「■東京の情報」カテゴリーアーカイブ

BANCHAN WORLD の東京をテーマにしたカテゴリーです.

合羽橋道具街【東京考察#106】

Kappa-Bashi cooking tool town(Aasakusa Kappabashi)


 ここは問屋街の中でも,もっとも面白いところだと思う.合羽橋道具街は食器具・調理器具・サンプル品・調理衣装など,調理に関するものなら,ありとあらゆるものが揃う問屋街である.小売りも行っており,こだわった調理器具を買いたい場合はここに足を運ぶことをお奨めする.もちろんプロ用の調理器具も揃っているので,お店をやっている人にとっても満足するものである.なお,日曜日は店を閉めているところが多いので,土曜日に行かれることをお奨めする.
地名の由来は,近くに合羽屋があったので橋の名前に付けられた,合羽屋喜八が隅田川に住む河童に助けられて新堀を開いたという伝承もある.


皿がずらりと並ぶ

 
片手鍋もずらり


提灯もずら~り


看板.すべて商品です.


衣装もあります


釜もあります


調理台


椅子,椅子,椅子・・・


ここもすべて商品です.飲食店ではありません.

 
カレーライスがなんと4,500円! もちろんサンプルの値段です.

取り壊し決定後,冬の同潤会青山アパート【東京考察#105】

DOJUNKAI Aoyama Apartment in the winter after the demolition decision

 

 同潤會青山アパートはNo.5のページでも紹介しているとおり,日本で最初に建てられた鉄筋コンクリートアパートである.平成14年末,この青山アパートも取り壊されることが決定し,安藤忠雄氏設計による再開発ビルに生まれ変わることとなった.入居者は続々と退去しており,いまなおギャラリーなどをオープンさせている店は,数少なくなった.平成15(2003)年1月の同潤會青山アパートの様子をお送りする.


ギャラリーなどの入居者はすでに移転を始めている


すでに中は空っぽ!


まだ階段の電球がついているところもあった


玄関扉.まだオープンしているギャラリーもある.
ガラス部分の装飾がなんともいい.


すでに退去が進んでいる部分は,居住者以外立ち入り禁止となっている.


窓枠の改造の痕は歴史を物語っている
でも,後は解体を待つのみなのである


閉店セールをやっているショップ.


空っぽになったアパート
どこかもの悲しい


行き交う人々の賑やかさとは対照的に,
あとはただ取り壊されるのを待つアパートメントである.
どのくらいの人々が,このアパートの存在を意識しているのだろうか.


背面.

 このアパートをまだご覧になっていない方,まもなくギャラリーが閉店し建物の中にも入れなくなります.是非一度,急いで足をお運びください.

夜の隅田川橋梁群【東京考察#104】

The bridge of Sumida river at night(view from a water-bus)

水上バス

 


  東京考察No.6では昼の隅田川橋梁群を紹介した.ここでは,夜バージョンでお送りします.では,浅草から河口まで橋の旅をどうぞ.



東武鉄道の橋梁


吾妻橋


駒形橋


厩橋


蔵前橋


JR総武線の橋梁


両国橋


首都高6・7号の両国ジャンクション


新大橋


清洲橋


永代橋


中央大橋


勝鬨橋 (真ん中がハの字に開く橋だった)

東京湾へ

おまけ・・・

レインボーブリッジ

新宿アルタ前【東京考察#103】

The Shinjuku ALTA (The Shinjuku station east gate)

 

 新宿アルタ前といえば,大ビジョンを観ながら待ち合わせを行う場所として定着しているが,つまりは新宿駅東口なのである.新宿アルタはファッションなどを扱うショッピングビルで1980年にオープンした.新宿アルタの他に,「池袋サンシャインシティアルタ」「札幌アルタ」「新潟アルタ」が存在する.そして,新宿アルタの最上階には「スタジオアルタ」があって,すっかりお馴染みの平日お昼のバラエティー「森田一義アワー・笑っていいとも」が生放送で行われている.新宿アルタの存在は,この「笑っていいとも」によって有名になったものであり,さらに特筆できることは,街頭におけるオオロラビジョンの先駆けとなった大画面を壁に掲げていることである.いまでは,渋谷や銀座や池袋など,どの繁華街でも観ることができるようになったが,ALTAに大画面ができた当時は,珍しいものであった.

 
アルタのオオロラビジョン


つまりは新宿駅東口


ミニライブができるステージもある
こんなに利用価値の高い駅前広場は他にない.


昔から変わらない風景として,
ずらっと並ぶ映画宣伝の大看板がある.
(現在はなくなっている)

 

千代田区生活環境条例(路上禁煙)【東京考察#102】

The Chiyoda-ku living environment regulations(No smoking on the street)


アスファルトにスプレーで書かれたマーク

 


  2002年10月から千代田区の一部地域(駅前など)において,路上禁煙などを行う生活環境条例「安全で快適な千代田区の生活環境の整備に関する条例」が施行された.「路上禁煙地区」のみならず,ゴミなどのポイ捨てを禁止した「環境美化・浄化推進モデル地区」,「違法駐車防止重点地区」が区域ごとに指定されており,路上禁煙地区では歩きタバコだけでなく、道路上で喫煙する行為全てが禁止されることとなった.区職員の巡回者に見つかると2000円(当面)の過料がとられる.
シンガポールに行ったとき,とても街並みががきれいだったが,ゴミ捨てや喫煙についてまでも罰金を課していると聞いたとき,そこまでして造られた綺麗さ・モラルだったのか,とシンガポール国民が自らの意志で綺麗にしようとしているのではないことに,何か人工的なしらじらしさを感じたことがあったが,まさしく日本も同じようなことをしないと街が綺麗にならないのかと感じる条例であった.

 
環境美化・浄化推進モデル(ゴミ捨て禁止)地区のマーク


例えば,境界線を境に民地側で喫煙した場合は,
条例違反とはならない.

