることができる。

龍飛崎灯台
対岸に見える島は北海道・檜山地方
強風の吹く龍飛では、
風力発電が行われている
階段国道 339号
青函トンネルの現場基地があった所

写真では分からないが、とにかく超強寒風の吹き荒れる寒い岬であった。

ストーブ列車[冬の津軽半島#2]

ストーブ列車

JR五能線五所川原駅から津軽半島へのびる1本の地方私鉄がある。その名は「津軽鉄道」。そこには、冬になると(11月から3月の間)運転されるストーブ列車がある。石炭が燃えるだるまストーブが1両に2台設置されており、車内の暖房として今なお健在なのである。ストーブ列車は1日2往復であるが、特別なダイヤを組んである特別な列車ではなく、毎日運行されている普通の定期列車である。車両はかつて国鉄時代に東北本線などの「鈍行」でよく走っていた茶色や青色の客車と同じタイプのものであり、定期列車としてこの客車が走っているのは、この津軽鉄道のみであるという。ストーブ列車は3両のみとなっている。なお、するめは持参のこと。

ストーブ列車

石炭をくべる車掌

だるまストーブの石炭は、2~30分もすると火が弱くなってくる。すると、車掌がやってきて、座席の下の金バケツに入っている石炭をくべに来る。

足下にある石炭
混雑する車内
ストーブ列車は人気が高い。
用意周到な客は
軍手を持ってくる
(熱くなった
するめを持つため)

レトロな車内
車窓

五所川原駅前にある「平凡食堂」
平凡な中華そば
(400円)

飛島【島紀行】

 

飛島は山形県酒田市に位置し、酒田から北西約40km離れた日本海に存在する周囲約10kmの小さな小さな島である。スルメイカの産地として知られ、酒田港からの定期航路で1時間30分で到着する。海釣りやダイビングも盛んである。晩飯も朝食も、これでもか、という具合に魚介海藻類が出てくる。
写真は飛島の勝浦港である。船が入港すると、港は一時だけ賑やかになり、島はどこでもそうであるが、この雰囲気が離島の醍醐味であり、離島の旅がやめられない一因でもある。

桜島【島紀行】

今でも噴煙を上げる鹿児島県・桜島。風向きによっては灰がパラパラと降ってきて、傘がないとあっというまに頭が真っ白になってしまう厄介者である。洗濯物は外に干せず、車が通ると「ぼふぁっ」と煙が舞いたって、すさまじい砂ぼこりとなる。写真左下に見えるトンネルは、万が一の時のための避難壕である。桜島は大根でも有名。

噴煙をあげる桜島
桜島桟橋
大根が描かれている

牛たん・ネルドリップ珈琲専門店「牛たん・KOYAMA」(福島県いわき市)

JJR常磐線いわき駅より バス8分 6番のりば 鹿島SC経由小名浜行き・飯野経由ラパークニュータウン行き「上荒川公園入口」下車 徒歩10分


鹿島街道の平工業高校近く下荒川の住宅地の中で本場「牛たん料理」と本格派「ネルドリップ珈琲」を味わえる店である.
炭火で焼かれた柔らかい牛たんは,あっと言う間に一皿ぺろりとたいらげてしまう絶品である.牛が苦手,という人は,豚ロースや鶏つくね,ハンバーグなどもある.

https://gyutan-koyama.com/

店は,「蔵」をイメージしたつくりとなっており,和を基本としてアンティークさを感じる落ち着いた清潔な空間となっている.夜,店内から窓の外を見ると,モミジや竹がライトアップされ,
お店の人の「空間」に対するこだわりが感じられる.

また,マスターは音楽バンドを結成し,かつては年に1回,三崎公園の野外音楽堂にて「野音フェスティバル」を主催していた.いわきにおける音楽活動の拠点として活動されている.

ランチメニュー 牛たん塩&味噌の合い盛りセット

ハンバーグもお勧め!

ちなみに,私のお薦めは数量限定の「味噌味」.
この味を越える味噌牛タンを食べたことがありません(個人の嗜好はわかれるところですが).
仕込みに手間暇をかけているので,味噌の味がしみこんでいて,
柔らかい牛タン味噌味となっています.
塩味と味噌味は同じ値段で,これは信じられません.
一度食べたら味噌味がやみつきになります.

場所は住宅地の中のちょっと入り込んだところにあるので,
最初はわかりづらいかもしれませんが,
看板がでているので(メガネトンネルの通りのみ),
その案内にそって交差点を曲がりましょう.

クリスマスライブの模様(キーボードが僕です!!)

「美好食堂」のソースかつ丼(福島県只見町)


美好食堂


福島県南会津郡只見町
JR只見線只見駅より徒歩数分


日本有数の豪雪地帯・只見。この只見に店独自のソースをからめてある甘口のソースカツ丼が存在する。食堂の名は「美好食堂」。都会では考えられない店構えであるが、店内に入っても、その雰囲気は変わることはない。ここのソースかつ丼は、ご飯の上に薄い半熟状態の卵焼きがのっかり、その上にキャベツ、そしてソースのからめてある揚げたてのカツがのっかっている。当地域では、カツ丼というと、卵とだしで揚げたカツをからめてある、いわゆる普通のカツ丼(これを「煮込みカツ丼」と言う)と、ソースのからめてある「ソースカツ丼」の2種類が存在するので、どちらかを選択することになる。


ソースカツ丼 ¥800


ご飯・卵焼き・キャベツ・ソースカツの順にはいっている


店内には漫画本がたくさん置いてある、元祖マンガ食堂。

味のれん「さくら」(福島県南会津町)



味のれん「さくら」


福島県南会津郡田島町
会津鉄道会津田島駅より徒歩3分
(グリーンホテルミナト第2駐車場向かい)
営業時間:23時まで


南会津の山の中に、新鮮な鮮魚やこだわりの魚料理を出してくれる寿司屋がある。その名は「味のれん・さくら」。店内に張ってある「今日のおすすめ」メニューには、仕入れによってその時期の魚が味わうことができ、マスターのこだわりの味を堪能することができる。鮮魚の保存方法にも気を配っており、ほんとうにここが田島なのか、と思うほど、うまい海の幸を味わうことができる。
手作りの塩辛、酢めしのお茶漬け、イワシの握りなどがお奨め。時期によっては岩かき、メヒカリ、さよりなども味わえる。冬になると鍋料理、予約をすればふぐ鍋も食べられる。馬刺「さくら肉」も店の名前にちなんでメニューに存在する。しもふりの馬刺である。


手作りの塩辛(肝が入っているときもある。絶品!)


ヒラメの刺身


タラの白子と刺身 桜の花びらのようだ


清潔な店内

カレーハウス「じゃんご」(北区王子)


東京都北区王子1丁目界隈
JR京浜東北線王子駅中央口より徒歩1分
営業時間:(午前中から23時頃まで)


店内はカウンターとテーブル席の清潔感あふれるコンパクトな造り。カレーはちょっぴりスパイスのきいた「インド(ムルギー)カレー」と我々が普段食べているカレー味の「マイルドカレー」とがあり、好みに合わせてルーを選ぶことができる。何も言わないとインドカレーの方がでてくるので、普通のカレーが食べたい方はマスターにひとこと伝えましょう。
カツカレーやコロッケカレーなどの揚げ物カレーは、その場でパン粉をつけて揚げたてのものが出てくるので、大変美味い。もちろんコロッケも手作りのコロッケだとか。また、ハンバーグもお手製の手作りハンバーグが出てくるので、市販のハンバーグとはちょっと違った味が楽しめる。とにかく全てが手作りなので、味に落ち度はない。マスターのこだわりが感じられる。

すべてのカレーが「おすすめ」なのであるが、左記のスペシャルシリーズを食べると、また違ったカレーの楽しみ方を味わえる。
とんこつスペシャルでは、豚の角煮と豆腐という組み合わせの上に、ニンニクが2粒のっかっているもので、これがなかなかいける。
ムルギーカレーはチキンと風呂ふき大根という組み合わせで、大根のあっさりしたテイストが、なんともカレーのスパイシーさを中和させてくれる。

カレーのスパイス

とんこつスペシャルカレー(骨付きポークと豆腐、ニンニクがのっかっている)

フィッシュスペシャルカレー(ムニエル風のアジの上にチーズがのっかるスープカレー)

サンバルカレー (インドマメのカレー.旬のタケノコが具でした!)

対馬島・壱岐島【島紀行】

対馬・ハングル語標記

北九州で所用があり、それを済ませた後、「せっかく九州まで来た」ということで、対馬・壱岐へ足を伸ばすことにした。ちょうど土・日も挟まり、小旅行をするのには適した日程だった。
九州地方はこの冬初の寒波がやって来て、非常に肌寒い天気だった。昨日は冷たい風が強く吹き、みぞれ混じりの雨が頬を突き刺すように降っていた。
対馬までの飛行機に乗るため、福岡空港へと向かった。小倉から快速に乗り、博多で地下鉄へと乗り換えた。
頭上にある案内表示板の指示に従って、駅のコンコースを地下鉄のりばへと歩いていった。すると、日本語と英語による案内の他に、中国語、ハングル語による標記もその横にされていた。そして、地下鉄に乗ると、「ドアにご注意ください」「MIND THE DOOR」「開門門時請小心」「○○○○ハングル語」と4ヶ国語で書かれたステッカーが全てのドアのガラスに貼ってあった。福岡空港の国内線のごみ箱にも、「もえるゴミ・もえないゴミ」という日本語の隣に、○や|の入り混じったハングルの文字や中国の見慣れない漢字が標記されていた。
対馬までは約1時間である。今日は天気が良く、眼下の景色がー望できた。飛行機が高度を上げて空港が徐々に小さくなっていき、福岡の街並みが見渡せるようになった。こうして見てみると福岡の街がかなり大きいことがうかがえる。博多湾に目をやると、「海の中道」とよばれる半島が、線のように細く長く美しく海中に弧を描いて延びていた。

対馬の玄関口・対馬空港

対馬の最北・比田勝のバス待合室

対馬も寒かった。まずは浅茅湾の美しい景観が見られる万関展望台へ行こうと思った。バスの時刻を調べたが、適当なバスが走っておらず、タクシーを利用することにした。
対馬空港のロータリーには
『歓迎 WELCOME ○○(ハングル語) 』
と書かれた観光案内板が立っており、ここでもハングル文字に出会うことができた。タクシーの運転手さんに聞いてみた。
「韓国からの観光客はかなり多いんですか。」
「そんなにでもないですねぇ。年に1度の祭りの時には、やって来るんだけどね。」
「あらそうですか。結構あちこちでハングル語を見かけたもんですから。」
「あー、あれね。お隣の国ですから、親しい気持ちを込めて付けているものなんですよ。」
という事であった。
対馬は古来、日本列島と朝鮮半島とを結ぶ海路の要衝として栄えていたところである。対馬から朝鮮半島までは53kmであり、博多港までの147kmよりもはるかに近い。「国際化、国際化」と叫ばれている昨今、国際交流の意識が盛んになってきているということを改めて実感し、国境に近いところほどその意識は高いのではないか、という気がした。
観光案内の文章、道路の道案内の標識、町村名の看板にもハングル語の標記がついていた。近い将来、北海道ではロシア語.沖縄地方では中国語、などといった標記があちこちで見られる日が到来するのだろうか。

壱岐の玄関口・芦辺港

小さな漁港・勝本

壱岐を結ぶ
国道フェリー(呼子側)

利尻島(最果て紀行#1)

急行「利尻」号稚内行の人となった。札幌22時発の夜行列車である。今日も札幌は寒かった。昼間の気温は16℃。ここ2~3日、北海道は涼しいというよりも寒いといった日が続いていた。
『東京では、今年最高の35℃を記録し、厳しい残暑が続いております。』
ニュースはこう伝えていた。Tシャツの他にヨットパーカーしか持っておらず、この2枚だけでは着たりない気候だった。闇の広がる窓ガラスには、露が隙間なくびっしりと埋まっていた。
車内は満席だった。若者が多く、その中でも大きな登山用リュックを持ったワンダーホーゲル風の若者が多い。皆、最北を目指す人々だった。車内の明かりが消えた。

曇り空の中、列車は湿原を走っていた。すぐに兜沼駅を通り過ぎた。サロベツ原野である。緑の潅木が間隔をあけて後ろへと去っていく。これこそが北海道の車窓である。しばらくすると左眼下に陰鬱とした海が広がった。列車は徐行し、
「晴れていれば、左手に利尻富士の姿を望むことができます。」
と放送が流れた。利尻島の頂上は雲に隠れ、島の裾のみが海上に浮かんでいた。そして午前6時、最北の街・終点稚内に到着した。
稚内は道北随一の漁業基地であり、アイヌ語で「ヤムワッカナイ」-冷たい水のある沢-の意だという。戦後の樺太引き上げ者には稚内に留まる人が多く、それによって市制施行が可能になった所でもある。
フェリーのりばへと向かった。まず、利尻島へ上陸し、午後に礼文島。日帰りで稚内に戻ってきて一泊し、明日、宗谷岬へ行く予定である。ずいぶんと駆け足の旅程になってしまった。もっと時間をかけてじっくり回りたかったが、どうしても今後の日程の都合がつかず、急がざるを得なかった。ターミナル前の定食屋にて、朝定食を注文、まずは腹ごしらえをした。待合室では乗船客がコーヒーを片手に暖をとっていた。
7時30分、稚内港を出航した。ジュータンの敷かれた2等船室は、中高年のツアー団体客と旅行中の若者とで埋まっていった。約1時間30分で利尻島の鴛泊(おしどまり)港に入港する。3000トン級の船なので、海に出るといつもの事ながら上下に「グワン、グワン」と揺れはじめた。この利礼航路が開設されたのは鉄道が稚内へ伸びた後の昭和8年であり、稚内と利尻と礼文とを結ぶことから別名三角航路とも呼ばれている。
鴛泊まであと20分となった。甲板に出てみた。海上にポッカリ浮かぶ利尻島は最高である、と聞いていたが、やはり雲は取り去られていなかった。分厚く覆っている灰色の雲と海が、最北の地を表現していた。
利尻島はノシャップ岬から西へ約52㎞、周囲63㎞、面積182.1k㎡、利尻町と利尻富士町の2町からなり、北海道の離島の中では最も大きく、伊豆の大島よりひとまわり大きい島である。噴火によって出来たこの島は、島そのものが一つの山を形成している。一つの頂きから海に向かって美しくのびる裾を持ち、しかも高さが1700mもあるような島(山)は、日本では利尻島以外にはない。
利尻礼文の開拓は貞亨年間(1684~)から始まったが、本州からの移住者は明治に入ってから増えた。産業の中心は鰊漁であり、はじめのうちは出稼ぎ農漁民だったが、次第に定住する者が増え、最盛期の昭和30年には約2万人の人口があった。ところが、鰊漁の不振とともに人口が減少し、今では人口約1万人、アワビやウニなどの栽培漁業、ホッケ、スケソウダラ、イカなどの沿岸漁業に力を注いでいる。昭和49年に「利尻礼文サロベツ国立公園」に指定され、現在では漁業とともに観光が島の重要な産業になっている。
鴛泊のターミナルは堅牢な建物である。昭和58年に建てられたものだという。次の香深港(礼文島)行のフェリー出航まで2時間半しかなかった。バスの時刻表を見てみたが、一周する時間はない。待合室をさまよっていると、胸に名札をつけた制服を着たおじさんが近づいてきた。
「この後の予定は決まってるの?」
「いや、全然きめていないんですけど、とにかく、11時25分の船で礼文島へ行くのだけは決まっているんですが。」
「あ、それなら、ハイヤーでぐるっと一周するよ。船には十分間に合うから、どう?」
その方法が、今の状況では最良の島内見物に思えた。しかし、気になることと言えば、
「それで、値段の方は。」
「1時間半で1万3、4千円ぐらいかかっちゃうけど。」
「1万3、4千円かぁー。……。」
僕は渋い顔をしていた。
「せっかく一周できる時間があるんだからさ。もったいないよ。予算はいくらぐらい?」
「5千円位ならばいいんだけど。」
「5千円だと1箇所の往復だけで全然みれなくなるからね。誰か他に一緒にいく人がひとりいればいいんだけど。誰かいないかね。」
運転手さんと僕は待合室に入り、一人旅の人間を探した。一人青年がいたが、これから折り返しの船で発つとのことだった。
「じゃ、1万円でいいよ。」
それでも、頭の中で2つの思惑が交差した。
『タクシーに1万円を使うのは高くてもったいない!』
『せっかく最北まできたのだし限られた時間内では多少の出費も仕方ない、1万円は安い方だ!』
結局、後者を選んだ。

