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石垣島(最果て紀行#7)

台風で大荒れの石垣島中心部


無事、石垣島に到着した。桟橋では、離島へ向う船がロープでしっかりと係留されはじめていた。既に、今日の船便は全て欠航になっている。西表島から乗った僕らの船が最終便だったということであり、第1便で石垣島に戻ってきて正解であった。車の運転をしていた友人は石垣島までの旅で別れて、明日の飛行機で実家のある北海道まで帰る予定だった。石垣から北海道まで移動するというのも、ダイナミックである。ところが、台風は明日に八重山地方を通過する予定であり、今のところ飛行機はまだ飛んでいるということから、今日の便で帰ることになった。午後の便に空席があり、那覇・羽田を経由して千歳まで向い、今日中に到着するということである。軽食をとって、その友人と別れた。

さて、本来ならば西表島のどこかの浜で海水浴をしていたのだが、予定に空白ができてしまった。荷物をホテルに置いて、チェックインの時間までどこかぶらつくことにした。
石垣島の観光をしようと思うのだが、定期観光バスは午前中に出発してしまっていた。それならば観光タクシーを使おうと思い桟橋ターミナルに止まっている運転手さんに聞いてみると、観光コースの表を見せてくれたが、値段が高い。これから足止めを食らい、何日か延泊しそうな気配であるのに、あまりお金を贅沢に使うわけにはいかなかった。レンタカーを借りようにも、まともに運転できる友人が去ってしまったため、レンタカーは無理である。このようなときは、路線バスを調べて適当に面白そうなところへ出かけたりすれば、結構時間つぶしになるものである。早速、バスターミナルへと向った。
時刻表をもらうと、13時40分発の「平一周」行というバスがあった。バスターミナルから東回りで石垣島の最北端のひらの平野というところまで行き、そこで20分間停車して折り返し、半島の付け根の部分である伊原間まで戻ったあと、今度は西回りでバスターミナルまで戻ってくるという、全島を巡るにはもってこいの運行ルートだった。ターミナルには17時30分に戻ってくる。天気も夜になればなるほど悪くなる一方なので、路線バスに乗りながら島の風景を眺めるのも悪くはなかった。
バスの発車までまだ時間があった。切符を買い、待合室で発車を待った。待合室と言っても冷暖房完備の近代的なものではなく、昔懐かしい木のベンチが並べてあって、外との区切りはなく、隣にはパンや牛乳などを販売する売店があるものだった。その売店からはまわりの閑散さを打ち消すかのように、NHKのラジオが流れていた。
数人の地元客と我々3人を乗せたバスは定刻に発車した。最北端の平野には1時間30分で到着する。車内にもNHKラジオが流れており、時折台風情報が入る。12時現在、台風の中心気圧は965hPaであり、次第に接近しているとの事であった。
空は暗くなり、風が強くなり、周期的に激しい雨がバスを襲っていた。ハイビスカスの赤い花の並木が大きく揺れながら沿道に続いている。両側にはサトウキビの畑が広がり、沖縄地方独特の亀の甲羅のような墓地が後ろに過ぎ去った。
14時現在、台風の中心気圧が960hPaになった。発達している。石垣・宮古島への上陸は明日になるが、今日の夕方には暴風域に入るという。まさに、直撃であった。
伊原間を過ぎると、バスは荒涼とした風景の中を走っていった。草原が広がり、その先に灰色の海が広がる。南国の温かい地方の風景とは思えなかった。南国の風景と言えば、葉の大きなモコモコした草木が生える陽気な風景というイメージが僕にはあった。そして終点の平野に到着した。
平野は小さな集落であり、それ以外何もないところであった。外に降りると、台風独特の生温かい湿った風が強く吹いている。雨はあがっていた。停留所付近を散策して、何をするでもなく、バスに戻った。15時30分、予定どおりバスは平野を後にした。
同じ道を引き返し、伊原間で右に折れて、今度は東側の道路で島の中心地であるターミナルを目指した。16時現在、台風の中心気圧は955hPaになっている。すれ違う車の台数も少なく、ターミナルに到着したときは強い風が絶え間なく続くようになり、あたりも薄暗くなっていた。
夜、別れた友人から北海道に着いたという電話が入った。『飛行機がけっこう揺れたよ』と話していた。

暴風雨である。窓から外を眺めると、街路樹が左右に大きく揺れ、強風の為に雨が霧のようになって辺りを霞ませ、海の波が小刻みに泡を立てていた。大時化である。道路には大きな水たまりができている。朝の天気予報によると、中心気圧は940hPa、宮古島に上陸した模様であり、石垣島への上陸は避けられたということである。進路は北東に向っていた。
本来の予定では、今日、波照間島に日帰りで往復し、明日、与那国島に向う予定だった。それぞれの航空券は既に東京で手配していた。空港に電話を掛けるが、なかなかつながらない。もちろん飛行機は欠航だろう。今日はホテルに缶詰めである。天が与えてくれた休息日だと考える。
今後の予定は、そのまま予定を繰り下げるのではなく、波照間島の訪問を後回しにして、明日は航空券の取ってある与那国島に先に行き、その後、波照間島に行くことにした。
『旅の目的は最南端と最西端を訪れることであり、石垣島まで来たのだから、最南端と最西端を行かずして、帰ることは考えられない』
このような意思を友人より示されたが、僕もまったくの同感であった。
朝食後、本屋で雑誌を買い込み、皆ホテルのベッドで寝転がった。ホテルのテレビは地元のケーブルテレビしか映らない。天気予報が流れたあと、全国版の朝の民放ワイドショーが始まった。しかし、その番組の冒頭の挨拶が、
「おはようございます。8月26日木曜日……?」
確か、今日は1993年9月2日木曜日である。情報番組が1週間遅れて放送されているのである。同じ日本でもこれだけの違いがあるのか、と思った。
空港にようやく電話がつながった。欠航便の航空券の扱い方について訊ねた。明日以降の同じ行き先の便に空席がある場合は、その便に振り替えるとのことであった。搭乗者名を言うだけで電話での予約変更も可能だという。また、運賃の払い戻しを希望する場合は、欠航証明書を空港で発行してもらい、航空券を購入した旅行代理店で払い戻しを受けてください、とのことだった。つまり、お金は東京で戻ってくるということである。とりあえず、影響がでたのは今日の波照間までのチケットのみであり、3日後(9月5日)に使用する予定だったので、3日後の波照間までの便を予約した。
テレビ画面の下にテロップで、
「八重山商工定時制の生徒さんへ。暴風警報が午後3時までに解除の場合は正常通り登校して下さい。」
と流れていた。午後になっても、嵐が収まる気配はなかった。
1階のロビーで地元紙の新聞に目を通した。すると、今年の旧盆は9月1日であり、各地では1ヶ月遅れのお盆が行われていることでしょう、と書かれていた。つまり、沖縄地方では昨日が「お盆」だったのである。沖縄本島や石垣島に働きに出ている人が、離島などの郷里に帰省している時期でもあり、交通機関が普段よりも混雑するということである。台風と重なり、厄介な時にぶつかってしまったな、と思った。何故9月1日が旧盆なのかと疑問に思ったが、新聞によると今年は閏年で、太陽暦と太陰暦の年間日数の誤差調整のため約1ヶ月ずれ込んだものであり、9月にずれ込むのは非常に希なことであると書いてあった。
外を眺めると、葉やゴミが強風に飛ばされて、空中を舞っていた。18時現在、台風の中心気圧は935hPaにまで発達していた。

波照間島(最果て紀行#8)

波照間島までのプロペラ機

サトウキビ畑と道路

天気、晴れ。台風一過である。石垣空港9時40分発の与那国行き飛行機に乗り遅れないよう、ホテルを後にした。
石垣島のタクシーの初乗り料金は350円であった。東京は600円(当時)である。タクシーの運転手さんとの話が弾んだ。
「台風の直撃は、ここ10年くらいないね。昨日のは直撃ではないよ。直撃の時の風速は70~80mになるからね。砂が車に当たって穴が開くんだから。」
昨日の風速はラジオによると35mであった。話は続いた。
「台風で波があるときには、地元の人は怖くてボートには乗らないよ。ジェットコースターよりも凄いんだよ。離島へ行くボートは喫水が小さいので、波が高いと船がジャンプしてモーターが空回りしてしまうんだ。だからすぐ欠航してしまう。」
確かに、一昨日に乗ったボートは凄かった。
石垣空港に到着して空港カウンターに来てみると、与那国行きのみ、午前便も午後便も全便欠航となっていた。天気は良好で、どう見ても飛行機が飛べない状況ではない。訊ねてみると、与那国行きに使用されているYS-11飛行機が台風に備えて福岡空港に避難しており、その飛行機の手配が間に合わないからだという。
一方、波照間行きの便は予定通り運航するらしく、9時25分発の便の搭乗手続きは既に始まっていた。波照間行きの飛行機はYS-11よりも更に小型のDHC-6ツインオッターという機種なので、福岡まで避難せず石垣空港の整備倉庫の中にでも避難できたのだろうか。とにかく、波照間行きの飛行機は定刻に飛び立つ予定である。僕らは急きょ、与那国→波照間の訪問順番を、波照間→与那国と変更することにした。つまり、最初に予定していた旅程に戻ったわけである。今日、日帰りで波照間を往復し、明日、与那国に向うことにした。最初から欠航がわかっていたら、大きな荷物をホテルに置いてきたのにな、とふと思った。
既にあさって(9月5日)の便に予約を変更をしてもらった昨日付の波照間便の航空券を提示して、今日の便に再度変更を申し出た。ツインオッター機は19人乗りの小さな飛行機なので満員ではないかと心配したが、あっさり「大丈夫です」という返事が返ってきた。さらに、この機種の飛行機では、搭乗手続きの際に乗客の体重を測って座席を決定し、機体の左右のバランスを調節すると聞いていたのだが、それもなく、カウンターの係員が搭乗券に示された座席表に赤鉛筆で○印をつけて座席をきめ、その搭乗券を渡されただけだった。乗客は少ないようである。
搭乗まで、まだ少しの時間があるので、与那国島の旅館に変更の連絡を入れた。宿の女将さんが飛行機の運航状況について、しきりに質問してきた。
「今日は与那国行きの便は全て欠航です。」
と言うと、残念そうに返事をした。
波照間行きの乗客は、僕ら3名とおじさん3名の合計6名である。こんなに小さな飛行機に搭乗するのは初めてである。機内の座席は左に1列、右に2列の配置であり、ベンチのようなプラスチック製の茶色い椅子が規則正しく並んでいる。コックピットと客室はガラスの入った扉1枚で仕切られており、パイロットや計器類が客室から丸見えである。左右のプロペラのエンジンチェックの後、滑走路に出たと思ったらあっという間に離陸した。この飛行機は短くて足場の悪い滑走路でも離着陸できるように設計されたものであり、離陸時の滑走も短くて済むのだという。
高度が低いので、窓の下の景色がよく見渡せる。鮮やかで透き通るような色を発しているサンゴ礁が非常によく見渡せる。20分後、波照間島が見えてきて前方に短い滑走路を眺めながら、飛行機は少々左右に揺さぶられながら波照間空港に着陸した。
空港というよりは「小さな無人駅」といったほうがよいところである。平屋建ての四角い待合室が建っているのみである。
波照間島は石垣島の南西約42㎞に位置し、有人島としては日本最南端にあたる島である。「はてるま」という島名の由来はいくつかの説がある。波照間とは「ハテウルマ」で「ウルマ」とは琉球の雅語であることから、琉球の果てに位置するという説、「ウル」とはサンゴを「マ」は場所を意味することから果てにあるサンゴの島という説などがある。方言では波照間島のことを「パティローマシマ」といい、地元では「パチラーシマ」とも「ベーシマ」とも呼ばれるという。まるで外来語のようである。
島の面積は12.4k㎡、周囲は14.8㎞の東西に長い楕円形、行政区分は西表島と同じ竹富町である。町役場はこの町内には存在せず、石垣市である石垣島にある。竹富町は町内に町役場のない町となっている。

珊瑚のビートとサトウキビ畑

なにしろ石垣の空港で急きょ波照間島に向かうことになったので、島内を巡る手段を全く準備していなかった。この島にはバスもタクシーも全く走っていない。ロータリーには数台、民宿のマイクロバスが停まっていた。その中で近くにいた「みのる荘」と書かれた車の兄ちゃんに声を掛けた。自転車を3人分貸してくれるというのでみんなで乗り込み、民宿のある中心部に向かった。
自転車は1日2000円であった。まずは日本最南端の岬へと向う。車も人もほとんどいない。のんびりとしている。俗世間の喧騒からかけ離れた、時の刻みの次元がまるで違う世界に身を置いているようである。中心部の集落には、赤瓦の家々がサンゴの積まれた石垣で囲まれながら点在していた。
背丈ほどのサトウキビが繁る畑で、鎌を持って作業をしているおばあちゃんに挨拶をした。すると、
「食べてみるかい?」
と言って、笑顔でサトウキビを3本渡してくれた。30㎝位に切られたサトウキビの切り口をかじって吸ってみた。甘かった。サトウキビを食べるのは初めてである。
「確かに、甘いですね。」
などと話していると、
「もう一つあげるから。これはさっきのと品種が違うものだよ。」
と言って、さらに30㎝位に切ったサトウキビをもう3本くれた。吸ってみた。けれども前のサトウキビとの違いが分からない。どちらも甘いだけだった。
「ねっ、ちょっと違うでしょ。」
と、琉球訛りの言葉で言われたが、こう言われても笑顔で『えぇー。』と答えるしかなかった。収穫は11月で、今は倒れたものだけを穫っているそうである。島には製糖工場が一つ存在する。
いよいよ最南端に着いた。自転車に乗った数人の若者がいた。周りには高い樹木は見当たらず、草原が広がり、波からの侵食を受けた断崖絶壁が続くところだった。石の敷かれた道を歩き、逆三角形の石に稚拙な文字で「日本最南端の碑」と刻まれた碑の建つ場所に到達した。
北緯24度01分、ここが日本の最南端である。
ようやく、最南端に到達した。残るは最西端を残すのみとなった。明日にはその最西端も制覇する予定である。最南端の風は暖かかった。しばらくその情景に佇んでいた。
とりあえず、エメラルドグリーンのサンゴが広がる浜でしばらく時間を過ごした。今後の予定は夕方の船で石垣島に戻ることにしている。
雑貨屋の店先のジュースには変わった飲み物がいくつかあった。その中の一つにゴーヤーの絵が描かれた「ゴーヤードリンク」というものがあった。ゴーヤーとは「苦瓜(にがうり)」、その名の通り苦いもので、主に沖縄で食されている野菜である。1缶買ってみた。何とも言えない味である。全部飲めるものではなかった。おみやげにいくつか買っていくことにした。
民宿のおじさんに波照間でしか売っていない「泡盛」について友人が尋ねた。友人は沖縄本島で乗ったタクシーの運転手さんから『波照間に行ったら泡盛を買いな』と言わたそうである。すると、
「あれは今は売り切れだよ。島民でさえ手に入れるのが難しいんだ。島民だけに先に回るから、なかなか観光客が手に入れるのは難しいよ。今はお盆の時期だし。」
との返事だった。それだけ価値の高い幻の泡盛ということである。
安栄観光のボートで石垣島へと戻った。波照間港の海の色は、見事なぐらいサンゴの神秘的な色を発していた。


波照間島、南の最果てである。
波照間と書いて「はてるま」と読む。「はてるま」とは、果てのウルマ、「ウルマ」とは琉球の雅語であるので琉球の果てという説、「ウル」とは珊瑚を、「マ」は場所を意味することから「果てにあるサンゴの島」という説がある。
石垣島から19人乗りのプロペラ機で20分、有人島としての日本最南端である。(日本領土としての最南端は東京都の沖の鳥島である。)

石垣はサンゴでできている。波照間港の海の色の青さが、沖縄の海を表現している。


与那国島(最果て紀行#9)

放し飼いの与那国馬

荒涼とした丘陵


与那国行きの飛行機は満席だった。旧盆に重なり、しかも台風で欠航が続いた後である。当然と言えば、当然である。今日は土曜日であり、幸運にも与那国島へのフェリーが運航される日だった。与那国へは毎週水曜と土曜にしか運航されていない。石垣港10時に出航し、14時に与那国に到着する。僕らは、フェリーで与那国島へ向かうことにした。
船は大揺れだった。天気は最高なのだが、まだ台風の影響が残っているのか、波が高い。甲板で眺めると、紺碧色の海が、空飛ぶ絨毯のように、大きくうねりをあげているのがわかる。船が波の谷間に入ると、波の山の部分が目の高さと同じ位置までせり上がり、海に飲み込まれそうに感じる。立っているのさえ困難である。酔いそうなので2等の座敷にすぐ戻り横になった。船が傾くたびにカーテンが音を立ててガラスにぶつかっていた。船が小さいことも揺れを助長させている一因である。
就航船は、1989年より就航している『フェリーよなくに』、総トン数498トンの小さなフェリーである。これでも、以前に就航していた船に比べればかなり大型化しており、かつては185トン、定員65名の小型貨客船が7時間かけて航海していた。「フェリーよなくに」の客室は2等のみであり、じゅうたんの敷かれた客室、2段ベッドの寝台、表デッキのベンチと3種類の客室を好みによって自由に選ぶことができた。
まもなく入港の時間である。甲板に出ると断崖の続く与那国島が、忽然と姿を現わした。与那国島は有人島も無人島も含めて日本の最西端に位置し、石垣島まで127㎞、台湾までは約125㎞という石垣と台湾のちょうど中間にある国境の島である。人口は約1900人、面積28.5k㎡、周囲29.5㎞、昔からここは『ドゥナン』と呼ばれ、当て字にすると「渡難」と書かせるように、容易に人を寄せ付けない絶海孤島の場所である。東京からこの島に来るには、東京-石垣直行便に乗れば話は別だが、那覇、石垣と2回乗り換えて3本の飛行機を乗り継がないと来ることはできない。
船は くぶら 九部良港に定刻に入港した。出迎えのワゴン車に乗り、旅館のあるそない祖納へと向かった。レンタバイクを借りる為、宿近くの事務所で降ろしてもらい、50ccのゲンチャリに乗って旅館に入った。気候も良いし、与那国の島内を巡るにはバイクが一番であった。当初の予定では、与那国には1泊のみのつもりだったが、フェリーとなったので到着が遅れ、島をゆっくりと見て回れる時間が無くなってしまった。ということで2泊し、充分に島を堪能することにした。荷物を部屋に置いて、しばらく休憩した後、近くをバイクで一回りした。