新木場(木材流通基地)【東京考察#101】

Shin-Kiba (New Wood circulation base)


新木場駅の看板は「木製」

 


  「新木場」は14号埋立地だったところを昭和47年に江東区に編入した地域で,「木場」に代わって木材流通基地の整備が進んでいるところである.木場は2km程北北西にいったところに存在する地域で,江戸時代に日本橋・神田周辺にあった木材置場(貯木場)を集中的に移転させたのが始まりである.その後,最近まで東京港における木材の需要を引き受けていた.しかし,埋立地の造成により内陸地となってしまったこと,木材需要の増大による敷地の狭隘化,さらに木場周辺も含めた江東区は地盤が低く木造家屋が密集していることから抜本的な防災対策の観点から,木材流通拠点を新木場に移転することとなり,現在の新木場ができあがっている.

新木場駅を降り立つと,材木の香りが鼻をつく.木材のショールームなどもあって,木に関するものはあらゆるものを手に入れることができる.お台場とは違って,殺伐とした東京港湾を味わうことができるのも新木場である.付近には東京ヘリポート,キャンプ場や都内唯一のゴルフ場を併設する若洲,ゴミで埋め立てられた夢の島などが存在する.

 
貯木場


材木が積まれている

 
木材関係の会社が集積されている

 
WOOD & DIY ショップ もくもく」(駅前)では
中古の樽やログハウスまで売っている.


丸太がゴロンと置かれている.


砂町南運河の向こうは,若洲である.
コンテナを積み込む船が見える

東京港の屋形船【東京考察#100】

The houseboat of Tokyo harbor


屋形船より大川端リバーシティー21を望む

 


 屋形船は江戸時代より庶民に親しまれていた江戸のレジャーである.両国界隈には屋形船を営む店が数多くあったというが,そんな江戸情緒を今でも味わうことができる.駒形橋や両国,芝浦付近から,提灯のぶら下がった屋形船が貸しきりで運航され,船内は畳敷きとなっており,揚げたての天ぷらや刺身,カラオケなどができるようになっている.そして,なんと言っても最高の夜景は,お台場のきらびやかな近未来の灯であり,江戸情緒に浸りながら最先端の灯りを堪能することができるのである.

 

堤防の階段を下りて船に乗り込む

 
ライトアップされた隅田川橋梁群をくぐって東京港を目指す
(左:永代橋 右:新大橋)


隅田川を航行する船(首都高6号線より)


屋形船 船内

 
調理場や水洗トイレも完備されている


カラオケもできる


笑顔が素敵な従業員と・・・・


お台場の夜景
実際に船から眺めると,デックス東京やフジテレビの明かりが宝石のように瞬いて,
巨大な船・タイタニック号のように見える.これはとても美しい.

柳橋【東京考察#99】

Yanagi-Bridge(The bridge of the Kanda-river lowest style)

 


 柳橋は神田川最下流にかかる橋である.隅田川との合流地点にかけられており,昭和4年に架設された37.9mの鋼橋である.橋の歴史は古く,渡し船による行き来が不便だということで1698(元禄11)年に架設されたのが始まりで,その後,1887(明治21)年に鋼鉄製となったが,関東大震災で落ちてしまい,復興局によって1929(昭和4)年に完成したのが現在の橋となっている.隅田川にかかる橋梁群と同じ時期に復興された橋であり,土木遺産として価値のあるものとなっている.
柳橋の由来については、江戸時代に付けられていた「矢の倉橋」が変化したもの,柳が並ぶ柳原堤の端にあるから,橋のたもとに柳が1本あったことからなどの説がある.このあたりは,江戸時代の繁華街だった両国が近くにあり,吉原への渡船場ともなっていて,花街も形成されていたという.戦前の昭和初期には,料亭や船宿などが建ち並び,現在も,屋形船の発着場としてかつての江戸情緒の賑わいを感じ取ることができる.


柳が立つ. 袂は屋形船のりばとなっている.


屋形船

江戸東京博物館【東京考察#98】

Edo-Tokyo Museum

 


 江戸時代から賑わいのあった「両国」につくられた江戸東京博物館は,江戸東京の歴史遺産を振り返り未来の東京を考える博物館として平成5年にオープンした施設である.特に見所としては,世界でも有数の大都市といわれた江戸の町割(都市計画)や生活・芸能・文化を,精巧な模型などを用いて丁寧に復元しており,江戸という都市に興味のある人にとっては見応えのある展示内容である.江戸だけでは終わらず,現代の東京(昭和40年代頃)まで展示は続いていく.入口は6階まで一気にエスカレーターで上り,上から徐々に降りていくような順路となっている.
博物館の所在地は墨田区横網1丁目となっている.さすがは相撲の地「横綱」なんて,と思ってしまうが,実は,横綱(よこづな)ではなく横網(よこあみ)である.なんとも紛らわしい地名である.隅田川の近くで網漁でも営む者がいたのか,隅田川にかかわる地名であろう.


再現された「日本橋」


再現された「芝居小屋中村座の正面」


武家屋敷の模型


お産の様子


町人町の模型

神楽坂(料亭街の路地)【東京考察#97】

Kagurazaka(The alley of a Japanese-style cooking town)


神楽坂の商店街

 


 神楽坂の由来は,坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)で神楽を奏したから,津久戸明神が移ってきたときにこの坂で神楽を奏したから,若宮八幡の神楽が聞こえてきたからなど,いずれも神楽にちなんだ諸説からきている.明治から昭和初期にかけて,山の手でもっとも栄えた繁華街で,坂の上にある山の手七福神の一つ「毘沙門天(善国寺)」の縁日でにぎわったところである.人がすれ違うのがやっとの石畳の路地に連なる割烹料亭は,神楽坂の風情を最も醸し出している.しかし,料亭街はほんの一部で,神楽坂は居酒屋や飲食店,パチンコ屋,ゲームセンターなどが広がる賑やかな商業地域で,東京理科大や日本歯科大学,法政大学などが近くにあるため,若者のコンパなどでも賑わうところである.イメージよりも現代的な街である.


