「台東区」タグアーカイブ

合羽橋道具街【東京考察#106】

Kappa-Bashi cooking tool town(Aasakusa Kappabashi)


 ここは問屋街の中でも,もっとも面白いところだと思う.合羽橋道具街は食器具・調理器具・サンプル品・調理衣装など,調理に関するものなら,ありとあらゆるものが揃う問屋街である.小売りも行っており,こだわった調理器具を買いたい場合はここに足を運ぶことをお奨めする.もちろんプロ用の調理器具も揃っているので,お店をやっている人にとっても満足するものである.なお,日曜日は店を閉めているところが多いので,土曜日に行かれることをお奨めする.
地名の由来は,近くに合羽屋があったので橋の名前に付けられた,合羽屋喜八が隅田川に住む河童に助けられて新堀を開いたという伝承もある.


皿がずらりと並ぶ

 
片手鍋もずらり


提灯もずら~り


看板.すべて商品です.


衣装もあります


釜もあります


調理台


椅子,椅子,椅子・・・


ここもすべて商品です.飲食店ではありません.

 
カレーライスがなんと4,500円! もちろんサンプルの値段です.

夜の隅田川橋梁群【東京考察#104】

The bridge of Sumida river at night(view from a water-bus)

水上バス

 


  東京考察No.6では昼の隅田川橋梁群を紹介した.ここでは,夜バージョンでお送りします.では,浅草から河口まで橋の旅をどうぞ.



東武鉄道の橋梁


吾妻橋


駒形橋


厩橋


蔵前橋


JR総武線の橋梁


両国橋


首都高6・7号の両国ジャンクション


新大橋


清洲橋


永代橋


中央大橋


勝鬨橋 (真ん中がハの字に開く橋だった)

東京湾へ

おまけ・・・

レインボーブリッジ

谷中(懐かしの日本の街なみ)【東京考察#91】

Yanaka(Japanese culture town ordinariness)

 


 谷中は日本文化の色濃く残る街である.寛永年間(1624~43年)に上野寛永寺の子院がここに建立されたのが谷中寺町の始まりで,現在では70数件にも及ぶ寺院が存在している.その後江戸府内再開発によって神田辺りの寺院が谷中に移転し,寺の門前に町屋が形成され,参詣客などによって行楽地となっていった.
1868年の幕末戦争の時には多くの寺院が焼失したが,その後再建され,関東大震災でも戦災でも被災しなかったことから,昔ながらの佇まいが今でも残っているのである.外国人観光客の姿も見られ,ガイドブックを片手に街をぶらぶらと散策する人が多い.

谷中霊園は明治5(1872)年に,旧天王寺境内の一部を官地とし,それに天王寺墓地,徳川墓地の一部などをあわせた谷中墓地が始まりである.東京都の公共墓地として発足し,東京の三大霊園のひとつに数えられている.広さは10万m2,墓地使用者は6000余りだという.墓地内は広く,迷路のように細かく入った路が墓地を形成している.100年以上も前のコケが生えた墓石や石灯籠などが,飾り気なく自然に置かれているのも,俗化されておらずいい.徳川慶喜や著名人が眠っている.


谷中霊園


谷中霊園の桜並木

 
谷中霊園は一度立ち入ると迷路のようなところである.
各区画には全て番号が付けられている.


このように墓地には区画番号がつけられている
(これは地図のほんの一部分)


石材店と花屋


谷中の街並み


交差点角にある木造の喫茶店
昭和初期といった感じである


酒屋を移設して復元したもの


和菓子屋と銭湯の煙突

 
寺も多い


玄関の外灯(電球)が気に入った
昔流行った様式のようである

 
狭い路地


1868年の幕末戦争のときの弾痕
(大黒天 経王寺)

吉原大門の「見返り柳」【東京考察#87】

The willow looked back upon and seen at Yoshiwara Ohmon


 「吉原」は江戸で唯一,幕府から公認を受けた遊郭である.もともとは日本橋葺屋町(現:日本橋人形町付近)に土地を与えられて1617年に開設したもので,ヨシやカヤの茂るところだったので「葭原(よしわら)」と命名された.その後,1656年に田圃の広がる浅草千束村日本堤へと移転した.正確には,前者を旧吉原,後者を新吉原と呼んでいる.この新吉原が,魚河岸,芝居街と並んで,江戸の繁栄を物語るところとして名を馳せる不夜城の遊里「吉原」なのである.1958(昭和33)年まで続いた.

吉原の遊郭が広がっていたのは,現在の台東区千束4丁目と千束3丁目の一部である.新吉原の周囲には堀をめぐらして,出入り口は大門1ヶ所のみとしていた.その大門が存在していたところが,今でも交差点名とバス停に名の残る「吉原大門」なのである.

江戸の人口は男性の方が多く,遊郭は必要悪とされ悪所とはいいつつも大変賑わっていた.歌舞伎の演目を見ると,女形では必ずと言っていいほど遊女が登場する.幕府の高貴な武士を相手にすることから,遊女の中にはかなりの知識と教養を持つものもおり,三味線や琴,日本舞踊に茶道の心得を持っていた.しかし,華やかさの反面,劣悪な遊女の生活も伝えられており,遊女の大半は貧困なため身売りされた農村の娘たちで,満足な食事も与えら得ず客が少ないと言って折檻されるものもいた.死亡年齢も若く,死亡すると浄閑寺(荒川区)に投げ込まれるかのように埋葬されたという.

 
見返りの柳


台東区教育委員会の看板

 「見返り柳」は,遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ,この柳の辺りで遊郭を振り返ってしんみりとしたところから,この名がついたという.多くの川柳の題材となっており,台東区教育委員会の看板まで立っている.かつては山谷堀脇の土手にあったが,区画整理に伴い現在地に移され,震災や戦災によって数代にわたり植え替えられている.しかし,時代が過ぎれば「遊郭」も教育委員会の看板が立ってしまう「名所」となってしまうのだから,現在の新宿歌舞伎町などの風俗街も,3~400年も経つとかつての東京の繁栄として,教科書で紹介されるのだろうか.



夜になるとネオンきらめく街となる現在の吉原


タクシーは店の前で客待ちをしている

 1958(昭和33)年の売春防止法の施行にともなう赤線廃業によって吉原は幕を閉じる.その後,元赤線業者が経営するトルコ風呂がオープンし,現在のようなソープランド街が形成されている.

 

浅草地下商店街(地下鉄浅草駅)【東京考察#72】

Underground shopping center (Asakusa station)

 

 ここは「浅草らしい」地下商店街である.上野や浅草というとこのような薄汚い地下街にラーメン屋などが建ち並ぶイメージがあるが,まさに昭和前期(といった感じの)時代の面影を残す場所である.現在では,虫食い状態になっている商店街であるが,リニューアルもされずに味わいのある空間が形成されている.


靴屋さん.閉店セールをやっていた.


天井には時代の変遷を感じさせる配管が丸出し


ラーメン屋


立ち食いそば


マッサージ屋もある


どういう訳か「鶏肉・鶏卵」屋もある
昔は生活を支える商店街だったのだろう

ピース!ピース!上野駅(リニューサルされた上野駅)【東京考察#71】

The renewed Ueno station

 


 JR東日本が上野駅のリニューアルを行った.
「乗り降りするだけの駅から,生活のまん中にいる駅に」というキャッチフレーズのポスターが張られていたが,中央口改札の外にでると今までの薄汚い上野駅構内だったのが,一変,おしゃれなショッピングタウンに変身しているではないか.「上野駅がこんなにきれいでおしゃれになっていいのか!」と思ってしまうが,上野駅の復権をかけたリニューアルである.若い女性向けのテナントも数多くあり,上野駅のイメージが変わること間違いなしであろう.日本で唯一,ヨーロッパ型の広い終着駅タイプの空間をもつ上野駅を明るく改造しており,おしゃれなスポットとして定着していくだろう.
また,しのばず口の下には,天井の低い迷宮のようなショッピング街が広がっていて,この空間の狭さが,かえって訪問者をわくわくさせる魅力となっている.