夕食の時、僕ら以外にも宿泊客が1組いた。40歳位のおじさんが2人と、僕らと同年代の若者1人の3人グループだった。釣りをしていたらしく、一人のおじさんが釣った魚を厨房でさばいており、宿の女将さんに「うまく揚げてくれよ」などと話していた。
そのおじさんが、僕らに話しかけてきた。
「君ら、どっからきたの。」
「東京です。」
「何しに? 仕事?」
「いえ、旅行です。最西端に行こうと思って。」
「ほぉー。」
無難な会話が続いた。そして僕は、
「島には、釣りをしに来たのですか。」
と聞いた。僕には釣りに来たとしか考えられず、熱狂的な釣りファンがこの与那国までわざわざやって来ているのだろう、と思っていた。それ以外には考えられなかった。すると、
「釣りだってよ。へへっ。」
3人が顔を見合わせ、すれた笑いをした。しばらく沈黙が続いた。
「仕事だよ、仕事。建設機械を修理する仕事でこの島にやって来たんだけど、台風で出られないんだよ。それで暇だから釣りをしていたっていう訳よ。」
仕事だったのである。その人たちは食事を終えて、部屋へと戻った。
「今日釣ってきた魚を今、揚げてもらっているからさ、後で下に食いに来なよ。」
そう言い残していった。
食事が終わり、お茶が出てきた。ジャスミン茶であった。大陸文化の影響がかなり強く、かつては台湾との交流が盛んだったということが伺える。僕らも席を立った。
1階のテレビのあるロビーでは、おじさんと若者が魚をつまみながら2人で酒を飲んでいた。
「ここへ来て食べな。」
おじさんの誘われるままに頂くことにした。泡盛をお湯で割ったものを差し出された。
「これは御馳走するから。これ以上酒が欲しいときは、自分で買って飲んでくれ。女将さんに言えば買えるから。」
泡盛は沖縄地方で飲まれている蒸留酒(スピリッツ)である。「あわもり泡盛」という名称は一説には、グラスに酒を注ぐとアルコール分が高い為、泡が花のように立つからだと言われている。
おじさん達は本島(沖縄本島)からやってきたということであり、この島では釣りをするか酒を飲むことしかすることがない、と話していた。
「与那国に行くときは、一週間見ないとだめだとよく言われるよ。」
まさに、その通りになっていた。
「この辺りの海岸では、若い女がトップレスでダイビングしているということだよ。えへへ。」
「米軍の空軍はインテリばっかだけど、海軍はそうじゃないね。」
「東京に行った時さ、タクシーの中に忘れ物をしたんだよね。それで問い合わせをしたら、忘れ物をする方が悪い見たいな態度でさ、頭にきちゃったよね。みんな冷たいんだよね。」
「この旅行ではいくらぐらいかかってるの。」
などなど、尽きない話は続いていった。僕のグラスの酒が空になると、『まぁ、飲めや』と、再び酒を注いでくれた。
隣にあるテレビのチャンネルをひねった。与那国では台湾のテレビ放送が見れると聞いていたからである。すると、黄色い漢字の字幕が入っている映像が現れ、中国語の音声が流れてきた。台湾の放送だった。思っていたよりも鮮明な映像である。見苦しくはない。ちょうどクイズ番組をやっているらしく、司会者と解答者のやりとりがコミカルに行われていた。画面の下には必ず漢字の字幕が入っている。全ての言葉に字幕を入れているようであった。聴覚障害者の為の字幕なのか。それとも、中国語は広東語、北京語などで意味が全く通じなくなるということを聞いたことがあったので、それらの通訳なのかも知れない。この映像の鮮明さは、台湾に近いことを実感する。
明日はいよいよ最西端であった。

1993年9月7日、快晴。日差しが強い。この旅行中は半袖半ズボンであり、腕と足はかなり日に焼けてヒリヒリしていた。日焼け止めクリームを塗り、50ccバイクで島を一周することにした。
まずは、島の最東端の東崎の岬へと向かった。東崎と書いて「あがりざき」と読む。一方、最西端の岬は西崎とかいて「いりざき」と読む。「西表島」は「いりおもて」である。沖縄の古語が今でもそのまま残っているものである。「あがり」とは太陽の昇る方角だからであり、「いり」は太陽が沈むからいりなのである。かつては南大東島も「おおあがり」と呼ばれていたそうである。
与那国島には琉球語の地名がかなり残っている。ツァ浜、ウブドゥマイ浜、ウバマ浜、インビ岳、ドナン岳、ティンダハナタ……といった具合である。地図には全てカタカナで標記されている。
車はほとんど走っておらず、走りやすい道路である。フルパワー、時速60㎞で悠々走れる。
樹木が少なく、荒涼とした風景であり、波照間島とは対称的に起伏がかなりある島である。南国なので陽気な風景をイメージしていたのだが、それほどでもない。とは言っても、気候が温暖だからなのか、刺々しさは持っていない。牧歌的な荒涼さ、と言ったところだろうか。
東崎の岬には、小柄なヨナクニ馬が放牧されていた。柵などはない。道路のすぐ脇に佇んで、草などを摘まんでいた。続いて島の南側を走り、軍艦岩、サンニヌ台、立神岩展望台と海沿いの名所を見て回った。紺碧の大海原と断崖絶壁の海岸が広がり、余計な人工構造物が建っていない景観は、絶海の孤島を思わせるのに十分であった。
島には3つの集落がある。旅館のあるところは「祖内」と呼ばれるところで、島最大の集落である。そして、港のある「久部良」、島南に位置する「ひがわ比川」である。その比川の集落を通って、比川浜で泳いだ。
昼食は祖内に戻って、うどんを細くしたような沖縄そばを食べ、午後はトゥング田、久部良バリへと向かった。
トゥング田、久部良バリは、江戸時代の人頭税制下における苦しい生活と悲劇を伝えるものとして、現在でも語り継がれている史跡である。トゥング田は島民の男を一定時刻に水田に招集し、遅れてきた男や病気の者を惨殺した場所である。久部良バリは幅約3m、深さ約7mの岩の割れ目を妊婦に跳ばせ、跳べなければ死亡、無事跳べたとしても子供は流産したと伝えられる場所である。どちらも人口減らしを目的とした方策であったと言われている。
人頭税は、各個人に対して一律に同額を課税する原始的な租税形態である。それぞれ個人の支払い能力を考慮しない悪税として、19世紀には廃止された。すなわち、家計が良かろうが悪かろうが、生産能力のない赤ん坊だろうが、全員に一律に課する税なのである。これらの伝説が伝承されてきた背景には、単に人頭税の重圧というだけではなく、慢性的な生活苦のなかから起きたものであろう、といわれている。
島を周回すると、宿に戻った。日本最西端の西崎には、日没の時に行くことにした。日入は19時頃であった。
日没まであと30分となり、旅館を後にした。我々は西を目指して走り続けた。与那国空港を右に見て、西崎へ向けて快走した。そして、坂を登りバイクを止めて、西崎の展望台に到着した。そこには緑の芝生が広がり、その向こうには台湾に接する広大な海が、果てしなく広がっていた。
東経123度0分、ここが日本の最西端である。
ついに最西端までやってきた。大きく膨らんだ赤い太陽が、いま地平線の彼方に沈もうとしている。僕の最果ての旅は「東・西・南・北」、全てが終わったのであった。

山羊が駆け回る


与那国島、西の最果てである。
台湾まで125km、石垣島まで127km、台湾の方が近い国境の島である。家庭では台湾のTV放送を見ることができ、ジャスミン茶も嗜好されている。昔からここは「ドゥナン」と呼ばれ、当て字にすると「渡難」と書かせるように、絶海孤島の島でもある。それ故に、景色は非常に美しい。日常の喧噪に嫌気がさしたとき、与那国島は心の喧騒をすべて取り除いてくれる、そんな島である。

見よ、美しい海岸線を。

与那国馬が放牧されている.この「よなぐに」も日本離れした光景が続く。


シンガポールSingapore[アジアの風景#1]

雲にかすむ高層ビル群

シンガポールは淡路島と同じくらいの大きさの島に約270万人の人々が住む国である。近代的な建物が建ち並び、アジア独特の混沌とした昔ながらの風情は感じられなくなった。
気候は1年中「夏」であり、亜熱帯地方特有のスコールが時々地面を叩きつける。人種は、7割強が中国系であり、土着のマレー系が1割強、インド系が約0.5割である。

整備された道路

シンガポーは交通施設の発達した国でもある。道路はごらんの通りバスポケットもきちっと完備された広い道路が整備されており、渋滞は滅多に発生しないと言われる程である。
MRTと呼ばれる地下鉄の駅前広場も、バスターミナルが完備されており、初めて訪れる人にもわかりやすくなっている。
道路端の縁石のペイントが「黒・白」の縞模様となっているところや2階建てバスが走っているところなど、イギリスの面影をところどころ見ることができる。

RESTRICTED ZONE~車乗り入れ規制区域

渋滞知らずの素晴らしき交通施策、ゴミを捨てたら罰金を課せられるシンガポール、そこには厳しい規制が存在している。道路をまたぐように設置してある青い標識には「RESTRICTED ZONE(規制区域)」と書かれており、中央商業地区(CBD・Central Business District)に乗り入れる車に対して、朝夕のラッシュ時のみ料金を徴収する。この標識はその規制区域を示すものである。

シンガポールの団地風景

シンガポールでは人口の約8割強の人々が、国の住宅開発局が建設したこの団地に住んでいる。1960年代までは、カンポンと呼ばれる木造の住宅に住んでいたが、高度経済成長に伴って、この団地に人種・民族関係なく居住することになった。
天気のいい日には色とりどりの洗濯物が、街の景観として美しいか醜いかの議論はさておいて、無味乾燥なコンクリートの団地に彩りを添えている。
共働きが多いこともあって、食事は屋台でとることが多く、団地の広場では様々な屋台が並んでおり、味も美味い。断食が終了するラマダン開けのときには、イスラム教徒の家庭ではベランダに電飾をチカチカ光らせ、お祝いが続く。

地下鉄 MRT

シンガポールにはMRTと呼ばれる地下鉄が走っており,郊外部では地上を走って,郊外の団地と都心部とを結んでいる.施設はきれいであるがスピードは出さない.車内のイスがプラスチック製の硬いイスなので,日本の電車に乗り慣れていると座りごこちが悪く感じてしまう.

地下鉄のホームもきれいで静か.線路とホームの間にはドアで仕切られていて,電車が到着しても電車の音がほとんど聞こえない.いつの間にか到着してドアが開く感じである.日本でもホームドアの付いている東京メトロ南北線があるが,こんなに静かに到着はしない.この差はホームドアの構造に違いがあり,日本では建築基準法だか消防法だかの規定により,ホーム側を密閉空間にすることが認められていなくて,ホームドアの上側にすき間が開いているために電車の騒音がホームまで聞こえてくるからである.シンガポールでは,ホームドアの壁でホームと線路の空間が完全に分断されているのである.

開店前の屋台

共働きの多いシンガポールでは,家で夕飯などのご飯を食べるよりは,外の屋台で食事をとることが多いらしい.ビジネスエリアでは昼食のため,住宅街では夕食のため,オープンに向けて準備が進められていた.

スコールのあと

赤道に近いシンガポール.1年中いつでも最高気温は32~3度,最低気温は25度,湿度は80%を超える熱帯性モンスーン気候である.夕方ちかくには必ずバケツをひっくり返したようなスコールが降るけれど,すぐにやんでしまう.スコールが止んだあとには,道路に水が溜まってタクシーが水しぶきを上げていた.(シティーホール駅出口のそごうデパート前)

路線バスの車内にて

公共交通の発達しているシンガポール.路線バスも全てに番号が付けられていて,土地に不慣れな外国人でも,バスの時刻表とバス停の案内を頼りに,楽に路線バスを利用することができる.シンガポール人も地下鉄の走っていないところはバスに乗って移動する.イギリスの植民地であったこともあり,香港と同じく2階建てのバスも走っていた.

(旅行年月:1994年3月)

駅。
ビルの林立する谷間に
どこからともなく集まってくる人、人、人
改札の機械音はなりやまず
銀の箱には屑物のやま
無造作に電車はやってきて
人々を飲み込んで去って行く

駅。
背には緑が生い茂り
小鳥がベンチで戯れる
時々列車がやってきて
たとえ人がいなくとも、ホームは笑顔で出迎える
汽笛を鳴らして離れてみれば
風のささやきのみとなる

街の顔、それが駅
出会い、別れ、喜び、悲しみ
全てのものに人間が漂っている
そんな駅を求めて
私はまた、旅に出る

流氷

冬のオホーツクの岬に立っていると
世間とは何だろうか、とふと思う
冷たい風が地の雪を舞い上がらせ
枯れ草がこすれ合いながら乾いた音を鳴らしている
流氷はうねりをあげて波にのり
風の吹くまま、気の向くまま
ゆっくり海を旅していた
力強い流氷、大いなる流氷
流氷は勇気を与えてくれた
世の中がいかに小さなものか
流氷を見ていると、そんな気がする

鉱山

静寂に包まれている大自然の山奥

ガツガツガツという粉砕機の音を背景に

不規則な金属音をたてたトロッコがやってきた

鉱石を山のように積んだトロッコがやってきた

トロッコが傾くと

鉱石は怒涛のように粉砕機の中へと落ちていった

空になったトロッコは

再び坑内へと去っていった


鉱山は静のなかの動である


しばらくして、またトロッコがやってきた

人は何故、旅にでるのだろう?
それは、
心にしみこむ素晴らしい風景があるからだよ
どっしりと座る雄大な山
太陽の輝<紺碧の海
茫々と広がる緑の湿原
きゆっきゅっと踏みしめて歩く雪の降る街
どれも、遠くへ来たことを知らせてくれる

人は何故、旅にでるのだろう?
それは、さまざまな異文化がそこにあるからだよ
細い路地の残る歴史漂う城下町
新開拓されたロマン溢れる島
早くから外国との交易が盛んだった街
京なまりの残る大秘境
日本はとても広い国だったことに気づく

人は何故、旅にでるのだろう?
それは、予期せぬ事態に遭遇するからだよ
そんな時、頭の中を隅々まで巡らせて
ひとつの決定までのプロセスがまた楽しい
スリルと不安と未知への好奇心
これらがごちゃごちゃになって
違った緊張感がみなぎってくる

人は何故、旅にでるのだろう?
それは、人との出会いがあるからだよ
心と心の波長が合って
人との出会いが起こる
そこで出会った人々は
優し<旅人を迎えてくれる

これらは全て、現実からの逃避ではないか!
いいや、ちがう。
旅とは未知への開拓である
旅が進むにつれて
その人の胸のうつわには
様々な感動が、次々と満たされていく

三宅島【島紀行】

 澄みわたる秋空のもと、プロペラの音が高鳴り、ANK847便は定刻に羽田を離陸した。三宅島には約50分で到着する予定である。みるみるうちに建物が小さくなり、空港全体が見渡せるようになった。羽田の沖合展開工事のされているところだけは茶一色であり、真下には部会の埋立て地を象徴するような四角い島が、整然と広がっていた。

 高度を上げるにつれ、ビルの並び立つ東京の街が見えてきた。空から眺めると、改めて東京の巨大さに驚かされる。エネルギーの集結地という感である。飛行機は南に進路を向け、海上を三宅島めざして飛んでいた。

 さらに高度を上げた。東京上空は薄汚れたねずみ色のスモッグで覆われている。その霞の上に純白な富士山がすっきりと浮かんでいた。大気圏の膜の外側に山がのっかつているようである。我々は毎日、あのスモッグの下で生活をしている。海にはアメンボのようなつり船が、白い線を引きながら点々と存在していた。

 右に三宅島が近づき、飛行機は揺れながら、島づたいに飛んでいた。島の肌が突然赤茶黒の溶岩に変わり、そして三宅島空港に着陸した。

溶岩原 火山れきである
山服から流れ出た溶岩流

 タラップを降りた。暖かかった。今朝の東京とは10度以上違うように思う。黒潮の影響だろう。三宅島は東京の南約180kmにあり、周囲約35km、人口4000人、伊豆諸島の中では大島、八丈島についで3番目に大きい火山島である。明治以降だけでも明治7、昭和15、37、58年と4回も噴火を起こしている、まさに火山の島なのである。