石畳の料亭街


石畳の料亭街


入口には明かりが灯されている


料亭街の路地


毘沙門天(善国寺)


これが路地の幅  街灯が奥へと続いている
建物と建物の間を縫うように入る
ボケッとしていると気がつかない路地である

 
ふつうの飲屋街もある


ゲーセンで太鼓を打つ外国人
外国人観光客の姿も目につく


これが今の神楽坂である


飯田橋駅から神楽坂へ
(外堀通り 神楽坂下から)

番町【東京考察#96】

Bancho

 

 番町は江戸城の西側,外堀と内堀の間に広がっていた役職付きの旗本たちの住む武家地であった.番町の由来は,大番士の組屋敷が造られたことによる.明治維新後にはイギリスが大使館を置き,官吏や文化人の高級住宅街となっていく.また,番町には多くの学校が進出しており,特に女子教育の先駆的な学校が多くある.高級マンションやオフィスビルの進出により,姿を徐々に変えている番町であるが,住民たちによって「業務ビル街ではなく文教地区としての落ち着いた街並みに」といった運動も行われている.ちなみに新宿通り沿いに広がる「麹町」は,番町や赤坂に住む武士たちの買い物の場として,商人や職人の住む町人町であった.現在の行政上の町丁目名は,一番町から六番町までとなっている.


お屋敷町の面影は残る


門にも重厚さが感じられる


なんか渋い. 塀の雰囲気とか.


「麹町六番館」という建物


南国風も.


日本テレビ. それって日テレ!!
ズームインはここの1階スタジオから生放送.
道路からスタジオがみれる
しかし,汐留の再開発地に移転が決まっている.


雙葉小中高校 名門のお嬢様学校である.


番町小学校
千代田区立にもかかわらず,越境入学する人が多い人気校.

 
住民の街づくりへの意識は高い

復元前の東京駅赤煉瓦駅舎(丸の内)【東京考察#95】

The red brick station building of the Tokyo station (Marunouchi side)

 


 東京駅の丸の内口は,オランダのアムステルダム中央駅を参考に辰野金吾が設計をしたルネサンス様式の駅舎である.明治41年から6年の歳月をかけて大正3年に開業した.開業当時は3階建ての駅舎であったが,太平洋戦争の空襲で消失(昭和20年5月25日)し,その後の復興で2階建ての駅舎となった。北口と南口にはドーム状の空間が広がっており,1987年からは「とうきょうエキコン」と称して駅コンサートが2000年まで行われていた.ステーションギャラリーやステーションホテルなどを併設する日本を代表する駅舎である.


正面 反対側へは皇居までの直線道路が続いている


正面から真っ直ぐ進むと「皇居」である


ドーム式の広場 かつてはエキコンが開かれていた


ドーム


東京ステーションギャラリーの入口

 
重厚な赤煉瓦駅舎である

大隈通り商店街(早稲田大学裏)【東京考察#94】

Okuma-dori Shopping center (Waseda University side)

 


 大隈重信は早稲田大学の創始者である.早稲田大学の裏にその名が付けられている商店街がある.その名も「大隈通り商店街」.いかにも学生街らしい商店街であり,オシャレで近代的というよりは,ゲタとたばこがよく似合うようなところである.都電荒川線で早稲田大学に行くときは,この商店街を通って正門まで行くことになる.食堂などもあって早稲田大学生にとってはちょっとした生活の場でもある.


これは「焼肉屋」 韓国系料理の店も多い


やっぱり「雀荘」は外せない 全卓全自動である


弁当屋には列ができる


大隈通り商店街の通り

 
珍しい飲食店もある


大隈講堂


大隈重信の銅像(大学構内)

新しい丸の内ビルディング【東京考察#93】

Marunouchi Building

 


 丸の内地区は一丁ロンドンとも呼ばれる英国風ビジネス街が三菱財閥によって形成されていったところである.旧建築基準法の規制により高さ31mの基準が守られていたが,規制緩和により丸の内地区も高い建物が建てられるようになった.かつての丸ビルの高さである31mを低層部で再現しつつ新たな丸ビルが平成14年秋にオープンした.
丸の内は本社業務地区の集中するビジネス街として,ショッピング街やレストラン街などの商業施設は少なかった.新しい丸ビルは,土日になると閑散としていた丸の内から脱却しようと,低層部と高層階には賑わいのある商業施設を配し,人々の集まるアメニティーのあるビジネス街を形成している
オフィスゾーンは9階~34階,7・8階はインタラクティブゾーンとして300人収容の多目的ホールや6室の会議室を設けている.開発手法としては,隣接する三菱商事ビル別館街区との一体的な計画として「複数街区の特定街区」制度にて1998年6月に都市計画決定され,両街区一体で容積1300%となっている.別館の建て替えは2006年の予定だとのことである.



ガラスを基調にした空間である


しかし,天井と壁面は「木」を縦に配して暖かみを出している.


1階から吹き抜け


7階から下を望む


5階にあるデッキ
太陽の光が降り注ぐ.


とにかくオープンしたてということもあり,人がすごい.開店が午前11時にもかかわらず人が溢れており,シャッターが閉まるビル内をただ歩いているだけである.



午前11時開店前にもかかわらず
人・人・人・・・・・・


展望レストラン街へのエレベーターには長蛇の列


松濤(渋谷の高級住宅街)【東京考察#92】

Shoto(High-class residential street)

 


 渋谷駅のハチ公口をでて,人々で溢れかえるスクランブル交差点を渡り,109を眺めながら文化村通りを歩いていく.とにかく渋谷のエネルギーはすごい.肩と肩をぶつけ合いながら,雑踏の中を歩いていくと,オーチャードホール,文化村のある東急百貨店前となる.そして,その百貨店の裏手にまわると,雰囲気はがらりと一変する.

このギャップは何なのだろうか?

大きく立派な建物が建ち並ぶ,静閑な高級住宅街「松濤(しょうとう)」である.
すぐ隣には,円山町というかつての花街だったラブホテル街も存在する.渋谷の繁華街,円山町のホテル街,そして高級住宅街の松濤と,三者三様の街並みが歩いて10分程度の範囲内に存在しているところに,この地区の面白さがある.とにかく,歩いて街全体の空間を実際に感じてみましょう.