大きな吹き抜けをもつヨーロッパ型の駅ターミナル
おしゃれで明るくなった


青山フラワーマーケット 花屋さんもお洒落


ハードロックカフェもオープン


看板には,中国語とハングル語の標記が追加された


不忍口と中央口を結ぶ通路が新設された


昔はパンダの像があったところ

靴の問屋街(花川戸)【東京考察#70】

The wholesale district of shoes (HanaKawado)

 


 浅草駅の北側に広がるのが「花川戸」である.ここは靴の問屋街が広がるところで,約70店舗が建ち並んでいる.といっても原則として小売りは行っていないが,店先には靴が並べられており,個人でも購入することはできる.靴(鞄も扱っている)に関してはありとあらゆる関連商品も取り扱っており,靴としては全国一の問屋街である.個人向けの店舗ではないので,渋谷や銀座などのようにショーウインドウなどはなく,一見地味な街並みであるが,靴屋さんに納品されている商品は,このような問屋を通じて卸されているのであり,扱っている品数は豊富なはずである.


浅草には下駄が似合う


靴の問屋街が並ぶ


セッタ・草履は祭りにつきもの~これも浅草らしい

桜の隅田公園西岸(浅草)【東京考察#69】

Sumida Park of a cherry tree (Asakusa)

 


 隅田公園は隅田川を挟んで二つに分かれている.今回お伝えするのは隅田川西岸側であるが,隅田公園の歴史は隅田川東岸の墨堤に八代将軍徳川吉宗によって初めてさくらが植えられてから「桜の名所」となるようになった.その後,江戸時代には水戸徳川家の下屋敷で小梅御殿と呼ばれていたが,明治になって水戸徳川家の本邸となり,昭和6年に帝都復興計画により公園として開園したものである.
ということで「本当に隅田公園に行った」と言えるのは,東岸の隅田公園に足を運んだときなのである.

西岸の桜は約1kmにわたってソメイヨシノが植えられており,毎年春になると花見客で混雑する.



やきとりと缶ビールは花見に欠かせない


やっぱりマットを敷いて宴会だ~.


隅田川西岸の桜並木


場所取りは「新入社員の仕事」としているところも多いが,
今年の開花は早く,3月中には散ってしまいそうである.


「カミソリ堤防」と呼ばれたかつての無味乾燥とした隅田川の堤防は,河川の浄化が進んだこともあって人々が川面に触れられるように,堤防の川側にデッキを設けて散策できるように整備された.これによって川を見ながら散歩できるようになったのであるが,その場所に占拠しはじめたものが,ダンボールハウス(ビニールシートハウス)である.これによって逆に市民が心おきなくこの場所に立ち入ることをためらうようになり,今となっては上から川を眺めながら,「ずいぶん立派な家をつくっているねー.」などと一種の観光名所となっている.首都高6号線にのって北に向かっていると,車窓左側に色とりどりのハウス群を眺めることができるが,水が増水したときは堤防すれすれまで水が溢れる河川断面の計算となっているのだろうから,台風などの大雨後は命がけで逃げなければならない.


整備された堤防内に住まうビニールハウス


立派に造られているハウス


ちゃんと玄関扉までついている


橋の下は「桟橋」で渡れるようになっている

バイク街(上野7丁目界隈)【東京考察#54】

Motorbike town (at 7 chome of Ueno)

 


 自動二輪バイクに興味のある人にとっては,必ず足を運んだことのある街であろう.上野駅の入谷口を出て,首都高速と昭和通りの走る上野7丁目界隈に,オートバイの専門店街が形成されている.昭和通りの歩道には,単車・単車・単車・・・が路肩にはみ出しながら並べられており,品定めをしながらライダーたちが歩いていく.


歩道にはバイクが沢山・・・


歩道に並べられているバイク


いろいろなパーツ類を販売する

仏壇仏具問屋街(東上野・元浅草)【東京考察#53】

The wholesale district of a Buddhist altar Buddha implement(at East Ueno)


盆提灯がならぶ

 日本最初の地下鉄・銀座線が走る浅草通り沿いに,仏壇仏具の問屋街が建ち並んでいる.稲荷町駅から田原町駅にかけての,東上野,元浅草界隈である.浅草通りの歩道を歩いていると,どこからともなくお線香の香りが漂ってきて,手を合わせたくなる気分になる.若者にはまだピンとこないかもしれないが,人生の年輪を重ねるうちにご先祖様の大切さが身にしみるようになり,この問屋街に足を運ぶようになるのだろう.


仏壇屋


仏壇にも特別セールがある


日本最初の地下鉄・稲荷町駅

上野恩賜公園(上野芸術の森)【東京考察#52】

Ueno Park (the Ueno art woods)

 


 馴染み深い呼び方は「上野公園」であるが,正式には「上野恩賜公園」という.
この公園の歴史は古く,明治6年に大政官布告により公園に指定されたことが始まりで,日本最初の都市公園である.恩賜(おんし)公園のいわれは,大正13年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる.

上野公園は起伏のある山手台地を利用して作られているが,上野駅から御徒町にかけてのアメ横の喧噪とは裏腹に,緑の木立に囲まれた静閑な雰囲気の漂う場所で,日本でも有数の美術館・博物館がずらりと並んでいる.そして,世界的に見て有名な美術展や展覧会をいつも開催しており,日本各地から芸術を求めて人々がやってくるところである.アメ横側と公園側で,これだけ駅前の雰囲気ががらりと変わるのも珍しい.


東京文化会館


国立西洋美術館


東京文化会館のモニュメント

 日本最初の動物園である「上野動物園」も,上野恩賜公園内にある.


上野動物園

 上野公園には「鳩」がたくさん住んでいる.しかし,この鳩たち,人間に慣れているのか,人の頭の真横を猛スピードでビュンと飛び去っていき,あわやぶつかりそうになる.非常に凶暴だ! のこぎり演奏するひと,昼寝をするひと,住んでいる人,色々な人が上野公園には集っている.


上野公園の鳩は凶暴だ!


のこぎりで演奏するおじさん


暑くないのだろうか?


噴水


木陰では,青のビニールシートで暮らす人々が・・


花見シーズンは人だかりとなる



西郷さんを忘れてはいけない

草64 池袋駅東口⇔浅草寿町[都バスで東京発見]