 空港前より左周りの村営バスに乗った。昭和37年の噴火の際に一夜のうちにできあがったという三七(さんしち)山を過ぎると、赤茶黒の溶岩原が広がる七折峠にさしかかった。「三七」とは噴火の年号からとったものである。樹木は植わっておらず、前方には海が見えた。バスは溶岩の切り通しの中を右へ左へと身体を傾けていた。この辺りは赤場暁(あかばきょう)と呼ばれ、昭和15年の噴火で入江が埋立てられ、さらに昭和37年の爆発で溶岩流が重なったところである。機内から見えた溶岩はここである。

 運転手は道路工事作業員や道行く人と互いに笑顔で挨拶を交わす。途中から高校生がひとり乗ってきた。
「どこいくんだ」
「がっこ!」
素朴な会話である。顔見知りらしい。

 警察署、支庁前を通り過ぎ、バスは峠を越え、間もなく島西の阿古(あこ)の集落に入るところだった。案内テープから、「次は鉄砲場、鉄砲場です」と流れると、真っ黒な火山れきが帯になって山から続き、道路を横切っていた。未だに生々しい傷跡であった。しばらく溶岩流に沿って走った。

溶岩によって埋もれた学校
体育館は骨組みのみとなった

 昭和58年(1983)10月3日午後3時、なんの前ぶれもなく雄山(おやま)中腹のニ男山あたりを中心に、十数ケ所の火口から轟音とともに火柱と噴煙があがった。灼熱の溶岩流は5-600mの幅の流れとなって西、南西、南の3方向に向かって流れていった。この中で西に向かった溶岩流がこれであり、島最大の集落・阿古を襲ったものである。阿古の住宅約500戸のうち400戸の民家と学校などの公共施設が溶岩に埋もれて消失し、これは日本火山史上でも最大規模の災害であった。また、島南にある新澪池では池の水が干上がり、周りの木は枯れ、巨大な穴となってしまったということである。阿古に到着し、下車した。阿古小学校・中学校埋没地へと向かった。

 溶岩原に着いた。その溶岩を突っ切るようにアスファルト道路がひかれている。ソフトボール程の「れき」がー面に重なって横たわり、背後の緑の山肌には滝のように黒い帯が流れている。「れき」の上を歩くと素焼きをこすったような「カサカサ」とした音がする。黒い帯の部分だけは樹木も植物も植わっていない。これは8年前(旅行当時)の噴火である。

 学校埋没地にやってきた。校舎は溶岩に押され、半分ほど埋まっている。体育館の壁や屋根は剥がされ、無残な鉄骨の骨組みだけが残っていた。ひぴの入ったプールもあった。この惨い光景は、また違った自然の、恐ろしいー面を見たような気がした。

 帰る時間となった。帰路の飛行機は満席だったので、船で帰ることにした。東海汽船の「すとれちあ」丸が大きく揺れながら、阿古(錆ケ浜)の港に入ってきた。

新しい生命が誕生していた

訪欧・ヨーロッパ1[ロンドン編]

初めて海外旅行に行ったのがヨーロッパだった.イギリス・ロンドンからフランス・パリへ,スイスのジュネーブを経由してイタリア・ローマまでの旅だった.オーソドックスな旅だったが,このときの旅の体験が,のちの海外旅行の情熱に火をつけたのである.それまでの自分は,「海外旅行なんてどこが楽しいのだろうか」,と海外に対して蔑視していたところがあった.しかし,外の世界に足を踏み入れてみると,建物・景色・食べ物と全てが日本と違っていて,いままで気づかなかった好奇心を大いにくすぐるものであった.そんな,初めての海外旅行の時に撮影した点景を,当時を思い出しながらお送りします.

(旅行年月:1993年3月)


ロンドン編

ロンドン名物2階建てバス.今は,この古いタイプのバスは見られなくなっている.
後ろにはドアがなくて,いつでも飛び乗り自由であった.

トラファルガースクエアー
ヨーロッパにはこういった四角形の広場が街の中にあって,その中心にはシンボルが置かれていることが多い.

ロンドン中心部
建物のファサードが美しい.電線などは一切ない.

地下鉄ピカデリー・サーカス駅前
ロンドンでも賑やかなところ

ウエストミンスター寺院
イギリス王室と深く関わりのある寺院である.

「シティ」と呼ばれる金融街のゴミ箱(LITTER BOX)には,特別なロゴが入っている.

テムズ川にかかる「タワーブリッジ」
有名な撮影ポイントである

テムズ川とビックベン(国会議事堂)

イギリス王室とロンドンタクシー

ホテルの窓から撮影.アパートの裏側である

これはホテルのエレベータ.イギリスでは「LIFT」となる.
扉が手前に引く型の手動式で,エレベータがやってくると手で手前に扉を開いて中に入る.建物の歴史が古いロンドンらしいエレベータである.

訪欧・ヨーロッパ2[パリ編]

パリ編

パリも街並みはきれい.建物のラインが整っている

スカイラインが一直線で気持ちいい

ベルサイユ宮殿
ただ,ただ,建物に圧巻していた.

宮殿内部.装飾品がすごい

ベルサイユ宮殿の建物から庭を眺める中央に道路があって,左右対称になっているところなど,本物である.

エッフェル塔.TVCMでおなじみのショット

ルーブル美術館
三角形のガラス屋根の建物は,この時に出来たばかりであった.

パリ地下鉄
「メトロ」の愛称で親しまれている.

オペラ座
日本で言う「歌舞伎座」であろうか.

リヨン駅
TGV(フランス新幹線)でスイスジュネーブに向かった.

リヨン駅構内
ヨーロッパの終着駅は線路の配置が櫛形になっていて,それを大きな屋根で覆っており,いかにも終着ターミナルといった感じになっている.
日本では上野駅の低いホームが一番雰囲気が似ているだろうか.昔のオレンジのTGVが小さく映っている.

訪欧・ヨーロッパ3[ジュネーブ・ローマ編]

ジュネーブ編

ジュネーブの空港.トロリーバスが走っていた.
横断歩道では自動車が止まってくれて,人に優しいドライバーが多い国だった.

レマン湖の畔
空気の綺麗な爽やかな風の吹くところだった

ローマ編

ローマ遺跡 コロッセオ.古代遺跡の円形闘技場
雨が降っていたので,傘を売り歩く物売りが沢山声をかけてきた.

ローマの路地裏.道路は石畳である.

スペイン広場.
世界各国の観光客で賑わっていた

トレビの泉
後ろ向きにコインを投げると・・・

バチカン市国.世界で最も小さい国.
といっても入国審査があるわけでもなく,ただ白い区画線が引いてあるだけである.カトリック教会の総本山.

バチカンの博物館
とにかく圧巻である.首が痛くなるので注意!

Underground[ロンドン地下鉄の話]

アンダーグラウンド(Underground)はロンドンの地下鉄、メトロ(Metro)はパリの地下鉄の呼称である。この両都市にとって、駅も本数も多い地下鉄は人々の流通を支える上で不可欠な存在であり、観光でこの都市を移動するにも、最も便利な乗り物である。
初めて外国旅行をしたときに,はじめて外国の地下鉄に乗ったときの体験記です。

(旅行年月:1993年3月)


ENGLAND: LONDON (Underground)

ピカデリーサーカス駅

チューブの愛称こと、アンダーグラウンド

トラファルガー・スクエア一(Trafalgar SQ.)やナショナル・ギャラリー(National Gallery)などロンドン市内を観光し、ホテルへ戻る時に地下鉄を利用した。ビカデリー線(Piccadilly Line)のピカデリー・サーカス(Piccadilly Circus)駅からグロスター・ロード(Gloucester Road)駅までの5駅である。

ピカデリー.サーカスはロンドン歓楽街の中心地であり、日本の渋谷ハチ公広場といったところである。サーカスの中央にはエロスの像が建っているのだが、現在は修理中で見ることができない。その像の周りには、若者が地べたに座りたむろしている。ピカデリー周辺は、世界各国からの観光客でにぎやかな場所であった。

地下鉄の入口には、赤船の丸に青の横棒の入ったマークが掲げてある。誰でも人目で地下鉄の入口を見つけることができる。階段を降りて地下に入った。

地上の明るい世界から地下に入ると、気分が圧迫される。お世辞にもきれいで明るいとは言えない。浮浪者の大きな奇声が聞こえてきた。と言っても人々は大勢歩いており、もちろん特別身に迫る危険はない。新宿駅西口の都庁へ向かう暗い地下の雑踏といったような所である。新宿西口の地下もあまり気分の良い場所ではない。

人波をかきわけ、自動券売機の前にたどり着いた。料金は距離制であり、横に貼ってある駅名表によって値段を見る。「Gloucester Road-90P」と書いてあったので、90ペンスである。ロンドンの通貨単位はイギリス・ボンド(£)で、1ボンドは100ペンス(P)である。当時£1=\185だったので、料金は日本円で170円程度ということになる。初乗りは80P(=150円)であった。

自動券売機にはおつりの出るものと出ないものの2種類ある。釣り銭の出る券売機を使った。金色の縁のある1ポンド硬貨を入れた。が、しばらくすると下の受け取り口に戻ってきてしまった。もうー度入れてみたが、結果は同じ。外国ではよく機械が壊れているから注意せよ、という忠告を聞いたことがあったので、隣の券売機で買うことにした。ところがやはり硬貨は戻ってきてしまった。隣の人の買うところを観察してみると、購入したい金額のボタンを先に押してからコインを入れていた。なるほど、先に料金ボタンを押すのである。90Pのボタンを押すと、前面のディスプレイに「90P」の表示が表われ、コインを入たら、あっけなく切符と10P硬貨が出てきた。

後ろには自動改札機が並んでいた。これから乗る地下鉄はピカデリー線のヒースロー空港(Heathrow Airport)方面である。改札の隣に制服を着た長身の駅員がいたので、とっさに大声で聞いた。

「Excuse me.え-つと、Heathrow Airport !」

これだけを喋った。晋段英語を全く使っていないので、突然だと文を組み立てている余裕がなく、何と聞いていいのか、言葉が浮かんでこない。今考えると、『Which subway …・・・』と聞けばよいと思えるのだが。普通の声では聞こえないほど、まわりは喧操としていた。そしたら、駅員の人は顔を僕の高さに持ってきて、改札内のエスカレーターを指差しながらゆっくりとした口調で、

「0.K.! Heathrow Airport・・…○○○(今思うと、何と言っていたのか思い出せない! そのときの意味ではまつすぐ行ってエスカレーターを降りて、といった感じだった)Tracknumber 4!!」

と、最後は4本の指をたてながら、笑顔で言葉が返ってきた。

「Thank you!」

こちらも笑顔で答えた。単純な僕は、これだけでイギリス人は噂どおり寛大で親切だな、と思った。(実際、旅行中のイギリス人はこちらから尋ねれば親切に応対してくれた。)

自動改札を通り、4番線へ向かうエスカレーターに乗った。ロンドンの地下鉄も日本と同じように色別で路線が表示されているので、案内は非常にわかりやすい。日本と同じようになるのは当たり前で、日本の地下鉄はロンドンを見本にしているのである。ビカデリー線は紫色であった。

イギリスでは、エスカレーターは急ぐ人の為に左側を空けておく、という有名な習慣がある。それを思い出し、右側に寄って下へと降りていった。確かに全員左側をきれいに空けていた。メンテナンスが悪いのか、キーキー金属のきしむ音があちこちで聞こえている。足元にはごみも多少散らばっていた。すると、フルートの高らかな音楽が聞こえてきた。エスカレーターの降り口に笛を吹く、髭を生やしたおじさんが立っていた。体をリスムにのせながら、エスカレーターに乗っている人々を見つめていた。地下なので音は隅々まで響き渡り、それがかえって不気味でもあった。地下鉄構内で芸をして稼いでいるのである。面倒見のいい日本では、即営団や警察によって排除されてしまうに違いない。これも寛大なロンドンらしさなのか。

4番線に着いた。地下鉄を待つ人々が大勢いた。列は作っておらず、ただ漠然と待っているといった感じである。発光ダイオードの電光掲示板には、今度の電車と次の電車の行き先が表示されており、どちらも「Heathrow Airport」と書かれていた。

銀色の地下鉄がやって来た。乗客がどっと降りどっと乗ったので、車内は再び混雑した。なんとか体がくっつかない程度であった。車内は小さく、天井はトンネル断面に合わせて丸くなっており、手を伸ばせば上に届く。前述の通り、トンネル断面は1900年当時のままの12フィート(約3.6m)であり、現在では手狭な感じである。

出入り口のドアも上にいくにしたがって大きく湾曲している。そのため、駅停車中にドア付近に立つと、天井がないのでもっと中に入りたくなるのだが、ドアが閉まると上も閉じてひと安心となる。ドアが閉まる時は、上部にも気を配らないと髪の毛が挟まれることになる。

つり革はなく、その代わり30cm程のばねの付いた鉄の握り棒が、日本の車内のつり革の位置に斜めに取り付けるれている。立ち客はそれを握っていた。

スピード’よ遅かった。都心部だからだろうが、東京の銀座線くらいだろう。駅の案内放送はない。ドアが閉まるときだけボソボソと放送が入る。見逃していると乗り過ごすことになる。あっという間に次の駅、グリーン・パーク(Green Park)に到着した。

ハイドパーク.コーナー(Hyde Park corner),サウス・ケンジントン(South kensington)を過ぎ、下車駅グロスター・ロード(Gloucester RD.)に到着した。

ホームには、列車に乗らず足を伸ばして座っている若者達がいた。このように、ただグループで集まって喋っている光景は欧米では普通であるという。下車した乗客達は、ガラスの入った銀色の大きなドアの前で立ち止まった。地上へはエレベーターに乗って出るようである。2-30人は乗れそうな大きなエレベーターであった。階段を捜してみたが、見当たらない。ないのだろうか。ラッシュ時はどうするのか、密室のエレベータ内で犯罪は起こらないのだろうか、などと心配してしまう。まあ、ロンドンはそれなりに治安が良いので、凶悪犯罪には出くわさないと思うけど……。

地上は明るかった。改札は1階に設けられており、自動改札を出たらそこは道路である。ロンドンの地下鉄は、設備が古いこともあって、奇麗で快適とはいいがたいが、慣れれば使い勝手の良い交通機関であると思う。

オックスフォード駅

地下鉄はもちろん、2階建てバス、国鉄も乗れる1日乗車券

Metro[パリ地下鉄の話]

FRANCE:PARIS (Metro)

パリはフランスの首都であり、芸術の都・フアッショナプルな都として、経済は低迷しているにもかかわらず、現在でも全世界から一目置かれている都市である。

パリ市だけの人口は200万人弱、面積は105km2である。世田谷区の約2倍、山手線の内側程の広さしかない。しかし、現在は郊外にまで都市化が広がっており、そのパリ大都市圏全体では、人口約800万人、面積1000km2となる。ここに住む人々が、いわゆる「パリジャン、パリジェンヌ」と呼ばれている人々である。

パリ市内は20区に分けられており、セーヌ川右岸の中心部を1区として右回りの渦巻き状に2・3・4区・・・・・・と付けられている。1860年の市街拡大(オスマンの大改造)時に、エスカルゴを参考にして付け直したと言われている。そんな小さいバリ市内を縦横無尽に走っているのが地下鉄「メトロ」である。

ショセダンダン駅

オペラ駅

やはりパリでも、ホテルに戻るときに地下鉄を利用した。オペラ座から一本北の道路にあるショセ・ダンタン(Chaussee d’ Antin)駅から、ホテル近くのボルト・ド・モントルイユ(Porte de Montreuil)駅までの9号線である。

メトロの入口には大抵、黄色い大きな「M」の文字がポールで掲げられている。マクドナルドの「m」のような感じである。階段を降りると薄暗い地下鉄の雰囲気となった。何処からともなく路上生活者の匂いが漂ってくる。

もともと「メトロ」という言葉には「地下」という意味はなかった。首都という意味だけであった。ところが、ロンドンの地下鉄がメトロポリタン鉄道という名で地下鉄を開通させたため、他のヨーロッパ諸国も地下鉄開通時にはこれを真似て、略してメトロと名付けるようになった。これがそのまま「地下」として定着してしまったとのことである。

パリの地下鉄には自動券売機がないところが多く、切符はギ・ソシェ(Guichet)と呼ばれる窓口で買うようになる。パリ市内は均一料金で6フラン(FFr)であった。1FFr=\20なので日本円では120円ということになる。ちなみにフランスの補助貨幣はサンチーム(C)であり、1FFr=100Cである。

普通の切符の他にも力ルネ(Camet)と呼ばれる10枚綴りの回数券がある。値段が約半額になるので、何度もメトロに乗る場合はカルネの方が経済的である。

窓口の横には手書きと思われる料金表が、はがき程の大きさの紙に書かれて貼ってあり、一番上の6FFrと書いてあるところを指差して、「This one.This one.シルヴブレ! 」
と言って切符を買った。シルヴプレ(s’il vous plait)とは英語のプリース(please)と同じで、『お願いします、ください』という意味である。

窓口のおねえさんは愛想がなく、隣の従業員と喋りながらガムを噛みながらの対応である。声さえ出さない。フランスではどこの窓口でもこのような態度であった。日本の習慣に慣れていると、『なんという態度だ! サービスが悪い! 』ということになるのだが、フランスではこれが普通なのである。逆に、極端に気を使うことの方が珍しいのかも知れない。他人は他人、自分は自分という、徹底した個人主義のフランスをかいま見たような気がした。