高級住宅街には緑が多い
塀も「生け垣」となっている


都知事公館
石原都知事はいるのか?


観世(かんぜ)能楽堂
能楽を堪能するには抜群の環境である

 


戸栗美術館

谷中(懐かしの日本の街なみ)【東京考察#91】

Yanaka(Japanese culture town ordinariness)

 


 谷中は日本文化の色濃く残る街である.寛永年間(1624~43年)に上野寛永寺の子院がここに建立されたのが谷中寺町の始まりで,現在では70数件にも及ぶ寺院が存在している.その後江戸府内再開発によって神田辺りの寺院が谷中に移転し,寺の門前に町屋が形成され,参詣客などによって行楽地となっていった.
1868年の幕末戦争の時には多くの寺院が焼失したが,その後再建され,関東大震災でも戦災でも被災しなかったことから,昔ながらの佇まいが今でも残っているのである.外国人観光客の姿も見られ,ガイドブックを片手に街をぶらぶらと散策する人が多い.

谷中霊園は明治5(1872)年に,旧天王寺境内の一部を官地とし,それに天王寺墓地,徳川墓地の一部などをあわせた谷中墓地が始まりである.東京都の公共墓地として発足し,東京の三大霊園のひとつに数えられている.広さは10万m2,墓地使用者は6000余りだという.墓地内は広く,迷路のように細かく入った路が墓地を形成している.100年以上も前のコケが生えた墓石や石灯籠などが,飾り気なく自然に置かれているのも,俗化されておらずいい.徳川慶喜や著名人が眠っている.


谷中霊園


谷中霊園の桜並木

 
谷中霊園は一度立ち入ると迷路のようなところである.
各区画には全て番号が付けられている.


このように墓地には区画番号がつけられている
(これは地図のほんの一部分)


石材店と花屋


谷中の街並み


交差点角にある木造の喫茶店
昭和初期といった感じである


酒屋を移設して復元したもの


和菓子屋と銭湯の煙突

 
寺も多い


玄関の外灯(電球)が気に入った
昔流行った様式のようである

 
狭い路地


1868年の幕末戦争のときの弾痕
(大黒天 経王寺)

国立能楽堂(千駄ヶ谷)【東京考察#90】

The national Nho hall(at Sendagaya)

 


  国立能楽堂は「能」「狂言」を演じる舞台として,樹齢400年の尾州檜を床材に使用した能舞台をもつホールである.定例公演,普及公演,企画公演などが月4日間公演されている.千駄ヶ谷駅を降りて,閑静な街並みの中に能楽堂があり,静かな「能」を鑑賞するにはもってこいの環境である.


正門からジャパニーズカルチャーである


チケット拝見


ロビーは「木」を基調とし,落ち着いた空間となっている


座席は能舞台を取り囲むよう扇形に配置されている
脇正面は横からの鑑賞であるが,
橋掛かりと呼ばれる渡り廊下のような補助舞台を歩く役者を間近で見ることができる
一番安いのは中正面の席 全591席


正面から見た舞台
左奥の揚幕から橋掛かり(廊下のような舞台)を通って演者がでてくる
能舞台は三方を開け放し,後座のうしろには老松・若竹を描くことになっている.
さらに正面先には階段をつけ,右に高欄をつける.
4本の柱も必要で,その柱に囲まれた空間が本舞台と呼ばれる .


能舞台の説明(広辞苑より)


脇正面からみた舞台


中庭もある


私的コラム「とでも、とでも。」より能に関するところを抜粋

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「神・男・女・狂・鬼」   Date: 2002-11-26 (Tue)

このタイトルを見て何だかわかる人は相当なジャパニーズカルチャー通である.「神(しん)・男(なん)・女(にょ)・狂(きょう)・鬼(き)」,これは「能」の番組構成上の分類を表しており,それぞれが初番目・二番目・三番目・四番目・五番目といった「五番立て」の曲柄のことである.現在は,五番立てで上演されることは少ないが,二幕以上の上演の時は,この順番に従って上演される.

初番目物「神」:脇能.神体を主人公として天下泰平,五穀豊穣を願う.
二番目物「男」:修羅能.源平の武将の亡霊たちによる修羅の苦患と敗北者の滅びの美学.
三番目物「女」:鬘物.王朝の優美な女性たちや天人などが織りなす幽玄の美.
四番目物「狂」:雑能.悲しみ,怒り,怨念,嘆き,執心など,人間の持つ情念を描いたドラマ.
五番目物「鬼」:切能.鬼・天狗・神・妖精などがダイナミックに活躍する華やかな舞台.

この中で,最も演目が多く,現代でも人気があるのは「四番目物」である.人間の怨念や母親の子供へ対する愛情,罪などを扱っており,今なお現代人に通じるものがあって,昔も今も人間の心の根底には普遍的なものが流れているんだな,と感じる演目である.

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国立能楽堂へ ~9月普及公演  Date: 2002-09-15 (Sun)

最近「ジャパニーズカルチャー」の世界にどんどんはまりこんでいる僕である.歌舞伎を見ているうちに,歌舞伎のルーツはなんだろうか,と思った.歌舞伎は江戸時代に行われていた大衆劇であるが,平安時代の公家のあいだで見られていた楽劇が「能」であり「狂言」である.そんな,日本文化の真髄とも言うべき「能」を見てみることにした.

能の公演は,各流派のもっている能楽堂で行われているが,東京千駄ヶ谷には国立能楽堂があって,月に4日間の公演を行っている.土曜日に見れるのは「普及公演」のみで,他の「定例公演」や「企画公演」は平日の夜に行われているため,遠方からの人は国立能楽堂での鑑賞の機会はとても少ない.門構えといい,建物の作りといい,そして中に入ったときのぬくもりのある木目の空間といい,日本文化を満喫できるような施設である.さらに,中庭があって,心の落ち着きを取り戻すことができる.