池袋・王子・浅草を明治通りで結ぶ路線

草64 池袋駅東口⇔浅草寿町(経由)王子駅・日本堤 巣鴨営業所

路線keyword:明治通り,池袋,飛鳥山,吉原大門,浅草公園六区,浅草雷門,都電と併走


池袋・王子・浅草と、電車では乗換なければならない地点を明治通りで結ぶ比較的利用価値のある路線であり、休日には若干本数が増える。池袋・浅草間には、この他に巣鴨駅・白山・千束を経由する草63系統が存在する。
池袋駅から王子駅までは王40系統と同じルートを走る。王子駅前を出発するとこのバスは溝田橋交差点で右折して王40・王57系統と別れるが、明治通りも右に曲がっているので、通り名称は変わらない。石神井川を小さな橋で渡り、梶原で都電荒川線と交差する。この路線は、都電の線路と平行に走って行くわけではないが、都電が結ぶ地域と同じ地域を結んで走っている。
右手にひっそりと佇むJR宇都宮・高崎線の尾久駅舎が現れる。注意をして見ないと気づかずに通り過ぎてしまう。駅の後ろにはJRの操車場が広大に広がっており、運が良ければ夜の発車を待つ東北方面への寝台列車をちらっと眺めることができる。
京成線新三河島駅を過ぎ、左手に荒川区役所前に広がる公園を眺め、バスは中小工業と住宅が混在する下町の中を走っていく。この辺りの明治通りは、渋谷駅前・新宿伊勢丹前・池袋駅前の明治通りとは全く異なった趣を呈す。
大関横丁で国道4号・日光街道と交差し、三ノ輪二丁目で明治通りは左斜め前に別れていく。バスはここで明治通りに別れを告げ、土手通りを南に走っていき、山谷地域に接している日本堤を通過する。そして、遊郭で有名だった吉原の裏手に位置する吉原大門となり、吉原大門交差点の昭和シェル石油ガソリンスタンド前歩道に「見返りの柳」が小さな石灯籠と共にぽつんと一本立っている。バスは高速で走り抜けていくので、車内から見るときは目を凝らして右手を眺めていなければ見過ごしてしまう。吉原(新吉原)は明暦3(1657)年に日本橋人形町あたりに存在していた旧吉原の遊郭を現在の千束四丁目に移転して形成された遊郭であるが、昭和33(1958)年の売春防止法の施行によって吉原遊郭は消滅した。現在は特殊浴場(ソープランド)街が形成されている。
浅草二丁目で往路復路が別れ、このバスは右に曲がる。駅前にバスターミナルのないところでは、バスをループ運行させて折り返させるルートとすることが多く、浅草の場合も繁華街が広域に広がっていることもあって、ループ運行をする路線が多く存在する。左手に浅草寺(浅草観音堂)の裏を一寸眺められ、西浅草三丁目交差点を左折し、左手に花やしき遊園地をこれまた一寸眺めて浅草公園六区となる。花やしきは江戸時代には花園で賑わったところで、昭和28(1953)年に日本初のローラーコースターが登場した遊園地である。
浅草公園六区の「六区」とは、明治15(1882)年より始まった浅草公園の築造・整備(全6区画に区分して整備)における区画番号のことである。その中でも第6区画は興行街として整備され、そのまま「浅草公園六区」という名称が東京の娯楽の代名詞のようになったのである。バス停の名称に「浅草公園六区」という名が今でも残されていることに拍手を送りたい。映画館は明治40(1907)年頃から登場し、現在も残る浅草六区の映画街が形成された。1本左手奥に入った道沿いに映画館が建ち並んでいる。
浅草の繁華な雰囲気となってバスは国際通りを直進し、右手には浅草ビューホテルの高層ビルが現れ、ROXビル前にて浅草一丁目のバス停となる。そして、地下鉄銀座線田原町駅前である終点浅草寿町に到着する。
浅草寿町発の池袋駅東口行は、浅草二丁目まではループ運行となる。浅草の見所の多いところを通過するので、浅草二丁目までを記載する。
浅草寿町を発車し、隅田川に架かる駒形橋を右手に見るとバスは左折する。正面には浅草雷門が現れ、「雷門」と黒字で書かれた大きな赤提灯が門にぶら下がっている。雷門は五穀豊穣を祈願して天慶5(942)年に建てられたもので、風神・雷神が安置されている。現在の雷門は昭和35(1960)に復元されたものである。雷門正面に突き当たると右折し、賑やかな商店街を走る。吾妻橋・隅田川橋めぐりの水上バスのりば・金色の炎のオブジェを右手に見ながらバスは左折し、松屋デパート・浅草駅前となって浅草松屋前(東武浅草駅)停留所となる。浅草寺に通じる二天門バス停を通って、浅草二丁目バス停となる。バスはそのまま直進して池袋に向かう。

草63 池袋駅東口-浅草寿町[都バスで東京発見]

千駄木・根津界隈の山の手台地の下町的住宅街を走る路線

草63 池袋駅東口⇔浅草寿町(経由)巣鴨駅・千束 巣鴨営業所

路線keyword:文京区の山の手住宅地,浅草公園六区,巣鴨とげぬき地蔵


池袋駅から浅草寿町までを走るバスは、王子駅を経由して明治通りを走っていく草64系統と、昭和初期の頃までは高級住宅地だったであろう山の手台地の住宅街を縫うようにしてはしっていくこの草63系統の2路線が存在する。
池袋駅東口パルコ前より発車する。豊島区役所前を過ぎ、明治通りを王子へ向けて走っていく。西巣鴨で国道17号・白山通りへ右折する。ここを左折すると中山道となる。
新庚申塚で都電の線路と交差し、左に豊島市場を見て巣鴨駅前となる。巣鴨にはおばあちゃんの原宿と呼ばれる「巣鴨とげぬき地蔵」があり、4のつく日は縁日となって、根津・千駄木あたりにすむご老人たちが、このバスに乗ってやってくる。
バスは旧白山通りの2車線の通りに入り、東洋大学前を走る。山の手台地らしく坂が多くなってくる。そして、白山上で左折。商店街を抜け、文京区内の古い街並みを縫うように走っていく。このあたりには、医者や弁護士など、かつて名声を馳せたご老人たちが多く住んでおり、街並みは古くてもどこか文化の香りが漂う街でもある。バスに乗ってくる乗客も、シルバーパスを持った人が多い。
駒込千駄木町を出ると急な下り坂となり、団子坂下。不忍通りへ左折する。商店街の続く通りを走り、道灌山下で右折すると、西日暮里駅となる。
ここから今度は、下町の風景となる。荒川4丁目で明治通りに右折し、草64系統と合流するが、大関横町で右折し、再び草64系統とは別れて浅草寿町に向かう。三ノ輪橋駅を過ぎ、国際通りとなって、かつての繁華街・浅草公園六区を左に見て、終点浅草寿町となる。

上60 池袋駅東口⇔上野公園[都バスで東京発見]

白山通り・春日通りの補完的な役割を果たす千川通りを走る路線

上60 池袋駅東口⇔上野公園(経由)大塚駅・文京区役所 大塚営業所

路線keyword:元祖山の手住宅地,文京区役所,千川通り,東京大学,上野広小路,不忍池


 かつては茶60系統として、池袋駅東口・御茶ノ水駅間の運行だったが、御茶ノ水駅行ではなく上野公園行に変更された路線である。池袋駅東口・大塚駅間は朝夕のみの運行であり、それ以外の時間は大塚駅の発着となっている。
上野公園バス停は不忍池南側・水上音楽堂に位置し、バスターミナルが存在しないので、上野公園付近ではループ状にルートを設定してバスを運行させている。上野公園を発車すると、中央通りに入り、アブアブや上野松坂屋のデパートを眺め、上野広小路の繁華街をぐるりと周回する。
右手に再び不忍池が現れ、バスは不忍通りを北上する。地下鉄千代田線根津駅までは、上58系統と同じルートを走る。
根津駅にてバスは左折する。この辺りを歩いている学生はほとんどが東大生である。バスは坂を上り、弥生となって東京大学を両手に眺め、本郷通りを横切って元祖山の手住宅地である古い街並みを進んでいく。
白山通りに入るとバスは南へ進む。バスは文京区役所に寄るように迂回したルートを走り、春日町交差点で右折し、文京区役所前を通ると再びバスは右折して、進路を北に向ける。後ろを振り返ると、東京ドームの巨大な白い屋根がビルの谷間に埋もれて見ることができる。
バスは2車線の千川通りを北上する。この通りは春日通りと白山通りの中間に位置し、沿線は小石川界隈の静寂で落ち着いた古い街並みが多く残る地域である。大塚までは緩やかな上り坂が続き、山の手台地の趣を感じ取ることができる。
右手奥には小石川植物園が存在する。不忍通りを横切って、しばらく行くと都電の走る大塚駅前となる。
大塚駅に寄ると、バスは180度方向を転換し、通りは違うが再び南に進路をとる。