沼浦展望台

姫沼

運転手さんより、役場の発行している観光案内パンフレットを手渡され、島全体が載っている地図を開いた。これから、島北部に位置する鴛泊より右回りに一周するという。まずは姫沼に行くことになった。利尻島は鴛泊・鬼脇・仙法志・沓形の4つの集落から成り立っている。道は閑散としており、左は海、右は小高い丘という風景だった。鴛泊の市街を抜け、車は海岸沿いの一周道路から右の道へ曲がって姫沼へ向かった。姫沼は針葉樹林や高山植物に囲まれた周囲1㎞の沼で、利尻山を逆さに写すことから、「姫沼のさかさ富士」として知られている。今日は山は写っていない。うっそうと茂る林のなかにある静寂な小沼だった。
再び一周道路に戻り、車は南下した。左手には、利尻水道を挟んで北海道がぼんやりと望める。島の人々は北海道のことを「本土」、本州のことを「内地」と呼ぶという。島民にとって、本州は遠い地なのである。「内地」という言葉には、北海道を開拓した人々のフロンティアスピリット、夢と希望と不安が表われているように感じる。
エゾマツとトドマツの違いについて聞いてみた。この2つは非常に見分けのつかない松である。
「これから先に、両方の木が生えているいい場所があるから。」
そして、その場所で車は止まった。右側には岩礁のような山にマツがごそっと立っていた。そこを指差して、
「左がエゾマツで右がトドマツですよ。」
一見しただけでは見分けがつかなかった。
「幹からわかれている枝が、上を向いているのがトドマツ、下を向いているのがエゾマツね。覚え方は『天まで・と・どけ・ト・ドマツ、どうでも・え・えぞ・エ・ゾマツ』と歌うんだよ。」
多少なまりのある言葉で、リズムにのせて繰り返し歌った。確かに、よく見ると枝ぶりが違っていた。見た目には、やはり上向きのトドマツの方が整っている。どうでもいいエゾマツは葉がボザッとしていてしまりがない。歌詞に影響されているかもしれないが……。
左手に赤と白の縞に塗られた巨大な灯台が現れた。石崎灯台である。赤白に塗られているのが無人灯台で、黒白に塗られているのが有人灯台である。今はほとんどが無人化されており、昔はここも黒白に塗られていたという。沖合い漁業の盛んな鬼脇の集落に入った。
オタトマリ沼を右手に見て、坂を登った小高い山頂にある沼浦展望台に着いた。涼しい風が吹いている。海抜42.7mと書かれた看板横で写真を撮った。山側の眼下にはオタトマリ沼が見え、その背後には木の点在する草原状の丘が続いていた。晴れていればそこに山がそびえているはずである。なんとも荒涼とした眺めであった。
島の南端を通過し、仙法志に入った。アザラシがいるという仙法志御崎公園に立ち寄り、北のいつくしま弁天宮を通り過ぎて、寝熊の岩に着いた。その名の通り熊が寝ているように見える岩礁である。仙法志の海岸は奇岩・奇石が点在しており、他にも人の横顔に見える人面岩もあった。人面岩の頭の部分には白いしめ縄がハチマキのように巻かれていた。
島内に信号は3箇所あるという。そのうちの一つは押しボタン式であり、
「赤になったのを見たことがないよ。」
と言う。
信号などなくてもよさそうであるが、島民が都会に出た時に困らないように教育上必要なのだそうである。
家の煙突は集納煙突といい、煙を一ヵ所に集めて外に出すしくみになっているという。そして北海道の家々に四角い煙突が多いのは、雪などから守るため頑丈に造られているからだという。
沓形に入った。小樽と礼文からのフェリーが寄る町(旅行時は運航していたが、現在は廃止された)で、アイヌ語で「クツアカンタ」-岩が多い所-という意である。海岸に広がっている黒い岩は、利尻岳噴火の際の溶岩であるという。右手はクマザサなどの生い茂る平原が続いている。上空に小さな飛行機が見えた。近くにある利尻空港から飛び立った稚内行のプロペラ機で、19名乗り、稚内までは20分で到着してしまう。船の弱い人が利用するそうである。現在空港はジェット化に向けて工事をしているという。
「ジェット化すれば、札幌から大勢乗った飛行機がびゅんとやってきて、便利になるだろう。」
と未来への希望を語っていた。
冬の吹雪はすさまじい。車で外を走っていても前が見えず、そういう時は車を運転しないという。大時化の時は、岸に風船ぐらいの大きさの岩が打ち上げられるというから驚きである。
「2~3日分まとめて新聞が配達されることもあるよ。もう何十年も前のことだけど、一週間くらい船が来なくて、島の食糧が底をつくという時もあったよ。」
と話していた。
沓形には会津藩士の墓があり、そこに寄ってもらうことにした。故郷が会津の僕としては気になる所であった。文化4(1807)年、ロシア軍艦の襲撃に対する警備のため、津軽藩や会津藩を配置させたが、この時に水腫病で死亡した藩士の墓である。墓は、道路より少し入った場所にひっそりと立っていた。
6年前、天皇(現皇太子)が山登りをされたため道路が良くなった、泊まったホテルはあそこだよ、などと話をしているうちに鴛泊へ戻ってきた。タクシーもたまにはいいな、と思った。

礼文島(最果て紀行#2)

午後12時、礼文島・香深港に到着した。礼文島は利尻島より12㎞北に位置し、周囲72㎞、面積82k㎡、利尻島とは違って南北に細長い島である。島全体は丘陵地となっており、島東側は南北に貫く道路が走り集落が点在するが、西側は海食岩が断崖絶壁となって海に臨み、人を寄せつける気配が全くない。利尻島と共に、高山植物が海抜0mから群生し、「花の浮き島」とも呼ばれている。断崖絶壁の西海岸には8時間ハイキングコースがある。
島北端のスコトン岬に行ってみることにした。岬行のバスまではまだ時間があったので、昼食をとり待合室で待った。香深港ターミナルは鴛泊と同様、真新しい立派な建物だった。
桟橋が賑やかになってきた。折り返し稚内行きフェリーの見送りの人々である。僕も桟橋へ出てみた。
若者が多かった。3人組の青年が大声で歌を歌い、応援団のように大きな身振り手振りを加えながら別れを惜しんでいる。一方では一人ギター片手に歌を弾き語り、別れを告げている。船の甲板には数十人の若者が桟橋に向かって手を振り合い、別れの言葉を叫でいる。人それぞれ、自分なりの別れを表現していた。紙テープが何本も投げられた。
「○○大学ユースホステル部のますますの発展を祈って、三本〆めを行います!」
大声と共に手拍子が行われた。
出航間近になると「蛍の光」がしみじみと流れ始めた。
「またこいよー。」
「さようならー。」
「バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ。」
若者達の顔は笑顔で満ちていた。真に別れを惜しみ、思い出を胸にかかえている顔だった。つながりを求めてユースホステル桃岩荘に集まる若者たちの青春をかいま見たような気がした。
4人の乗客を乗せ、スコトン岬へ向けてバスは発車した。町を抜けると島東側の海岸通りを北に向かって走る。右には海に浮かぶ利尻島が望める。山頂は見えなかったが、朝よりはだいぶ雲が無くなっているように思える。道路は利尻島の方が整備されており、こちらは狭路も残る田舎道といった感じだった。
「日本離れした風景」とはまさにこのことを言うのか。北海道本土に住む人間でさえ、利尻礼文は美しい所だと言う。樹木はほとんど見当たらず、地の起伏に沿って荒涼とした草原が続いていた。
香深井、起登臼、上泊と過ぎ、飛行場のある船泊を過ぎた。バスはのんびりゆっくりした速度で走り続けた。北海道のバスにしては珍しいようにも思う。
僕はこのバスの折り返しで香深港に戻らなければならなかった。スコトン岬で与えられた時間はたった2分である。 須古屯の集落を過ぎ、あと少しで終点に着くというところで、念のため、運転手さんに聞いてみた。
「このバスはすぐ折り返しになるんですよね。17時のフェリーに乗るためにはこのバスで戻らないと間に合いませんよね。」
バスは今までの緩慢さが嘘のようにスピードを上げ、草原を勢いよく走り出した。
「もう少し早く言ってくれればよかったのに。」
そして岬の駐車場に着いた。
「ここを(14時)10分に発車するから。すぐそこが岬だから見てきていいよ。」
発車を5分延ばしてくれた。スコトンの地をこの足で踏めるのだった。急いで岬の先端へ向かった。

スコトン岬

メノウ海岸

前方にトド島が見え、断崖の突き出した先端にやってきた。写真を撮り、「最北限の公衆トイレ」と書かれたトイレに入った。宗谷岬とスコトン岬の緯度はほとんど変わらないが、若干宗谷岬の方が北に位置しており、それで「最北・限」という表現になったのだという。中途半端なシーズンの為か、観光客はほとんどおらず、曇り空と相まって風の吹く寂しい所だった。バスを待たせていることから、じっくりとその風景に浸っている余裕はなく、急いでバスに戻った。
15時を少し回った所で、香深の港に戻ってきた。さて、この島で一番楽しみにしていたこと、それは「うに丼」である。これだけは何が何でも実行しようと思っていた。いよいよ、それを食べれる時がきた。町中へ、いざ出陣である。
街は静かであった。人通りは全くない。適当に歩いていれば店があるだろうと思い、ぶらぶらと歩いていた。役場前を通り過ぎてしばらく行くと、「うに丼」と書かれた大きな旗を立てかけている店があった。迷わず店内に入った。
客は誰もいなかった。注文を聞かれ、ここでも迷わず、
「うに丼を一つ。」
うに丼にも量によっていくつかの種類に分けられており、器を大きくしたものが「ジャンボうに丼」、うにを2層にしたものが「ダブルうに丼」。ダブルうに丼の値段は普通のうに丼の2倍、うにも2倍なら値段も2倍というわけである。また、うにの入ったおにぎりを「うにぎり」と名付けて売っていた。隣の机に無造作に置いてあった北海道新聞を読みながら、出来上がるのを待った。
うに丼がやってきた。結構間口(横幅)の広いどんぶりである。ふたがかぶさっていた。
「まず、ふたを取って下さい。」
何か特別な食べ方でもあるのだろうか。言われるままにふたを開けた。ご対面である。御飯の上にのりを挟んで黄色とオレンジのうにが、うつわ一面に敷き詰められていた。白米が見えない! うには黄金のようにキラキラと光り輝いていた。
「そのふたにしょうゆを垂らして、わさびを溶いて、それをかけてから食べて下さい。」
その通り実行した。まずは吸い物を一口すすり、そして、うに丼を口にほおばった。
あまい。うまい。
臭みが全くない。次から次へと箸の単振動が続いた。至上の幸福感でいっぱいである……。
食べ終るのは早かった。5分位だったろうか。貧乏くさい話になるが、このうに丼は3500円なので、1分当たりに換算すると700円、1秒当たりでは約12円であった。
香深のフェリーターミナルに戻った。海上を見てみると、利尻富士が全姿を現わしているではないか。晴れたのである。日は傾きかけていたが、洋上にすらりと浮かぶ利尻岳は女性的で、何か神秘的な美しさを感じさせてくれるものだった。稚内入港時刻は19時20分の予定だった。

香深港から眺める利尻島

宗谷岬(最果て紀行#3)

9月7日、雨である。8時過ぎ、宗谷岬へ向かうバスに乗った。席はすぐー杯になり、立ち席の乗客もでてきた。ほとんど大学生の若者である。観光客の若者が大勢乗っている路線バスは初めてである。それだけ、最北端は若者に人気のあるところなのだろうか。
若者に限らず、人には「最果てまで行ってみたい」という願望があるように思う。行き着くところに行ってみたい、と思うことがある。何故なのか。はっきりした事は分からない。でも、「最果て」というものには何か意かれるものを感ずるのである。
飛行場を過ぎ、右には原生花園が、左には海が静かに波を打っていた。まわりには何もなかった。草原と海、人工物は道路のみ、除雪用の道路存在位置を示す矢印のボールと電柱が道に沿って先まで続いていた。
稚内駅から約1時間、宗谷岬に到着した。外は雨が霧のように降っていた。気温15℃。みやげもの店のスピーカーからは宗谷岬の歌が流れ、背後にはソ連のバルチック艦隊の通過を監視したという望楼が往時を伝えていた。
北緯45度31分、ここが日本の最北端である。
行きつくところまで来た。「日本最北端の地」と刻まれた碑の脇で海を眺めた。何ともいえない空虚感が心の中に流れていた。「最果て」、それは終わりを意味する言葉である。僕の北への旅は、今、終わりを告げたのであろうか。
これは、一つの区切りである。これから、また新たな旅が始まるのである。海に片手をつけた。とても冷たい水だった。遥か遠方を眺めたが、樺太は見ることができなかった。


宗谷岬、北の最果てである。北緯45度31分
稚内駅から荒涼とした原野の中を走ってくると、宗谷岬に到達する。天気の良い日には遙か彼方に樺太の姿を見ることができるという。隣のみやげ物店からは宗谷岬の歌が流れていた。

ベニヤ原生花園の湿地帯

納沙布岬(最果て紀行#4)

今朝の札幌は大雪となった。一晩のうちに30-40cm程積もったようである。空はどんよりと曇っている。汚れのない純白の雪があたりを覆いつくしていた。
札幌市街に近い丘珠空港から根室中標津への便は2便ある。これから、8時30分発のANK481便に搭乗する予定である。駅前から空港連絡バスに乗り、路面の凍る札幌の市街地を空港向けて走っていった。
スカイメイトでもチケットは充分に取ることができた。窓側の希望を告げると、
「景色の良い席をお取りいたしましょうか。」
と聞かれた。席は一番後ろの左側だった。ボディチェックを受け、搭乗待合室で待った。
機種はYS-11である。戦後の日本において最初の純国産旅客機で、座席数64のプロペラ機である。ジェット機が主流となったことや、最終製造から20年程経ち老朽化してきたことなどから、今後姿を消していく機体である。現在、代替機種として、YS-Xジェット機の設計が開始され、2000年の就航を目指しているという。
乗客は十数名であった。地元客がほとんどである。機体に付着した雪を溶かすため、翼には温水が放水され、翼からは湯気がゆらゆらと立ちのぼっていた。プロペラが高く鳴りだすと、飛行機は加速し、丘珠空港を離陸した。
上昇していくうちに雲はなくなっていった。札幌だけが雲に覆われていたようである。縦横に引かれた白い道路、そして黒く見える石狩川が広がっていた。まもなく石狩平野の眺望は終わり、飛行機は石狩山地上空へと入っていった。プロペラ機は飛行高度が低く、眼下の地形は非常によく眺められた。
山並みが険しくなるにつれ、こげ茶の枯れ木だった山肌には雪が多く見られるようになり、頂上は真っ白であった。大地が雪と寒さで閉じ込められている。春が来るまで耐えているようである。十勝岳が煙を細々とたてていた。この噴煙は唯一の大地の鼓動であった。
おしぼりとコーヒーのサービスがあった。短距離の飛行機でコーヒーが全員に配られるとはは珍しい。
山中に穴を開けたような白い円形が現れた。結氷した摩周湖であった。横一列に並んだカラマツが見えた。飛行機は高度を下げ、中標津空港に着陸した。

リュックを受取り、根室までの連絡バスに乗った。空港ターミナルは木を基調としたぬくもりのある建物である。観光客は皆無であった。2月中頃の道東と言えば流氷ぐらいのものである。根室にも流氷はやってくるそうだが、暖冬の影響で2-3日前にやっと網走に流れつき、こちらの根室までは当分やってきそうにもなかった。バスの乗客は2名だった。
中標津町のパスターミナルに立寄った。かつては鉄道が走っていた町だが、5年程前、赤字により廃止となった。今となってはバスと飛行機が住民の公共の足となっている。とはいっても、バスなど利用する人はほとんどおらず、マイカーが移動手段となっているのが現実だろう。
標津は広大な大牧場のあるところで、あまり俗化されておらず、北海道の雄大さと荒涼さが満喫できる場所である。
中標津の街を抜けると、根釧原野のまっただ中を走る。黄金色に枯れた草原が続き、雪に混ざった茶色の土が広がり、権木が点在し、湿原が広がり、時々サイロとカラマツ防風林が通り過ぎる。だだっ広く何もない。まさに「原野」である。
この根釧原野の風景は、美瑛の丘や釧路湿原とはまた違った趣のある景色である。美瑛ほど起伏に富んでおらず、釧路湿原ほど平坦ではない。北欧を思わせるような風景でもある。この景色を見る度に、心の底から感動がこみ上げてくる。
道路もこれまた雄大に敷かれている。急なカーブはなく、丘に起伏に沿って道がうねり、高速道路のような感じである。
札幌とは違い、雪はほとんど無かった。道東はそれほど雪は降らず、雪よりも風による寒さがきつい。雪は石狩山地に当たって東へはやって来ないのである。
別海を過ぎ、厚床を過ぎた。厚床からは別の国道に入り、進路を東へと変える。根室半島に突入するのである。風景は、広漠たる「原野」が続く。この先に本当に街があるのだろうか。
白鳥が渡来する風蓮湖を左に見て、しばらくするとオホーツクの海が広がる。流氷は無かった。そして、久々に家が連なり、根室市内に入ると終点、根室駅前となった。