2つの題目があって,最初が狂言の「蝸牛」,2つめが能の「梅枝」である.
「蝸牛」は狂言であり言葉も難しくなく,見ていて理解ができる.「でんでんむしむし,でんでんむっしむっし!」「風も吹かずに・・・」といったやりとりが滑稽で,カタツムリと間違えて山伏を連れて帰ってくる戯け者のお話であった.国立能楽堂は歌舞伎座のように広いわけではなく,間近に役者を見ることができるのであるが,腹の底から響き渡るような大声を上げているのには驚いた.歌舞伎座では後ろの方でしか見たことがないので気づかなかったが,役者はそうとう大きい声をあげているのである.
そして,能の「梅枝」である.鼓と笛の雅楽とともに,そろりそろりと役者が入ってくる.主役(シテ)は「お面」をかぶり,そろりそろりと演じていく.何を言っているのか,正直わからないが,560円のパンフレットには台本が記載されているので,それを見ながらだと,難解な古文も多少は理解ができるようになる.高校生のときもっと「古典」の勉強をしておけばよかった.古文なんて何に役立つのだろうと思い,赤点まで取るほどに勉強をしない科目であった.「・・・なりにけり」や「・・給うぞや」などと終止形や連体形などといったかすかな記憶の言葉が沢山でてくるのであった.

スピードが求められる現代に生きているものにとって,この「能」のスピードはとても緩やかに感じる.最初に歌舞伎を見たときに「なんてまったりと表現する演劇だろう」と思ったのだが,能を見ると「歌舞伎はなんてダイナミックで大衆に受ける演劇だろう」と思ってしまう.「静の舞台」である.これが能の幽玄である,ということなのだろうか.扇子を持って優雅に踊る.京都の龍安寺にある石庭に何か通じるものがあるな,と感じた.

幕引きもまた独特である.演じ終わるとそろりそろりと主役(シテ)が時間をかけて去ってゆく.この間,場内は全くの沈黙である.咳をしようものなら館内中に響き渡ってしまう.そして脇役(ワキ,ワキツレ)もそろりそろりと去っていき,笛や太鼓・地謡の人々が去っていく.なんとも楽しい宴が終わってしまった侘びしい余韻を充分感じ取れるほどの「間」である.現代の演劇では,幕をさーっと引いて舞台を隠してしまって幕を終わらせるが,歌舞伎俳優が花道をそろりそろりと去っていくように,能も舞台に通じている廊下をそろりそろりと去っていくのであった.館内に案内放送もなく,舞台が終わるとお客もすーと席を立ち上がって,そろりそろりと帰っていった.

ジャパニーズカルチャーの真髄をちょっとだけ,かいま見れたような気がする.歳を取ると日本文化に回帰するようになるのだろう.ということは,あと10年もするとカラオケで演歌を歌うようになるのだろうか・・・?

大久保アジアエスニックタウン(韓国人街)【東京考察#89】

The Asia ethnic minority town at Okubo(Korean town)

 


 2002年夏の日韓共催によるワールドカップは盛り上がった.最も暑く燃えていた地区のひとつに,ここが挙げられるだろう.エスニックとは少数民族という意味であるが,大久保・新大久保駅から職安通りにかけての大久保・百人町には,中国や東南アジア,韓国出身の人々が多く住んでいる.
この周辺には,日本語学校が集中していることと,家賃の安い木賃アパートが多く残っていることから,少しでも経済的に安く済ませようとする外国人に受け入れられていった.新宿という大都市が近くに存在していることも大きな魅力のひとつであろう.目立って多く居住するようになったのは,バブル絶頂期における労働力不足が背景にあった1980年あたりからである.
近年は職安通り付近の地価が上昇し,職安通り周辺は裕福な韓国人による韓国料理店などの出店が多く見られるようになった.そのため,石焼きビビンバやチジミ,冷麺など本場の韓国料理を味わうことができる.一方,大久保駅から新大久保駅にかけての大久保通り周辺では,インドネシアやベトナム,タイ,中国などのアジア各国の料理も味わうことができ,ここにくると「アジアの中のニッポン」を十分感じることができる.
韓国から日本へやってくる旅行者は,この街に立ち寄って情報を得たり,異国への不安を取り除いているのではないだろうか.


ハングルの旗が立つ職安通り


無料の情報誌 住まいの情報等


中国語やハングルの看板が多い大久保通り


ホテル入口 看板もハングル


中国アジア食品館


インターネットカフェの垂れ幕


「南大門市場」という名のスーパー


パチンコ屋の宣伝看板もハングル


本場の韓国料理が味わえる

 
専門学校などの文教施設が多くある一方で,
隣にはラブホテル街も存在する.
防犯抑止効果のチラシには,ハングルと中国語が併記されている.

 

新宿・歌舞伎町【東京考察#88】

The Shinjuku kabuki-cho town


靖国通りから見た歌舞伎町のビル
看板の色彩が派手なところ
いかにも繁華街である.

 


 歌舞伎町は日本最大の歓楽街と言っていいだろう.そこは「不夜城」という言葉がよく似合う.昼も夜も人々が溢れ,非日常を味わうために人々が交錯している.光と影,明と闇,都市の明るい賑やかさを持つ反面,都市の不気味な闇も併せ持つ地区である.
歌舞伎町の歴史はそれほど古くはない.戦災によって移転した府立第5女子高校の跡地にスケートリンク(現ボーリング場),オデヨン座,新宿劇場,グランドオデヨン座,東宝コマ劇場,ゲームセンターなどができたのが昭和25(1950)年であり,そのときが今の歌舞伎町のはじまりといっていい.それまでは新宿追分あたり(伊勢丹周辺の新宿2~3丁目付近)が新宿の繁華街だった.「歌舞伎町」の由来は大戦後の復興計画の際に銀座や浅草のような庶民の娯楽の場として歌舞伎劇場などの建設を意図していたことによるという.今となっては,浅草や銀座を凌ぐアジア最大の歓楽街と言われるまでになっている歌舞伎町であり,劇場,映画館,ボーリング場,喫茶店,ファーストフード,居酒屋,風俗店,サウナ,ゲーセン,パチンコ・パチスロなど,なんでもできる歓楽街である.