大塚-池袋 未乗

上58 早稲田⇔上野松坂屋[都バスで東京発見]

文京区の縁を不忍通りでぐるりと走って上野と早稲田を結ぶ路線

上58 早稲田⇔上野松坂屋(経由)江戸川橋・動坂下 早稲田営業所

路線keyword:不忍通り,不忍池,古くからの山の手(根津・千駄木)


文京区の地図を眺めると、上58系統のルートがほぼ文京区の区境に沿ってぐるりとコの字型を描いて走っていることが分かる。古くからの下町と古くからの山の手住宅地である文京区の街並みを眺めることができる。
上野と早稲田の間にはこの路線の他に、上69系統の上野広小路・文京区役所・早稲田・小滝橋車庫と直線的に結ぶ路線がある。
バスは上野公園より少し南側に位置する上野松坂屋前(上野広小路)から発車する。右側にアブアブ(商業ビル)が見えると左折し、不忍池を右に見て上野公園停留所となる。不忍池は蓮の名所としても知られ、周囲約2km、かつてこの辺りが東京湾の入江だった頃の名残として池になったものである。北側は上野動物園の分園である水上動物園になり、西側は手漕ぎボートの浮かぶボート池となっており、休日には賑わいを見せている。
不忍池畔を北に向けて走り、池之端を通過する。地下鉄千代田線根津駅前となり、商店街が道路の両側に現れる。ここから本駒込あたりまで、延々と商店がほとんど途切れることなく続く。古くから栄える商店街である。根津、千駄木、団子坂下、道観山下といった古くから存在する下町の落ち着いた風景の中を、バスは路上駐車の車をよけながら、2車線の不忍通りをひた走る。
動坂下より急な上り坂を登って、六義園の最寄りバス停である上富士前となる。ここからは山の手台地となる。本郷通りを横切り、続いて白山通りを横切る。ここから先は坂が多くなり、坂を下って千石三丁目、坂を上って大塚三丁目、坂を下って護国寺正門となる。
護国寺より不忍通りに別れを告げて左折し、音羽通りを南に走る。江戸川橋にて神田川を渡り、首都高速をくぐって新目白通りに右折する。そして、リーガロイヤルホテルの高い建物が左に現れると、早稲田車庫前に到着して終点となる。

上46 南千住汐入⇔上野松坂屋[都バスで東京発見]

上野から浅草をじっくり堪能して汐入まで結ぶ下町路線

上46 南千住汐入⇔上野松坂屋(経由)南千住駅入口・浅草寿町 南千住営業所

路線keyword:汐入の都営住宅,山谷界隈,浅草,浅草公園六区,狭路


かつては「迷路のまち」といわれるほと毛細血管のように細く曲がった道に木造住宅が密集する地域だったところが汐入(しおいり)である。しかし、近年の再開発によって高層住宅が建ち並ぶ団地に大変身した。そこへのアクセス路線である。
上野松坂屋前を出発すると、上野広小路のアブアブ、しのばずの池などの繁華街を走り抜け、JR線のガードをくぐって上野駅正面玄関を左に見て、浅草へ向け走って浅草通りをいく。仏壇仏具の問屋街が現れて下谷、合羽橋道具街が左手にちょこっと見えて菊屋橋、そして浅草寿町となる。
国際通りへ左折し、雷門前の商店街、昭和初期の大繁華街・浅草公園六区、花やしき遊園地を見て、言問通りへ右折する。するとすぐに2車線の狭い道路に左折し、商店街の中を走っていく。浅草のずいのずいまで堪能できる。江戸時代からの遊郭があった吉原の入口だったところが「吉原大門」で、これはバス停名にその名が残っている。路線バスの楽しみは、このように地域の歴史的な背景が停留所名に残っているところにある。大通りに出て、左手に黄色いシェル石油のスタンド前に1本だけ立っている「見返りの柳」の木を見ると、バスは右に曲がって山谷界隈に入っていく。見返りの柳とは吉原で遊んだ男どもが、帰るときにもう一度後ろを振り返って、余韻を名残惜しんでいくところから付けられた名称であるという。
山谷は、日本最大の日雇い労働者の街で、1泊2000円台の簡易宿泊所が軒を連ねている。道路横断者が後を絶えない。歩道にしゃがみ込み酒を飲んでいる者、日陰で寝っ転がっている者、日本の高度経済成長の国土建設を真に支えてきた人々である。泪橋(なみだばし)で明治通りと交差し、南千住駅となる。
JR線のガードをくぐらず右折すると、雰囲気ががらっと変わる。ガス会社のタンクが現れ、貨物のヤードが見えてJR貨物の隅田川駅となる。都立航空高専前を過ぎると、目の前に都営住宅の高層住宅群が忽然と現れ、バスはその中をしばらく走り、終点南千住汐入の操車場に到着する。かつては、ただただ空き地の広がる原っぱと、迷路のような昔ながらの下町の街並みが広がっていたところであり、あたりの様相は様変わりした。

草43 千住車庫⇔浅草雷門[都バスで東京発見]

浅草・三ノ輪・千住・梅田(千住車庫)を日光街道で結ぶ路線

草43 千住車庫⇔浅草雷門(経由)千住大橋・千束 千住営業所

路線keyword:浅草,日光街道,千住


休日には浅草への買物・行楽客を輸送するために本数がほぼ倍増する。
千住車庫を出発すると、梅田交差点より国道4号線・日光街道へ入ってすぐに荒川を千住新橋で渡る。左手を眺めると、地下鉄千代田線・JR常磐線・東武線の鉄橋が見え、時間が合えば電車の姿を捉えることができる。
幅広い日光街道にビルが多く立って千住界隈・日光街道の宿場町として賑わった地である。北千住駅はここから左に10分程歩いたところにある。バスは隅田川と荒川に囲まれた千住の街を縦断し、京成中組で京成線のガードをくぐり、左手に足立卸売市場を見て隅田川を千住大橋で渡る。
三ノ輪橋となる。都電のりばは右手奥の商店街を越えた住宅地のど真ん中にこじんまりと存在しており、日光街道からは「早稲田方面のりば」と書かれた看板のかかる路地を通り抜けて向かうことになる。
大関横丁で明治通りと交差し、地下鉄三ノ輪駅前となる。バスは左斜め前方の国際通りに入って南下し、竜泉、吉原に近い千束と通って右手に浅草ビューホテルが見えると浅草公園六区となる。左手には花やしき遊園地が一瞬顔を出す。浅草寿町にて左折し、右手にブルーの駒形橋が現れると再び左折して終点浅草雷門前となる。正面には赤い大提灯のぶら下がった雷門が建っており、その奥にはみやげ物店などが建ち並ぶ仲見世通りが続いている。

東42乙 南千住⇔秋葉原駅[都バスで東京発見]