根室はいつ来ても寂しい空気の漂う街である。どことなくクールなのである。ホテルに荷物をおいて、「納沙布岬」へと向かった。納沙布岬行のバスは数人の乗客を乗せ、最東端を目指し出発した。
荒涼とした湿地帯をバスは走る。作物が根付かない痩せた土地だという。所々、木柵で長方形に囲まれたブロックが道沿いに広がっている。バスの運転手さんによると、樹木の苗木を守るためだという。何故、木を育てているのかを尋ねてみると、ひとつは風よけ、もうーつは魚が寄ってくるように、との答えが返ってきた。右手には海が広がっている。
さらに、なぜ木が育つと魚がやってくるのか尋ねてみると、木が育つと海に影ができてその影に魚が集まってくるのだよ、と教えてくれた。ちょっと首をかいテたくなるような理論であるが、木を植えると何らかの要因によって漁が栄えるのは確かなようである。
乗客は僕一人となった。
「あそこに茶色の船が見えるだろう。あれはこの前、座礁したソ連の沈没船だよ。ソ連のものだから、こっちではどうすることも出来なくって困っているんだよ。」
海の沖合には気味の悪い色をした船が傾いていた。
「酒飲んで運転というか、海を渡っていたんだと。まったく、それじゃ事故を起こすわけだよ。
ソ連人は酒好き、という話は以前聞いたことがあった。帰りの船には中古車や冷蔵庫などを満載して港を去るのだという。
根室とソ連、と言えば北方領土である。北方領土とは歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島の四島のことであり、終戦までに約1万8千人の島民が居住していた。
終戦の日から3日後の8月18日、ソ連軍は千島列島北端のシュムシユ島に上陸し、ウルップ島まで南下してきたが、一度、北に引き返した。ところが、ソ連軍の別部隊は、択捉島以南にアメリカ軍が進駐していないと知り、9月3日までに北方領土の占領を行ったのである。
島民のー部は危険を犯して北海道に脱出したが、多くの島民は苦しい抑留生活ののち、昭和24年までに引き揚げさせられた。元島民は現在、島々を間近に望めるこの根室に住み、北方領土の復帰を待ち望んでいるのである。北方領土は日本人によって開拓され、かつて一度も外国の領土になったことのない土地である。
終点、納沙布岬に到着した。砂利の敷かれた操車場にひとり降り立った。冷たい風が強く吹いていた。空は晴れていた。人の姿はほとんどなかった。岬へと足を向けた。
『帰せ北方領土-納沙布岬』
と刻まれた木が立っていた。海の向こうには、隆起した島が望めた。北方領土-歯舞諸島の水晶島である。冬の納沙布岬は気が滅入るほど淋しい所だった。
灯台の立つ岬先端にたどり着いた。
東経145度49分、ここが日本の最東端である。
北方領土の展示室に入った。望遠鏡を覗いた。貝鼓島の不気味な灯台が、レンズの中に孤高に立っていた。


納沙布岬、東の最果てである。東経145度49分
道東は雪こそ少ないが、風の強く吹くところである。遠くには北方領土が望める。展望室の望遠鏡を覗いてみると、貝殻島の不気味な灯台が孤高に立ってる姿を見ることができた。根室には、北方領土に帰る日を待っている人々が住んでいる。

冬の釧路湿原
霧氷があたりを別世界に変身させていた。

沖縄本島(最果て紀行#5)

既に僕らは、2日間沖縄本島に滞在していた。今夜、石垣島へ向けて島を離れる。最果て紀行も、残るは南と西を残すのみとなった。最後の最果て「波照間島」と「与那国島」を目指して、南西に歩を進めた。
石垣島へは那覇新港(安謝港)から出航するフェリーを使う。出航時刻は夜の20時。航行時間は12時間である。僕らの乗ったタクシーは那覇泊大橋を渡り、新港の客船ターミナルに到着した。
乗船手続きを済ませた。予約した切符は安くて手頃な2等客室である。しかも学割が適用される。仲間4人全員分の乗船名簿と共に予約チケットを窓口に差し出して手続きを済ませた。
那覇から石垣島までの航路は、琉球海運と有村産業の2社によって運航されているが、本数は少ない。石垣島直行の船便は、琉球海運が週1本、有村産業が月2本程度である。全て夜行便となる。この他、宮古島へ寄港してから石垣島に行く便が同数運航されているが、そのぶん航海時間は長くなり、この場合、石垣島に到着するのは5時間ほど遅くなる。有村産業の船は沖縄本島と台湾の基隆・高雄間を結ぶ便であり、途中で石垣島や宮古島に立ち寄っている形になっている。
飛行機は1日に10本も飛んでおり、時間もわずか1時間なので、大半の人は飛行機を利用する。しかし、貧乏旅行をする若者は、やはり値段の安い船を利用する人が多く、実際、待合室に集まっているのは大きな荷物を背負った若者ばかりであった。航空運賃は14710円、フェリーは2等学割で4300円である。僕らが船を選んだ理由はもちろん料金が安いからであり、しかも夜行便なので宿代を浮かせることができるからであった。
乗船時間になった。マイクロバスに乗って船のつけられている桟橋まで移動し、フェリーに乗った。明朝8時、石垣港入港予定である。

沖縄本島の道路

南国の木

珊瑚礁

本島最北端の辺戸

 

西表島(最果て紀行#6)

朝、目覚めて屋上の甲板に上がった。左には石垣島が朝日を背にしながら、目の前に現れていた。あと1時間で入港である。今日は8月最後の日、空にはうすく雲が広がっていた。南国の生暖かい風が、体に伝わってくる。
石垣島は面積約222k㎡、周囲約140㎞、那覇から約440㎞離れた、日本の最西南に位置する島である。西表島・波照間島・与那国島などの島々は、八重山諸島と呼ばれるが、石垣島はこれら八重山諸島の主島であり、行政・情報・交通の中心地である。
島の沿岸には珊瑚礁が形成されていて、沖合いには干瀬が広がっている。地形学ではきょしょう裾礁と呼ばれるもので、海上に突き出た海底火山(島)のまわりにびっしりサンゴが埋まった状態である。八重山諸島はサンゴの島である。
気候は亜熱帯海洋性気候に属し、年間を通じて温暖である。年平均気温は23.4℃、7月の最暖月においては28.5℃、年降水量は約2200㎜である。東京の年平均気温は15.3℃、年降水量が約1500㎜なので、東京と比べると気温も高く、雨量も多い。
石垣港に定刻通り入港した。今日の宿泊地は、石垣島よりさらに約18㎞西にある西表島である。周辺の離島へ向かう船は、少し離れた離島桟橋から出航する。西表・波照間・与那国島はもちろん、小浜・鳩間・竹富・黒島への全ての船がこちらから出発する。離島桟橋に移動し、西表島までの切符を購入した。
船は100名ほど乗れる船で、車は積めない高速ジェット船である。乗客は少なく、西表の大原までは約40分の道のりであった。西表島の港は大原、船浦、白浜の3箇所あるが、白浜は主に物資や車を運ぶフェリーのみ、しかも週1便の運航なので、大原や船浦が一般的な下船口である。大原、船浦へは1日十数本の船が発着する。西表島には飛行場がなく、船のみが西表島へ渡る唯一の交通機関であった。
海が美しい。エメラルドグリーンである。サンゴで形成された群島であることを実感できる。海上に森が浮かんでいるような、隆起のない島・竹富島の沿岸を通り過ぎ、大原港に入港した。

小さな港である。さらしのコンクリートの桟橋とほったて小屋の待合室があるのみで、あとは何もない。と、言い切ってしまうと語弊があるかもしれないが、イメージはそうである。前もってレンタカーを頼んでおいた。
『桟橋に車をおいておくので、その車で事務所まで来て下さい』
と、伝えられていたので、数台あるまわりの車を見渡すと、フロントガラスに名前の書かれた紙の貼ってある車があった。鍵がかかっておらず、荷物を入れて乗り込んだ。
「鍵がかかってないなんて、すげえな。」
「誰も持って行かないんだろ。」
まわりが海に囲まれている小さな島なので、たとえ盗んだとしても逃げられず、すぐに御用となると考えているからなのか。この世の中で悪行を働く人は誰もいないという思想が、西表島では広がっているのかもしれない。
西表島は明日の夕方まで滞在し、翌日17時の船で石垣島に戻る予定である。2日間、西表島を周遊できる。ひとまず旅館に立ち寄って荷物を置かせてもらい、その後レンタカー事務所に寄って、手続きを済ませた。
今日は浦内川を遡ってジャングル体験をし、明日は浜で泳ぐことにする。運転好きの友人・名(?)ドライバーにより、車はスピードを上げて、緑々としげる照葉樹林の中を浦内川ボート乗り場に向けて走り抜けた。
西表島は沖縄本島に次ぐ大きな島で、八重山諸島の中では最大の島である。面積約284k㎡、周囲約130㎞、全島の約90%が亜熱帯の森で覆われ、イリオモテヤマネコを初めとして学術的にも貴重な動植物が多く分布している島である。
車窓の山は「もこもこ」とした緑で覆われている。照葉樹林の特徴である。時々、川を渡ると、その川岸にはマングローブの木々がごっそり生えていた。
浦内川に到着した。食事をとった後、乗り場でボートが出るのを待った。待合室と自動販売機がある小さな桟橋である。そのボートの中からはラジオの声が聞こえていた。それによると、台風13号が八重山地方に接近しているという。朝は晴れていた天気も、今は雲り空となっていた。
10人程の乗客を乗せて、ボートは上流へと出発した。約8㎞溯り、そこからは約1時間かけて歩き、カンピレーの滝まで行く。ボートは亜熱帯林の繁る「ジャングル」を、モーターの音を高く唸らせながら前進していた。オヒルギと呼ばれるマングローブ林を眺め、ボートは右岸に近づいては離れ、左岸に近づいては離れと、蛇行しながら進んだ。
20分程で上流の船着き場に着いた。ここからは徒歩である。樹木の生える山道である。途中にはサキシマスオウノキという名の珍しい木が生えていた。カーテンのような平べったい板状の根が何本も地面から生え、樹木の中程でそれらがつながって一本の樹木になっている。
そろそろ歩き疲れてきた頃、マリュウドの滝が姿を見せ、続いて、カンピレーの滝が現れた。岩を滑るように流れる女性的な滝である。僕らはしばらく川で遊んだ。
船着き場まで戻り、再びボートに乗って下流へと向かった。下流の船着き場に到着すると、小さなボートに乗っているおじさんが訛りの強い言葉で話しかけてきた。僕には言っている意味がよく分からなかったが、沖縄に何度か来たことのある友人が通訳してくれた。
「これから石垣島まで戻るんだけど、一緒に乗ってかないか。安くしとくよ。」
6~7人も乗れば定員になってしまうようなボードである。今夜はこの島に泊まるので断ったが、たとえ石垣島に戻る予定だったとしても、あんなに小さなボートで石垣島まで渡るのは、ちょっと不安だった。
旅館に戻った。泊まっていたのは僕ら4人だけのようである。日が暮れるには、まだ時間があるので、近くを歩いて散歩した。
庭先には黄色や赤など色彩の鮮やかな植物が咲き乱れている。そして、緑色をしたバナナが何十本も実っている。南国に来たことを実感する風景である。頻繁に台風が襲来するので、沖縄地方では屋根を低くした造りになっていると聞いていたが、確かに家の大きさは若干小さいように思う。交差点の角には小さなスーパーがあり、その前では子供たちが遊んでおり、そのはしゃぎ声があたりに響いている。日暮れどきの、のんびりとした光景であった。

マングローブ(オヒルギ)

マリュウドの滝

カンピレーの滝

翌朝、8時起床。朝食をとりながらテレビを見ていると、台風13号が接近しているというニュースが流れていた。僕らは今日の17時発の船で石垣島に戻る予定にしていた。心配なので、旅館のおかみさんに聞いてみた。
「今日の船は出ますかね?」
「朝1番の便は出るということだけど、2便以降は未定だそうだよ。」
窓の外を見ると、大きなバックを持った人がぽつりぽつりと桟橋の方へ向って歩いていた。皆、台風が来る前に第1便で島を出てしまおうという人々である。天気予報では、『夜になればなるほど、風が強くなるでしょう』とのこと。悠長に飯を食っている場合ではなかった。第1便の出航時刻は9時10分である。あと30分もなかった。台風などの非常事態には西表島で缶詰めになっているよりも、交通の要所であって情報の集まる何かと便利な石垣島にいた方がはるかに安心だった。
結局、第1便で島を離れることにした。慌てて荷物をまとめ、車の運転をしていた友人は急いでレンタカーを返しに行き、この宿でも船の切符を売っているということなので石垣島までの切符を買い、僕らは先に桟橋に行って友人を待っていた。
桟橋には、どこからこんなに人が集まったのかと思えるほどの大勢の客が待っていた。すると突然、スコールのような激しい雨が降ってきた。頭の上から足の先まで、瞬時にずぶ濡れとなった。リュックもびしょ濡れである。そして、港には石垣島へ向う船が2隻入港してきた。50名程で定員になる小さな高速ボート船である。こんな天候のなか運航して大丈夫なのかと、不安に思う。
レンタカーを返しにいった友人も戻ってきて、乗船となった。船内はすぐに満席となり、真ん中の通路にも数人が荷物を下に敷いて座っていた。皆、ずぶ濡れである。タオルを出して、頭を拭いたりしていた。一番前には荷物が置けるぐらいの台があった。そこはリュック等の大きな荷物が置いたあった。
「ここの荷物は、下に置いてください。船は高速で、揺れるので。」
乗務員のおじさんがそう言って、荷物を下に降ろさせた。船は揺れるのだろうか。この天候なら覚悟をしなければならないだろう。しかし、石垣島までは約40分であり、時間を考えるとたいした道のりではなかった。高速ボート船は、石垣島に向け満員の乗客を乗せて西表島を離れた。
防波堤を越えて海に出ると、船はスピードを上げ、爽快に飛ばしはじめた。小型の高速ボートに乗るのは初めてだった。予想以上にスピードが出る。そして、スピードが上がったのと同時に、船が上下左右に激しく揺れ出した。「揺れ」というよりは「衝撃」といった方が適切である。小刻みに船が揺れていたかと思うと、突然船底でガツンと波にぶつかる音が響き、激しく左右に振られる。
隣の女性が悲鳴を上げた。座っていても座席の前の背もたれに取りつけられている手すりにつかまっていないと、隣の人とぶつかってしまう。さらに時折、高速で波が高いために船がジャンプして、しばらく空中に浮く。浮いているときは、下腹のあたりがスーッとする。窓には、雨が激しくたたきつけられていた。
<とんでもない船に乗ってしまった……>
これに40分も我慢しなければならないのか。ところが、である。しばらくするとその衝撃に段々と慣れてきた。ジェットコースターのようで楽しくなってきたのである。波にあたる度に「そら、また来た!」、船が浮く度に「おーっ!」と、声には出さなかったものの、心の中ではそう叫んでいた。大型船の揺れとはまた違う揺れなので、酔いの心配は全くなかった。結構楽しめた船旅だった。

鮮やかな花が咲いている

バナナの木


石垣島(最果て紀行#7)

台風で大荒れの石垣島中心部


無事、石垣島に到着した。桟橋では、離島へ向う船がロープでしっかりと係留されはじめていた。既に、今日の船便は全て欠航になっている。西表島から乗った僕らの船が最終便だったということであり、第1便で石垣島に戻ってきて正解であった。車の運転をしていた友人は石垣島までの旅で別れて、明日の飛行機で実家のある北海道まで帰る予定だった。石垣から北海道まで移動するというのも、ダイナミックである。ところが、台風は明日に八重山地方を通過する予定であり、今のところ飛行機はまだ飛んでいるということから、今日の便で帰ることになった。午後の便に空席があり、那覇・羽田を経由して千歳まで向い、今日中に到着するということである。軽食をとって、その友人と別れた。