 
とにかく看板が派手で賑やか.


コマ劇場 細川たかしや吉幾三など演歌ショーも見れる


映画館とボーリング場と・・・
コマ劇場の前にはビルで囲まれた広場がある
夜になると大変な賑わいの場所となり・・・
深夜になると物騒な歌舞伎町となり・・・


風俗もたくさん・・・・

 
監視カメラが分かりますか?
歌舞伎町には50箇所にもわたって監視カメラが取り付けられており,
犯罪防止ということで,道行く人々はいたるところから監視されている


近くの大久保公園には,
防犯上なのか出入り口に扉がついており,
夜間は閉鎖される.


歌舞伎町から見た新宿副都心
サラリーマンたちは,昼は西新宿で,夜は歌舞伎町で・・・・


この中にもカメラがあります.さて,どこでしょう.(答えは一番下)



カメラの位置の解答:「歌舞伎町一番街」という白い看板の「町」の字のすぐ下

吉原大門の「見返り柳」【東京考察#87】

The willow looked back upon and seen at Yoshiwara Ohmon


 「吉原」は江戸で唯一,幕府から公認を受けた遊郭である.もともとは日本橋葺屋町(現:日本橋人形町付近)に土地を与えられて1617年に開設したもので,ヨシやカヤの茂るところだったので「葭原(よしわら)」と命名された.その後,1656年に田圃の広がる浅草千束村日本堤へと移転した.正確には,前者を旧吉原,後者を新吉原と呼んでいる.この新吉原が,魚河岸,芝居街と並んで,江戸の繁栄を物語るところとして名を馳せる不夜城の遊里「吉原」なのである.1958(昭和33)年まで続いた.

吉原の遊郭が広がっていたのは,現在の台東区千束4丁目と千束3丁目の一部である.新吉原の周囲には堀をめぐらして,出入り口は大門1ヶ所のみとしていた.その大門が存在していたところが,今でも交差点名とバス停に名の残る「吉原大門」なのである.

江戸の人口は男性の方が多く,遊郭は必要悪とされ悪所とはいいつつも大変賑わっていた.歌舞伎の演目を見ると,女形では必ずと言っていいほど遊女が登場する.幕府の高貴な武士を相手にすることから,遊女の中にはかなりの知識と教養を持つものもおり,三味線や琴,日本舞踊に茶道の心得を持っていた.しかし,華やかさの反面,劣悪な遊女の生活も伝えられており,遊女の大半は貧困なため身売りされた農村の娘たちで,満足な食事も与えら得ず客が少ないと言って折檻されるものもいた.死亡年齢も若く,死亡すると浄閑寺(荒川区)に投げ込まれるかのように埋葬されたという.

 
見返りの柳


台東区教育委員会の看板

 「見返り柳」は,遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ,この柳の辺りで遊郭を振り返ってしんみりとしたところから,この名がついたという.多くの川柳の題材となっており,台東区教育委員会の看板まで立っている.かつては山谷堀脇の土手にあったが,区画整理に伴い現在地に移され,震災や戦災によって数代にわたり植え替えられている.しかし,時代が過ぎれば「遊郭」も教育委員会の看板が立ってしまう「名所」となってしまうのだから,現在の新宿歌舞伎町などの風俗街も,3~400年も経つとかつての東京の繁栄として,教科書で紹介されるのだろうか.



夜になるとネオンきらめく街となる現在の吉原


タクシーは店の前で客待ちをしている

 1958(昭和33)年の売春防止法の施行にともなう赤線廃業によって吉原は幕を閉じる.その後,元赤線業者が経営するトルコ風呂がオープンし,現在のようなソープランド街が形成されている.

 

お台場海浜公園【東京考察#86】

Odaiba Kaihin Park


 「お台場」と言えば,今となっては東京の新しい名所として,非日常的なアミューズメント施設の建ち並ぶ再開発地を指すようになったが,元々の由来はこの地に「台場」と呼ばれる砲台跡が現存していることから名付けられた.台場は江戸幕府が黒船来航に備えて品川沖に築いたもので,1853年から着工され,全部で6基の台場がつくられた.現在は第三台場と第六台場のみが残されており,このうち第三台場は「台場公園」として誰でも中に立ち入ることができるようになっている.周囲には海面から5~7mの石垣積みの土手が築かれ,黒松が植えられている.また,内側にあるくぼ地には陣屋や弾薬庫跡などが現存している.
そして「お台場」の街開きと同時に,かつては第三台場貯木場だったところに人工的な渚をつくって海浜公園としたものが,現在のお台場海浜公園である.砂浜の広がる海浜公園から,レインボーブリッジの美しい吊り橋と江戸時代に黒船襲来から守るためにつくられた砲台跡・台場を同時に眺めながら,東京の優雅な浜辺を体験することができる.


お台場海浜公園


レインボーブリッジと第三台場(手前の石垣と緑)


お台場海浜公園の砂浜


ボードをかかえて・・・


第三台場(台場公園)


石垣に囲まれた第三台場


黒船来航に備えた砲台跡


黒松が植わる(背後にはフジテレビ)


台場内のくぼ地 史跡が点在する


第三台場からの眺めも最高
(夜は人気もなくなって真っ暗となり,絶好のデートスポットとなる)

両国国技館(相撲観戦)【東京考察#85】

Ryogoku Kokugikan (watching Sumo wrestling games)

 


 現在の両国国技館は2代目である.旧両国国技館は明治42(1906)年に回向院境内(両国駅南側,京葉道路南)に建てられ,それまでは屋外でやられていた相撲を屋内でやるようになった,日本で最初の屋根付き国技館である.明治時代に東京ドームの先駆けのような屋内競技場ができていたことを考えると驚きに値する.その後,失火,大震災,戦災と幾たびも建て替えられたが,昭和29(1954)年に蔵前国技館が完成すると,相撲試合は蔵前で行われるようになった.
蔵前では昭和59(1984)年まで相撲が行われていたが,昭和60(1985)年,新両国国技館が完成すると,再び両国で相撲が行われるようになった.土俵や吊り屋根は自動で昇降して格納することができ,相撲以外のイベントもできるという.館内には相撲博物館や相撲診療所,相撲教習所なども併設されており,災害時の食糧備蓄倉庫や自家発電装置,屋根に降った雨水を浄化する装置も備えられており,近代設備を取り入れた最先端の国技館となっている.