自動改札を通り、階段をおりた。自動改札では駅員の目を盗み、切符も買わずに飛び越えていく若者がいた。

メトロでは各路線に名前が付いておらず、番号と色で路線が区別されている。そして、案内表示板にはその電車の終点駅名だけが表示されている。だから、号線名と終点駅名さえ覚えれば目的の地下鉄に容易に乗ることができる。

9号線、メリー・ド・モントルイユ(Mairie de Montreuil)行きの電車がやってきた。車体には黒のスプレーで落書きがしてある。乗客がかなり降りて車内はすいた。椅子は向かい合って座るクロスシートとなっており、出入り口の横には折りたたみ式の補肋椅子がついていた。

すし詰めのラッシュのある東京ではこのような座席の配置は考えられないように思う。ロンドンのチューブとは違い、天井は高かった。つい最近までメトロには、昔の名残で1等車・2等車が存在していたが、それぞれの車内設備は全く同じであった。現在は廃止され、等級は無くなっている。

ドアからトンネルの内部をのぞくと、ところどころ、トンネル壁面にまで落書きが書かれている。夜中に侵入して落書きをするのだろう。しかし、メトロでは電流の流れる架線が線路脇にあるので、感電したりしないのだろうかと思う。もっとも夜は流れていないのかもしれないが。また、どこから地下に侵入するのかも疑問である。落書きに関して(特に車両)、パリ市は莫大な費用をかけて追放運動をしている。

車内放送や駅案内放送などは一切ない。目的のポルト・ド・モントルイユ駅までは14駅あり、見過ごしていると乗り越してしまう。駅に着くたびに駅名を確認した。

経済の低迷や高い失業率が続く現在のフランス・バリのメトロは、ロンドンのチューブよりも治安は良くない。場所によってはすりやかっぱらいが多く、特に旅行者が狙われると聞く。それでも、昼間に乗るには安全だし、単独でなければまず身の危険を感じる犯罪には出くわさない。市交通局の方でも観光都市であることから、多数の係員を導入して警戒に当たり、長い通路の角には鏡を設置して待ち伏せを防止するなど、犯罪防止に力を入れている。その甲斐あって、年々犯罪件数-特にすりやかっぱらいは減ってきている。

メトロでは扉は自動では開かない。このような表現には語弊があるかも知れない。自動で開くのであるが、扉にホックが掛かっており、最初に降りる(乗る)人がそのホックのレバーを回すとドアが自動で開くしくみになっている。また、最近の電車ではボタン式のものもあり、その場合青いボタンを押せば開く。閉まるときは全自動で閉まる。

ポルト・ド・モントルイユ駅に着いた。ホームはアーチ型の断面であり、壁には所々欠け落ちている白いタイルが並んでいた。

出口は自動改札ではなく、回転式の鉄格子を通り抜けて外に出る。反対には回らないし、外から中には入れないようになっている。また、反対側からは開かないガラス扉になっている出口もある。切符は手元に残り、記念に持ち帰った。

パリの地下鉄も奇麗とは言い難いが、駅によっては改装工事がなされているという。パリジャンにとってメトロは、必要不可欠な乗り物である。

落書きのされた電車

メトロの切符

白川街道・飛騨街道をゆく[ローカルバスの旅]

 山々に囲まれた街・高山から牧戸(まきど)を経て、富山との県境に位置する秘境・白川郷までの道を「白川街道」と呼ぶ。そして、牧戸からひるがの高原を経て、美濃白鳥(みのしろとり)までの道は「飛騨街道」の一部である。

 高山一牧戸間は約50km。その間に3つの峠を越える。白川街道は峠道なのである。そして、牧戸一美濃白鳥間にも1つの峠があり、高山から美濃白鳥まで抜けると、合計4つの峠を通過することになる。

 ここに1日数本の路線バスが走っている。典型的なローカル線である。高山から白鳥へ、路線バスに乗り込んだ。

今回の旅行経路図.
高山バスセンター

 高山駅13時20分発、濃飛バス牧戸行きである。白鳥までの直通便は無く、牧戸で乗り換えとなる。今日の高山地方は天気は良いのだが、冷え込みが今年最高の厳しさであった。最低気温がマイナス7.9°C。ふきのとうが芽を出しているというのに真冬並みの寒さである。バスの車内は暖かく、白川街道を西へ西へと走っていった。

 高山の街を抜けると田畑が広がり、前方の山々が徐々にこちらに近づいてきた。車内は適当に混んでいる。清見村の役場がある三日町にてかなりの乗客が下車し、バスは登り坂へと入っていった。

 小鳥(おとり)峠越えである。別名びっくり峠とも呼ばれるそうで、この辺りは野鳥の声がよく聞かれるところだという。左には白い雪を残した連峰が雄大に広がっている。この風景は峠越えの醍醐味のひとつである。ここは分水嶺でもあるが、下流では高山を流れている宮川と合流するので水系は神通川水系であり、以前と変わらない。

 道は国道であり、完全に舗装されている。道幅も広くドライブには最適な道路だと思う。

 続いて松之木峠に大った。別名思案峠である。比較的平坦な道だったので、これは峠越えなのかと思ったが、地図によると「松之木峠」と記されているので峠なのである。「峠」とは何か。普段、峠について真剣に考える機会はあまりないが、辞書によると、山の道を登りつめた所、と書いてある。峠とはある一点の場所を指す言葉であった。

 車の交通量はゼロに等しい。残雪が多くなり、周りの畑は30cm程の雪で覆われている。その残雪の断面は断層のようになって道路に面していた。白樺やカラマツ林が続くようになった。少々耳鳴りがした。この峠を越えると水系が庄川水系に変わる。

 六厩(むまい)を出ると、
「この先、急カーブが多くなります。ご注意下さい。」
とテープが流れる。軽岡峠越えである。別名辞職峠と呼ばれている。

 なぜかこの白川街道の峠には別名が付けられている。ガイドブックにそう書いてある。順に「びっくり峠」「思案峠」「辞職峠」。人生の失敗への歩みを物語ったものなのだろうか。事が起こってびっくりし、いろいろと迷ったあげく辞表を提出……。悲しい物語である。

 それとも、正式名称の読み方をもじったものなのかも知れない。おどり→おどろいた→びっくり。まつのき→待つ→待つとは考えること→思案する。かるおか→帰ろうか→辞職。最後のものは自分でもよく意味がわからない。

 この軽岡峠も景観が美しい峠である。標高は約1000m、軽岡トンネルを抜けると下り坂となり、道が多少狭くなる。カーブも多くなった。道は屹立した山の底を走っており、三谷川の渓流が美しく流れている。

 黒谷よりややひらけた。しばらくして集落が現れ、荘川村の役場前を通り過ぎた。温度計が2°Cとなっている。外は寒そうである。そして高山より1時間15分、白川街道と飛騨街道の分岐点である牧戸に到着した。下車客は4人だった。

 牧戸は御母衣湖の南の集落である。せっかくなのでダムの見物に行きたいところだが、都合の良いバスもなければ、歩いて回る時間もない。白鳥駅行きのJRバスは15時7分発である。あと20分程であった。待合室でバスを待った。

牧戸駅

 待合室は広くはなく、売店も兼ねており、店の中に椅子が置いてある、といった感じであった。JRだからなのか、切符の窓口や料金表、運賃表など、鉄道の駅を思わせるような雰囲気の待合室である。移動スーパーから流れる演歌が聞こえていた。切符売り場の中では、テレビを見ながらミシンをかけているおばあさんがいた。美濃白鳥までの切符を買った。

 3人の乗客を乗せ、バスは牧戸を後にした。ひと息つく暇もなく、ヘアピンカーブにさしかかり、ひるがの高原へと向かった。

 ひるがの高原に大った。近代的なペンションが立ち並ぶ、今流行の典型的なリソート地である。この辺りの開発は近年目覚ましいものかおるらしく、途中には「リゾート地売ります 8500坪」という看板があった。

 ひるがのは漢字で書くと「蛭ヶ野」である。が、どこを見渡してみても「蛭ヶ野高原」と漢字で書いてある看板は見当たらない。リゾート地はイメージというものも重要な開発計画の要素のひとつである。「蛭ヶ野」では、人の生血を吸い取る「蛭」が野原に広く住みついている、というイメージが頭に浮かんでくる。これでは心をリフレッシュさせる爽やかさがまるで無くなってしまうように思う。「蛭ヶ野高原」ではなく、「ひるがの高原」なのである。

 ひるがの高原を抜けると道は下り坂カーブの連続となる。となりの尾根下に道路の延長が見える。この辺りは長良川の源流域である。

 「折立道」バス停を通過した。左を見下ろすと灰色の道がピンどめのように折り重なっていた。「○○洞(ぼら)」という名のバス停が多くあった。

 田が現れ、長良川鉄道の終着駅、北濃に着いた。終着駅といっても無人駅であり、開けた街ではなかった。バスは線路沿いに南下すると、16時、長良川の上流域である、美濃白鳥に到着。

 高山から76.9km、峠を走るローカルバスの旅でした。

(1993(平成5)年3月旅行,5月執筆)

オホーツク流氷物語

(旅行年月:1993(平成5)年2月)


プロローグ

「靴はどんなのがいいんだろ。」
「そうだな。くるぶしまで隠れるトレッキングシューズがいいんじゃない? 雪用のスノートレッキングもあるけど。」
こんな会話が友人と交わされた。北海道へ旅立つ1カ月程前である。
話はさらにさかのぼり、10月のとある日のこと。授業が休講となり、図書館で友人と日本の風景の写真集を眺めていた。ページをめくると、雪に覆われた白一色のなだらかな丘の写真がでてきた。冬の北海道である。
「冬の北海道も行ってみたいな。」
「マイナス何十度の世界だよ。」
「どんな感じだろう。」
「冬の北海道へ行こうか! 」
「うん、行ってみようぜ。」
意気投合するのは早かった。こうして計画が始まり、友人を誘って合計4人、厳寒の北海道への旅が行われることになった。
冬の北海道といえば”流氷”である。目的は流氷を見ることであり、旅のルートはオホーツク海岸を南から北へ抜けることになった。また、せっかくだから釧路湿原でタンチョウでも見よう、ということになり、釧路から網走、紋別、浜頓別、そして稚内に至る『オホーツク沿岸北上コース』が出来上がった。交通機関は全て列車やバスである。レンタカーは乗り捨ての自由がきかないことや、雪道の運転に誰も自信がないので使用をやめることになった。
列車となると切符が必要である。切符は「北海道ワイド周遊券」を買った。北海道までの往復乗車券がつき、道内では全線乗り放題、しかも特急の自由席に乗れ、さらに冬期間は値段が通常の1割引とくれば、僕らの旅行には欠かせない切符であった。
服装についても考えた。田舎のおじいちやんに聞いてみた。
「おれはなー、あんた達の年齢の時、軍隊にいてなー、北海道にいたことがあるけど、とにかく風が強くて冷たいから、風の通さないビニール系の服を持って行け。」
なるほど、さすがはおじいちやん、だてに年を取ってないなと思った。僕はナイロンのウェアーを持って行くことにした。
出発日は2月8日である。その前に期末試験が待ち構えていた。必修科目を2つ再履修している僕であった。

日の出前の雪原

北の大地・北海道

急行「八甲田」号の発車は21時45分である。僕らは1時間前に集合した。自由席の乗車口には、既に7~8人の列ができていた。ここ上野駅の地下ホームは、旅情を感じさせる独特な雰囲気の残る場所である。みんなのリュックには、手袋、マフラー、帽子にホッカイロ・・・・と、防寒具で飽和状態といった感じであった。一夜明ければ、雪が見られるのである。車内は空いてはいなかったが、大潟雑といった程でもなかった。
青森は期待通りの雪景色であった。「海峡」号に乗り換え、北海道の入口・函館を目指した。自由席は満席で座れなかったが、隣の指定席があいていたので、300円を払って席に座った。今日の予定は、釧路まで列車に乗りづめの移動日である。札幌ではちょうど雪祭りが開催されており、乗り換えに時間があるので、見に行くことになっている。車輪の刻む音は、雪に吸収されてこもっていた。売店で買ったサンドイッチが、今日の朝食であった。
青函トンネルの説明が放送されると、世界一のトンネルに突入する。約40分で通り抜ける。いよいよ、北の大地である。トンネル内では、外の壁に鳥が飛ぶアニメーションが流れ、また、緑の蛍光灯によって最深部を知らせたり、となかなか凝った演出がされていた。
トンネルを出た。北海道である。土地は北海道でも風景はまだ本州であった。杉の樹林が見られ、山容もまだ北海道らしくなかった。
友人らと、流氷が来ているといいな、という話になった。2日前に紋別(もんべつ)の宿に問い合わせたときは、
「今日が紋別では流氷初日だったんですよ。沖合2~30kmのところにあって、まだ岸にはきていないんですよ。」
ということだった。流氷初日とは、今シーズン最初に流氷が観測された日のことである。今年も暖冬の影響なのか、平年と比べてやたらと遅い。平年では1月20日が流氷初日だという。僕らが行く頃には流氷が接近していることを祈っていた。
函館は寒かった。細かい雪が音をたてずにちらちらと舞い降り、ホームにはさらさらした雪が白くうっすら積もっていた。ここで札幌行きの特急に乗り換える。席は取れたが、自由席は満席であった。
函館を出発すると、車窓には白樺やブナが目立ちはじめ、氷と雪で覆われた大沼・小沼が通り過ぎた。徐々に 「北海道」へと変化していくのである。この面白さは飛行機では味わえない。鉄道やバス旅の楽しみのひとつである。
空は雲に覆われ、雪が斜めに降っていた。視界は良好ではなかった。窓ガラスには斜めに付着した雪が氷となってそのままアメーバーのように貼りついていた。寒さのため溶けないのである。夜行列車明けとあって、みんな眠りに入った。

札幌は大都市である。整然と区画された町並みは、東京よりも都会的な街である。今日は雪祭りとあって、人が溢れていた。コンコース途中にべニア板で囲いの造られた仮設荷物預かり所があり、そこにリュックを預け、会場である大通公園へと歩いて向かった。
雪は降っていなかった。雪の量もさほど多くはなかったが、道端には除雪された雪がこんもり盛られていた。そして、あちこちで寒暖計を見つけることができた。現在の気温は-3℃。手袋とマフラーを身につけているが、段々顔や手がヒリヒリとしてきた。
「みんな寒くないのかね。東京の人とあまり変わらない服装だよ。」
「靴も特別変わったものじゃないみたいだね。滑らないのだろうか。」
確かにそうである。見た目にはそれほど厚着をしているようではなかった。重装備をして膨れているのは南からの旅行者だけのようである。特別な材質の服を着ているのか、身体が寒さに慣れているのか。僕の身体は、さらに痛みが増していた。
また、北海道の人は足を垂直に下ろすからころばない、と耳にしたことがあるが、格別大げさな歩き方は見受けられなかった。みんな凡人である。
雪祭りの雪像はダイナミックである。北海道人のエネルギーを感じる。僕らは写真を撮るなりビデオを回すなりして楽しんだが、手や顔の痛みが最高潮を迎えていた。とにかく痛いのである。周りの人々は皆、平気な顔をして歩いている。なんともないのであろうか、不思議である。そうこうしているうちに、駅へ戻らなくてはならない時間となった。
駅弁を買い、釧路行の最終特急に乗った。釧路到着は23時32分。約5時間の乗車である。車窓も真っ暗だし、みんなでトランプをやった。夜行疲れも重なり、目を充血させながらゲームをやっていた。先月起きた釧路沖地震の影響で列車は遅れ、釧路に着いたのは夜中の0時を過ぎた頃であった。予約しておいたビジネスホテルへ駆け込んで、すぐ眠った。