白髭橋から蔵前まで隅田川に沿って走り、南千住・秋葉原間を結ぶ路線

東42乙 南千住⇔秋葉原駅(経由)駒形橋 南千住営業所

路線keyword:隅田川橋梁群,隅田川リバーサイド,靴履物問屋街,玩具問屋街,浅草松屋前


東42甲系統と同じく、後ろにJR貨物線、営団地下鉄日比谷線南千住駅の高架駅舎を眺められる停留所から発車する。
泪橋交差点にて左折し、明治通りを東に走る。左手に丸いガスタンクが建ち並ぶ東京ガス工場を眺めて、白髭橋手前にてバスは右に曲がる。ここからは一方通行路となる。従って、往路と復路では運行ルートが違っており、南千住へ向かうバスは西に300m程行ったところにある北向きの一方通行路を走っていく。
バスは橋場、今戸といった隅田川のリバーサイド地区を走っていく。沿線は中小工業の集まる地域であり、毎年7月最終土曜日に開催される隅田川花火大会の時には、打ち上げ第1会場に近いことから大いに賑わう所でもある。隅田川の堤防といえば、かつてはコンクリート製の俗に言うカミソリ型堤防と呼ばれる無味乾燥としたもので水面を見ることが出来なかったが、隅田川の水質が向上したこともあって、近年では堤防の川側に散策路等のテラスを設けて水に親しめるように整備された堤防を多く目にするようになった。左手にはリバーサイドスポーツセンター、隅田公園が過ぎ去る。桜橋は左手奥に存在する。<説明>そして、言問橋西詰より江戸通り(国道6号)となって、花川戸の靴履物問屋街を走り、浅草松屋前・東武浅草駅となる。
秋葉原行のバスは浅草雷門前を通るルートとなる。上路アーチ橋である吾妻橋と金色の炎のオブジェを左手に見ると右折し、大きな赤い提灯のぶら下がる浅草雷門を右手に見ると左折し、浅草雷門停留所となる。本路線には、浅草雷門折返しとなる便が多数設定されている。
続いて中路アーチ橋である水色の駒形橋を左に見てバスは直進し、ビルの多くなった駒形を走っていく。厩橋交差点に差し掛かると、左手には下路アーチ橋である厩橋が現れバスはさらに直進する。玩具問屋街が現われて、かつては国技館が近くに存在していた都営地下鉄浅草線蔵前駅前となって、バスは蔵前一丁目交差点を右に曲がるのだが、左手を凝視しているとほんの一瞬だけ上路アーチ橋である蔵前橋を見ることができる。ここで隅田川とはお別れである。
ここで橋について少し触れておこう。橋梁は、自動車や歩行者の渡る通路を橋の側面から眺めた位置によって、上路橋・中路橋・下路橋の3種類に分けられている。つまり、通路が橋の上側にあるアーチ型の橋を「上路アーチ橋」、通路が橋の中央付近にあるアーチ橋を「中路アーチ橋」、通路が橋の下側にあるアーチ橋を「下路アーチ橋」と言う。中路アーチ橋や下路アーチ橋はバスの車内から眺めてみて、アーチ橋であることが一目で分かるが、上路アーチ橋の場合、道路がアーチの上側に設けられているので、川べりに行って橋の下側を眺めるか、川の上から橋を見上げないと、アーチの形を認識することは難しい。
隅田川に架かる6大橋(相生,永代,清洲,蔵前,駒形,言問)は関東大震災後の震災復興事業によって架け直されたもので、それぞれ異なった形式の橋をデザインし、現在でも東京の名所として有名な建造物である。
蔵前橋通りを東に走り、首都高速の高架道路が正面に見えてくると昭和通りへと左折する。しばらく高速の下を走ると、昭和通りにある終点秋葉原駅東口停留所に到着する。JR線の駅前からは少し離れており、駅東口はバスが向かっていた進行方向右手奥に存在している。
 

東42甲 南千住⇔東京駅八重洲口[都バスで東京発見]

江戸通りで様々な問屋街を走り抜ける路線

東42甲 南千住⇔東京駅八重洲口(経由)浅草松屋・浅草橋駅 南千住営業所

路線keyword:各種問屋街,日本橋,浅草,山谷地区,リバーピア吾妻橋の景観,江戸通り


南千住停留所は、後ろにJR貨物線、営団地下鉄日比谷線南千住駅の高架駅舎を眺められるフェンス脇に存在する。隣に南千住車庫があり、車庫の上には都営南千住二丁目アパートが建っており、バスはその車庫からやってきて、南千住を後にする。
泪橋交差点で明治通りを横切ると、バスは山谷通りを南に走り、山谷地区にさしかかる。山谷は戦後、「ドヤ街」とも「日雇い労働者の街」とも呼ばれ、労働者のための簡易旅館街が形成されている所である。日雇い労働者は日本の高度成長や社会基盤整備を支えてきた人々であり、日本の繁栄はこの人々によって築かれたと言ってもよい。街は決して清潔とは言えず、ゴミが散らかり、横断歩道などお構いなしに道路を横断する人が後を絶えない。そして、清川二丁目となる。
山谷地区を過ぎて、中小皮革業者の多い地域である東浅草、今戸となる。バスは言問橋西詰より江戸通り(国道6号)となって、靴・下駄・草履などの靴履物問屋街が広がる花川戸を走る。本沿線最初の問屋街である。靴・履物がズラリと並べられた靴屋が続いていく。そして、浅草松屋前・東武浅草駅となる。
左手には、隅田川に架かる吾妻橋と、建設省主催による都市景観100選に選ばれた「リバーピア吾妻橋周辺地区」の景観である、墨田区役所とアサヒビール本社、炎のオブジェ等が眺められる。続いて、水色のアーチ型をした駒形橋が現れ、バスは江戸通りを直進する。
厩橋交差点を過ぎると蔵前となり、おもちゃ・ゲーム・花火・鯉のぼりなどを扱う玩具問屋街と五月人形などを扱う人形問屋街となるが、全て玩具などの問屋とは限らず、文具・造花などの問屋もある。そして、浅草橋駅となる。
浅草橋駅を過ぎても問屋街は続く。屋形船の浮かぶ神田川を浅草橋で渡ると、左手には神田川と隅田川の合流地点に架かる柳橋の小さなアーチ橋が見える。
浅草橋交差点で右前方へ進むと日本橋馬喰町となり、洋品・雑貨問屋街、タオル・靴下・紳士婦人服・呉服・生地などを扱う木綿・繊維問屋街が日本橋小伝馬町あたりまで続く。馬喰町には大規模な問屋街が商店街のように形成されている。続いて、日本橋本町(JR総武本線新日本橋駅)あたりには、製薬会社が集まる薬品問屋街が広がる。それ以外にも一歩路地裏に入ると、紙問屋街、金物問屋街、日本橋小伝馬町から日本橋人形町にかけては呉服問屋街が広がり、この周辺は卸売問屋が集中している地域である。
ここの町名には「日本橋○○町」というように、日本橋を冠した町名が多い。日本橋は江戸時代から栄えていた商業の中心地であり、明治維新後も日本の経済の中枢として繁栄してきた所である。昭和22(1947)年に日本橋区と京橋区が合併して現在の中央区が成立したが、「中央」と名付けられたのもそのためである。
バスは中央通りに左折し、右手にはライオン像が入口に構える日本橋三越本店が現れる。明治5(1872)年に日本道路元標として定められた日本橋を渡り、同時に高速道路の下をくぐり抜け、ビルの建ち並ぶ中央通りを走る。土日祝祭日には、中央通りが歩行者天国になるので、本系統は???前へ迂回運行となる。
左手に東急百貨店を見て、日本橋交差点を右折し、呉服橋にて左折して、右手に東京駅の大丸デパートが見えると、終点東京駅八重洲口に到着する。

草41 足立梅田町⇔浅草寿町[都バスで東京発見]