幕下力士の戦い


お目当ての力士の入場を待つ観客

NHKの中継は午後4時くらいから行われているが,これは幕内力士の中継のみを行うからであって,相撲の取組みは午前9時から行われている.幕下力士の試合の時は,まだ席に空席が目立つ.


入口では力士OBが切符を切る


案内所.枡席までビールや食物を運んでくれる.おみやげもここで・・・

 
座席は方向別に,「正」「向」「東」「西」となっている.
「向」は「むこうじょうめん」と呼ばれている席.

  
1階は全て「枡席」となっており,4人で1セットの席となる.


館内上部には歴代横綱の写真が並べられている



いよいよ幕内土俵入り


横綱土俵入り.午後4時頃から.(武蔵丸)


「満員御礼」と「日の丸」
1階枡席が満員になると札が垂れる


人気の取り組みには懸賞がたくさん付く


弓取り式で終了


櫓(やぐら=19.5m).相撲が終わると太鼓が叩かれる.これが風情のある音を響かせる.


動画でお楽しみください.Click!

成城の街並み(高級住宅街)【東京考察#84】

Rows of houses of Seijo (overly high-class residential street)

 


 

 成城は田園調布と並ぶ超高級住宅街である.中学高校と6年間,成城学園前駅から徒歩15分のところに学校があったため,豪邸の建ち並ぶ家並みを何気なく登校する学生生活を送っていたのであるが,大人になって改めて歩いてみると,なんとすごい街並みの中を歩いて通っていたことか!,と改めて感じてしまう.家は大きく,門構えがしっかりとしていて,塀は高く,監視カメラ付き,車は高級外車で,街路には桜が植わっている・・・.こんな家に一度でいいから住んでみたい! ちなみに,田園調布よりも成城の方が地価は高いそうである.
成城は,大正14年に牛込にあった成城学園を喜多見に移転する際に,周辺を宅地分譲して事業費を生み出すということで始まったもので,昭和2年の小田急線の開通とともにその南北に広がる住宅街となった.「成城」という名は,学園からとってつけられたものである.イギリスにおける田園都市(ハワードの田園都市論)を意識して宅地開発がされており,当時の宅地分譲では,宅地の周囲には板塀や煉瓦塀を用いず,樹木か生け垣にして欲しい旨,申し合わせがあったといい,緑溢れる落ち着きのある開放的な現在の街並みは,このときの申し合わせによって形成されているのである.現在ではこのルールはなくなっているという.

緑の生け垣アラカルト
 

 

 

下北沢の魅力【東京考察#83】

Charm at Shimokitazawa

 


 「シモキタ」,このように呼ばれる下北沢は,大変魅力のある街である.とにかくヒューマンスケールで街並みが形成されているのである.車がやっとすれ違えるような細い路地が迷路のように広がり,その道沿いには所狭しと店が連なっている.歩いて楽しむにはちょうど良い「スケール」なのである.地方都市では,中心市街地の空洞化が問題となっているが,中心市街地活性化の原点はここにあるような気がする.下北沢は小劇場から始まっていった街である.


とにかく休日の人出はすごい


「シモキタ」もアジア的なカオスである


シャッターの落書きも「シモキタ」ではアートとなってしまう


ティッシュを配る人


「シモキタ」の原点は小劇場である.(本多劇場)


味わいのある「鈴なり横丁」 唯一の映画館がある


踏切と小田急線は外せない. これが開かずの踏切でして・・・


下北沢駅前.ティッシュを配る人は5人います.


下北沢駅は,街を如実に表しているように,迷路のようになっている.


小田急の立ち食いそばといえば「箱そば」である

砧公園(世田谷区)【東京考察#82】

Kinuta Park (at Setagaya-word)

 


 砧(きぬた)公園は,かつてゴルフ場だったところを都立公園として整備したものである.敷地面積は約35.8ha,広大な敷地内には,サイクリングロード,バードウォッチング,ファミリー広場と呼ばれる広大な芝生,桜の林,せせらぎの川ありと,ここが都内かと思わせるような緑が広がっている.日本の公園というのは,狭い空間にブランコや滑り台などを箱庭的におく公園が多いが,このようにだだっ広い広場だけというイギリスのような公園というのは,どのようにして広場を利用するか考える機会が与えられ,人間の遊びの想像力を広げる素晴らしい公園である.
公園内には他に,世田谷美術館や野球場,サッカー場も備えており,休日には思い思いの休みを満喫する人々で賑わっている.


休日は家族で凧揚げ


芝生の広がる「ファミリーパーク」内は犬の連れ込み禁止.
その通り.犬のフンがゴロゴロ転がっていたらたまったもんじゃない!


一応「ジャングルジム」等の遊戯施設もある


公園を周回するサイクリングロード


小径  マラソンコースである


バードサンクチュアリ → 覗くと右の通り


木陰の散歩道


サッカー場もある


世田谷美術館


やっぱり砧公園のイメージは,この広大な芝生である.

夜の池袋駅東口【東京考察#81】

The Ikebukuro station east gate at night

 


 池袋駅東口の夜を撮ってみた.
渋谷・新宿に次ぐ,一大繁華街である.
そんな景色をどうぞ.


ストリートライブ
明治通り上下線の間にはスペースがあって,人集りができていた.
東口の明るさはこのオープンスペースによるところが大きい.


西武百貨店のショーウインドウ
灯りがまぶしい!