さて、本来ならば西表島のどこかの浜で海水浴をしていたのだが、予定に空白ができてしまった。荷物をホテルに置いて、チェックインの時間までどこかぶらつくことにした。
石垣島の観光をしようと思うのだが、定期観光バスは午前中に出発してしまっていた。それならば観光タクシーを使おうと思い桟橋ターミナルに止まっている運転手さんに聞いてみると、観光コースの表を見せてくれたが、値段が高い。これから足止めを食らい、何日か延泊しそうな気配であるのに、あまりお金を贅沢に使うわけにはいかなかった。レンタカーを借りようにも、まともに運転できる友人が去ってしまったため、レンタカーは無理である。このようなときは、路線バスを調べて適当に面白そうなところへ出かけたりすれば、結構時間つぶしになるものである。早速、バスターミナルへと向った。
時刻表をもらうと、13時40分発の「平一周」行というバスがあった。バスターミナルから東回りで石垣島の最北端のひらの平野というところまで行き、そこで20分間停車して折り返し、半島の付け根の部分である伊原間まで戻ったあと、今度は西回りでバスターミナルまで戻ってくるという、全島を巡るにはもってこいの運行ルートだった。ターミナルには17時30分に戻ってくる。天気も夜になればなるほど悪くなる一方なので、路線バスに乗りながら島の風景を眺めるのも悪くはなかった。
バスの発車までまだ時間があった。切符を買い、待合室で発車を待った。待合室と言っても冷暖房完備の近代的なものではなく、昔懐かしい木のベンチが並べてあって、外との区切りはなく、隣にはパンや牛乳などを販売する売店があるものだった。その売店からはまわりの閑散さを打ち消すかのように、NHKのラジオが流れていた。
数人の地元客と我々3人を乗せたバスは定刻に発車した。最北端の平野には1時間30分で到着する。車内にもNHKラジオが流れており、時折台風情報が入る。12時現在、台風の中心気圧は965hPaであり、次第に接近しているとの事であった。
空は暗くなり、風が強くなり、周期的に激しい雨がバスを襲っていた。ハイビスカスの赤い花の並木が大きく揺れながら沿道に続いている。両側にはサトウキビの畑が広がり、沖縄地方独特の亀の甲羅のような墓地が後ろに過ぎ去った。
14時現在、台風の中心気圧が960hPaになった。発達している。石垣・宮古島への上陸は明日になるが、今日の夕方には暴風域に入るという。まさに、直撃であった。
伊原間を過ぎると、バスは荒涼とした風景の中を走っていった。草原が広がり、その先に灰色の海が広がる。南国の温かい地方の風景とは思えなかった。南国の風景と言えば、葉の大きなモコモコした草木が生える陽気な風景というイメージが僕にはあった。そして終点の平野に到着した。
平野は小さな集落であり、それ以外何もないところであった。外に降りると、台風独特の生温かい湿った風が強く吹いている。雨はあがっていた。停留所付近を散策して、何をするでもなく、バスに戻った。15時30分、予定どおりバスは平野を後にした。
同じ道を引き返し、伊原間で右に折れて、今度は東側の道路で島の中心地であるターミナルを目指した。16時現在、台風の中心気圧は955hPaになっている。すれ違う車の台数も少なく、ターミナルに到着したときは強い風が絶え間なく続くようになり、あたりも薄暗くなっていた。
夜、別れた友人から北海道に着いたという電話が入った。『飛行機がけっこう揺れたよ』と話していた。

暴風雨である。窓から外を眺めると、街路樹が左右に大きく揺れ、強風の為に雨が霧のようになって辺りを霞ませ、海の波が小刻みに泡を立てていた。大時化である。道路には大きな水たまりができている。朝の天気予報によると、中心気圧は940hPa、宮古島に上陸した模様であり、石垣島への上陸は避けられたということである。進路は北東に向っていた。
本来の予定では、今日、波照間島に日帰りで往復し、明日、与那国島に向う予定だった。それぞれの航空券は既に東京で手配していた。空港に電話を掛けるが、なかなかつながらない。もちろん飛行機は欠航だろう。今日はホテルに缶詰めである。天が与えてくれた休息日だと考える。
今後の予定は、そのまま予定を繰り下げるのではなく、波照間島の訪問を後回しにして、明日は航空券の取ってある与那国島に先に行き、その後、波照間島に行くことにした。
『旅の目的は最南端と最西端を訪れることであり、石垣島まで来たのだから、最南端と最西端を行かずして、帰ることは考えられない』
このような意思を友人より示されたが、僕もまったくの同感であった。
朝食後、本屋で雑誌を買い込み、皆ホテルのベッドで寝転がった。ホテルのテレビは地元のケーブルテレビしか映らない。天気予報が流れたあと、全国版の朝の民放ワイドショーが始まった。しかし、その番組の冒頭の挨拶が、
「おはようございます。8月26日木曜日……?」
確か、今日は1993年9月2日木曜日である。情報番組が1週間遅れて放送されているのである。同じ日本でもこれだけの違いがあるのか、と思った。
空港にようやく電話がつながった。欠航便の航空券の扱い方について訊ねた。明日以降の同じ行き先の便に空席がある場合は、その便に振り替えるとのことであった。搭乗者名を言うだけで電話での予約変更も可能だという。また、運賃の払い戻しを希望する場合は、欠航証明書を空港で発行してもらい、航空券を購入した旅行代理店で払い戻しを受けてください、とのことだった。つまり、お金は東京で戻ってくるということである。とりあえず、影響がでたのは今日の波照間までのチケットのみであり、3日後(9月5日)に使用する予定だったので、3日後の波照間までの便を予約した。
テレビ画面の下にテロップで、
「八重山商工定時制の生徒さんへ。暴風警報が午後3時までに解除の場合は正常通り登校して下さい。」
と流れていた。午後になっても、嵐が収まる気配はなかった。
1階のロビーで地元紙の新聞に目を通した。すると、今年の旧盆は9月1日であり、各地では1ヶ月遅れのお盆が行われていることでしょう、と書かれていた。つまり、沖縄地方では昨日が「お盆」だったのである。沖縄本島や石垣島に働きに出ている人が、離島などの郷里に帰省している時期でもあり、交通機関が普段よりも混雑するということである。台風と重なり、厄介な時にぶつかってしまったな、と思った。何故9月1日が旧盆なのかと疑問に思ったが、新聞によると今年は閏年で、太陽暦と太陰暦の年間日数の誤差調整のため約1ヶ月ずれ込んだものであり、9月にずれ込むのは非常に希なことであると書いてあった。
外を眺めると、葉やゴミが強風に飛ばされて、空中を舞っていた。18時現在、台風の中心気圧は935hPaにまで発達していた。

波照間島(最果て紀行#8)

波照間島までのプロペラ機

サトウキビ畑と道路

天気、晴れ。台風一過である。石垣空港9時40分発の与那国行き飛行機に乗り遅れないよう、ホテルを後にした。
石垣島のタクシーの初乗り料金は350円であった。東京は600円(当時)である。タクシーの運転手さんとの話が弾んだ。
「台風の直撃は、ここ10年くらいないね。昨日のは直撃ではないよ。直撃の時の風速は70~80mになるからね。砂が車に当たって穴が開くんだから。」
昨日の風速はラジオによると35mであった。話は続いた。
「台風で波があるときには、地元の人は怖くてボートには乗らないよ。ジェットコースターよりも凄いんだよ。離島へ行くボートは喫水が小さいので、波が高いと船がジャンプしてモーターが空回りしてしまうんだ。だからすぐ欠航してしまう。」
確かに、一昨日に乗ったボートは凄かった。
石垣空港に到着して空港カウンターに来てみると、与那国行きのみ、午前便も午後便も全便欠航となっていた。天気は良好で、どう見ても飛行機が飛べない状況ではない。訊ねてみると、与那国行きに使用されているYS-11飛行機が台風に備えて福岡空港に避難しており、その飛行機の手配が間に合わないからだという。
一方、波照間行きの便は予定通り運航するらしく、9時25分発の便の搭乗手続きは既に始まっていた。波照間行きの飛行機はYS-11よりも更に小型のDHC-6ツインオッターという機種なので、福岡まで避難せず石垣空港の整備倉庫の中にでも避難できたのだろうか。とにかく、波照間行きの飛行機は定刻に飛び立つ予定である。僕らは急きょ、与那国→波照間の訪問順番を、波照間→与那国と変更することにした。つまり、最初に予定していた旅程に戻ったわけである。今日、日帰りで波照間を往復し、明日、与那国に向うことにした。最初から欠航がわかっていたら、大きな荷物をホテルに置いてきたのにな、とふと思った。
既にあさって(9月5日)の便に予約を変更をしてもらった昨日付の波照間便の航空券を提示して、今日の便に再度変更を申し出た。ツインオッター機は19人乗りの小さな飛行機なので満員ではないかと心配したが、あっさり「大丈夫です」という返事が返ってきた。さらに、この機種の飛行機では、搭乗手続きの際に乗客の体重を測って座席を決定し、機体の左右のバランスを調節すると聞いていたのだが、それもなく、カウンターの係員が搭乗券に示された座席表に赤鉛筆で○印をつけて座席をきめ、その搭乗券を渡されただけだった。乗客は少ないようである。
搭乗まで、まだ少しの時間があるので、与那国島の旅館に変更の連絡を入れた。宿の女将さんが飛行機の運航状況について、しきりに質問してきた。
「今日は与那国行きの便は全て欠航です。」
と言うと、残念そうに返事をした。
波照間行きの乗客は、僕ら3名とおじさん3名の合計6名である。こんなに小さな飛行機に搭乗するのは初めてである。機内の座席は左に1列、右に2列の配置であり、ベンチのようなプラスチック製の茶色い椅子が規則正しく並んでいる。コックピットと客室はガラスの入った扉1枚で仕切られており、パイロットや計器類が客室から丸見えである。左右のプロペラのエンジンチェックの後、滑走路に出たと思ったらあっという間に離陸した。この飛行機は短くて足場の悪い滑走路でも離着陸できるように設計されたものであり、離陸時の滑走も短くて済むのだという。
高度が低いので、窓の下の景色がよく見渡せる。鮮やかで透き通るような色を発しているサンゴ礁が非常によく見渡せる。20分後、波照間島が見えてきて前方に短い滑走路を眺めながら、飛行機は少々左右に揺さぶられながら波照間空港に着陸した。
空港というよりは「小さな無人駅」といったほうがよいところである。平屋建ての四角い待合室が建っているのみである。
波照間島は石垣島の南西約42㎞に位置し、有人島としては日本最南端にあたる島である。「はてるま」という島名の由来はいくつかの説がある。波照間とは「ハテウルマ」で「ウルマ」とは琉球の雅語であることから、琉球の果てに位置するという説、「ウル」とはサンゴを「マ」は場所を意味することから果てにあるサンゴの島という説などがある。方言では波照間島のことを「パティローマシマ」といい、地元では「パチラーシマ」とも「ベーシマ」とも呼ばれるという。まるで外来語のようである。
島の面積は12.4k㎡、周囲は14.8㎞の東西に長い楕円形、行政区分は西表島と同じ竹富町である。町役場はこの町内には存在せず、石垣市である石垣島にある。竹富町は町内に町役場のない町となっている。

珊瑚のビートとサトウキビ畑

なにしろ石垣の空港で急きょ波照間島に向かうことになったので、島内を巡る手段を全く準備していなかった。この島にはバスもタクシーも全く走っていない。ロータリーには数台、民宿のマイクロバスが停まっていた。その中で近くにいた「みのる荘」と書かれた車の兄ちゃんに声を掛けた。自転車を3人分貸してくれるというのでみんなで乗り込み、民宿のある中心部に向かった。
自転車は1日2000円であった。まずは日本最南端の岬へと向う。車も人もほとんどいない。のんびりとしている。俗世間の喧騒からかけ離れた、時の刻みの次元がまるで違う世界に身を置いているようである。中心部の集落には、赤瓦の家々がサンゴの積まれた石垣で囲まれながら点在していた。
背丈ほどのサトウキビが繁る畑で、鎌を持って作業をしているおばあちゃんに挨拶をした。すると、
「食べてみるかい?」
と言って、笑顔でサトウキビを3本渡してくれた。30㎝位に切られたサトウキビの切り口をかじって吸ってみた。甘かった。サトウキビを食べるのは初めてである。
「確かに、甘いですね。」
などと話していると、
「もう一つあげるから。これはさっきのと品種が違うものだよ。」
と言って、さらに30㎝位に切ったサトウキビをもう3本くれた。吸ってみた。けれども前のサトウキビとの違いが分からない。どちらも甘いだけだった。
「ねっ、ちょっと違うでしょ。」
と、琉球訛りの言葉で言われたが、こう言われても笑顔で『えぇー。』と答えるしかなかった。収穫は11月で、今は倒れたものだけを穫っているそうである。島には製糖工場が一つ存在する。
いよいよ最南端に着いた。自転車に乗った数人の若者がいた。周りには高い樹木は見当たらず、草原が広がり、波からの侵食を受けた断崖絶壁が続くところだった。石の敷かれた道を歩き、逆三角形の石に稚拙な文字で「日本最南端の碑」と刻まれた碑の建つ場所に到達した。
北緯24度01分、ここが日本の最南端である。
ようやく、最南端に到達した。残るは最西端を残すのみとなった。明日にはその最西端も制覇する予定である。最南端の風は暖かかった。しばらくその情景に佇んでいた。
とりあえず、エメラルドグリーンのサンゴが広がる浜でしばらく時間を過ごした。今後の予定は夕方の船で石垣島に戻ることにしている。
雑貨屋の店先のジュースには変わった飲み物がいくつかあった。その中の一つにゴーヤーの絵が描かれた「ゴーヤードリンク」というものがあった。ゴーヤーとは「苦瓜(にがうり)」、その名の通り苦いもので、主に沖縄で食されている野菜である。1缶買ってみた。何とも言えない味である。全部飲めるものではなかった。おみやげにいくつか買っていくことにした。
民宿のおじさんに波照間でしか売っていない「泡盛」について友人が尋ねた。友人は沖縄本島で乗ったタクシーの運転手さんから『波照間に行ったら泡盛を買いな』と言わたそうである。すると、
「あれは今は売り切れだよ。島民でさえ手に入れるのが難しいんだ。島民だけに先に回るから、なかなか観光客が手に入れるのは難しいよ。今はお盆の時期だし。」
との返事だった。それだけ価値の高い幻の泡盛ということである。
安栄観光のボートで石垣島へと戻った。波照間港の海の色は、見事なぐらいサンゴの神秘的な色を発していた。


波照間島、南の最果てである。
波照間と書いて「はてるま」と読む。「はてるま」とは、果てのウルマ、「ウルマ」とは琉球の雅語であるので琉球の果てという説、「ウル」とは珊瑚を、「マ」は場所を意味することから「果てにあるサンゴの島」という説がある。
石垣島から19人乗りのプロペラ機で20分、有人島としての日本最南端である。(日本領土としての最南端は東京都の沖の鳥島である。)

石垣はサンゴでできている。波照間港の海の色の青さが、沖縄の海を表現している。


与那国島(最果て紀行#9)

放し飼いの与那国馬

荒涼とした丘陵


与那国行きの飛行機は満席だった。旧盆に重なり、しかも台風で欠航が続いた後である。当然と言えば、当然である。今日は土曜日であり、幸運にも与那国島へのフェリーが運航される日だった。与那国へは毎週水曜と土曜にしか運航されていない。石垣港10時に出航し、14時に与那国に到着する。僕らは、フェリーで与那国島へ向かうことにした。
船は大揺れだった。天気は最高なのだが、まだ台風の影響が残っているのか、波が高い。甲板で眺めると、紺碧色の海が、空飛ぶ絨毯のように、大きくうねりをあげているのがわかる。船が波の谷間に入ると、波の山の部分が目の高さと同じ位置までせり上がり、海に飲み込まれそうに感じる。立っているのさえ困難である。酔いそうなので2等の座敷にすぐ戻り横になった。船が傾くたびにカーテンが音を立ててガラスにぶつかっていた。船が小さいことも揺れを助長させている一因である。
就航船は、1989年より就航している『フェリーよなくに』、総トン数498トンの小さなフェリーである。これでも、以前に就航していた船に比べればかなり大型化しており、かつては185トン、定員65名の小型貨客船が7時間かけて航海していた。「フェリーよなくに」の客室は2等のみであり、じゅうたんの敷かれた客室、2段ベッドの寝台、表デッキのベンチと3種類の客室を好みによって自由に選ぶことができた。
まもなく入港の時間である。甲板に出ると断崖の続く与那国島が、忽然と姿を現わした。与那国島は有人島も無人島も含めて日本の最西端に位置し、石垣島まで127㎞、台湾までは約125㎞という石垣と台湾のちょうど中間にある国境の島である。人口は約1900人、面積28.5k㎡、周囲29.5㎞、昔からここは『ドゥナン』と呼ばれ、当て字にすると「渡難」と書かせるように、容易に人を寄せ付けない絶海孤島の場所である。東京からこの島に来るには、東京-石垣直行便に乗れば話は別だが、那覇、石垣と2回乗り換えて3本の飛行機を乗り継がないと来ることはできない。
船は くぶら 九部良港に定刻に入港した。出迎えのワゴン車に乗り、旅館のあるそない祖納へと向かった。レンタバイクを借りる為、宿近くの事務所で降ろしてもらい、50ccのゲンチャリに乗って旅館に入った。気候も良いし、与那国の島内を巡るにはバイクが一番であった。当初の予定では、与那国には1泊のみのつもりだったが、フェリーとなったので到着が遅れ、島をゆっくりと見て回れる時間が無くなってしまった。ということで2泊し、充分に島を堪能することにした。荷物を部屋に置いて、しばらく休憩した後、近くをバイクで一回りした。