雪原と灯台

釧路湿原へ

快晴である。今日は釧路湿原に行き、そして網走に向かう行程である。まだ昨日の疲れを引きずりながら、朝7時チェックアウトをした。気温-11℃。路面は氷でカチカチに凍っている。これぞまさにアイスバーンである。鼻から出る息が、加湿器のようにリアルに吹き出す。でも、気温の割には寒さは感じるられなかつた。風が吹いていないからか。僕の身体に寒さに対するウイルスが出来たのかもしれない。釧路湿原展望台へ行くバスに乗り込んだ。
バスが走り出すと、窓ガラスの内側が曇りはじめた。そして友人が一言。
「すげえ、窓が凍ってる!」
曇った水滴が凍ったのである。手で擦っても曇りがとれなかった。バスは釧路の市街地をしばらく走った。
道を右に曲がると、町並みがバタリと途切れ、前方に淡い黄金色をした釧路湿原が突然現れた。ヨシなどが枯れた薄茶色と、白く化粧された地面と、洋々とそして広漠たる釧路湿原である。一気に夢想の世界へ引き込まれた。潅木の枝が、魔法をかけられたように白く凍りついている。樹氷である。樹氷は霧氷とも呼ばれ、霧が木の枝にて凍りつく現象である。バスは数人の乗客を乗せ、そんな湿原の中を走り続けていた。
展望台に到着した。展望台は丘の上にある。眼下に180度、湿原が広がった。黄金色にうっすらとスノーパウダーをまぶしたようである。木製の欄にはガラスの破片のような霧氷が、規則正しくびっしり付着していた。ごみ箱のふたにも霧氷が着いていた。かつて夏に来たことがあるが、夏の緑は何処へいってしまったのか、冬の湿原は夏の爽快さや涼しさを全く感じさせない。外気の鋭い冷たさに対して、ふわっとした暖かさのある景色であった。
近くの案内板に説明があった。茶褐色の平坦な部分は水ごけの茂る高層湿原であり、草原の部分はヨシやスゲの茂る低層湿原であるという。望遠鏡を覗いたが、タンチョウツルは見れなかった。
10時を過ぎ、湿原に生える木の白さが無くなった。樹氷が溶けたようである。朝よりもロマンがなくなった風景のように思う。冬の湿原は朝の方が魅力的であった。
釧路駅に戻り、昼食を取った。そして、釧網本線に乗って、網走へと向かった。
このまま網走へ行っても時間が余るので、途中塘路(とうろ)で下車し、塘路湖へ行くことに決まった。荷物を駅前の商店に置かせてもらい、釧路川沿いを10分程歩くと、塘路湖に着いた。白鳥のいる、人気のない静かなところであった
塘路駅へ戻った。かつては駅員がいたのだろうけれど、今は無人である。網走方面からディーゼル機関車に牽かれた貨物列車がやってきて駅に停車した。僕らの乗る列車と交換待ちのようである。時間になっても列車はやってこなかった。黒のサングラスをかけた機関車の運転手が、赤い機関車の高い窓から顔を出していた。
「列車は遅れているんですか。」
「まだみたいだな。放送流れなかったか。」
僕らは屋外のホームにいたので聞こえなかったが、今にも壊れそうな駅舎には放送が入ったようである。釧路沖地震の影響で、危険箇所では徐行運転をしているからだという。昨日の特急もそうであった。しばらくして、さっきの運転手が首を出して叫んだ。
「今、無線が入って、あと2分で来るよ、あと2分! ! 」
指を2本立てていた。その通り、ライトをつけた1両編成のディーゼル列車が音をたててやってきた。
車内は混んでいた。暑い車内でたちまちメガネが曇った。最後部のデッキに陣を取ると、窓に広がる湿原を眺めていた。そして次の駅、茅沼(かやぬま)に入ろうとしてブレーキをかけ始めた瞬間、2羽のタンチョウの姿を発見した。列車に驚いたのか、タンチョウは小走りになり、切れ込みのある白と黒の羽をおもいきり広げ、首を水平にしながら列車と同じ方向に飛び立った。
優雅である。ほんの数十秒の出来事であった。思わず、
「丹頂、見た、見た!」
と叫んだ。雪の白さとタンチョウの白黒のコントラストが絶妙に調和していた。タンチョウは、戦後一時は100羽を下まわり絶滅に瀕していたのだが、その後の保護活動により今では約600羽にまで増えた。茅沼駅ホームには『タンチョウの来る駅』と書かれた白い標札が建っていた。
網走は大雪であった。知床の背骨を越えた頃から、雪がどっさり積もっていた。流氷は今日から来ている、とビジネスホテルの支配人が言っていた。網走では今日が流氷初日である。しかし、海岸にはまだ来ていないようで、
「とにかく風次第なんですよ。風がこっちに吹いてくれれば、一晩のうちに岸までやってくるし、向こうに吹いてしまえば沖合いの方に行ってしまうし・・・・・・。」
まさに「流氷」であった。夜は街中の蒸気船という居酒屋に入り、海の幸で乾杯となった。

オホーツク海岸を北上、紋別へ

酒の勢いもあってか、昨日のホテルへの帰り道で、『朝5時50分発のバスで紋別に行こう ! 』とみんなで気勢をあげていたのだが、目が覚めたのは全員7時半を回っており、結局予定通り8時30分のバスで発つことになった。紋別まで直通のバスは走っておらず、中湧別(なかゆうべつ)で乗り換えとなる。かつては湧網線と名寄本線の鉄道が走っていたが、赤字による廃止対象路線に選ばれ、今はない。これから乗るバスはその代替というわけである。
バスは発車した。跨線陸橋を渡ったが、坂道の部分だけ道路の雪が全くなくなっていた。アスファルト自体に融雪装置(暖房)が取り付けてあるらしく、とけた雪がところどころで水蒸気をあげていた。刑務所前を通り、網走の市街地を抜けた。
市街地を抜けると、凍結した樹氷のオンバレードとなる。左に結氷した網走湖が現れた。冬の朝の風景は声がでない程素晴らしい。数人の乗客を乗せた中湧別行のバスは、この美しい世界の中を走っていく。
「加藤宅前」という名のバス停があった。地名がないわけではないと思うが、自分の名前がバス停になるとは、北海道らしいことである。羨ましくも思った。
右手に海が現れた。蓮の形をした氷が細長い帯になっていた。流氷である。生まれて初めて流氷を見た。といっても、岸にはまだ接岸しておらず、あと数百mで接岸というところであった。氷の量も全然少なく、流氷の迫力は全くなかった。
運転手さんがマイクを通して説明を始めた。
「え-つ、今印ま観光客の方もいらっしゃるようですので、少し説明をいたします。網走では、ようやく昨日が流氷初日となり、今右手には流氷が見られると思います。え-つ、このあたりは夏になるとじゃがいもやビールの大麦の植わる丘が広がりまして、これもまた北海道らしい風景なのではないかと思います。雪に点々とついている足跡はキタキツネのものです。木が白くなっているのは霧氷と呼ばれるもので、水蒸気の凍ったものです。」
丁寧な説明だった。路線バスの説明というのは、運転手さん自身の全くの好意である。このような説明に出会うと、旅人としては嬉しくなるものである。常呂(ところ)に到着した。
バスはサロマ湖沿いを時々走った。そして真っ白な丘陵の中を走った。カラマツの林、トドマツの林、キタキツネの足跡が線を描いている。サイロが見え、牛が白い息をはきながら寒さをこらえている。「町境」バス停を過ぎると、佐呂間町から湧別町へと入った。道路脇の防雪フェンスは頑丈に作られていた。
湧別にてバスを乗り継ぎ、昼過ぎには紋別に到着した。
紋別は流氷の街である。産業は漁業であるが、冬の間は休業冬眠となる。岸が氷で埋め尽くされてしまうのである。冬の観光の目玉もこの流氷であり、2月上旬には「もんぺつ流氷まつり」が開催される。今日までその祭りの開催日であった。ところが、肝心な主役である流氷が接岸していない。沖合に逃げてしまっている。肉眼では白く細い線が見える程度である。さっき常呂で見られた流氷は、あそこにだけ接近していたということである。荷物を宿に置き、食事の後、流氷祭り会場へと向かった。
気温は0℃ということであるが、どいうわけか暖かく感じた。身体はすっかり北国の感覚になったようである。会場の隣に、流氷についての科学館「オホーツク流氷科学センター」があるので中に入った。中はそれなりに混雑していた。
入口に「流氷情報」があった。根室から稚内にかけてのオホーツク沿岸地方の白地図に、現在の流氷の位置が黄色で図示してあるもので、それによると、接岸している流氷はなく、最も接近しているのは、さっき通った常呂付近だけであった。
友人がとっさに喋った。
「早口言葉ができた。『流氷情報、樹氷情報』、どうこれ。」
「おもしろい。」
「りゆうひようじようひよう、じゆひようりようひよう……、あれ。」
みんなが口ずさんだ。寒い外ではなおさら言いづらいだろうと思う。
「厳寒体験室」というのがあった。その名の通り、究極の寒さを体験する部屋である。室内は年間を通じて-20℃に保たれている。館内の温度が+20℃なので、40℃の気温差があることになる。入口ではオーバーコートと手袋を貸出しているが、僕らは全て着込んでおり、何も借りずに入口の自動ドアを入った。
「これがマイナス20℃かよ。全然へっちゃらじゃん。」
「ほんとだ。ちょろい、ちよろい。」
みんな平然としていた。ひやっとはしているが、思ったより平気だった。階段が下まで続いており、下の展示室に向かった。
ブリザード体験ボタンがあった。押してみると「ヒューウ、ヒューウ」という疑似音と共に、寒風が吹き荒れた。これがブリザードかと思った。その隣には本物の大きな流氷が置いてあった。
5分ほど経過した。みんなの様子がさつきとは変わっていた。
「顔がいてえよ。」
「鼻が凍ってる。」
「寒いーーー。もう耐えられねえ-。」
「出よう、出よう。」
階段を掛け上がり、外へ出た。急激に気温が変化したので、身体が慣れなかったのだろうとも思う。やはり過酷な世界であった。
まつり会場内に「氷めいろ」があった。タイムを競ってみんなで遊んだ。日が段々と暮れていき、氷像がカラフルにライトアップされた。
食事を済ませ、宿に戻ってから、友人から提案があった。
「このまま北上しても流氷はなさそうだし、稚内へ行くのは取り止めて、常呂に戻らないか。」
「そうだねー、流氷情報で流氷はなかったし。」
流氷科学館での流氷情報によると、稚内方面の流氷は沖合いにも来ていなかった。やはり流氷の最も接近している場所へ行った方が、一面に広がる流氷に出会える可能性は高い。流氷を見たことは見たが、やはり一面に埋め尽くされた氷の塊を見てみたい、と誰もが思っていた。今日見た流氷は、流氷と呼べるものではなかった。
意義無く、明日の朝のバスで網走へ戻ることに決まった。流氷科学館に行くまでは、流氷は北へ行くほど漂着しているのかと思っていたが、紋別や網走の方が流れてきやすいそうである。
流氷はロシアのアムール川の淡水が海水と混ざりあって結氷するもので、その氷が風に吹かれてオホーツク海を南下し、北海道にやってくる。それを考えて世界地図を眺めると、紋別・網走が流氷の漂着地であることが判然とする。
明日は覆い尽くすような流氷に出会えるだろうか。『風よ吹いてくれ』、と祈るばかりであった。

荒れるオホーツクの海辺

流氷よ、いずこへ 網走へUターン

9時過ぎのバスで常呂へと戻った。紋別へ来るときと同様、中湧別で乗り換えとなる。パスターミナルまで乗ったタクシーの運転手さんによると、流氷は沖合い20km位にあって、昨日より更に10km離れてしまったよ、という。ターミナルに着き、バスに乗った。
今日は雪が降り、風が強く吹いていた。防雪柳のない直線道路では雪の吹きだまりができ、風の吹く方向に白い雪の山脈が作られていた。吹きだまりの下には石などの突起物があるのだろう。道路の上には風にのった粉雪が、寒々と吹いていた。
途中の佐呂間までのバスがあったので、それで佐呂間まで行き、昼食を食べたあと、常呂に向かった。常呂に着いたのは14時頃であった。パスターミナルは元国鉄の常呂駅だったところで、建物も新しく立て直されており、当時の面影は駅前広場の雰囲気ぐらいなものである。ターミナル内には定期券売り場兼案内所があり、おばさんが退屈そうに仕事をしていた。ターミナルの裏手はすぐ海岸であり、僕らは閑散とした待合室に荷物を置いて、海岸へ出た。
天気は朝とは変わり、もう晴れていた。流氷は昨日のように目の前にはなかった。水平線の彼方にかすかな白い線が見える程度だった。でも、風はこちら側に吹いている。ひょっとしたら、ひょっとするかもしれない。海岸には流氷の塊片とでも言うのか、氷の塊があちこちに打ち上げられていた。
外は寒い。しばらく海岸にいた。すると、雲行きが怪しくなってきた。波が高くなり、あたりがうす暗くなった。空が鉛色になり、海が灰色になると、突然雪が吹いてきた。次第に雪は激しくなり、岬の集落が見えなくなった。怒涛がテトラポットにぶつかり、しぶきをあげている。
荒々しい冬のオホーツク海に急変した。Gパンの裾が凍結して固まった。吹雪がコートに着き真っ白である。海上が霧で霞がかかり、波の音がたくましく聞こえた。カモメが空で鳴いている。写真を取り続けている友人が、黒いコートを白にして雪と格闘していた。海の方から雪が体にぶつかってくる。
20分程経過しただろうか。空が明るくなってきた。雪も降りやんだ。そして太陽が出てきた。海も空も青に戻った。視界も元に戻り、岬の集落も見えるようになった。ほんのひとときのドラマだった。これは空の精霊から僕らへのメッセージなのかも知れない。流氷が見れそうな、そんな気がした。
海は何事もなかったように、穏やかになった。
日が暮れるまで待っていたが、流氷はやってこなかった。ターミナルの公衆電話で天気予報を聞いた。
「今夜は北西の風やや強く・・・・・・」
北西の風? 地図とコンパスを広げてみた。北西からの風だと、能取(のとろ)岬に流氷がひっかかるではないか。これこそ待ち望んでいた風である。今夜は網走に宿泊し、明朝早く能取岬へ行くことに決まった。ガイドブックにも能取岬は流氷を見るのに最適と記載してあった。早朝にしたのは今後の予定もあって、9時30分発の特急で札幌に向かわなければならなかったからである。これがラストチャンスであった。

打ち上げられた氷塊

能取岬にて

朝6時、空は既に明るくなっていたが、それでも、まだ夜が明けきっていない感じだった。頼んでおいたタクシーに全員乗り込み、能取岬まで車を飛ばした。流氷は来ているだろうか。
運転手さんに聞いてみたが、さあどうだろうねえ、と曖昧な返事が返ってきた。行ってみなければ分からない。運転手さんが話を続けた。
「子供の頃は、必ず一面に氷が張って、その上で遊んだもんだけど、今は氷が薄くなって危なて上にはあがれなくなったよ。」
温暖化の影響が顕著に表れていた。
車が坂を登り、峠を越えた。突然、視界に白い海が広がった。
流氷である。
一面の流氷である。風に乗った氷の塊が、能取岬に漂着したのである。
タクシーを降りた。僕らは夜明けの岬にたたずんだ。岬は高台になっている。左から右まで、蓮氷がびっちり埋まっていた。まだ、完全に氷どおしが固まっていないため、波が来るたびに蓮氷が生き物のように動き、その時の摩擦によってジェット機のような「ゴーッ」という音を力強く出していた。
風は強烈だった。体感温度は-20℃、いやそれ以上(以下)だろうと思う。服装は、下半身がGパンの上に更にナイロンのトレーニングズボンをはき、上半身は肌から順に、Tシャツ、綿シャツ、トレーナー、ナイロン系トレーニングジャンパー、スキーウエアーの上半身のみ、そしてダッフルコートを着込む6重構造である。靴はスノートレッキングシユーズ、靴下はスキー用の厚手のもの、手袋をはめ、マフラーを巻き、フードをかぶる。これで防寒は完壁である。寒いのは顔面だけであった。
岬には黒白縞の灯台が建ち、広々としていた。粉雪が強風によって地を這うように素早く吹き去っていた。

ついに流氷に出会えたのである。

流氷

流氷
冬のオホーツクの岬に立っていると
世間とは何だろうか、とふと思う
冷たい風が地の雪を舞い上がらせ
枯れ草がこすれ合いながら乾いた音を鳴らしている
流氷はうねりをあげて波にのり
風の吹くまま、気の向くまま
ゆっくり海を旅していた
力強い流氷、大いなる流氷
流氷は勇気を与えてくれた
世の中がいかに小さなものか
流氷を見ていると、そんな気がする

寒かった…
(上半身6枚,下半身4枚の重ね着)

都バスで東京見物[雑誌に掲載されたコラム]

雑誌名:「旅」
1992年6月号(第66巻第6号)
P.136
発行:JTB・日本交通公社
コーナー:私のおすすめバス路線「都バスで東京見物」


都バスで東京見物 [浅草~上野~新宿~品川]

首都東京の中心部を中心部を縦横無尽に走る都営バス.最近はバス現在地や現所要時間を知らせるバスロケーションシステムの導入によって,利用者の増加を目指しています.そんな路線バスに乗って素顔の東京を見物してみてはいかがでしょうか.
まずは,浅草から真っ赤な2階建てバスに乗って上野公園へ.予約無しで誰でも気軽に乗れます.上野の周辺をちょっと散策し,「上60 大塚駅」行で大塚へ.東京大学横を通り過ぎ,巨大な怪物のような東京ドームを背にして,文京区小石川界隈を走ります.
大塚からはちょっとルール違反をして,都電に乗って早稲田に向かいます.下町情緒の残る電車からは,サンシャイン60が間近に見え,雑司ヶ谷,学習院下をトコトコと走っていきます.
早稲田大学の北に位置する終点で下車し,そこから今度は「早77 新宿駅西口」行で新宿に移動.明治通りを南下し,都内有数の歓楽街「歌舞伎町」を突っ切ると目の前に,超高層ビル街と新都庁が見えて新宿に到着.
ここからは,バスロケーションシステムの完備された新都市バス「都03 晴海埠頭」行で,ベイエリアへと向かいます.新宿通りを東に走り,半蔵門にて右に曲がると,左に皇居のお堀,右には国立劇場,最高裁判所が現れます.さらに三宅坂,警視庁前,日比谷,そして,銀座の中心,銀座四丁目交差点を横切ります.勝鬨橋を渡ると,客船ターミナルのある晴海埠頭に到着.現在建設中の東京ベイブリッジも見えます.
数本のバスを乗り継いで,門前仲町に移動し,「海01 品川駅東口(海上公園で乗り換えの便もある)」行に乗車.東雲を過ぎると,埋め立て地である有明テニスの森公園,お台場海浜公園近くを通り,船の科学館に到着します.ここからバスは東京湾岸道路の料金所を通り,海底トンネル(東京港トンネル)を抜け,大井埠頭に入るとまもなく終点品川です.
最後に「浜95 東京タワー」行に乗って,東京の夜景を空から眺めて締めくくり.
1日乗車券は大人650円で,都バスはもちろん,都電,都営地下鉄に乗り放題です.また,営業所にて分かりやすい路線案内図がもらえます.