サンシャイン60通りには若者でごった返す.
向かいには,横断歩道を待つ人・人・人・・・


居酒屋のチラシを配る店員


戦後闇市を思わせるような飲屋街も存在する


東口交番前交差点



「テレクラ」 ど派手な電光掲示板も池袋らしい


池袋は新宿・歌舞伎町に次ぐ風俗街でもある.
怪しいネオン街が続く.


同じく・・・ Part.1


同じく・・・ Part.2

東京ビッグサイト(東京国際展示場)【東京考察#80】

Tokyo International Exhibition Hall (Tokyo Big Sight)

 

 「東京ビッグサイト」はお台場にあるコンベンション施設「東京国際展示場」のことであり,かつて晴海埠頭にあった東京晴海見本市会場の代替施設である.展示面積23万m2.幕張メッセ(千葉県)やみなとみらい21(神奈川県)等,各自治体では競って国際展示場を作っているが,その東京都版が東京ビッグサイトである.平成8年に開業した.
かつて晴海で行われていた東京モーターショーは,手狭のため幕張メッセに移転して展示を行っている.東京ビッグサイトのオープンをきっかけに,こちらに移転させる話しが持ち上がったが,幕張メッセ側の反対もあって実現していない.コンベンションホールも乱立ぎみの傾向にある気がする.


エントランス
間近でみるとかなり大きいことに気づく
 


館内への入り口

 


コンベンションホールまでの内部の様子
この先に大きな体育館のような空間(展示場)がある

日本橋三越本店【東京考察#79】

The Nihonbashi MITSUKOSHI department store


 日本橋にある三越本店は,昭和10年に完成したルネサンス様式の建物である.東京都選定歴史的建造物に指定されているとおり,重厚な建物は買い物目当てでなくても一度は訪れてみたくなるところである.なかでも本館中央にある1~5階までの太陽光を取り入れた吹き抜けは圧倒され,戦前からこのような建築が日本にあったことに驚きを感じる.シンガポールのショッピングデパートにも,このようなタイプの中央が吹き抜けのビルが多く建設されているが,果たしてルーツは何処なのであろうか.内装に使用されている大理石にはアンモナイトの化石が含まれており,何もかもが本物の装飾で施されている.


吹き抜けの中央ホール
天女(まごころ)像が置かれている


三越といえば「ライオン像」


装飾もきらびやか


OTIS製のクラシックエレベーター
しかし,かつての真鍮製の内扉は今はなく,
ステンレス製の扉に替えられてしまった


銀座線三越前駅から三越に通じる地下道にも装飾がされている
駅のエスカレーターも金色に塗られている

神谷町界隈(港区)【東京考察#78】

Kamiya-chyo neighborhood (Toranomon)

 


 地下鉄神谷町駅は,日比谷線しか通らない目立たぬ存在であるが,この駅を降り立つと,ホテルオークラやアメリカ大使館,テレビ東京などが建ち,東京のちょっと奥まった落ち着きと品のあるビジネス街が広がっているエリアである.銀座線に「虎ノ門駅」があるが,銀座線の虎ノ門駅は虎ノ門1丁目にあり,かつては虎ノ門1丁目あたりだけがビルの建ち並ぶ所で,神谷町駅付近は小さな商店の並ぶ街であった.25年ほど前から神谷町駅周辺にもビルが建ち並ぶようになってきたのだという.かつては「芝神谷町」という地名だったが,今その地名は存在していない.(読者からメールにて連絡いただいた内容を引用して記載しました)
虎ノ門とは、江戸城の一番外側にあったお堀を渡るところにあった門のひとつであり,明治になって撤去された.江戸城の門のなかでも動物の名前がついているのはここだけであるという.いくつかの説があり,大名屋敷に虎の尾と呼ぶ桜があった、太田道濯が出陣するときに千里行って無事に千里帰るという虎にあやかって名づけた、虎の櫨を通そうと門を改造した,など諸説がある.


虎ノ門には「重役」や「専務」が似合う


やっぱり歩いているのは「重役」っぽい人


虎ノ門といえば「森ビル」 写真は40番の森ビル
森不動産が出発点のビルである
とにかくいたるところに森ビルだらけである


アメリカ大使館
正確には「赤坂1丁目」である(溜池)


ホテルオークラ
アメリカ大使館の隣にあることもあって,
外国からの要人が宿泊する超一流ホテル
一流の雰囲気を味わいにロビーへ行ってみるのもよし!


「桜坂」
六本木通りと虎ノ門を結ぶ

 
左がスウェーデン大使館
右がスペイン大使館


渋滞をスイスイ抜ける「チャリンコメール便」が大活躍
無線機を首から下げて,ヘルメットをかぶり疾走している


Japanese Lessons!!


やっぱり神谷町で「テレビ東京」は外せない
むかしは「東京12チャンネル」といっていた.

日本橋(日本道路元標)【東京考察#77】

Nihonbashi (the Japan road origin mark)

 

 日本橋は,1603年に徳川家康によって架けられ,東海道・中山道・日光街道などの起点として役割を果たしている.現在でも日本道路元標として,この日本橋を中心として道路のキロ数が表示されており,国道1号や4号・6号沿いにある「起点(東京)まで○○km」という表示は,ここ日本橋までの距離である.現在の橋は明治44年に架けられたもので,石造2連アーチ橋として国の重要文化財に指定されている.


○印のところに「日本国道路元標」がある

 日本国道路元標は道路の真ん中,橋の真ん中にあるので,普段は車が走っているため近くでは見ることができないが,土日に行われる歩行者天国の時は堂々と見ることができる.そのため,元標の複製が歩道に設置されている.首都高速が日本橋川に沿って架けられているため,空間を圧迫されている日本橋であり,橋中央のモニュメントも高架橋の隙間をみつけて天に向かっている姿など,歴史的遺産を後世に残そうと踏まれても踏まれても生きようとしているように思える.


複製



日本橋


近くに証券街・兜町があるため,
平日はビジネスマンが多く歩く