夕食の時、僕ら以外にも宿泊客が1組いた。40歳位のおじさんが2人と、僕らと同年代の若者1人の3人グループだった。釣りをしていたらしく、一人のおじさんが釣った魚を厨房でさばいており、宿の女将さんに「うまく揚げてくれよ」などと話していた。
そのおじさんが、僕らに話しかけてきた。
「君ら、どっからきたの。」
「東京です。」
「何しに? 仕事?」
「いえ、旅行です。最西端に行こうと思って。」
「ほぉー。」
無難な会話が続いた。そして僕は、
「島には、釣りをしに来たのですか。」
と聞いた。僕には釣りに来たとしか考えられず、熱狂的な釣りファンがこの与那国までわざわざやって来ているのだろう、と思っていた。それ以外には考えられなかった。すると、
「釣りだってよ。へへっ。」
3人が顔を見合わせ、すれた笑いをした。しばらく沈黙が続いた。
「仕事だよ、仕事。建設機械を修理する仕事でこの島にやって来たんだけど、台風で出られないんだよ。それで暇だから釣りをしていたっていう訳よ。」
仕事だったのである。その人たちは食事を終えて、部屋へと戻った。
「今日釣ってきた魚を今、揚げてもらっているからさ、後で下に食いに来なよ。」
そう言い残していった。
食事が終わり、お茶が出てきた。ジャスミン茶であった。大陸文化の影響がかなり強く、かつては台湾との交流が盛んだったということが伺える。僕らも席を立った。
1階のテレビのあるロビーでは、おじさんと若者が魚をつまみながら2人で酒を飲んでいた。
「ここへ来て食べな。」
おじさんの誘われるままに頂くことにした。泡盛をお湯で割ったものを差し出された。
「これは御馳走するから。これ以上酒が欲しいときは、自分で買って飲んでくれ。女将さんに言えば買えるから。」
泡盛は沖縄地方で飲まれている蒸留酒(スピリッツ)である。「あわもり泡盛」という名称は一説には、グラスに酒を注ぐとアルコール分が高い為、泡が花のように立つからだと言われている。
おじさん達は本島(沖縄本島)からやってきたということであり、この島では釣りをするか酒を飲むことしかすることがない、と話していた。
「与那国に行くときは、一週間見ないとだめだとよく言われるよ。」
まさに、その通りになっていた。
「この辺りの海岸では、若い女がトップレスでダイビングしているということだよ。えへへ。」
「米軍の空軍はインテリばっかだけど、海軍はそうじゃないね。」
「東京に行った時さ、タクシーの中に忘れ物をしたんだよね。それで問い合わせをしたら、忘れ物をする方が悪い見たいな態度でさ、頭にきちゃったよね。みんな冷たいんだよね。」
「この旅行ではいくらぐらいかかってるの。」
などなど、尽きない話は続いていった。僕のグラスの酒が空になると、『まぁ、飲めや』と、再び酒を注いでくれた。
隣にあるテレビのチャンネルをひねった。与那国では台湾のテレビ放送が見れると聞いていたからである。すると、黄色い漢字の字幕が入っている映像が現れ、中国語の音声が流れてきた。台湾の放送だった。思っていたよりも鮮明な映像である。見苦しくはない。ちょうどクイズ番組をやっているらしく、司会者と解答者のやりとりがコミカルに行われていた。画面の下には必ず漢字の字幕が入っている。全ての言葉に字幕を入れているようであった。聴覚障害者の為の字幕なのか。それとも、中国語は広東語、北京語などで意味が全く通じなくなるということを聞いたことがあったので、それらの通訳なのかも知れない。この映像の鮮明さは、台湾に近いことを実感する。
明日はいよいよ最西端であった。

1993年9月7日、快晴。日差しが強い。この旅行中は半袖半ズボンであり、腕と足はかなり日に焼けてヒリヒリしていた。日焼け止めクリームを塗り、50ccバイクで島を一周することにした。
まずは、島の最東端の東崎の岬へと向かった。東崎と書いて「あがりざき」と読む。一方、最西端の岬は西崎とかいて「いりざき」と読む。「西表島」は「いりおもて」である。沖縄の古語が今でもそのまま残っているものである。「あがり」とは太陽の昇る方角だからであり、「いり」は太陽が沈むからいりなのである。かつては南大東島も「おおあがり」と呼ばれていたそうである。
与那国島には琉球語の地名がかなり残っている。ツァ浜、ウブドゥマイ浜、ウバマ浜、インビ岳、ドナン岳、ティンダハナタ……といった具合である。地図には全てカタカナで標記されている。
車はほとんど走っておらず、走りやすい道路である。フルパワー、時速60㎞で悠々走れる。
樹木が少なく、荒涼とした風景であり、波照間島とは対称的に起伏がかなりある島である。南国なので陽気な風景をイメージしていたのだが、それほどでもない。とは言っても、気候が温暖だからなのか、刺々しさは持っていない。牧歌的な荒涼さ、と言ったところだろうか。
東崎の岬には、小柄なヨナクニ馬が放牧されていた。柵などはない。道路のすぐ脇に佇んで、草などを摘まんでいた。続いて島の南側を走り、軍艦岩、サンニヌ台、立神岩展望台と海沿いの名所を見て回った。紺碧の大海原と断崖絶壁の海岸が広がり、余計な人工構造物が建っていない景観は、絶海の孤島を思わせるのに十分であった。
島には3つの集落がある。旅館のあるところは「祖内」と呼ばれるところで、島最大の集落である。そして、港のある「久部良」、島南に位置する「ひがわ比川」である。その比川の集落を通って、比川浜で泳いだ。
昼食は祖内に戻って、うどんを細くしたような沖縄そばを食べ、午後はトゥング田、久部良バリへと向かった。
トゥング田、久部良バリは、江戸時代の人頭税制下における苦しい生活と悲劇を伝えるものとして、現在でも語り継がれている史跡である。トゥング田は島民の男を一定時刻に水田に招集し、遅れてきた男や病気の者を惨殺した場所である。久部良バリは幅約3m、深さ約7mの岩の割れ目を妊婦に跳ばせ、跳べなければ死亡、無事跳べたとしても子供は流産したと伝えられる場所である。どちらも人口減らしを目的とした方策であったと言われている。
人頭税は、各個人に対して一律に同額を課税する原始的な租税形態である。それぞれ個人の支払い能力を考慮しない悪税として、19世紀には廃止された。すなわち、家計が良かろうが悪かろうが、生産能力のない赤ん坊だろうが、全員に一律に課する税なのである。これらの伝説が伝承されてきた背景には、単に人頭税の重圧というだけではなく、慢性的な生活苦のなかから起きたものであろう、といわれている。
島を周回すると、宿に戻った。日本最西端の西崎には、日没の時に行くことにした。日入は19時頃であった。
日没まであと30分となり、旅館を後にした。我々は西を目指して走り続けた。与那国空港を右に見て、西崎へ向けて快走した。そして、坂を登りバイクを止めて、西崎の展望台に到着した。そこには緑の芝生が広がり、その向こうには台湾に接する広大な海が、果てしなく広がっていた。
東経123度0分、ここが日本の最西端である。
ついに最西端までやってきた。大きく膨らんだ赤い太陽が、いま地平線の彼方に沈もうとしている。僕の最果ての旅は「東・西・南・北」、全てが終わったのであった。

山羊が駆け回る


与那国島、西の最果てである。
台湾まで125km、石垣島まで127km、台湾の方が近い国境の島である。家庭では台湾のTV放送を見ることができ、ジャスミン茶も嗜好されている。昔からここは「ドゥナン」と呼ばれ、当て字にすると「渡難」と書かせるように、絶海孤島の島でもある。それ故に、景色は非常に美しい。日常の喧噪に嫌気がさしたとき、与那国島は心の喧騒をすべて取り除いてくれる、そんな島である。

見よ、美しい海岸線を。

与那国馬が放牧されている.この「よなぐに」も日本離れした光景が続く。


三宅島【島紀行】

 澄みわたる秋空のもと、プロペラの音が高鳴り、ANK847便は定刻に羽田を離陸した。三宅島には約50分で到着する予定である。みるみるうちに建物が小さくなり、空港全体が見渡せるようになった。羽田の沖合展開工事のされているところだけは茶一色であり、真下には部会の埋立て地を象徴するような四角い島が、整然と広がっていた。

 高度を上げるにつれ、ビルの並び立つ東京の街が見えてきた。空から眺めると、改めて東京の巨大さに驚かされる。エネルギーの集結地という感である。飛行機は南に進路を向け、海上を三宅島めざして飛んでいた。

 さらに高度を上げた。東京上空は薄汚れたねずみ色のスモッグで覆われている。その霞の上に純白な富士山がすっきりと浮かんでいた。大気圏の膜の外側に山がのっかつているようである。我々は毎日、あのスモッグの下で生活をしている。海にはアメンボのようなつり船が、白い線を引きながら点々と存在していた。

 右に三宅島が近づき、飛行機は揺れながら、島づたいに飛んでいた。島の肌が突然赤茶黒の溶岩に変わり、そして三宅島空港に着陸した。

溶岩原 火山れきである
山服から流れ出た溶岩流

 タラップを降りた。暖かかった。今朝の東京とは10度以上違うように思う。黒潮の影響だろう。三宅島は東京の南約180kmにあり、周囲約35km、人口4000人、伊豆諸島の中では大島、八丈島についで3番目に大きい火山島である。明治以降だけでも明治7、昭和15、37、58年と4回も噴火を起こしている、まさに火山の島なのである。

 空港前より左周りの村営バスに乗った。昭和37年の噴火の際に一夜のうちにできあがったという三七(さんしち)山を過ぎると、赤茶黒の溶岩原が広がる七折峠にさしかかった。「三七」とは噴火の年号からとったものである。樹木は植わっておらず、前方には海が見えた。バスは溶岩の切り通しの中を右へ左へと身体を傾けていた。この辺りは赤場暁(あかばきょう)と呼ばれ、昭和15年の噴火で入江が埋立てられ、さらに昭和37年の爆発で溶岩流が重なったところである。機内から見えた溶岩はここである。

 運転手は道路工事作業員や道行く人と互いに笑顔で挨拶を交わす。途中から高校生がひとり乗ってきた。
「どこいくんだ」
「がっこ!」
素朴な会話である。顔見知りらしい。

 警察署、支庁前を通り過ぎ、バスは峠を越え、間もなく島西の阿古(あこ)の集落に入るところだった。案内テープから、「次は鉄砲場、鉄砲場です」と流れると、真っ黒な火山れきが帯になって山から続き、道路を横切っていた。未だに生々しい傷跡であった。しばらく溶岩流に沿って走った。

溶岩によって埋もれた学校
体育館は骨組みのみとなった

 昭和58年(1983)10月3日午後3時、なんの前ぶれもなく雄山(おやま)中腹のニ男山あたりを中心に、十数ケ所の火口から轟音とともに火柱と噴煙があがった。灼熱の溶岩流は5-600mの幅の流れとなって西、南西、南の3方向に向かって流れていった。この中で西に向かった溶岩流がこれであり、島最大の集落・阿古を襲ったものである。阿古の住宅約500戸のうち400戸の民家と学校などの公共施設が溶岩に埋もれて消失し、これは日本火山史上でも最大規模の災害であった。また、島南にある新澪池では池の水が干上がり、周りの木は枯れ、巨大な穴となってしまったということである。阿古に到着し、下車した。阿古小学校・中学校埋没地へと向かった。

 溶岩原に着いた。その溶岩を突っ切るようにアスファルト道路がひかれている。ソフトボール程の「れき」がー面に重なって横たわり、背後の緑の山肌には滝のように黒い帯が流れている。「れき」の上を歩くと素焼きをこすったような「カサカサ」とした音がする。黒い帯の部分だけは樹木も植物も植わっていない。これは8年前(旅行当時)の噴火である。

 学校埋没地にやってきた。校舎は溶岩に押され、半分ほど埋まっている。体育館の壁や屋根は剥がされ、無残な鉄骨の骨組みだけが残っていた。ひぴの入ったプールもあった。この惨い光景は、また違った自然の、恐ろしいー面を見たような気がした。

 帰る時間となった。帰路の飛行機は満席だったので、船で帰ることにした。東海汽船の「すとれちあ」丸が大きく揺れながら、阿古(錆ケ浜)の港に入ってきた。

新しい生命が誕生していた

白川街道・飛騨街道をゆく[ローカルバスの旅]

 山々に囲まれた街・高山から牧戸(まきど)を経て、富山との県境に位置する秘境・白川郷までの道を「白川街道」と呼ぶ。そして、牧戸からひるがの高原を経て、美濃白鳥(みのしろとり)までの道は「飛騨街道」の一部である。

 高山一牧戸間は約50km。その間に3つの峠を越える。白川街道は峠道なのである。そして、牧戸一美濃白鳥間にも1つの峠があり、高山から美濃白鳥まで抜けると、合計4つの峠を通過することになる。

 ここに1日数本の路線バスが走っている。典型的なローカル線である。高山から白鳥へ、路線バスに乗り込んだ。

今回の旅行経路図.
高山バスセンター

 高山駅13時20分発、濃飛バス牧戸行きである。白鳥までの直通便は無く、牧戸で乗り換えとなる。今日の高山地方は天気は良いのだが、冷え込みが今年最高の厳しさであった。最低気温がマイナス7.9°C。ふきのとうが芽を出しているというのに真冬並みの寒さである。バスの車内は暖かく、白川街道を西へ西へと走っていった。

 高山の街を抜けると田畑が広がり、前方の山々が徐々にこちらに近づいてきた。車内は適当に混んでいる。清見村の役場がある三日町にてかなりの乗客が下車し、バスは登り坂へと入っていった。

 小鳥(おとり)峠越えである。別名びっくり峠とも呼ばれるそうで、この辺りは野鳥の声がよく聞かれるところだという。左には白い雪を残した連峰が雄大に広がっている。この風景は峠越えの醍醐味のひとつである。ここは分水嶺でもあるが、下流では高山を流れている宮川と合流するので水系は神通川水系であり、以前と変わらない。

 道は国道であり、完全に舗装されている。道幅も広くドライブには最適な道路だと思う。

 続いて松之木峠に大った。別名思案峠である。比較的平坦な道だったので、これは峠越えなのかと思ったが、地図によると「松之木峠」と記されているので峠なのである。「峠」とは何か。普段、峠について真剣に考える機会はあまりないが、辞書によると、山の道を登りつめた所、と書いてある。峠とはある一点の場所を指す言葉であった。

 車の交通量はゼロに等しい。残雪が多くなり、周りの畑は30cm程の雪で覆われている。その残雪の断面は断層のようになって道路に面していた。白樺やカラマツ林が続くようになった。少々耳鳴りがした。この峠を越えると水系が庄川水系に変わる。

 六厩(むまい)を出ると、
「この先、急カーブが多くなります。ご注意下さい。」
とテープが流れる。軽岡峠越えである。別名辞職峠と呼ばれている。

 なぜかこの白川街道の峠には別名が付けられている。ガイドブックにそう書いてある。順に「びっくり峠」「思案峠」「辞職峠」。人生の失敗への歩みを物語ったものなのだろうか。事が起こってびっくりし、いろいろと迷ったあげく辞表を提出……。悲しい物語である。

 それとも、正式名称の読み方をもじったものなのかも知れない。おどり→おどろいた→びっくり。まつのき→待つ→待つとは考えること→思案する。かるおか→帰ろうか→辞職。最後のものは自分でもよく意味がわからない。

 この軽岡峠も景観が美しい峠である。標高は約1000m、軽岡トンネルを抜けると下り坂となり、道が多少狭くなる。カーブも多くなった。道は屹立した山の底を走っており、三谷川の渓流が美しく流れている。

 黒谷よりややひらけた。しばらくして集落が現れ、荘川村の役場前を通り過ぎた。温度計が2°Cとなっている。外は寒そうである。そして高山より1時間15分、白川街道と飛騨街道の分岐点である牧戸に到着した。下車客は4人だった。

 牧戸は御母衣湖の南の集落である。せっかくなのでダムの見物に行きたいところだが、都合の良いバスもなければ、歩いて回る時間もない。白鳥駅行きのJRバスは15時7分発である。あと20分程であった。待合室でバスを待った。

牧戸駅

 待合室は広くはなく、売店も兼ねており、店の中に椅子が置いてある、といった感じであった。JRだからなのか、切符の窓口や料金表、運賃表など、鉄道の駅を思わせるような雰囲気の待合室である。移動スーパーから流れる演歌が聞こえていた。切符売り場の中では、テレビを見ながらミシンをかけているおばあさんがいた。美濃白鳥までの切符を買った。