さぁ出発!夜行鈍行大垣行き[四国旅行記#1]

はじめに

 高校の卒業式を終えた1991(平成3)年の春休み、旅好きな友人2人と一緒に、3月24日(日)から7泊8日の四国旅行に出掛けました。これは、その時の旅の記録です。

(旅行年月:1991(平成3)年3月)

さぁ出発

 私はいつも旅行の準備というものは、出発する直前に行なっている。別にこだわり を持っているわけではないのだが、どうしてもそうなってしまうのである。そして、 今日も午後4時、出発の準備をしていた。この準備を始めると心が高揚しはじめる。 嬉しくて、楽しくて、ワクワクしてくるのである。準備が早く終わってしまうと出発 時間まで待ち切れなくなり、今回もそのようなパターンであった。集合は東京駅10 番ホーム品川寄りに午後6時であった。夜行普通列車大垣行きに乗るためである。
 午後5時20分、ちょっと早いが家を出発することにした。

夜行鈍行大垣行き

 東京駅に着いた。案の定1番のりで、友人は誰も来ていなかった。数分後友人がき た。大垣夜行は毎日運転されているが、春夏冬休みには青春18切符が使えるとあって大混雑する。ピーク時の混雑ぷりは大変なもので、今どきこんな列車があるのか、と思う程である。

 そこでやっと最近、混雑する日に臨時 の大垣夜行列車(9375M)が運転されるようになったのである。この臨時夜行、東京を定期夜行より3分遅く発車するのだが、浜松で追い抜いて大垣には8分早く到着するおもしろいダイヤになっている。こうなるとどうしても臨時夜行の方に乗ってみたくなる。そして我々は臨時の大垣行きに乗ることになった。

 念には念をということで、集合時間を発車時刻の5時間43分前、午後6時にした のだが、臨時列車ができたせいか誰も並んでいる人がいない。我々は、臨時ができてから乗るのは初めてであり、大垣夜行に乗る人かどうかは一目見ればすぐわかる。勿論『大垣行き』乗車案内板下(10番線)に先頭として陣取りをした。

 午後9時、ボチボチ並ぶ人がでてきた。ブルートレインが次々と目の前を発車していくが、発車していくたびに「金があったらなあ」と車内の乗客をうらやんでしまう。これくらいの旅行になると、結構お金がかさむ。しかも、ビンボーな若者!にとってはなおさらである。また高松行き「瀬戸」が出発した。そんなとき、定期夜行の発車する隣の7,8番ホームを見ると、中核派の制服!、ヘルメット、マスク、サングラス、ハットスピーカー、旗を持った大集団が前2両に並んでいて、鉄道公安員も警備のため立っていた。これから何処へ行くのかなどと友人と話をしていたが、なんとも物騒な感じであった。

 午後11時ともなると、いいかげん暇で暇でいやになってくる。最後のブルートレイン『銀河』を見送って、22時33分、まちにまった臨時夜行が入線してきた。

 8両編成でグリーン車はついていない。座席の背もたれ上部にJR東海独特の自いカバーがかかっていないので、JR東日本の車両だろう。7番線の大垣行きを見ると日よけカーテンが全部閉められていた。

 22時43分、定刻に発車。車内は80%位の乗車率だろうか。

『どうせ寝れるわけがない』と諦めていたが、我々の乗った車両(先頭)の暖房の調子が悪いのか、窓の具合が悪いのか、とても寒かった。隣の車両をみると窓が水滴でびっしょりなのに対し、こっちの車両の窓は涸れるどころか曇ってもいない。しかも
窓を開けてる若者がいて本当に寝むれずイライラした。浜松で両大垣行きが並んだ。日よけカーテンは閉ったままである。

 列車は闇の中をひたすら走っていった。

まっすぐ姫路[四国旅行記#2]

 大垣に6時49分、定刻に到着した。本当に寝むれなかったので体が変だ。次の列車の席取りのためみんな走っているので、私も負けずに跨線橋を走った。8分後、定期夜行が到着したが、もう座れないだろう。そんなことを思っているうちに、網干行普通列車が入線してきた。なんとか席は確保できたが、友人がトイレに行ったため席が1つ開いていたのだが、「ここは、開いてないのか?」「開いてないのか?」としつこいおじさんがいた。のちのち、このおじさんによって大変不快な思いをすることになる。

 7時8分、湘南色の電車は岐阜県大垣駅をあとにした。車内は大垣夜行からの乗り継ぎ客でかなり混雑しており、なんだか全然普通電車らしくない。そして、あの例のおじさん(糞ジジイと表現した方が適切)が周りの乗客たちに、「おい、どこまでいくんだ!おい!おれの話しがきけねえのかア~!」というような調子で当り散らしていった。いきなり酔っぱらいの出現である。車内は異様な沈黙に包まれた。

 しかし、鈍な奴とはいるもので、そのような尋常でない状態にもかかわらず、大声でベチャベチャと喋っている人がいて、さっそく酔っぱらいのエジキとなってしまった。
「おい!たのしそうだなあ~!ええ一つ!」
幸い、我々は絡まれずに済んだが、ああいう乗客に会うだけで旅行の気分が台無しになってしまう。困ったものである。

 米原に着いた。新快速に乗り変えるため下車して、案内のあったのりばで並んで入線を待った。ついでに『牛肉弁当、820円』とやらを買った。すると、
「大変失礼しました。今度の新快速ののりばは、隣の2番ホームです。」
との案内放送。だたでさえ混雑しているのに、この放送のあと一瞬、騒然とした雰囲気になった。「やられた!」と思いながら、我々もカバンを移動した。まったく、こういう時に限ってこういう事が起こるのだから油断できない。

 新快速姫路行が入線し、ドアが開いた。あのような混乱があった後もあって、もみあい、へしあいの大変な乗車合戦となった。中年のおばさん(巷ではオバタリアンともいう)が余りの勢いで転んでしまい、
 「ちょっと、ひどいじゃない!おさないでよ~」
と叫んでいるが、誰も聞いていない。我々は、今回も運良く座席が確保できた。しばらくして、車内を見回してみると、立っている人がほとんどいない。さっきのオイルショック時のトイレットペーパーを買うような騒ぎは何だったのだろうか。

 8時07分、米原を発車。野洲までは各駅に停車する。弁当も食べ終わり、あとは姫路まで落ち着いていられる。睡魔が襲ってきて京都あたりまで寝た。

 目が覚めるとラッシュで満員。新型の車両で気持ちよく座っていたので、なんだか恐縮してしまった。

 10時30分、あと15分で姫路に到着する。しかし、飛ばすこと、飛ばすこと。私は、進行方向反対側に3時間も座っていたせいか。少々酔ってしまったようだ。そして、46分、姫路に着いた。

姫路駅

片上鉄道で柵原へ[四国旅行記#3]

 この旅行の目的は四国なので、まっすぐ岡山へ行くべきなのだが、今年4月で廃止になる私鉄「同和鉱業片上鉄道」に乗るため、片上駅に向かった。
 この鉄道は、吉井川上流の柵原 (やなはら) 鉱山で採掘 される硫化鉄鋼を瀬戸内海に面した片上港へ運ぶために建設されたもので、昭和6年に全通した。片上駅へは、赤穂線西片上駅で下車し、5分程歩いた所にある。

 12時30分頃、片上駅についた.今度の列車まで45分程あるので食事を済ませることにした.近くにお好み焼き屋があったのでそこに決めた.店はそれ程広くはなく、奇麗だ!といえる感じではない。中では地元の人々の談話室となっていた。

 「おにいちゃんら、ちょっと時間かかるよって・・・。」

 岡山弁?で店のおばちゃんがこのように言っていた。
そして、すったもんだと議論したのち、急いで作ってもらう事に落ち着いた。

 店にいる地元の人と色々な話しになり、東京から来た、と言うと『うちの甥も東京で働いてるわ』という話しになる。既に12時50分、発車25分前であった。そして、早く食べないと間に合わないぞ、という話しになり、店のおばち々んが私に向かって、

「あんたが、一番だめそうや。」

と言った。3人の中では確かに1番キャシャな体格ではある。,自慢じゃないが食べるのは1番早い。こう言われると、意地でも1番に食べ終わらなければ気が済まない。13時、発車15分前に出来上がった。3人共急いで食べたが、熱いので思うよう口に進まない。味わって食べる暇もない。私は1番に食べ終わり、意地は張れた。そして、3人共食べ終わったが、発車5分前だった。最後、店を出るとき、

「おばちゃんのこと忘れないで、また今度はゆっくりと来てちょうたいね。その頃は彼女もいっしょかなー、気いつけてな。」

と言われ、慌てて駅に向かった事が非常に印象に残っている。

 何とか列車には間に合った。13時15分、定刻に片上駅を発車した。1両編成の肌色と赤のツートンカラーのディーゼルカーで、車内は20人ぐらい乗客がいるが、ほとんどがはるばるこの鉄道に乗りに来た旅行者のようである。

 列車は、赤穂線、続いて新幹線をオーバークロスして、ウネウネと山中の上り勾配をのぽっていく。備前市から和気市に入って、31分、和気に着いた。ここで19分停車する。
 岡山からの電車に接続するためだろうが、他の列車も和気でしばらく停車するので、和気が中心のダイヤ設定になっているのだろう。13時50分、さらに20人ぐらいの客を乗せて発車した。

 列車は吉井川に沿い、上流に向かって北上する。左手に川と国道374号線がみえる。車窓は結構美しい。3駅、4駅と止まるたびに、地元の乗客はポツポツと降りていく。

 14時36分、終点柵原(やなはら)に着いた。車窓は終点まで変化がないが、赤いとんがり屋根の駅舎は洒落たものである。私は全国の駅舎の写真を撮り集めているので、写真を撮り、折り返し14時57分の列車に乗り込んだ。

柵原駅

 柵原には今では廃墟となった鉄鉱場の建物があり、何とも寂しいところであった。待合室の掲示板を見ると、6月(何日かは忘れてしまった)に廃止となる旨が伝えられていた。バスとの交渉がうまくいかず、2ヶ月程廃止が延びたのだそうだ。

柵原駅の鉄鉱場跡地.この後廃止された.

 折り返し列車が発車した。乗客はほとんど折り返し客だった。

 10分位たった頃、走っていたディーゼルカーが急停車した.
「え一つ、申し分けありません。ただいま、踏切が故障しています。しばらくお待ち下さい。」
と車内放送があった。「ほんとかよ!」と思っていると、車掌が車から降りて、前方の踏切まで走っていった。工事中の案内看板に踏切の捧がひっかかっていたらしく、手で直して戻ってきた。

「おまたせしましたー。」

警笛がなり、発車した。しかし、今までの旅行のなかで車掌が降りて踏切を直したという場面は初めて見た。もしかすると、踏切も列車の廃止に感づいて、自己主張をしたのかもしれない。

正面6枚窓の流線型車両

どっきん!四国へついに突入[四国旅行記#4]

 16時26分、和気で山陽本線に乗りかえ、岡山に着いた。いよいよ瀬戸大橋を渡る時が来た。しかし、天気は曇り空で今にも雨がふりだしそうな模様である。16時45分発の『マリンライナー43号』に間に合う時間だったが、座れなかった為、30分後に発車する『マリンライナー45号』(17時15分発)に乗ることにした。

 16時59分、ステンレスにブルーの帯びの電車が入ってきた。席は勿論確保。そして、17時15分発車。電車は左にカーブし宇野線を走り、早島、茶屋町と停車する。車内は春休みに入ったとあって、子供連れの客で混雑していた。

 17時30分、茶屋町を発車すると、宇野線に別れを告げ、灰色の高架橋をグングン走って行く。本四備讃線(瀬戸大橋線)に突入した。右に大きくカーブして、左眼下に宇野線が見えた。そして、一目で新線とわかる直線のトンネルを何回も、物凄いスピードで突っ走る。

 10分後、児島に到着。1/3位の客が下車した。茶屋町より大きい町に思えた。後で地図で調べてみると、倉敷市であることがわかり、少々意外であった。

 児島を出ると、左手に児島ボートレース競技場が見え(駐車場が広い)、マリンライナーはどんどん加速していった。車掌が瀬戸大橋の説明らしき事を言っているようだが、ボリュウムが小さくてあまり聞こえない。まだか、まだかと外を見ているが、青函トンネルに入る時もこんな気持ちだった。すると『ゴー』といって(そんなに大きな音ではない)瀬戸大橋を渡り始めた。天候が芳しくないため、遠くは見えないが、海の上を列車が走っている、と考えると「銀河鉄道999の哲郎」のような気分になる。しかも、下を覗くと「海」なので、なおさらである。

 橋の途中にある与島パーキングエリアが見えてきたが、その車の高架橋(灰色)が随分高いところにあってカーブしており、よく折れないものだな、と感心してしまった。

 橋も渡り終わったようで、瀬戸中央自動車道は左に別れていった。周りは工場地帯で、いよいよ四国に突入して、17時55分、坂出に着いた。立っている人がいなくなる。ついに雨が降りだして、列車は高松に向かった。しかしまあ、よく飛ばすこと・・・。そして、18時12分、四国随一の都市、高松に到着した。

高松駅

大歩危、かづら橋[四国旅行記#5]

大歩危峡

 3月26日、火曜日。曇り。高松7時16分発、特急「しまんと1号」中村行に乗りこんだ。朝食に駅の讃岐うどんを食べたが、個人的には白つゆの方が好きなので、うまかった。

 JR四国独特のチャイムが流れ、車内放送がある。車内をみると、クラブの試合かな、と思える若者3人が中年の先生らしき3人と一緒に乗っていたが、そのとき、手首のハンカチの隙間から、銀色の手錠が見えてしまった。彼らにとっては、しばらくは接することのできない外界となるのだろうか。

 猪ノ鼻峠を越え、香川県から徳島県に入って、列車は下り坂になる。右手に吉野川が見えてきた。ぐる一つと180度、右にカーブし、吉野川を渡って、8時31分、阿波池田で下車した。池田高校のある池田である。これから、大歩危、かずら橋と行くので、荷物をコインロッカーに入れて、8時46分発のワンマン高知行に乗った。

 1両のワンマン列車は、吉野川上流に向かって走っている。車内はロングシートで15人程いるが、ほとんど観光客であった。
 景色もだんだんと山の中になり、大歩危(小歩危)峡にさしかかった。数十メートルに及ぶ断崖絶壁や美しく磨かれて層をなした岩石、木々の色彩はみごとである。
 9時31分、大歩危到着。11時35分発のバスまで時間があるので、大歩危峡のドライブインまで往復して、吉野川を見てまわった。

大歩危峡(吉野川)

秘境・西祖谷山村(かずら橋)

 再び、大歩危駅まで戻ってきて、かずら橋行の西祖谷山村村営バスに乗った。マイクロバスで1時間かかるのだが、四国交通のかずら橋行のバスでは20分で到着するので、村営バスはよほど大回りをするのだろうと思った。

 満員の客を乗せて発車した。半分は観光客であり、車内には案内テープもなければ、下車合図のブザーもない。有科道路入り口の手前で、右に別れているマイクロバス1台がやっと通れるような道路に入った。

西祖谷山村営バス

 村営バスは旧道を通っていく為に時間がかかるのであり、住民の足でもあるのだ。そして、うっそうとした木々に囲まれた「ほんとうの山の中」に入っていき、急な上り坂となった。バスは低速ギアで、「ワンワン」唸りをあげている。対向車はほとんどなく、車がきた場合は待避所でどちらかが待って行き違いをする。

 地元客は1人のじいさんになった。

 ウネウネとこんな調子の道路が10分程続く。した~の方を眺めると、今通ってきた道が小さくなってみえる。そして、上を見上げるとこれから行くであろう道と集落が見える。まさに秘境の集落で、どうやってあんな急な斜面に住んでいるのだろうと思ってしまう。

 ガラスがくもってきた。頂上にきたらしく、今度は下り坂になる。ウネウネと下っていくうちに、一人じいさんが降りた。こんな所に家があるのか!と思った。なにしろ、木しか見えないのだから。

 約40分程走ると、大きい道路にでた。有科道路に通じている新道である.そしてひらけた町 (といっても,今までと比べたらそのように思えてしまう)についた。一宇である。 乗り降りはなく、バスは方向変換して出発した。ここから先は、1日3往復しかない。

 橋を渡ったバスは左折し、また狭い急な上り坂(日道)を唸りながら上っていった。車内では半数の人が眠っていた。 12時35分、かずら橋に着いた。

かづら橋

 かづら橋は,水面からの高さ12mの祖谷川にかかる、付近に自生するシラクチカズラで編み上げた、古風なつり橋である。ゆらゆら揺れ,粗いかづらの編み目から水面を覗くと、吸い込まれそうで足がすくむことで有名である。

 410円の通行料を払って、かづら橋を渡った。はじめは『ちょろい、ちょろい』と思っているのだが、わたってみると結構背筋がぞくぞくする。友人の1人は高所恐怖症であるらしく、必死にカズラを握りながら手に汗をかいて渡っていた。
 祖谷そばを食べ、今度は、四国交通バス、大歩危駅経由阿波池田駅行に乗った。車内は大歩危までは満員であった。天候は相変わらずのくもり空で、からっとした青空が見たい。