浅草と梅田町を結ぶ地域住民路線

草41 足立梅田町⇔浅草寿町(経由)町屋駅・中入谷 千住営業所

路線keyword:梅田町,浅草,尾竹橋通り,狭路


浅草を起終点となるバスの中でもループ運行をしない路線である。浅草郵便局近くの国際通りにある浅草寿町バス停から発車する。足立区梅田町では細く曲がりくねった道路を走ることからなのか、ひと回り小さなバスで運行されている。
次の浅草一丁目バス停で大勢の客を乗せ、国際通りを北に進む。左手に浅草ビューホテルが現れて浅草公園六区を過ぎ、西浅草三丁目で言問通りに左折する。入谷二丁目バス停を過ぎると、料理器具等の飲食店で使用する道具を扱う専門店が約200店ほど連なっている合羽橋道具街・かっぱ橋通りと交差する。道具街は左手方向に約1km続いている。
入谷にて日光街道を横切ると、左手には、毎年7月6日~8日に朝顔市が開催される入谷鬼子母神が現れる。そして、鶯谷駅前停留所となる。「駅前」といっても、駅前からは少し離れた所に位置する。バスは右折して尾竹橋通りへと入る。少し走ると、左前方に別れる道が存在するが、あちらは尾久橋通りとなって北へ伸びている。尾久橋、尾竹橋とは隅田川に架かる橋の名前であるが、似たような名前で紛らわしい。このバスは尾竹橋通りを北上する。
住宅が密集し、そして商店が続く2車線の道を走っていく。JR線三河島駅を通り、宮地交差点で明治通りの陸橋下を横切り、町屋の商店街が続くようになると地下鉄千代田線町屋駅前となる。都電も走っているが、かつての早稲田方面の都電のりばは、レコード屋や売店などが長屋になって密集した店先が乗り場となっていて、昔ながらの下町風情を十分に味わえる貴重な雰囲気を醸し出していた。ところが最近、市街地再開発事業によって駅ビル・センターまちやを備えた高層ビルに生まれ変わり、都電乗り場もきれいに整備されてしまった。防災や居住環境といった視点からは問題点のある地域だったのだろうが、あの都電乗り場がなくなってしまったかと思うとなんだか心惜しい気もする。
一本松バス停まで商店街が長く続く。どの川に架かる橋も渋滞のため通過するのに時間がかかる。ここも例外ではなく、隅田川の尾竹橋、そして千住桜木の先にある荒川の西新井橋を渡るためによく渋滞する。
高速道路のピンク色の高架橋を前方に眺め、西新井橋北詰にてバスは右折し、土手を下って梅田町に入る。歩道が存在しない二車線の狭路となる。緩やかなくねくねしたカーブが続く。バスの折返し所が住宅地の中に現れると、終点足立梅田町に到着する。歩いて5分程のところに東武線梅島駅がある。

草39 金町駅⇔浅草寿町(上野松坂屋)[都バスで東京発見]

上野・浅草から国道6号・水戸街道をただひたすら走る路線

草39 金町駅⇔浅草寿町(上野松坂屋)(経由)青戸車庫・東向島広小路 青戸支所

路線keyword:雷門の大提灯,国道6号・水戸街道


上野松坂屋から浅草寿町までは、平日の日中のみの運転となり本数が少ない。上野松坂屋から浅草寿町までは上46系統と同じルートを走る。
寿町を発車し、雷門の大提灯、東武浅草駅、水上バスのりばを見て、吾妻橋で隅田川を渡る。墨田区役所を過ぎて三ッ目通りへ左折する。言問橋より国道6号・水戸街道となり、あとはひたすら水戸街道を金町向けて走っていくのみである。
向島界隈の下町を走り、東武博物館のある東向島で東武線のガードをくぐって、四ツ木橋で荒川を渡る。国道6号沿いとあって、環七通り同様、中古車販売のディーラーやファミリーレストランが多く目に付く単調な風景が続く。
青戸車庫を過ぎ、中川を渡り、踏切を越えて、左折。また京成線の踏切を渡り、線路に沿って走ると、終点金町駅となる。

上26 亀戸駅⇔上野公園[都バスで東京発見]

上野から谷中・根津・浅草を経由して亀戸を結ぶ路線

上26 亀戸駅⇔上野公園(経由)業平橋駅・根津駅 大塚・江東営業所

路線keyword:言問通り,谷中,碁盤の目状の道路,亀戸天神


かつては現在の亀26系統と繋がっていて、上野-今井間を結んでいたが、亀戸駅で分断されて現在のような姿になった路線である。本数は1時間に1~2本となっており、乗りづらい路線であるが、谷中のご老人にとっては欠かせない交通機関である。
上野の不忍池前より発車すると、中央通りへ出て広小路の松坂屋前で右に曲がり、上野の繁華街をぐるりと回って再び不忍池が右手に現れる。上野動物園の裏口を通過し、根津駅で言問通りへと右に曲がる。根津・谷中の下町的なしっとりとした町並みの中をバスは走っていく。すると、突然黄色い旗やビラが建物にべたべたと張ってある
地域に入る。一瞬、幸せの黄色いハンカチを思い出してしまった。某住宅メーカーが建設を予定している地上14階建ての高層マンションの反対運動が積極的に行われており、「古い街並みを守ろう」というスローガンのもと、地元住民が一致団結しているのだという。徳川家公墓所である谷中霊園を過ぎ、JR山手線など10本の線路を陸橋で越えて鶯谷駅となる(このバスは駅前では止まらない)。
入谷を過ぎると浅草の北側をかすめ、馬頭観音裏を通過し、隅田川を言問橋で渡る。毎年7月の第4土曜日に開催されている隅田川花火大会の会場はこの橋の両側であり、上流側(左)が第1会場、下流側(右)が第2会場となっている。隅田川の親水護岸の中には、段ボールと青いビニールシートをうまく箱形に組み立てて暮らしている人々のねぐらがずらりと並んでいる。この親水堤防は都民が川面に親しめるようにとかみそり堤防から造りなおしたものである。
墨田区になって、中小の零細企業が密集する下町の街並みとなる。墨田区と隅田川の「すみだ」は何故漢字が違うのか。これは墨田区という名称は、墨堤の「墨」と隅田川の「田」からとって付けられたからである。墨堤とは隅田川沿いの地域をこのように呼ぶのだそうである。
業平橋駅となる。東武鉄道の本社があるところであり、すぐにバスは北十間川を渡るが、その橋の名は「東武橋」と付けられている。浅草通りへと左折し、柳の街路樹の道路を東に向けて走る。押上で四つ目通りへ右折し、まっすぐ進むと錦糸町駅であるが、このバスは太平4丁目で左折し、亀戸へ向かう。このあたりの道路は碁盤の目のように入っている。この街路網は関東大震災後の震災復興計画によって造られたものである。
左手に亀戸天神が現れると、神社の屋根を模した亀戸天神バス停の屋根が見える。明治通りへ右折し商店街を走るとまもなく終点亀戸駅となる。

平23乙 新四ツ木橋⇔浅草寿町[都バスで東京発見]

新四つ木橋の手前で折り返す路線

平23乙 新四ツ木橋⇔浅草寿町(経由)押上駅・墨田区役所 南千住営業所青戸支所

路線keyword:下町,墨田区,浅草通り,浅草雷門,新四つ木橋,曳舟川


浅草寿町から八広2丁目までは、平23乙系統上野松坂屋・平井線と同じルートを走る。

八広2-新四つ木橋 未乗

曳舟川通りの下には、かつて曳舟川が流れていた。曳舟川とは、亀有上水として利用されていた水路が享保年間(1750年頃)に廃止され、その後、小梅村-四ツ木村-亀有村間の輸送用引舟の水路となり、曳舟川として知られるようになったものである。荒川放水路の開削によって川筋が切断され、現在は荒川以南では下水溝として暗渠となり、荒川以北では葛西用水として綾瀬川に注ぐ工業用水等の排水路となっている。新四つ木橋はかつての曳舟川の水路のあった場所に沿って忠実に架設されており、地図で眺めると荒川に対して斜めに架けられていることに気づく。