 3人の乗客を乗せ、バスは牧戸を後にした。ひと息つく暇もなく、ヘアピンカーブにさしかかり、ひるがの高原へと向かった。

 ひるがの高原に大った。近代的なペンションが立ち並ぶ、今流行の典型的なリソート地である。この辺りの開発は近年目覚ましいものかおるらしく、途中には「リゾート地売ります 8500坪」という看板があった。

 ひるがのは漢字で書くと「蛭ヶ野」である。が、どこを見渡してみても「蛭ヶ野高原」と漢字で書いてある看板は見当たらない。リゾート地はイメージというものも重要な開発計画の要素のひとつである。「蛭ヶ野」では、人の生血を吸い取る「蛭」が野原に広く住みついている、というイメージが頭に浮かんでくる。これでは心をリフレッシュさせる爽やかさがまるで無くなってしまうように思う。「蛭ヶ野高原」ではなく、「ひるがの高原」なのである。

 ひるがの高原を抜けると道は下り坂カーブの連続となる。となりの尾根下に道路の延長が見える。この辺りは長良川の源流域である。

 「折立道」バス停を通過した。左を見下ろすと灰色の道がピンどめのように折り重なっていた。「○○洞(ぼら)」という名のバス停が多くあった。

 田が現れ、長良川鉄道の終着駅、北濃に着いた。終着駅といっても無人駅であり、開けた街ではなかった。バスは線路沿いに南下すると、16時、長良川の上流域である、美濃白鳥に到着。

 高山から76.9km、峠を走るローカルバスの旅でした。

(1993(平成5)年3月旅行,5月執筆)

オホーツク流氷物語

(旅行年月:1993(平成5)年2月)


プロローグ

「靴はどんなのがいいんだろ。」
「そうだな。くるぶしまで隠れるトレッキングシューズがいいんじゃない? 雪用のスノートレッキングもあるけど。」
こんな会話が友人と交わされた。北海道へ旅立つ1カ月程前である。
話はさらにさかのぼり、10月のとある日のこと。授業が休講となり、図書館で友人と日本の風景の写真集を眺めていた。ページをめくると、雪に覆われた白一色のなだらかな丘の写真がでてきた。冬の北海道である。
「冬の北海道も行ってみたいな。」
「マイナス何十度の世界だよ。」
「どんな感じだろう。」
「冬の北海道へ行こうか! 」
「うん、行ってみようぜ。」
意気投合するのは早かった。こうして計画が始まり、友人を誘って合計4人、厳寒の北海道への旅が行われることになった。
冬の北海道といえば”流氷”である。目的は流氷を見ることであり、旅のルートはオホーツク海岸を南から北へ抜けることになった。また、せっかくだから釧路湿原でタンチョウでも見よう、ということになり、釧路から網走、紋別、浜頓別、そして稚内に至る『オホーツク沿岸北上コース』が出来上がった。交通機関は全て列車やバスである。レンタカーは乗り捨ての自由がきかないことや、雪道の運転に誰も自信がないので使用をやめることになった。
列車となると切符が必要である。切符は「北海道ワイド周遊券」を買った。北海道までの往復乗車券がつき、道内では全線乗り放題、しかも特急の自由席に乗れ、さらに冬期間は値段が通常の1割引とくれば、僕らの旅行には欠かせない切符であった。
服装についても考えた。田舎のおじいちやんに聞いてみた。
「おれはなー、あんた達の年齢の時、軍隊にいてなー、北海道にいたことがあるけど、とにかく風が強くて冷たいから、風の通さないビニール系の服を持って行け。」
なるほど、さすがはおじいちやん、だてに年を取ってないなと思った。僕はナイロンのウェアーを持って行くことにした。
出発日は2月8日である。その前に期末試験が待ち構えていた。必修科目を2つ再履修している僕であった。

日の出前の雪原

北の大地・北海道

急行「八甲田」号の発車は21時45分である。僕らは1時間前に集合した。自由席の乗車口には、既に7~8人の列ができていた。ここ上野駅の地下ホームは、旅情を感じさせる独特な雰囲気の残る場所である。みんなのリュックには、手袋、マフラー、帽子にホッカイロ・・・・と、防寒具で飽和状態といった感じであった。一夜明ければ、雪が見られるのである。車内は空いてはいなかったが、大潟雑といった程でもなかった。
青森は期待通りの雪景色であった。「海峡」号に乗り換え、北海道の入口・函館を目指した。自由席は満席で座れなかったが、隣の指定席があいていたので、300円を払って席に座った。今日の予定は、釧路まで列車に乗りづめの移動日である。札幌ではちょうど雪祭りが開催されており、乗り換えに時間があるので、見に行くことになっている。車輪の刻む音は、雪に吸収されてこもっていた。売店で買ったサンドイッチが、今日の朝食であった。
青函トンネルの説明が放送されると、世界一のトンネルに突入する。約40分で通り抜ける。いよいよ、北の大地である。トンネル内では、外の壁に鳥が飛ぶアニメーションが流れ、また、緑の蛍光灯によって最深部を知らせたり、となかなか凝った演出がされていた。
トンネルを出た。北海道である。土地は北海道でも風景はまだ本州であった。杉の樹林が見られ、山容もまだ北海道らしくなかった。
友人らと、流氷が来ているといいな、という話になった。2日前に紋別(もんべつ)の宿に問い合わせたときは、
「今日が紋別では流氷初日だったんですよ。沖合2~30kmのところにあって、まだ岸にはきていないんですよ。」
ということだった。流氷初日とは、今シーズン最初に流氷が観測された日のことである。今年も暖冬の影響なのか、平年と比べてやたらと遅い。平年では1月20日が流氷初日だという。僕らが行く頃には流氷が接近していることを祈っていた。
函館は寒かった。細かい雪が音をたてずにちらちらと舞い降り、ホームにはさらさらした雪が白くうっすら積もっていた。ここで札幌行きの特急に乗り換える。席は取れたが、自由席は満席であった。
函館を出発すると、車窓には白樺やブナが目立ちはじめ、氷と雪で覆われた大沼・小沼が通り過ぎた。徐々に 「北海道」へと変化していくのである。この面白さは飛行機では味わえない。鉄道やバス旅の楽しみのひとつである。
空は雲に覆われ、雪が斜めに降っていた。視界は良好ではなかった。窓ガラスには斜めに付着した雪が氷となってそのままアメーバーのように貼りついていた。寒さのため溶けないのである。夜行列車明けとあって、みんな眠りに入った。

札幌は大都市である。整然と区画された町並みは、東京よりも都会的な街である。今日は雪祭りとあって、人が溢れていた。コンコース途中にべニア板で囲いの造られた仮設荷物預かり所があり、そこにリュックを預け、会場である大通公園へと歩いて向かった。
雪は降っていなかった。雪の量もさほど多くはなかったが、道端には除雪された雪がこんもり盛られていた。そして、あちこちで寒暖計を見つけることができた。現在の気温は-3℃。手袋とマフラーを身につけているが、段々顔や手がヒリヒリとしてきた。
「みんな寒くないのかね。東京の人とあまり変わらない服装だよ。」
「靴も特別変わったものじゃないみたいだね。滑らないのだろうか。」
確かにそうである。見た目にはそれほど厚着をしているようではなかった。重装備をして膨れているのは南からの旅行者だけのようである。特別な材質の服を着ているのか、身体が寒さに慣れているのか。僕の身体は、さらに痛みが増していた。
また、北海道の人は足を垂直に下ろすからころばない、と耳にしたことがあるが、格別大げさな歩き方は見受けられなかった。みんな凡人である。
雪祭りの雪像はダイナミックである。北海道人のエネルギーを感じる。僕らは写真を撮るなりビデオを回すなりして楽しんだが、手や顔の痛みが最高潮を迎えていた。とにかく痛いのである。周りの人々は皆、平気な顔をして歩いている。なんともないのであろうか、不思議である。そうこうしているうちに、駅へ戻らなくてはならない時間となった。
駅弁を買い、釧路行の最終特急に乗った。釧路到着は23時32分。約5時間の乗車である。車窓も真っ暗だし、みんなでトランプをやった。夜行疲れも重なり、目を充血させながらゲームをやっていた。先月起きた釧路沖地震の影響で列車は遅れ、釧路に着いたのは夜中の0時を過ぎた頃であった。予約しておいたビジネスホテルへ駆け込んで、すぐ眠った。

雪原と灯台

釧路湿原へ

快晴である。今日は釧路湿原に行き、そして網走に向かう行程である。まだ昨日の疲れを引きずりながら、朝7時チェックアウトをした。気温-11℃。路面は氷でカチカチに凍っている。これぞまさにアイスバーンである。鼻から出る息が、加湿器のようにリアルに吹き出す。でも、気温の割には寒さは感じるられなかつた。風が吹いていないからか。僕の身体に寒さに対するウイルスが出来たのかもしれない。釧路湿原展望台へ行くバスに乗り込んだ。
バスが走り出すと、窓ガラスの内側が曇りはじめた。そして友人が一言。
「すげえ、窓が凍ってる!」
曇った水滴が凍ったのである。手で擦っても曇りがとれなかった。バスは釧路の市街地をしばらく走った。
道を右に曲がると、町並みがバタリと途切れ、前方に淡い黄金色をした釧路湿原が突然現れた。ヨシなどが枯れた薄茶色と、白く化粧された地面と、洋々とそして広漠たる釧路湿原である。一気に夢想の世界へ引き込まれた。潅木の枝が、魔法をかけられたように白く凍りついている。樹氷である。樹氷は霧氷とも呼ばれ、霧が木の枝にて凍りつく現象である。バスは数人の乗客を乗せ、そんな湿原の中を走り続けていた。
展望台に到着した。展望台は丘の上にある。眼下に180度、湿原が広がった。黄金色にうっすらとスノーパウダーをまぶしたようである。木製の欄にはガラスの破片のような霧氷が、規則正しくびっしり付着していた。ごみ箱のふたにも霧氷が着いていた。かつて夏に来たことがあるが、夏の緑は何処へいってしまったのか、冬の湿原は夏の爽快さや涼しさを全く感じさせない。外気の鋭い冷たさに対して、ふわっとした暖かさのある景色であった。
近くの案内板に説明があった。茶褐色の平坦な部分は水ごけの茂る高層湿原であり、草原の部分はヨシやスゲの茂る低層湿原であるという。望遠鏡を覗いたが、タンチョウツルは見れなかった。
10時を過ぎ、湿原に生える木の白さが無くなった。樹氷が溶けたようである。朝よりもロマンがなくなった風景のように思う。冬の湿原は朝の方が魅力的であった。
釧路駅に戻り、昼食を取った。そして、釧網本線に乗って、網走へと向かった。
このまま網走へ行っても時間が余るので、途中塘路(とうろ)で下車し、塘路湖へ行くことに決まった。荷物を駅前の商店に置かせてもらい、釧路川沿いを10分程歩くと、塘路湖に着いた。白鳥のいる、人気のない静かなところであった
塘路駅へ戻った。かつては駅員がいたのだろうけれど、今は無人である。網走方面からディーゼル機関車に牽かれた貨物列車がやってきて駅に停車した。僕らの乗る列車と交換待ちのようである。時間になっても列車はやってこなかった。黒のサングラスをかけた機関車の運転手が、赤い機関車の高い窓から顔を出していた。
「列車は遅れているんですか。」
「まだみたいだな。放送流れなかったか。」
僕らは屋外のホームにいたので聞こえなかったが、今にも壊れそうな駅舎には放送が入ったようである。釧路沖地震の影響で、危険箇所では徐行運転をしているからだという。昨日の特急もそうであった。しばらくして、さっきの運転手が首を出して叫んだ。
「今、無線が入って、あと2分で来るよ、あと2分! ! 」
指を2本立てていた。その通り、ライトをつけた1両編成のディーゼル列車が音をたててやってきた。
車内は混んでいた。暑い車内でたちまちメガネが曇った。最後部のデッキに陣を取ると、窓に広がる湿原を眺めていた。そして次の駅、茅沼(かやぬま)に入ろうとしてブレーキをかけ始めた瞬間、2羽のタンチョウの姿を発見した。列車に驚いたのか、タンチョウは小走りになり、切れ込みのある白と黒の羽をおもいきり広げ、首を水平にしながら列車と同じ方向に飛び立った。
優雅である。ほんの数十秒の出来事であった。思わず、
「丹頂、見た、見た!」
と叫んだ。雪の白さとタンチョウの白黒のコントラストが絶妙に調和していた。タンチョウは、戦後一時は100羽を下まわり絶滅に瀕していたのだが、その後の保護活動により今では約600羽にまで増えた。茅沼駅ホームには『タンチョウの来る駅』と書かれた白い標札が建っていた。
網走は大雪であった。知床の背骨を越えた頃から、雪がどっさり積もっていた。流氷は今日から来ている、とビジネスホテルの支配人が言っていた。網走では今日が流氷初日である。しかし、海岸にはまだ来ていないようで、
「とにかく風次第なんですよ。風がこっちに吹いてくれれば、一晩のうちに岸までやってくるし、向こうに吹いてしまえば沖合いの方に行ってしまうし・・・・・・。」
まさに「流氷」であった。夜は街中の蒸気船という居酒屋に入り、海の幸で乾杯となった。

オホーツク海岸を北上、紋別へ

酒の勢いもあってか、昨日のホテルへの帰り道で、『朝5時50分発のバスで紋別に行こう ! 』とみんなで気勢をあげていたのだが、目が覚めたのは全員7時半を回っており、結局予定通り8時30分のバスで発つことになった。紋別まで直通のバスは走っておらず、中湧別(なかゆうべつ)で乗り換えとなる。かつては湧網線と名寄本線の鉄道が走っていたが、赤字による廃止対象路線に選ばれ、今はない。これから乗るバスはその代替というわけである。
バスは発車した。跨線陸橋を渡ったが、坂道の部分だけ道路の雪が全くなくなっていた。アスファルト自体に融雪装置(暖房)が取り付けてあるらしく、とけた雪がところどころで水蒸気をあげていた。刑務所前を通り、網走の市街地を抜けた。
市街地を抜けると、凍結した樹氷のオンバレードとなる。左に結氷した網走湖が現れた。冬の朝の風景は声がでない程素晴らしい。数人の乗客を乗せた中湧別行のバスは、この美しい世界の中を走っていく。
「加藤宅前」という名のバス停があった。地名がないわけではないと思うが、自分の名前がバス停になるとは、北海道らしいことである。羨ましくも思った。
右手に海が現れた。蓮の形をした氷が細長い帯になっていた。流氷である。生まれて初めて流氷を見た。といっても、岸にはまだ接岸しておらず、あと数百mで接岸というところであった。氷の量も全然少なく、流氷の迫力は全くなかった。
運転手さんがマイクを通して説明を始めた。
「え-つ、今印ま観光客の方もいらっしゃるようですので、少し説明をいたします。網走では、ようやく昨日が流氷初日となり、今右手には流氷が見られると思います。え-つ、このあたりは夏になるとじゃがいもやビールの大麦の植わる丘が広がりまして、これもまた北海道らしい風景なのではないかと思います。雪に点々とついている足跡はキタキツネのものです。木が白くなっているのは霧氷と呼ばれるもので、水蒸気の凍ったものです。」
丁寧な説明だった。路線バスの説明というのは、運転手さん自身の全くの好意である。このような説明に出会うと、旅人としては嬉しくなるものである。常呂(ところ)に到着した。
バスはサロマ湖沿いを時々走った。そして真っ白な丘陵の中を走った。カラマツの林、トドマツの林、キタキツネの足跡が線を描いている。サイロが見え、牛が白い息をはきながら寒さをこらえている。「町境」バス停を過ぎると、佐呂間町から湧別町へと入った。道路脇の防雪フェンスは頑丈に作られていた。
湧別にてバスを乗り継ぎ、昼過ぎには紋別に到着した。
紋別は流氷の街である。産業は漁業であるが、冬の間は休業冬眠となる。岸が氷で埋め尽くされてしまうのである。冬の観光の目玉もこの流氷であり、2月上旬には「もんぺつ流氷まつり」が開催される。今日までその祭りの開催日であった。ところが、肝心な主役である流氷が接岸していない。沖合に逃げてしまっている。肉眼では白く細い線が見える程度である。さっき常呂で見られた流氷は、あそこにだけ接近していたということである。荷物を宿に置き、食事の後、流氷祭り会場へと向かった。
気温は0℃ということであるが、どいうわけか暖かく感じた。身体はすっかり北国の感覚になったようである。会場の隣に、流氷についての科学館「オホーツク流氷科学センター」があるので中に入った。中はそれなりに混雑していた。
入口に「流氷情報」があった。根室から稚内にかけてのオホーツク沿岸地方の白地図に、現在の流氷の位置が黄色で図示してあるもので、それによると、接岸している流氷はなく、最も接近しているのは、さっき通った常呂付近だけであった。
友人がとっさに喋った。
「早口言葉ができた。『流氷情報、樹氷情報』、どうこれ。」
「おもしろい。」
「りゆうひようじようひよう、じゆひようりようひよう……、あれ。」
みんなが口ずさんだ。寒い外ではなおさら言いづらいだろうと思う。
「厳寒体験室」というのがあった。その名の通り、究極の寒さを体験する部屋である。室内は年間を通じて-20℃に保たれている。館内の温度が+20℃なので、40℃の気温差があることになる。入口ではオーバーコートと手袋を貸出しているが、僕らは全て着込んでおり、何も借りずに入口の自動ドアを入った。
「これがマイナス20℃かよ。全然へっちゃらじゃん。」
「ほんとだ。ちょろい、ちよろい。」
みんな平然としていた。ひやっとはしているが、思ったより平気だった。階段が下まで続いており、下の展示室に向かった。
ブリザード体験ボタンがあった。押してみると「ヒューウ、ヒューウ」という疑似音と共に、寒風が吹き荒れた。これがブリザードかと思った。その隣には本物の大きな流氷が置いてあった。
5分ほど経過した。みんなの様子がさつきとは変わっていた。
「顔がいてえよ。」
「鼻が凍ってる。」
「寒いーーー。もう耐えられねえ-。」
「出よう、出よう。」
階段を掛け上がり、外へ出た。急激に気温が変化したので、身体が慣れなかったのだろうとも思う。やはり過酷な世界であった。
まつり会場内に「氷めいろ」があった。タイムを競ってみんなで遊んだ。日が段々と暮れていき、氷像がカラフルにライトアップされた。
食事を済ませ、宿に戻ってから、友人から提案があった。
「このまま北上しても流氷はなさそうだし、稚内へ行くのは取り止めて、常呂に戻らないか。」
「そうだねー、流氷情報で流氷はなかったし。」
流氷科学館での流氷情報によると、稚内方面の流氷は沖合いにも来ていなかった。やはり流氷の最も接近している場所へ行った方が、一面に広がる流氷に出会える可能性は高い。流氷を見たことは見たが、やはり一面に埋め尽くされた氷の塊を見てみたい、と誰もが思っていた。今日見た流氷は、流氷と呼べるものではなかった。
意義無く、明日の朝のバスで網走へ戻ることに決まった。流氷科学館に行くまでは、流氷は北へ行くほど漂着しているのかと思っていたが、紋別や網走の方が流れてきやすいそうである。
流氷はロシアのアムール川の淡水が海水と混ざりあって結氷するもので、その氷が風に吹かれてオホーツク海を南下し、北海道にやってくる。それを考えて世界地図を眺めると、紋別・網走が流氷の漂着地であることが判然とする。
明日は覆い尽くすような流氷に出会えるだろうか。『風よ吹いてくれ』、と祈るばかりであった。