 阿波池田で荷物をだして、16時15分発の急行『よしの川4号」に乗って、徳島に向かった。車両は転換クロスシートと固定クロスシートの2両編成で、普通列車にも運用されているものであった。途中、教習所の車と並走する場面があり、友人が免許を取っている最中だったため、他の友人と教官のまねをしてからかっていた。そして、徳島に到着。17時33分。

小松島線を歩く。そして南国高知へ[四国旅行記#6]

小松島線を歩く

 雨。朝からしとしとと降っていた。徳島駅は駅舎の全面建てかえをするようで、本駅舎は使われておらず(まだ壊されてはいない)、小さい仮の駅舎が使われていた。

徳島駅

 8時18分発、牟岐線海部行に乗って車内で駅弁を食べ、小松島線の分岐駅であった中田で下車した。単なる田舎駅で駅前は住宅街となっており、乗客は数人であった。

 雨の中、小松島線の廃線跡を見つけるため、地元の人に聞きながら歩いた。

中田駅

 小松島線は、かなり以前から廃止の案が浮かび上がっていた線で、中田一小松島間ひと駅の僅か1.9㎞の路線であった、終点の小松島の先に『小松島港(臨)』という駅がくっついていたが、小松島港は小松島駅構内に南海フェリー連絡のため設けられた仮乗降場で営業キロがない。したがって小松島一小松島港間の運賃はいくらか?タダになるのか?と鉄道マニアの間で話題になった区間でもある。

 そして歩くこと10分、前方に小川に掛かる小さな鉄橋が見えるではないか!自然と3人共かけあしになる。紛れもなく小松島線廃線跡だ。線路ははがされ、残っているのは鉄橋とバラストぐらいのものであった。そして、小松島に向かって歩いていると、途中から洒落た遊歩道に変わった。近くの案内板をみると、中田一小松島の間を遊歩道にする計画のようで、その一部なのだろう。

 さらに、10分程歩くと、前方がだだっ広い野原になった。貨物操車場跡地だろうか。そのまま野原を歩いたが、雨が降っている為、草についた露がGパンや靴についてビショビショになった。

小松川線貨物操車場跡地

 和歌山行南海フェリーの待合室に着いた。随分寂しい感じの待合室だった。和歌山から先の南海電車『サザン号』の乗り継ぎ時刻が書いてあり。切符も販売しているのを見て「南海なんだな」と実感した。フェリーは約2時間おきにー昼夜出航ている。和歌山港まで2時間。

南海フェリーのりば

牟岐線を往復して

 小松島港からタクシーで南小松島駅にでた。10時23分の特急「うずしお3号」で終点の牟岐まで行き、1分接続のワンマン普通列車海部行にのりかえた。車内はお年寄りや補習をうけた高校生など、約30人程乗っていた。外は大雨になっているらしく、あめが波打って降っている。鯖瀬、浅川、阿波海南と止まる度に乗客がおりていく。そして、11時37分、終点海部。終着駅だが、高架橋は先へ延びている。いつ宍喰(仮称)までつながるのだろう。

海部駅

 折り返し11時44分発、板野行の列車で徳島に向かった。だんだんと乗客も乗ってきて、南小松島のあたりでは、立客もではじめた。中高生が多いけれど、お年寄りも多かった。

高松をまわって南国高知へ

 徳島で3分接続の「うずしお14号」高松行に乗る(13時54分)。2両編成全車自由席の特急で、約1時間毎に走っている。1990年11月21日のダイヤ改正で急行「阿波」(2往復)が全て特急に格上げされてそのようになった。

 発車直前に乗ったので座れず、デッキに立つことにした。ホテルが高知なので、徳島線で直行すればよいのだが、徳島線は昨日乗車した為、まだ乗ったことのない高徳線、ついでに土讃練大歩危一高知間を通る高松まわりのルートにしたのであった。

 昼食は高松で取ろうと思っていたが、空腹には耐えきれず、車内販売でサンドウィッチ[380円]とウーロン茶を買った。

 15時10分、高松に到着。高松は2度目である。ここから、15時45分発の普通琴平行で多度津まで行き、岡山からの特急にのりかえる。多度津では、大抵の特急において、高松からの特急と、岡山からの特急との列車接続(一方は予讃線方面行、もう一方は土讃線方面行)を行なっているので、高松16時11分発の予讃線方面特急「いしづち11号」に乗ってもいいのだが、なにしろ四国の普通電車は珍しいので、電車に乗ることにしたのである。

 多度津に着いた。岡山からの特急『南風9号』中村行にのりかえる。私は、気動車初の新型振り子式気動車2000系に乗りたかった。振り子列車に乗るのも初めてである。期待通り、新型の5両編成がきて、16時47分、動いた。

多度津駅

 振り子式車両とは曲線区間を高速で走っても横揺れが起きないように工夫されたもので、台車の上にコロを付けて車体をより傾けて走るものである。

 初めは座れなかったが、阿波池田になると数人降りたので、パラパラではあるが3人共座れた。座った車両は、高知で切り離される車(一番後ろ)だった。

 乗り心地は、やはり最高。全然揺れが少なく、高速でカーブを曲がると車体が傾くが、とてもスムーズに感じる。特に、四国山地を越える阿波川口一大歩危一土佐山田間においては顕著だった。四国の特急は遅い、と思っていたがとんでもない。最高時速120km/hで飛ばせるところでは飛ばす。

 あたりも暗くなり、18時25分、南国高知に到着した。駅前は徳島と同じように背の高いヤシの木が沢山立っており、いかにも「南国」という感じである。雨あがりのせいか、吹いてくる風が、湿っていて生暖かった。

高知駅

おっと!一目惚れ?土佐くろしお鉄道の女性車掌[四国旅行記#7]

 3月28日、5日目に突入した。今日はまっすぐ中村に行き、市内を観光する予定になっている。高知8時08分発、特急『あしずり1号』中村行きに乗りこんだ。車内は50%位の乗車率で、観光目的の人と数人のサラリーマンぽい人しか乗っていない。天気は昨日とはうってかわっての『快晴』で、観光をするにはもってこいの天候であった。

 9時28分、窪川に到着した。隣には、明日乗車するであろう予土線のワンマンカーが発車時刻を待っている。ここから中村までは、元中村線であった第3セクター「土佐くろしお鉄道」に会社が変更する。ということは周遊券では乗れないわけで、別に1240円(特急料金込み)を払うことになる。

 9時33分発車。JR四国のチャイムが再び流れ、奇麗で済んだ女性の声でアナウンスが始まった。女性の車掌さんなのである。

「本日は、土佐くろしお鉄道、特急『あしずり1号』中村行きにご乗車いただきまして、誠に有難うございます。これから先は周遊券ではご乗車になれませんので、切符をお持ちでないお客様は只今より車掌がまいります。その時にお買い求めください…。」

 大変流暢な言葉づかいであった。かつて、JR東日本で女性の職員を採用した際、社員研修の一つとして「車掌の車内放送の実習」があり、私の通学手段である京浜東北線でもその放送を耳にしたことがあるが、訓練されてないせいもあるのか、間のあけ方が適切ではない為に非常に聞きづらく、男性の放送の方がよっぱどよいと感じた事があった。土佐くろしお鉄道の女性車掌は大変訓練されているらしく、JR四国の車掌とも比べものにならない程素晴らしいものである。どんな顔をしているのか見てみたくなった。

 しばらくして、噂の女性車掌が入ってきた。

「失礼いたします。乗車券をお持ちでないお客様はいらっしゃいますか…。」

 一瞬目を疑った。品があり美人である。そして、二コニコ笑顔を絶やさない。「紀子さま!」まさにこの人にピッタリの言葉である。私たちは切符を精算したが、なんだか自分たちが良い事をして、晴れ晴れとしているような気分に浸っていた。この車掌さんが回ってきたら少なくとも男性ならば、キセルする人がいなくなるのではないだろうか。ドアの開閉業務も行なうのだが、その時の下車客に笑顔で頭を下げる様子を見ていると、ただ唯「うっとり」の四文字に尽きてしまう。
「けっ、結婚して下さい!」
このようにアタックする人がいてもおかしくはないと思う。

 第3セクターの意気込み、真剣さが感じられた。

土佐くろしお鉄道「中村駅」

中村観光[四国旅行記#8]

水車とトンボ

 10時15分に中村に着いた。荷物をコインロッカーに入れ、早速『中村市観光情報センター』の案内所に行った。自転車を借りるとき身分証明証を求められ、取りたての「普通免許証」を見せたが、この免許証にとっては初仕事であり、ようやく役にたった。そして、我々3人は自転車をこいで市内観光をすることになった。

 友人の一人が『水車』を見たい!という事で水車を見にいくことにしたが、なんでわざわざ中村まで来て「水車」なんか見たいのだろう、『車』と勘違いしているのではないか、と思った。

 駅の東側にある川の土手沿いを北西に向かって走り、橋を北に向かって渡る。始めは四万十川かと思ったがそうではなく、後川という四万十川よりも東側にある支流であった。橋を渡ると田畑が広がり、左折してしばらく行くと、お目当ての水車が1つだけ畑(田)のど真ん中の水深1.5m程ある水路でまわっていた。

 そして、その水路の脇を見ると水車を掛ける支柱のみがズラーつとあった。私の方が単なる『水車』と勘違いをしていたらしく、この水車は灌漑の為にあるもので、水を水車の羽根で汲み上げ木の水路を通して畑に入れる、という今では珍しいものなのであった。シーズンである4月以降には、沢山の水車が取り付けられ、日本むかし話のワッシーンに見られるような光景になるのだろう。

水車

 次に、約60種ものトンボが見られるという湿地帯になっている『トンボ自然公園』に向かうべく、市街地に一旦戻り西に進路を向けた。今度はいよいよ四万十川を渡っていくのである。土手に建設省の『渡川』、その下に括弧をして(四万十川)と書かれた名称板が見えた。四万十川とは公式な名称ではなく、渡川が本当の名なのだそうである。かなり立派な四万十川橋を渡り、日本最後の清流を橋の真ん中から覗いた。

 ところが、思った程澄んではおらず、確かに濁り方は東京の隅田川のようなドス黒くはなくエメラルドグリーンで清らかではあったが、『日本最後の・・・』もこの程度だったのかと納得してしまった。このことについては後に再び触れることになる。

 そして、トンボ公園に到着した。人影はまばらで、なんとトンボが1匹も飛んでいない。時期が時期だけに当然と言えば当然である。一周り散策して正午を過ぎていたので。駅に戻って自転車を返し、昼食をとることにした。

駅前食堂にて

 駅前の食堂で壁のメニューにざるそばがあったのでそれを注文したが、店のおばちゃんに、
「田舎の方では夏しかでないんよー」(方言は定かではない)
と言われ、無難なカレーライスに変更した。ついでにうまそうなおでんがあったので数本いただいた。客は我々3人しかいなく、カウンター式の店たった。

「おにいさんら、何処からきたん?」
「あっ、東京です。」
「あーそーう。昨日はどこをまおってきたの?」
「えーと、かずら橋と大歩危と‥・。」
「へえ一、じゃあ今日は四万十川だ。ところで、大学生かい?」
「いえ、今年高校卒業して、今度大学生になるんですよ、」
「あーあ、やっぱりね、幼い顔してるもんね。」

この言葉でちょっと『ヒクヒク』ときた我々であった。そして、おでんを食べ終わったところで、
「おでん、すんちょった?」
と聞いてきた。私は、もうおでん食べ終おったのか(済んだのか)と聞いていると思い、
「はい。」
と答えた。しばらく沈黙が続いたあと、
「すんちょる、つて意味わかった?」
と聞いてきた。私は、ちょっと自信のない声で、
「はい。」
「どんな意味?」
「えーつと、もう食べ終わったってぃう事じゃないんですか。」
「ちがうよ。よく味がしみていることをこっちでは『すぃちょる』つてぃうんだよ。」
「あーなんだア、おでんね、ええ、よく味つぃてぃましたよ。」
おばちゃんはよそものにも慣れたものであった。

歩いた歩いた!四万十川[四国旅行記#9]

 水車を見に行こう、と行った野球部の友人が今度は「沈下橋まで歩いて行こう」などと言いだした。その友人によると、沈下橋までは3キロぐらいという事で、私たちも「行こう」と返事をした。そして、土佐の小京都と言われる中村市の市街地を抜け、桜が満開であった中村城跡の公園に寄ってから四万十川に向かった。

 四万十川の川岸に着いて、川の東側にある車がやっとすれ違える程の広さの舗装道路を北に向かって歩いた。四万十川の雄大な流れを見ることができたが、いくら見ても沈下橋らしきものは見当らない。もう30分程は歩いただろうか。そして、小さな町に出て、かなり立派な観光用の地図があった。それによるとこれから行く予定の佐田沈下橋はなんとここからあと4~5kmもあるということがわかり『はめられた』と思った瞬間、他の1人の友人と共に「バスを捜そう」だの「自転車でくりゃよかった」だのブーブー文旬を垂れるようになった。しかし、ここまで来て引き返すわけにもいかず、そのまま歩くことにした。幸い道路には小さい距離表が100mごとに設置してあったので、「あと何メートルだ!」と目標を持って歩くことができた。

四万十川沿いをひたすら歩く.沈下橋を目指して.

 さらに40分程歩いただろうか。周りには家が全然見当らない。まだか、まだか、と思っていると、四万十川展望台という新しく作ったばかりだと思われる休憩所があらわれた。トイレまであった。そこでひと休みしまた歩き出す。殆ど人とは会わない。すれちがうのは車だけだった。もうここまでくると逆に疲れをあまり感じなくなってきた。

  道路が広くなって片側1車線道路になった。バスも走っているらしくバス停があったが、なんと1日2往復。それも夕方は中村駅からのバスのみということで、帰りにこのバスで戻って来る事は不可能であることがわかった。みんなもう無口になって唯歩いているという感じである。こんなに歩くとは思っていなかった為、出発するときの心の準備が無く、非常に疲れを感じていた。

 そして、駅から歩くこと約2時間『佐田沈下橋は左折』という看板が見えてようやく沈下橋に到着した。周りは何もないところで、喫茶店一件と木造のトイレ、そして民家があるだけだった。観光客も2組ほどいたが、どちらもタクシーでの観光だった。

 橋にはもちろん欄干がなく、幅はトラック1台がやっと通れる程で、途中2ヶ所にほんの少しだけ(100cm)広くなった待避所があるが、乗用車どうしならここですれちがえるだろう。橋を渡ることにしたが、その手前に、

『トラックの運転手さんへ。お年寄りや、子供が渡っているときは、徐行して運転をして下さい。』

という赤字の立て札が立っていた。この時はなるほど、と軽くうなずいていたのだが、我々が渡り出して間もなくトラックがやってきた。欄干のない、道幅の狭い橋である。体をはじっこによせ、その隣をわが者顔で通過していくトラックには恐怖を感じた。

 それが、1回どころか数分おきにやって来るのである。スリルが有り過ぎる、と思った。川は相変わらず濁っているが、緑の山々に青い四万十、そして沈下橋という風景は、もっとも四万十川らしい風景であった。

四万十川の沈下橋(欄干がない)

 もう17時をまわっていた。さすがに帰りも歩いて行こう、という気にはなれず近くの民家にいってバスがないかどうか尋ねてみた。おばさんが応対してくれたが、「ない」とのこと。『タクシーを呼んであげるから』ということになり、そのお宅の前でタクシーを待つことになった。

 タクシーの運転手さんは話し好きなようで、四万十川は濁っていたでしょう、という話しになった。前日までは雨が降っていたので、川が濁ってしまうとのこと。こういう日には、上流の江川崎や土佐大正あたりで見ると澄んでいる四万十川が見られるということであった。これで疑問に思っていた『濁り』の謎は薦けた。

 いたるところで、風によって散った桜の花びらがゆらゆらと清流四万十川を流れていた。

四万十川を背景に(沈下橋から)

土佐から伊予へ、そして再び高松[四国旅行記#10]

予土線で土佐から伊予へ

 とうとう四国を離れる日がきてしまった。今日は本州に戻る日である。

 中村8時15分、窪川行の土佐くろしお鉄道ワンマン列車は発車した。車内は中間部がクロスシートになっていて、その部分の窓だけがいっそう大きくなっている。春休みとあって学生は居ず、数人しかいなかった。天気は晴れ。右手に土佐湾がみえてきた。
 トンネル内のループ線とぐるりと左回りして川奥信号所を通過し、于土線と合流して岩井に停車した後、9時19分、窪川に到着した。

 9時59分、JR予土線のワンマンカーが発車した。再び、同じ線路を走って川奥信号所へと向かうのだが、この線路は土佐くろしお鉄道になっており、JRの列車は分岐点であるその信号所まで他社線を走ることになる。我々はJRの周遊券で乗っているので、窪川の隣の駅である岩井までの運賃180円を払わなければならない。降りる時に払うのだろうか。車内は殆どが観光客で、ロングシートが埋まり立ち客がでる程だった。

 車窓に川が見えてきた。四万十川の上流の仁井田川である。さすがに四万十川とあって、川岸にいたわけではないので底まで見ることはできなかったが、川は緑色がかっていて美しかった。さらに浮かんでいる桜の花びらが白い点のように見えた。車内の案内テープでも、