平23乙 平井駅⇔上野松坂屋(上野広小路)[都バスで東京発見]

上野・浅草から墨田区中央部を横切る路線

平23乙 平井駅⇔上野松坂屋(上野広小路)(経由)八広2丁目・押上駅 南千住営業所青戸支所

路線keyword:下町,川の手,工場地帯,墨田区,浅草通り,浅草雷門,上野広小路


平日・土曜日は平井駅から上野松坂屋までの便数が少なく、半数以上は浅草寿町止まりであるが、祝休日になると買物利用客を考慮してか全便上野松坂屋行きとなる。また、この系統は上野-平井間の他に、八広二丁目から分岐する、浅草寿町-新四ツ木橋間の便も存在するが、新四ツ木橋までのバスは本数が極端に少ない。
平井駅を出発すると、曲がりくねる2車線道路を密集した住宅に囲まれながら走る。そして、交差点を右折すると、水の流れている様子がほとんどない旧中川を中平井橋で渡る。
地図を眺めると、旧中川、中川、新中川と3つの中川が存在していることに気がつく。葛飾・江戸川区内の下流部は「七曲り」と称されるほど蛇行しており、荒川放水路の開削と同時に、その東側に中川放水路を開削して現在の中川となった(昭和3年完成)。その放水路完成時にかつての中川は旧中川となり、現在でも残っているのである。中川と旧中川は荒川を隔てているが、繋げて考えてみるとかつての川筋だった事が理解できる。さらに昭和38年には、高砂から分流して旧江戸川に注ぐ放水路が完成し、これが新中川なのである。かなり複雑な話である。
平井から浅草方面に向かう時は橋詰にて右折し、旧中川沿いを大きく迂回して走る。鉄工関係の工場が多く、工場の敷地内のような殺伐とした空間をバスは走る。大きな煙突が右から左へと移動していた。荒川土手の堤防が現れるとバスは堤防沿いに走り、東墨田をぐるりと一回りする。
八広2丁目で上下線が合流し、中居堀交差点で明治通りを横切る。そして、文花3丁目停留所を過ぎ、住宅・商工業が混在する日本有数の木造家屋人口密集市街地として有名な京島界隈に入る。京島は4mに満たない狭い道路が網目のように形成され、1m程の道路を挟んで家が建て込んでいる場所さえも存在する。いまだに長屋なども残り、東京の下町を最も感じることのできる場所であるが、都市計画的な視点で眺めると防災や居住環境などの点で問題の多く残る地域である。
北十間川を渡ると押上となり、浅草通りを上野まで西進する。本所吾妻橋を過ぎると右前方の2車線の道に入るが、通りの名前は浅草通りで変わらない。右手には、リバーピア吾妻橋・吾妻橋ホール・アサヒビール本社・墨田区役所等のビルが建つ再開発事業地が現れ、すっかり名物になった金色の炎のオブジェはアサヒビール本社の上に乗っている。隅田川を吾妻橋で渡り、後ろを振り向くと眩しい色彩を放つ金色のオブジェを見ることが出来る。
浅草松屋デパート・東武浅草駅、そして浅草雷門を右に見て、賑やかな浅草の商店街の中をバスは走る。国際通りへ左折し、地下鉄田原町駅前の浅草寿町にて浅草通りへ右折する。
菊屋橋交差点では、右手に料理器具等の飲食店で使用する道具を扱う専門店が約200店ほど連なっている合羽橋道具街・かっぱ橋通りと交差する。道具街は右左手方向に約1km続いている。バスは上野を目指して浅草通りを西に進む。道路の下には昭和2(1927)年に開業した日本初の地下鉄・銀座線が平行に走っている。
首都高速の高架橋が見えると、右手に駅ビル再開発構想で取り壊されそうになった上野駅舎が現れて上野駅となる。JR線のガードをくぐると、左手にアメ横入口が見えて、右手に上野の森と京成上野駅を見て上野公園山下停留所となる。アブアブや上野松坂屋、ショッピング街・飲食店街の広がる賑やかな上野広小路を走ると、終点上野松坂屋停留所に到着する。

都02 大塚駅⇔錦糸町駅[都バスで東京発見]

大塚から錦糸町までを春日通りで横断する乗客多い路線

都02 大塚駅⇔錦糸町駅(経由)文京区役所・御徒町駅・本所一丁目 大塚営業所

路線keyword:春日通り,文京シビックセンター,東京ドーム,上野広小路・アメ横,厩橋,グリーンライナー


鳩が戯れ、その横を都電が走る。錦糸町行の都市新バス・グリーンライナーはそんな大塚駅前広場より発車する。
大塚駅を出発するとバスは南下し、新大塚で春日通りに入る。大塚三丁目を過ぎて、右手にお茶の水大学、都バスの大塚営業所が現れて、茗荷谷駅となる。この辺りは台地なので、上野広小路までは坂の多い道を登ったり降りたりしながら、小日向、小石川、春日と文京区内を走っていく。文京区は、明治以降に諸大名の屋敷跡地に大学等の文教施設を多く設置したところから「文京」という名がついたという。東京大学を筆頭に、跡見学園短大、お茶の水女子大学、順天堂大学、拓殖大学、中央大学理工学部、東京医科歯科大学、東洋女子短大、東洋大学、東邦音楽短大、日本女子大学、文京女子短大と、これらの大学・短大が文京区内に存在している。かつては、東京教育大学(現筑波大学)、東京農業大学も存在していた。
また、文京区は大正時代の頃から、「山の手」住宅地となっていた地域であり、そのため老人の姿を多く目にする地域である。文京区は落ち着きのある独特な雰囲気の漂う場所である。
伝通院前<説明>を通ると、上部が半円形になっている真新しい高層ビル・文京シビックセンター(文京区役所)が前方に現れ、富坂上のバス停を過ぎると急な下り坂となって、文京区役所前となる。この区役所庁舎は「豪華庁舎」として一時期話題にのぼった建物で、最上部は無料展望台となっている。内部は吹き抜けになっており、シースルー(ガラス張り)の高速エレベーターから、区役所の各階の内部をのぞき込みながら展望台に行ける楽しい設計になっている。
ビルの谷間から東京ドームの丸い屋根が右手に現れ、白山通りを横切って東に進む。東京大学の最寄りバス停である本郷三丁目を過ぎると、学問の神様・菅原道真を祭る、合格祈願で有名な湯島天神前となり、坂を下って上野広小路となる。右手に上野松坂屋が現れ、御徒町の繁華街の中を突っ切る。左手のアメ横には人々が大勢うごめいていた。この場所は通過するのに時間がかかることが多いが、現在都営地下鉄12号線の駅建設工事中で、渋滞に一層拍車をかけている。
JR線のガードをくぐると、右手には宝石・貴金属専門店が建ち並ぶジュエリータウンが通り過ぎる。昭和通りを横切り、バスは春日通りを進むが、この辺りから文京区とは対照的な下町の雰囲気を徐々に呈するようになる。元浅草、三筋と過ぎると、隅田川を美しい3連アーチの厩橋で渡って、墨田区となる。
本所一丁目からは春日通りに別れを告げて、清澄通りを南下し、蔵前橋通りに左折する。バス停名は石原のオンパレードとなるのだが、正しい読みは「いしはら」なのか「いしわら」なのか。商店街やバス停留所のローマ字表記は「いしはら」となっているが、区役所の設置する町丁目名の看板やバスの車内案内放送では「いしわら」となっている。停留所の表記と案内放送とで異なっているのには「おや?」と思うが、地名辞典によると「いしわら」という読みで記載されているので、とりあえずは「いしわら」が正しいという結論にしておく。
そんな事を考えているうちに、終点錦糸町駅に到着した。