荒れるオホーツクの海辺

流氷よ、いずこへ 網走へUターン

9時過ぎのバスで常呂へと戻った。紋別へ来るときと同様、中湧別で乗り換えとなる。パスターミナルまで乗ったタクシーの運転手さんによると、流氷は沖合い20km位にあって、昨日より更に10km離れてしまったよ、という。ターミナルに着き、バスに乗った。
今日は雪が降り、風が強く吹いていた。防雪柳のない直線道路では雪の吹きだまりができ、風の吹く方向に白い雪の山脈が作られていた。吹きだまりの下には石などの突起物があるのだろう。道路の上には風にのった粉雪が、寒々と吹いていた。
途中の佐呂間までのバスがあったので、それで佐呂間まで行き、昼食を食べたあと、常呂に向かった。常呂に着いたのは14時頃であった。パスターミナルは元国鉄の常呂駅だったところで、建物も新しく立て直されており、当時の面影は駅前広場の雰囲気ぐらいなものである。ターミナル内には定期券売り場兼案内所があり、おばさんが退屈そうに仕事をしていた。ターミナルの裏手はすぐ海岸であり、僕らは閑散とした待合室に荷物を置いて、海岸へ出た。
天気は朝とは変わり、もう晴れていた。流氷は昨日のように目の前にはなかった。水平線の彼方にかすかな白い線が見える程度だった。でも、風はこちら側に吹いている。ひょっとしたら、ひょっとするかもしれない。海岸には流氷の塊片とでも言うのか、氷の塊があちこちに打ち上げられていた。
外は寒い。しばらく海岸にいた。すると、雲行きが怪しくなってきた。波が高くなり、あたりがうす暗くなった。空が鉛色になり、海が灰色になると、突然雪が吹いてきた。次第に雪は激しくなり、岬の集落が見えなくなった。怒涛がテトラポットにぶつかり、しぶきをあげている。
荒々しい冬のオホーツク海に急変した。Gパンの裾が凍結して固まった。吹雪がコートに着き真っ白である。海上が霧で霞がかかり、波の音がたくましく聞こえた。カモメが空で鳴いている。写真を取り続けている友人が、黒いコートを白にして雪と格闘していた。海の方から雪が体にぶつかってくる。
20分程経過しただろうか。空が明るくなってきた。雪も降りやんだ。そして太陽が出てきた。海も空も青に戻った。視界も元に戻り、岬の集落も見えるようになった。ほんのひとときのドラマだった。これは空の精霊から僕らへのメッセージなのかも知れない。流氷が見れそうな、そんな気がした。
海は何事もなかったように、穏やかになった。
日が暮れるまで待っていたが、流氷はやってこなかった。ターミナルの公衆電話で天気予報を聞いた。
「今夜は北西の風やや強く・・・・・・」
北西の風? 地図とコンパスを広げてみた。北西からの風だと、能取(のとろ)岬に流氷がひっかかるではないか。これこそ待ち望んでいた風である。今夜は網走に宿泊し、明朝早く能取岬へ行くことに決まった。ガイドブックにも能取岬は流氷を見るのに最適と記載してあった。早朝にしたのは今後の予定もあって、9時30分発の特急で札幌に向かわなければならなかったからである。これがラストチャンスであった。

打ち上げられた氷塊

能取岬にて

朝6時、空は既に明るくなっていたが、それでも、まだ夜が明けきっていない感じだった。頼んでおいたタクシーに全員乗り込み、能取岬まで車を飛ばした。流氷は来ているだろうか。
運転手さんに聞いてみたが、さあどうだろうねえ、と曖昧な返事が返ってきた。行ってみなければ分からない。運転手さんが話を続けた。
「子供の頃は、必ず一面に氷が張って、その上で遊んだもんだけど、今は氷が薄くなって危なて上にはあがれなくなったよ。」
温暖化の影響が顕著に表れていた。
車が坂を登り、峠を越えた。突然、視界に白い海が広がった。
流氷である。
一面の流氷である。風に乗った氷の塊が、能取岬に漂着したのである。
タクシーを降りた。僕らは夜明けの岬にたたずんだ。岬は高台になっている。左から右まで、蓮氷がびっちり埋まっていた。まだ、完全に氷どおしが固まっていないため、波が来るたびに蓮氷が生き物のように動き、その時の摩擦によってジェット機のような「ゴーッ」という音を力強く出していた。
風は強烈だった。体感温度は-20℃、いやそれ以上(以下)だろうと思う。服装は、下半身がGパンの上に更にナイロンのトレーニングズボンをはき、上半身は肌から順に、Tシャツ、綿シャツ、トレーナー、ナイロン系トレーニングジャンパー、スキーウエアーの上半身のみ、そしてダッフルコートを着込む6重構造である。靴はスノートレッキングシユーズ、靴下はスキー用の厚手のもの、手袋をはめ、マフラーを巻き、フードをかぶる。これで防寒は完壁である。寒いのは顔面だけであった。
岬には黒白縞の灯台が建ち、広々としていた。粉雪が強風によって地を這うように素早く吹き去っていた。

ついに流氷に出会えたのである。

流氷

流氷
冬のオホーツクの岬に立っていると
世間とは何だろうか、とふと思う
冷たい風が地の雪を舞い上がらせ
枯れ草がこすれ合いながら乾いた音を鳴らしている
流氷はうねりをあげて波にのり
風の吹くまま、気の向くまま
ゆっくり海を旅していた
力強い流氷、大いなる流氷
流氷は勇気を与えてくれた
世の中がいかに小さなものか
流氷を見ていると、そんな気がする

寒かった…
(上半身6枚,下半身4枚の重ね着)

さぁ出発!夜行鈍行大垣行き[四国旅行記#1]

はじめに

 高校の卒業式を終えた1991(平成3)年の春休み、旅好きな友人2人と一緒に、3月24日(日)から7泊8日の四国旅行に出掛けました。これは、その時の旅の記録です。

(旅行年月:1991(平成3)年3月)

さぁ出発

 私はいつも旅行の準備というものは、出発する直前に行なっている。別にこだわり を持っているわけではないのだが、どうしてもそうなってしまうのである。そして、 今日も午後4時、出発の準備をしていた。この準備を始めると心が高揚しはじめる。 嬉しくて、楽しくて、ワクワクしてくるのである。準備が早く終わってしまうと出発 時間まで待ち切れなくなり、今回もそのようなパターンであった。集合は東京駅10 番ホーム品川寄りに午後6時であった。夜行普通列車大垣行きに乗るためである。
 午後5時20分、ちょっと早いが家を出発することにした。

夜行鈍行大垣行き

 東京駅に着いた。案の定1番のりで、友人は誰も来ていなかった。数分後友人がき た。大垣夜行は毎日運転されているが、春夏冬休みには青春18切符が使えるとあって大混雑する。ピーク時の混雑ぷりは大変なもので、今どきこんな列車があるのか、と思う程である。

 そこでやっと最近、混雑する日に臨時 の大垣夜行列車(9375M)が運転されるようになったのである。この臨時夜行、東京を定期夜行より3分遅く発車するのだが、浜松で追い抜いて大垣には8分早く到着するおもしろいダイヤになっている。こうなるとどうしても臨時夜行の方に乗ってみたくなる。そして我々は臨時の大垣行きに乗ることになった。

 念には念をということで、集合時間を発車時刻の5時間43分前、午後6時にした のだが、臨時列車ができたせいか誰も並んでいる人がいない。我々は、臨時ができてから乗るのは初めてであり、大垣夜行に乗る人かどうかは一目見ればすぐわかる。勿論『大垣行き』乗車案内板下(10番線)に先頭として陣取りをした。

 午後9時、ボチボチ並ぶ人がでてきた。ブルートレインが次々と目の前を発車していくが、発車していくたびに「金があったらなあ」と車内の乗客をうらやんでしまう。これくらいの旅行になると、結構お金がかさむ。しかも、ビンボーな若者!にとってはなおさらである。また高松行き「瀬戸」が出発した。そんなとき、定期夜行の発車する隣の7,8番ホームを見ると、中核派の制服!、ヘルメット、マスク、サングラス、ハットスピーカー、旗を持った大集団が前2両に並んでいて、鉄道公安員も警備のため立っていた。これから何処へ行くのかなどと友人と話をしていたが、なんとも物騒な感じであった。

 午後11時ともなると、いいかげん暇で暇でいやになってくる。最後のブルートレイン『銀河』を見送って、22時33分、まちにまった臨時夜行が入線してきた。

 8両編成でグリーン車はついていない。座席の背もたれ上部にJR東海独特の自いカバーがかかっていないので、JR東日本の車両だろう。7番線の大垣行きを見ると日よけカーテンが全部閉められていた。

 22時43分、定刻に発車。車内は80%位の乗車率だろうか。

『どうせ寝れるわけがない』と諦めていたが、我々の乗った車両(先頭)の暖房の調子が悪いのか、窓の具合が悪いのか、とても寒かった。隣の車両をみると窓が水滴でびっしょりなのに対し、こっちの車両の窓は涸れるどころか曇ってもいない。しかも
窓を開けてる若者がいて本当に寝むれずイライラした。浜松で両大垣行きが並んだ。日よけカーテンは閉ったままである。

 列車は闇の中をひたすら走っていった。

まっすぐ姫路[四国旅行記#2]

 大垣に6時49分、定刻に到着した。本当に寝むれなかったので体が変だ。次の列車の席取りのためみんな走っているので、私も負けずに跨線橋を走った。8分後、定期夜行が到着したが、もう座れないだろう。そんなことを思っているうちに、網干行普通列車が入線してきた。なんとか席は確保できたが、友人がトイレに行ったため席が1つ開いていたのだが、「ここは、開いてないのか?」「開いてないのか?」としつこいおじさんがいた。のちのち、このおじさんによって大変不快な思いをすることになる。

 7時8分、湘南色の電車は岐阜県大垣駅をあとにした。車内は大垣夜行からの乗り継ぎ客でかなり混雑しており、なんだか全然普通電車らしくない。そして、あの例のおじさん(糞ジジイと表現した方が適切)が周りの乗客たちに、「おい、どこまでいくんだ!おい!おれの話しがきけねえのかア~!」というような調子で当り散らしていった。いきなり酔っぱらいの出現である。車内は異様な沈黙に包まれた。

 しかし、鈍な奴とはいるもので、そのような尋常でない状態にもかかわらず、大声でベチャベチャと喋っている人がいて、さっそく酔っぱらいのエジキとなってしまった。
「おい!たのしそうだなあ~!ええ一つ!」
幸い、我々は絡まれずに済んだが、ああいう乗客に会うだけで旅行の気分が台無しになってしまう。困ったものである。

 米原に着いた。新快速に乗り変えるため下車して、案内のあったのりばで並んで入線を待った。ついでに『牛肉弁当、820円』とやらを買った。すると、
「大変失礼しました。今度の新快速ののりばは、隣の2番ホームです。」
との案内放送。だたでさえ混雑しているのに、この放送のあと一瞬、騒然とした雰囲気になった。「やられた!」と思いながら、我々もカバンを移動した。まったく、こういう時に限ってこういう事が起こるのだから油断できない。

 新快速姫路行が入線し、ドアが開いた。あのような混乱があった後もあって、もみあい、へしあいの大変な乗車合戦となった。中年のおばさん(巷ではオバタリアンともいう)が余りの勢いで転んでしまい、
 「ちょっと、ひどいじゃない!おさないでよ~」
と叫んでいるが、誰も聞いていない。我々は、今回も運良く座席が確保できた。しばらくして、車内を見回してみると、立っている人がほとんどいない。さっきのオイルショック時のトイレットペーパーを買うような騒ぎは何だったのだろうか。

 8時07分、米原を発車。野洲までは各駅に停車する。弁当も食べ終わり、あとは姫路まで落ち着いていられる。睡魔が襲ってきて京都あたりまで寝た。

 目が覚めるとラッシュで満員。新型の車両で気持ちよく座っていたので、なんだか恐縮してしまった。

 10時30分、あと15分で姫路に到着する。しかし、飛ばすこと、飛ばすこと。私は、進行方向反対側に3時間も座っていたせいか。少々酔ってしまったようだ。そして、46分、姫路に着いた。

姫路駅

片上鉄道で柵原へ[四国旅行記#3]

 この旅行の目的は四国なので、まっすぐ岡山へ行くべきなのだが、今年4月で廃止になる私鉄「同和鉱業片上鉄道」に乗るため、片上駅に向かった。
 この鉄道は、吉井川上流の柵原 (やなはら) 鉱山で採掘 される硫化鉄鋼を瀬戸内海に面した片上港へ運ぶために建設されたもので、昭和6年に全通した。片上駅へは、赤穂線西片上駅で下車し、5分程歩いた所にある。

 12時30分頃、片上駅についた.今度の列車まで45分程あるので食事を済ませることにした.近くにお好み焼き屋があったのでそこに決めた.店はそれ程広くはなく、奇麗だ!といえる感じではない。中では地元の人々の談話室となっていた。

 「おにいちゃんら、ちょっと時間かかるよって・・・。」

 岡山弁?で店のおばちゃんがこのように言っていた。
そして、すったもんだと議論したのち、急いで作ってもらう事に落ち着いた。

 店にいる地元の人と色々な話しになり、東京から来た、と言うと『うちの甥も東京で働いてるわ』という話しになる。既に12時50分、発車25分前であった。そして、早く食べないと間に合わないぞ、という話しになり、店のおばち々んが私に向かって、

「あんたが、一番だめそうや。」

と言った。3人の中では確かに1番キャシャな体格ではある。,自慢じゃないが食べるのは1番早い。こう言われると、意地でも1番に食べ終わらなければ気が済まない。13時、発車15分前に出来上がった。3人共急いで食べたが、熱いので思うよう口に進まない。味わって食べる暇もない。私は1番に食べ終わり、意地は張れた。そして、3人共食べ終わったが、発車5分前だった。最後、店を出るとき、

「おばちゃんのこと忘れないで、また今度はゆっくりと来てちょうたいね。その頃は彼女もいっしょかなー、気いつけてな。」

と言われ、慌てて駅に向かった事が非常に印象に残っている。

 何とか列車には間に合った。13時15分、定刻に片上駅を発車した。1両編成の肌色と赤のツートンカラーのディーゼルカーで、車内は20人ぐらい乗客がいるが、ほとんどがはるばるこの鉄道に乗りに来た旅行者のようである。

 列車は、赤穂線、続いて新幹線をオーバークロスして、ウネウネと山中の上り勾配をのぽっていく。備前市から和気市に入って、31分、和気に着いた。ここで19分停車する。
 岡山からの電車に接続するためだろうが、他の列車も和気でしばらく停車するので、和気が中心のダイヤ設定になっているのだろう。13時50分、さらに20人ぐらいの客を乗せて発車した。

 列車は吉井川に沿い、上流に向かって北上する。左手に川と国道374号線がみえる。車窓は結構美しい。3駅、4駅と止まるたびに、地元の乗客はポツポツと降りていく。

 14時36分、終点柵原(やなはら)に着いた。車窓は終点まで変化がないが、赤いとんがり屋根の駅舎は洒落たものである。私は全国の駅舎の写真を撮り集めているので、写真を撮り、折り返し14時57分の列車に乗り込んだ。

柵原駅

 柵原には今では廃墟となった鉄鉱場の建物があり、何とも寂しいところであった。待合室の掲示板を見ると、6月(何日かは忘れてしまった)に廃止となる旨が伝えられていた。バスとの交渉がうまくいかず、2ヶ月程廃止が延びたのだそうだ。

柵原駅の鉄鉱場跡地.この後廃止された.