「只今、見えている川が日本最後の清流、四万十川です。」

と、駅名案内のあとに付け加えていた。もう川の名前は「四万十川」で統一してしまっているようだ。そして、10時22分、四万十川の観光地である土佐大正に到着し、観光客が数十人降りた。

 このあたりから、川とそれに沿って走っている道路はウネウネと曲がりだすのだが、予土線は橋とトンネル(短いもの)でまっすぐにつきぬけており、四万十川が右へいったり左へいったりするので、美しい四万十川を充分に満喫できるように思う。

 10時47分、江川崎に着いた。ここは仁井田川と吉野川の合流地点であり、ここから川は四万十川(渡川)となって中村に流れている。これから先の予土線は吉野川沿いを走っていくので、川の流れが逆になって四万十川が見える。

 時々車窓から『予土線の廃止反対! 予土線を残そう』という看板を見かけた。確かに、乗客は宇和島付近を除いて観光客が多かった。今この線に廃止計画があるのかどうか現状は分からないが、四万十川を見れる唯一の鉄道ということで残して欲しいものである。

 11時53分、長い下り勾配を走って宇和島に到着した。

宇和島駅

特急で3度目の高松

 昼食を駅前のレストランでとり、12時50分発の特急「宇和海4号」松山行きに 乗った。去年のダイヤ改正の話をしたときに言い忘れたが、この特急「宇和海」もそ の改正によって急行『うわじま』から格上げされた特急である。時刻表によるとこの 特急は5両編成のはずなのだが、客が多い時期のためか自由席を1両増結して6両編成で運行していた。車内はほぼ満席だった。さすが愛媛県、みかんの段々畑が目につくようになってきた。

 13時53分、内子に到着。内子一向井原間は5年程前に新しく開通した区間で、予讃綴の五郎一向井原間が災害に弱い為、新しい幹線としてこの短絡線が開通した。新谷一内子間はいまでも内子線という別線扱いになっている。これが加算(換算)運賃をとられない『幹線』ならよかったのだが、内子線は『地方交通線』の為、加算(換算)運賃をとる区間になっており、全ての特急が内子線経由になっている現在、この加算運賃をとるやり方はふに落ちない部分がある。と、始めは思っていたが、短絡線が開通したことによって向井原一伊予大洲間の営業キロが、海側ルートの41㎞から34.7kmと短くなり、しかも加算運賃のとる区間は短い為、加算運賃を営業キロ数に換算すると僅か0.5㎞をキロ数に加算した運賃になり、34.7kmと0.5kmとを足した35.2kmが運賃のうえでの換算キロ数になるが、これも海側ルートの41kmよりも短くなることになる。したがって、結果的には運賃が安くなるわけであり(区間によっては変わらないが)、加算運賃(換算キロ)も僅かなため「目くじらを立てる程の事でもない」と思うようになった。内子緑の別線(地方交通線)扱いは何か他にもいろいろな事情があるのだろうか。もちろん海側ルートは特急こそ通らなくなったが、列車は走っている。

 内子をでると新線のため揺れが少なく、トンネルで山の中をぶち抜いて走っていった。

 14時22分、伊予市を出発した。あと10分程で終点松山であるが、ここでのりかえる特急『しおかぜ』の席が取れるか心配になった。高松まで行く我々は松山で16分接続の特急「しおかぜ14号」岡山行に乗りかえるのだが、この「宇和海」の自由席は4両で「しおかぜ」の自由席は3両。満席のこのひとたちが殆ど乗り換えると仮定すると、どう考えても溢れる人がでてくる。しかも、松山で座れないと終点まで座れないような気がしていた。そこで、我々は早々と降りる準備をしてデッキで待つことにした。

 14時31分、松山に到着。お目当ての「しおかぜ14号」は同じホーム向かい側に止まっていた。振り子式新型ディーゼルカーであった。しかも、運よく目の前が自由席だったので、悠々席を確保することができた。そして、車内はすぐ満席になり、14時47分、振り子式ディーゼルカーは動いた。

松山駅

 16時44分、特急連絡接続がある多度津に到着。我々は高松に向かうので中村(土讃緑方面)から来た特急「しまんと8号」高松行きに乗り換えた。高知(土讃緑)方面からの客も岡山行き「しおかぜ」にのりかえて、高松行きが先に発車した。

 その後すぐに振り子式新型特急とすれちがったが、実はあの特急、一昨日多度津から高知に向かう時に乗った「南風9号」中村行きの列車であり、今日これから四国を離れる私にとっては懐かしく感じられた。

 30分程たった17時14分、3度目の高松に到着した。

フェリーで四国にさようなら[四国旅行記#11]

 帰りはフェリーで本州の宇野に渡ることにした。宇野までのフェリーは、宇高国道フェリー、日通フェリー、四国フェリーと3つあり、我々は宇高国道フェリーに乗ることにした。特別な理由はないのだが、待合室や桟橋がきれいで、見た目一番しっかりしていそうだったから、という単純なことからだった。

 いよいよ四国を離れると思うとやはり空しいような寂しいような気分になってくる。そして、船に乗り込み、17時50分、たった4日間ではあったが、私たちを楽しませてくれた島【四国】を離れ、フェリーはゆっくりと後ろに進んで回頭し、一路本州宇野をめざして海を渡るのであった。

宇高国道フェリーの甲板にて

 船内はガラガラで2~30人程しかいない。半分はトラックの運転手で、みんな毛布をかぶったりしながら真ん中のビニールの長椅子に横になって、僅かばかりの休息時間を有効につかっていた。我々は窓側のソファーに荷物を置いて、甲板にでた。後ろには高松の町が大きく見え、同じ宇野行きである四国フェリーが航海していた。あのフェリーはこの国道フェリーの3分後に出港したフェリーである。

鬼ヶ島(だと思う=昔撮影したもので記憶がなく・・・)

 右手に「鬼が島」が見えた。あの桃太郎がきびだんごを持って行った鬼が島である。そして、左手を見ると夕日が鮮やかに輝いており、我々の四国への別れと同時に、一日を終えようとしているのであった。私はうしろに見える四国の島を見ながら、より一層四国での旅行を回想し、空しさを感じていた。

夕日とともに

 前方を見ると右、左から何隻もの船が行き来しているのが見えた。これからこの船もあの海の交差点を通っていくのだろうが、このまま進んだら衝突するのではないか、と心配になることがあった。しかし、周りに何もないため遠近感が鈍るのか、船の速度が遅いのか、しばらくするとその船は目の前から通り過ぎてしまい、『全然余裕じゃないの!』と思う事が時々あった。

 夕日も沈みかけた頃、瀬戸大橋が見えないかと左手を見たが、かすかに見える程度で殆ど見えないと等しいものだった。そして、寒くなってきたので下の船室に戻ることにした。

 約1時間で本州宇野に到着した。日は沈みあたりは真っ暗である。宇野駅まで10分程歩き、19時28分発の茶屋町行きに乗って岡山に向かうことになった。宇野駅はひっそりとしており、かつての賑わいを見せていた面影が、駅の造りから何となく伺うことができた。そして、1両編成で荷物車の改造電車という、いかにも宇野線は寂れてしまった、と物語っているような電車に乗って茶屋町まで行き、四国琴平からの湘南色電車岡山行きに乗って、岡山へと向かった。岡山到着、20時28分。

宇野駅

大垣で再集合[四国旅行記#12]

雨を恨む!大恥じマクドナルド事件

 3月30日土曜日、あとは東京に戻るのみである。帰りももちろん鈍行列車。夜行鈍行の発車する大垣へと向かうのである。天気はまた雨。今回の旅行では雨の日が多い。

 友人2人は大垣を起点とする『樽見鉄道』に乗りたいということで、大垣に20時の待ち合わせをして別行動をとることにした。友人たちは早くチェックアウトして大垣へと向かった。私はひとりのんびりと、大阪や京都を途中下車しながら大垣に向かおうと思っていた。

 8時20分、ホテルをチェックアウトし岡山駅に向かう。予想以上の出費によって財布の中身が危うくなったので、岡山電気軌道(路面電車)駅前停留所の前にある三菱銀行へ寄っていこうとしたが、キャッシュサービスが9時からだったので先に朝食を済ませることにした。

岡山駅前の三菱銀行と路面電車

 駅そばも食べ飽きたし、レストランは締まっているし、といろいろ考えていると、停留所を挾んだ道路向かい側にマクドナルドが見えるのでそこにすることにした。雨がパラパラと降り続いていた。自動ドアを入ると階段になっており、両端は2階への上り階段、真ん中は1階の売り場カウンターへの下り階段となっていた。下り階段を6段ほど降りて、
「いらっしゃいませ。おはようございま~す。」
売り場メニューの下敷きに指をあてて、
「このセットをひとつ。」
「Bセットですね。お飲み物は何になさいますか。」
「コーラ。」
「コーラですね。」
「お持ち帰りでしょうか。」
「いいえ。」
Bセット(AかBかCかは忘れてしまったので、ここでは仮にBセットとする)とはフィレオフィッシュとハッシュポテトと飲み物の朝食セットである。会計を済ませ、
「ありがとうございました。」

 ここまでは順調だった。トレーを持ち上げ席のある2階へ行くため後ろに振りかえって階段をのぼった。右足が3段目にさしかかった瞬間、雨で床が濡れていて、しかもビニールの滑りやすい材質な為、右足が

『ズルつ!』

と下に滑ってしまった。

 トレーは手を離さなかったので何とか床と並行に保つ事ができたが、不安定な形のコーラが床に落ちてしまった。氷と液体が四方八方にちらばり、より一層床がビショ濡れになった。しかも自動ドアの前であり、かつど真ん中でそんな事をやらかしたので一瞬にして『注目の的』となり、恥ずかしい思いをしている暇もなく急いで売り場カウンターに戻って事情を説明した。

 運よくその時、緑色の帽子をかぷった偉い(?)正社員の男性がいて、同じ飲み物をもらい、そのままにしておいて結構ですよ、と言われ大変恐縮な思いをした。

 2階で朝を済ませ銀行に寄ってから、ホームへと向かった。ああ、恥ずかしい、恥ずかしい。

赤穂線回り

 山陽本綴でそのまま大阪に向かうのでは面白くないので、まだ未乗区間が残っている赤穂線回りで向かうことにした。

 9時23分、相生行きの電車が出発した。湘南色3扉セミクロスシートの4両編成で車内は1人1ボックスのガラガラであった。そして、2つ目の東岡山を過ぎると山陽本線と分岐し、電車は右に曲がっていった。

 2駅、3駅と止まる度に赤穂線のローカルな雰囲気が漂ってくる。駅も無人駅や委託駅が多くなり、ホームに降りたらすぐ道路、というのも見られる。ここは電車よりも気動車・ディーゼルカーのほうが割に合っているような気がするが、またそのギャップが面白いところでもある。

 10時12分、5日前に下車した西片上に到着。お好み焼き屋の元気なおばちゃんを思い出す。車内はガラガラ。土曜日で春休みとあれば、乗る人も少なくなるのだろうか。そして23分、日生に到着。ここは瀬戸内観光汽船の小豆島行きフェリー「オリーブライン」への乗り換え駅であり、右手に港を見ることができる。

日生駅

 県境を越え兵庫県に入り、10時39分、赤穂浪士、忠臣蔵で知られている播州赤穂に到着した。乗客が乗ってきて席がかなり埋まった。15分後、終点相生に到着した。

京都で荷物を預けてから大阪へ

 相生で乗り換えて姫路に着いた。姫路からは新快速で早く移動できる。11時27分米原行きは発車した。大阪で降りようか京都で降りようか色々考えたが、京都で降りてカバンをコインロッカーに入れて私鉄で大阪に戻る、ということに決めた。

 12時59分、京都に到着。改札を出てコインロッカーへと向かった。さすがに国際観光都市京都、外国人の旅行者をあちこちで見かけた。

 昼食をとり大阪に向かった。個人的に好きな京阪電車で向かうことにする。地下鉄で今出川まで行き、そこから始発駅である出町柳駅に向かって傘をさして歩いた。京都御所の北側を通り、鴨川を渡るとその駅はある。橋の北側はちょうど高野川と加茂川の合流地点になっており、その東側に駅がある格好になっている。

出町柳駅

 駅は地下にあり、最近京阪三条から延びたばかりなので、駅はきれいである。勿論特急に乗った。特急と言っても特別科金はとられない電車で、さすが競合関西、サービスはよい。そして運転席の真後ろにある席に座った。いわゆる『かぷりつき』である。そして、京阪ノンストップ特急は大阪に向けて走っていた。

 終点淀屋橋まで行こうと思ったが、14時30分で時間が余っているので京橋で降りて、日本で初めて実用化されたというリニアモーター駆動方式の大阪市営地下鉄に乗りに行くことにした。繁いたことに京阪では、乗車駅からその駅までの運賃よりも多くの運賃の切符を持っていれば、途中下車ができるのである(同額では無効)。私の切符は淀屋橋まで買ってあり、出町柳一京橋間の運賃よりも高いので、途中下車することができる。他の関西の私鉄でも近距離の途中下車を認めているのであろうか。日付の入った下車印を押され、地下鉄へと向かった。

 この大阪市交通局鶴見緑地線は京橋一鶴見緑地を結ぶもので、「国際花と緑の博覧会」会場へのアクセス手段として開通したものであった。リニアモーターといっても軌道は他の電車と変わりがなく、詳しいことは分からないが、ただ駆動方式がリニア方式を採用しているというものであるらしい。線路と線路の間に駆動時に使われる灰色の板のよなものが敷いてある。

 電車に乗った。他の電車よりも小さく狭い。乗客は少ししか乗っておらず、それも終点鶴見緑地の1つ手前の横堤でほぼ全員降りてしまった。鶴見緑地で降りたのは私と男性の2人だけ。改札を出ると広々としており、噴水があり上り階段になっている。階段をのぼると万博跡地になっており、工事をしているようだ。歩く人は誰もいない。今となっては駅前の整った広場が妙に不釣り合いのような気がする。雨が強くなってきたので引き返すことにした。

鶴見緑地駅
淀屋橋駅

 再び京橋に戻って、京阪に乗る。淀屋橋で御堂筋線にのりかえ梅田、JR新快速に乗って京都、荷物を取って再び新快速で米原、のりかえて大垣。大垣到着19時25分。

友人と再開~大垣にて

 20時になって、友人と再開したが、すごく久しぶりに感じられた。旅行をしていると毎日同じ人と顔を合わせている為に、時には面倒臭い存在になることもあるが、やはり友人がいるということは心強いことでもあり、話し相手にもなるので、改めて良いものだと思った。また、たまには別行動も必要だとも思った。夕食を駅ビルで食べ、今日のお互いのでき事について話をした。久しぶりに口を動かすので、次から次へと言葉がでてきて話が途絶えない。食事がとてもおいしかった。

 ホームに戻り大垣夜行の入線までまだ時間があったので、隣のホームの新しく建てられた待合室で暖をとりながら、列車を待った。

 今日も臨時の大垣夜行列車が運転されているが、我々は定期夜行列車に乗ることにした。別に理由はない。臨時の方にも人は並んでいて、今日のは6両編成であるということだった。そして定期列車が入線して間もなくの22時30分、臨時の方が先に発車し、40分、定期の東京行きが定刻に発車した。

終幕

 名古屋を過ぎる頃には、ほぼ席が埋まっていた。今は「臨時夜行」「定期夜行」の順に走っているが、下りの夜行同様途中で順番が逆転し、東京へは「定期夜行」「臨時夜行」の順で到着する。上りの場合追い抜きがあるのは、停車駅ではなく豊橋→浜松間のどこかの駅のようで、その時私は眠っていた。浜松。静岡、と止まる度に目を覚ましたが、発車すると再び眠りについた。もう列車は逆転していて、我々の乗る定期夜行が先に走っているはずである。

 2時43分、沼津に到着した。目を覚ましぼんやりホームを眺めていると、隣のホームに臨時の夜行列車が入ってきた。まだ追い抜きをしていなかったのか、と一瞬疑ったが、我々の方が先に到着しているのでそれはあり得ないことで、時刻表を見直してみると、沼津では『定期夜行の到着が2時43分、発車が55分』『臨時夜行の到着が2時53分、発車が59分』と、追い抜かれた臨時が追いつき、2分だけ肩をならべるようになっていた。沼津を先に出発し、私は再び寝た。

 気がつくと熱海で、駅名板が緑のラインのものになった。発車メロディーがなり、また気がつくと小田原、また気がつくと大船だった。大船からはもう起きていた。友人たちも起きだし眠っている町を眺めていた。雨はやんでいた。まわりの乗客たちは寝ている人が多い。モーターと車輪の刻む音しか聞こえない。

 4時29分、川崎に到着。友人たちが降りる準備をしだした。そして、4時38分、品川到着。友人は降りた。4時43分、私も新橋で列車に別れを告げ、京浜東北線の1番電車に乗って、四国旅行の幕は閉じるのであった。

あとがき

 どうして帰りの大垣夜行では終点の東京まで行かず、1つ手前の新橋で乗り換えたのか。大垣夜行の東京到着は4時42分、僕の乗り換える京浜東北線北行の始発の発車は4時43分。乗り換えの複雑な東京駅では1分間での乗り換えはほぼ不可能であり、それより4時38分(夜行)に到着し4時40分発(京浜線)である新橋だと乗り換えが出来るという理由からです。また、この始発の京浜東北線を逃すと17分電車が来ない為、寒い中待たなければならないという事も理由のひとつでした。(だから何?と言われてしまえばそれまでですが)