二階01 上野広小路⇔浅草雷門[都バスで東京発見]

日本で最初に二階建てバスが導入された路線

二階01 上野広小路⇔浅草雷門(経由)上野駅 南千住営業所

路線keyword:二階建てバス,上野広小路,浅草雷門,浅草通り


日本で最初に路線バスとして二階建てのバスが導入された区間である。昭和56(1981)年より運行されており、東京観光には欠かせない存在である。運賃は一般の路線(大人200円)よりも高く設定されており(大人250円、小人130円)、都営交通の一日乗車券で乗ることも出来ない。
上野行のバスが発車すると、すぐ左手に雷門の赤提灯が通り過ぎ、右手に吾妻橋と隅田川水上バスのりばを見て左折、浅草松屋・東武浅草駅前となる。これから寿町まで浅草公園(浅草寺・花やしき等)を中心にぐるりと回り、それから上野を目指す。浅草二丁目で左折し、「浅草寺は東京で最も古い寺である」等といった案内放送を聞きながら、浅草寺裏を通り過ぎる。2階からの眺めは、当然ながら普段乗るバスよりも視点が高い。手を伸ばせば信号機に手が届くような高さである。普通の路線バスが小さく見える。
西浅草三丁目交差点より国際通りへ左折し、右手に浅草ビューホテル、左手に花やしきをちょっとだけ眺めて浅草公園六区・映画館のある興行地区となる。寿町になると浅草通りへ右折する。
二階バスは浅草通りを上野駅へ向けて東に走るが、この下には昭和2(1927)年に開通した日本初の地下鉄・銀座線が通っている。首都高速の高架が見えると右手に上野駅舎が現れ、JR線の高架橋をくぐって、左手にアメ横の入口を、右手に上野の森と成田空港へ向かう京成線上野駅を見ると上野駅前下車停留所となる。
そして走ったかと思うと、すぐに終点上野広小路停留所に到着する。
残念なことに、2001年3月をもって廃止されることが決定した。これで、都内をはしる2階建て路線バスは全てなくなることになった。

学01 東大構内⇔上野駅[都バスで東京発見]

上野駅と東京大学を直結する路線

学01 東大構内⇔上野駅(経由)上野松坂屋 大塚営業所

路線keyword:東京大学,東京大学病院


上野駅と日本の最高学府・東京大学とを直結する路線である。系統番号の先頭が「学」となっている路線は、「学バス」と呼ばれ、大人運賃が170円で乗車することができる(通常200円)。行き先が「構内」となっているように、このバスの終点は、大学の門をくぐって東大の構内に操車場が設けてある。さすがは「東大」といったところか。
上野駅浅草口を出ると、オートバイの専門店が連なる昭和通りに出て、上野駅正面口を眺める。右折して、御徒町駅のガードをくぐり、アメ横を過ぎると松坂屋前となり、中央通りと交差する。このあたりの渋滞がひどく、東大から上野駅までは、歩いた方が早いような気もする。
途中の停留所は飛ばして、竜岡門をくぐると東大構内となりレンガ調の建物が連なってアカデミックな雰囲気となる。東大病院を過ぎて、まもなく終点となる。安田講堂は左手奥すぐのところにある。

アメヤ横丁(上野御徒町)【東京考察#29】

Ameya Yokocho (at Ueno Okachimachi)


JR御徒町駅前のアメ横入口

 

 「アメ横」を知らない人はいないだろう。大晦日になると必ずといっていいほど、TV中継がされる商店街である。正式にはアメヤ横丁というが、戦後アメリカのものを売っていたことからこの名がついたという。なにしろ、このアメ横は普通の商店街を超越していて、アジア人としての日本を意識せずにはいられなくなる。混沌としたカオス状態なのである。魚屋のとなりに洋服屋があり、乾物屋のとなりでゴルフのクラブを売っている・・・。このアンバランスさと混沌とした状態が、いかにも「アジア」的でエキゾチックなのである。そして、この混沌とした風景に接したとき、なぜかホッとするのは、僕だけではないだろう。やはり、我々はアジアの中の日本人なのである。



JR線のガード下に所狭しと広がるアメ横


服を金物に引っかけて、上へ上へと陳列する タイのマーケットのようである


乾物屋の隣にあるアーミーショップ


洋服屋の隣で大トロやマグロを売る これがアメ横


魚屋のおっチャンとのやりとりも楽しい すぐ値引きが始まる


アメ横で買い物をするとき注意することがひとつある。それは、「本物を見極める目を養うこと」である。なにしろ値段が安いので、ついつい手を出したくなってしまうが、なかには縫製が甘かったり、鮮度の落ちたカニだったり、バッタものに出くわすことがある。ただ、元々値が安いのを承知で買っているのだから、それはそれとして、買い物を楽しむのがアメ横である。



日本ではないようだ


赤提灯の一杯飲み屋もある


モツ煮込みは下町飲み屋の定番

ジュエリータウン(御徒町)【東京考察#28】

Jewelry town (at Okachimachi)

 


 ルビー通り、ダイヤモンド通り、ひすい通り、サファイヤ通り・・・、女性であれば目が輝いてしまうような名前が通りに付けられている。この辺りは、貴金属・宝石の問屋が集まるところであり、別名「ジュエリータウン」と呼ばれている。結婚が決まって指輪を贈るとき、この街で指輪を購入し、近くの韓国人街でキムチを買って、アメ横で夕食のおかずを買って帰るのも悪くはないのでは。


狭い通りには宝石店が建ち並ぶ


左手に見える高架橋はJR山手・京浜東北線


金銀財宝がケースに並んでいる・・・


店をはしごすると欲しくなっちゃうんだよね,ダイヤモンドって.


だいたい定価の20~40%引きで売っている

浅草雷門と仲見世・公園六区【東京考察#26】

Asakusa Kaminari-mon and Nakamise, Koen-rokku
(The town where the Edo culture of old Japan remains)

 

 今の浅草は、外国からの観光客が必ず立ち寄る国際観光地となった趣があり、古き良き東京、江戸情緒を残す街として、賑わっている。昭和初期や戦後時代には、日本の流行発信地として、現在の渋谷・新宿に匹敵するような大繁華街を形成していたが、東京の繁華街は西へ西へと移動していき、斜陽化する浅草をなんとか復活させようと、数々の祭りを催したり、新しいタイプのホテルやビルを建てたりし、往年の繁華街の復権に力を入れている。



雷門


雷門の先に続く仲見世


古風な日本を感じさせるみやげもの屋。
外国人観光客にはこのような日本風なものに人気があるのだろう。


せんべい屋。香ばしい醤油の香りが漂ってくる。


仲見世の裏側


人力車。お金を払えば誰でも乗れる。


浅草では、年中、行事と祭りを行っている


伝法院通り。この雰囲気は浅草と大阪・新世界でしか味わえない

 
こんなものまで売っている。大村昆のオロナミンCは9900円。女のかつらはなんと15万円。


浅草公園六区。かつては一大繁華街・映画街であった。


浅草公園六区の「六区」とは、明治15(1882)年より始まった浅草公園の築造・整備(全6区画に区分して整備)における区画番号のことである。その中でも第6区画は興行街として整備され、そのまま「浅草公園六区」という名称が東京の娯楽の代名詞のようになったのである。バス停の名称に「浅草公園六区」という名が今でも残されていることに拍手を送りたい。映画館は明治40(1907)年頃から登場し、現在も残る浅草六区の映画街が形成された。



地下鉄銀座線の浅草駅。赤提灯が浅草らしい。


「東京時代祭り」で歩く中村勘九郎 歓声があがる。