 折り返し列車が発車した。乗客はほとんど折り返し客だった。

 10分位たった頃、走っていたディーゼルカーが急停車した.
「え一つ、申し分けありません。ただいま、踏切が故障しています。しばらくお待ち下さい。」
と車内放送があった。「ほんとかよ!」と思っていると、車掌が車から降りて、前方の踏切まで走っていった。工事中の案内看板に踏切の捧がひっかかっていたらしく、手で直して戻ってきた。

「おまたせしましたー。」

警笛がなり、発車した。しかし、今までの旅行のなかで車掌が降りて踏切を直したという場面は初めて見た。もしかすると、踏切も列車の廃止に感づいて、自己主張をしたのかもしれない。

正面6枚窓の流線型車両

どっきん!四国へついに突入[四国旅行記#4]

 16時26分、和気で山陽本線に乗りかえ、岡山に着いた。いよいよ瀬戸大橋を渡る時が来た。しかし、天気は曇り空で今にも雨がふりだしそうな模様である。16時45分発の『マリンライナー43号』に間に合う時間だったが、座れなかった為、30分後に発車する『マリンライナー45号』(17時15分発)に乗ることにした。

 16時59分、ステンレスにブルーの帯びの電車が入ってきた。席は勿論確保。そして、17時15分発車。電車は左にカーブし宇野線を走り、早島、茶屋町と停車する。車内は春休みに入ったとあって、子供連れの客で混雑していた。

 17時30分、茶屋町を発車すると、宇野線に別れを告げ、灰色の高架橋をグングン走って行く。本四備讃線(瀬戸大橋線)に突入した。右に大きくカーブして、左眼下に宇野線が見えた。そして、一目で新線とわかる直線のトンネルを何回も、物凄いスピードで突っ走る。

 10分後、児島に到着。1/3位の客が下車した。茶屋町より大きい町に思えた。後で地図で調べてみると、倉敷市であることがわかり、少々意外であった。

 児島を出ると、左手に児島ボートレース競技場が見え(駐車場が広い)、マリンライナーはどんどん加速していった。車掌が瀬戸大橋の説明らしき事を言っているようだが、ボリュウムが小さくてあまり聞こえない。まだか、まだかと外を見ているが、青函トンネルに入る時もこんな気持ちだった。すると『ゴー』といって(そんなに大きな音ではない)瀬戸大橋を渡り始めた。天候が芳しくないため、遠くは見えないが、海の上を列車が走っている、と考えると「銀河鉄道999の哲郎」のような気分になる。しかも、下を覗くと「海」なので、なおさらである。

 橋の途中にある与島パーキングエリアが見えてきたが、その車の高架橋(灰色)が随分高いところにあってカーブしており、よく折れないものだな、と感心してしまった。

 橋も渡り終わったようで、瀬戸中央自動車道は左に別れていった。周りは工場地帯で、いよいよ四国に突入して、17時55分、坂出に着いた。立っている人がいなくなる。ついに雨が降りだして、列車は高松に向かった。しかしまあ、よく飛ばすこと・・・。そして、18時12分、四国随一の都市、高松に到着した。

高松駅

大歩危、かづら橋[四国旅行記#5]

大歩危峡

 3月26日、火曜日。曇り。高松7時16分発、特急「しまんと1号」中村行に乗りこんだ。朝食に駅の讃岐うどんを食べたが、個人的には白つゆの方が好きなので、うまかった。

 JR四国独特のチャイムが流れ、車内放送がある。車内をみると、クラブの試合かな、と思える若者3人が中年の先生らしき3人と一緒に乗っていたが、そのとき、手首のハンカチの隙間から、銀色の手錠が見えてしまった。彼らにとっては、しばらくは接することのできない外界となるのだろうか。

 猪ノ鼻峠を越え、香川県から徳島県に入って、列車は下り坂になる。右手に吉野川が見えてきた。ぐる一つと180度、右にカーブし、吉野川を渡って、8時31分、阿波池田で下車した。池田高校のある池田である。これから、大歩危、かずら橋と行くので、荷物をコインロッカーに入れて、8時46分発のワンマン高知行に乗った。

 1両のワンマン列車は、吉野川上流に向かって走っている。車内はロングシートで15人程いるが、ほとんど観光客であった。
 景色もだんだんと山の中になり、大歩危(小歩危)峡にさしかかった。数十メートルに及ぶ断崖絶壁や美しく磨かれて層をなした岩石、木々の色彩はみごとである。
 9時31分、大歩危到着。11時35分発のバスまで時間があるので、大歩危峡のドライブインまで往復して、吉野川を見てまわった。

大歩危峡(吉野川)

秘境・西祖谷山村(かずら橋)

 再び、大歩危駅まで戻ってきて、かずら橋行の西祖谷山村村営バスに乗った。マイクロバスで1時間かかるのだが、四国交通のかずら橋行のバスでは20分で到着するので、村営バスはよほど大回りをするのだろうと思った。

 満員の客を乗せて発車した。半分は観光客であり、車内には案内テープもなければ、下車合図のブザーもない。有科道路入り口の手前で、右に別れているマイクロバス1台がやっと通れるような道路に入った。

西祖谷山村営バス

 村営バスは旧道を通っていく為に時間がかかるのであり、住民の足でもあるのだ。そして、うっそうとした木々に囲まれた「ほんとうの山の中」に入っていき、急な上り坂となった。バスは低速ギアで、「ワンワン」唸りをあげている。対向車はほとんどなく、車がきた場合は待避所でどちらかが待って行き違いをする。

 地元客は1人のじいさんになった。

 ウネウネとこんな調子の道路が10分程続く。した~の方を眺めると、今通ってきた道が小さくなってみえる。そして、上を見上げるとこれから行くであろう道と集落が見える。まさに秘境の集落で、どうやってあんな急な斜面に住んでいるのだろうと思ってしまう。

 ガラスがくもってきた。頂上にきたらしく、今度は下り坂になる。ウネウネと下っていくうちに、一人じいさんが降りた。こんな所に家があるのか!と思った。なにしろ、木しか見えないのだから。

 約40分程走ると、大きい道路にでた。有科道路に通じている新道である.そしてひらけた町 (といっても,今までと比べたらそのように思えてしまう)についた。一宇である。 乗り降りはなく、バスは方向変換して出発した。ここから先は、1日3往復しかない。

 橋を渡ったバスは左折し、また狭い急な上り坂(日道)を唸りながら上っていった。車内では半数の人が眠っていた。 12時35分、かずら橋に着いた。

かづら橋

 かづら橋は,水面からの高さ12mの祖谷川にかかる、付近に自生するシラクチカズラで編み上げた、古風なつり橋である。ゆらゆら揺れ,粗いかづらの編み目から水面を覗くと、吸い込まれそうで足がすくむことで有名である。

 410円の通行料を払って、かづら橋を渡った。はじめは『ちょろい、ちょろい』と思っているのだが、わたってみると結構背筋がぞくぞくする。友人の1人は高所恐怖症であるらしく、必死にカズラを握りながら手に汗をかいて渡っていた。
 祖谷そばを食べ、今度は、四国交通バス、大歩危駅経由阿波池田駅行に乗った。車内は大歩危までは満員であった。天候は相変わらずのくもり空で、からっとした青空が見たい。

 阿波池田で荷物をだして、16時15分発の急行『よしの川4号」に乗って、徳島に向かった。車両は転換クロスシートと固定クロスシートの2両編成で、普通列車にも運用されているものであった。途中、教習所の車と並走する場面があり、友人が免許を取っている最中だったため、他の友人と教官のまねをしてからかっていた。そして、徳島に到着。17時33分。

小松島線を歩く。そして南国高知へ[四国旅行記#6]

小松島線を歩く

 雨。朝からしとしとと降っていた。徳島駅は駅舎の全面建てかえをするようで、本駅舎は使われておらず(まだ壊されてはいない)、小さい仮の駅舎が使われていた。

徳島駅

 8時18分発、牟岐線海部行に乗って車内で駅弁を食べ、小松島線の分岐駅であった中田で下車した。単なる田舎駅で駅前は住宅街となっており、乗客は数人であった。

 雨の中、小松島線の廃線跡を見つけるため、地元の人に聞きながら歩いた。

中田駅

 小松島線は、かなり以前から廃止の案が浮かび上がっていた線で、中田一小松島間ひと駅の僅か1.9㎞の路線であった、終点の小松島の先に『小松島港(臨)』という駅がくっついていたが、小松島港は小松島駅構内に南海フェリー連絡のため設けられた仮乗降場で営業キロがない。したがって小松島一小松島港間の運賃はいくらか?タダになるのか?と鉄道マニアの間で話題になった区間でもある。

 そして歩くこと10分、前方に小川に掛かる小さな鉄橋が見えるではないか!自然と3人共かけあしになる。紛れもなく小松島線廃線跡だ。線路ははがされ、残っているのは鉄橋とバラストぐらいのものであった。そして、小松島に向かって歩いていると、途中から洒落た遊歩道に変わった。近くの案内板をみると、中田一小松島の間を遊歩道にする計画のようで、その一部なのだろう。

 さらに、10分程歩くと、前方がだだっ広い野原になった。貨物操車場跡地だろうか。そのまま野原を歩いたが、雨が降っている為、草についた露がGパンや靴についてビショビショになった。

小松川線貨物操車場跡地

 和歌山行南海フェリーの待合室に着いた。随分寂しい感じの待合室だった。和歌山から先の南海電車『サザン号』の乗り継ぎ時刻が書いてあり。切符も販売しているのを見て「南海なんだな」と実感した。フェリーは約2時間おきにー昼夜出航ている。和歌山港まで2時間。

南海フェリーのりば

牟岐線を往復して

 小松島港からタクシーで南小松島駅にでた。10時23分の特急「うずしお3号」で終点の牟岐まで行き、1分接続のワンマン普通列車海部行にのりかえた。車内はお年寄りや補習をうけた高校生など、約30人程乗っていた。外は大雨になっているらしく、あめが波打って降っている。鯖瀬、浅川、阿波海南と止まる度に乗客がおりていく。そして、11時37分、終点海部。終着駅だが、高架橋は先へ延びている。いつ宍喰(仮称)までつながるのだろう。

海部駅

 折り返し11時44分発、板野行の列車で徳島に向かった。だんだんと乗客も乗ってきて、南小松島のあたりでは、立客もではじめた。中高生が多いけれど、お年寄りも多かった。

高松をまわって南国高知へ

 徳島で3分接続の「うずしお14号」高松行に乗る(13時54分)。2両編成全車自由席の特急で、約1時間毎に走っている。1990年11月21日のダイヤ改正で急行「阿波」(2往復)が全て特急に格上げされてそのようになった。

 発車直前に乗ったので座れず、デッキに立つことにした。ホテルが高知なので、徳島線で直行すればよいのだが、徳島線は昨日乗車した為、まだ乗ったことのない高徳線、ついでに土讃練大歩危一高知間を通る高松まわりのルートにしたのであった。

 昼食は高松で取ろうと思っていたが、空腹には耐えきれず、車内販売でサンドウィッチ[380円]とウーロン茶を買った。

 15時10分、高松に到着。高松は2度目である。ここから、15時45分発の普通琴平行で多度津まで行き、岡山からの特急にのりかえる。多度津では、大抵の特急において、高松からの特急と、岡山からの特急との列車接続(一方は予讃線方面行、もう一方は土讃線方面行)を行なっているので、高松16時11分発の予讃線方面特急「いしづち11号」に乗ってもいいのだが、なにしろ四国の普通電車は珍しいので、電車に乗ることにしたのである。

 多度津に着いた。岡山からの特急『南風9号』中村行にのりかえる。私は、気動車初の新型振り子式気動車2000系に乗りたかった。振り子列車に乗るのも初めてである。期待通り、新型の5両編成がきて、16時47分、動いた。

多度津駅

 振り子式車両とは曲線区間を高速で走っても横揺れが起きないように工夫されたもので、台車の上にコロを付けて車体をより傾けて走るものである。

 初めは座れなかったが、阿波池田になると数人降りたので、パラパラではあるが3人共座れた。座った車両は、高知で切り離される車(一番後ろ)だった。

 乗り心地は、やはり最高。全然揺れが少なく、高速でカーブを曲がると車体が傾くが、とてもスムーズに感じる。特に、四国山地を越える阿波川口一大歩危一土佐山田間においては顕著だった。四国の特急は遅い、と思っていたがとんでもない。最高時速120km/hで飛ばせるところでは飛ばす。

 あたりも暗くなり、18時25分、南国高知に到着した。駅前は徳島と同じように背の高いヤシの木が沢山立っており、いかにも「南国」という感じである。雨あがりのせいか、吹いてくる風が、湿っていて生暖かった。

高知駅

おっと!一目惚れ?土佐くろしお鉄道の女性車掌[四国旅行記#7]

 3月28日、5日目に突入した。今日はまっすぐ中村に行き、市内を観光する予定になっている。高知8時08分発、特急『あしずり1号』中村行きに乗りこんだ。車内は50%位の乗車率で、観光目的の人と数人のサラリーマンぽい人しか乗っていない。天気は昨日とはうってかわっての『快晴』で、観光をするにはもってこいの天候であった。

 9時28分、窪川に到着した。隣には、明日乗車するであろう予土線のワンマンカーが発車時刻を待っている。ここから中村までは、元中村線であった第3セクター「土佐くろしお鉄道」に会社が変更する。ということは周遊券では乗れないわけで、別に1240円(特急料金込み)を払うことになる。

 9時33分発車。JR四国のチャイムが再び流れ、奇麗で済んだ女性の声でアナウンスが始まった。女性の車掌さんなのである。

「本日は、土佐くろしお鉄道、特急『あしずり1号』中村行きにご乗車いただきまして、誠に有難うございます。これから先は周遊券ではご乗車になれませんので、切符をお持ちでないお客様は只今より車掌がまいります。その時にお買い求めください…。」

 大変流暢な言葉づかいであった。かつて、JR東日本で女性の職員を採用した際、社員研修の一つとして「車掌の車内放送の実習」があり、私の通学手段である京浜東北線でもその放送を耳にしたことがあるが、訓練されてないせいもあるのか、間のあけ方が適切ではない為に非常に聞きづらく、男性の放送の方がよっぱどよいと感じた事があった。土佐くろしお鉄道の女性車掌は大変訓練されているらしく、JR四国の車掌とも比べものにならない程素晴らしいものである。どんな顔をしているのか見てみたくなった。

 しばらくして、噂の女性車掌が入ってきた。

「失礼いたします。乗車券をお持ちでないお客様はいらっしゃいますか…。」

 一瞬目を疑った。品があり美人である。そして、二コニコ笑顔を絶やさない。「紀子さま!」まさにこの人にピッタリの言葉である。私たちは切符を精算したが、なんだか自分たちが良い事をして、晴れ晴れとしているような気分に浸っていた。この車掌さんが回ってきたら少なくとも男性ならば、キセルする人がいなくなるのではないだろうか。ドアの開閉業務も行なうのだが、その時の下車客に笑顔で頭を下げる様子を見ていると、ただ唯「うっとり」の四文字に尽きてしまう。
「けっ、結婚して下さい!」
このようにアタックする人がいてもおかしくはないと思う。

 第3セクターの意気込み、真剣さが感じられた。

土佐くろしお鉄道「中村駅」